「当局者に望む」

2013-08-05

昭和版『続福沢全集』第 5 巻所収の石河幹明執筆社説「当局者に望む」(760頁)を公開しています。

詳細は、昭和版『続福沢全集』「附記」をご覧下さい。 体裁等については、昭和版『続福沢全集』第 5 巻からの書き起こしについてをご覧下さい。

本文

無政府主義は海外より伝え来れるものにしてコレラ、ペストの輸入感染に異ならず

其系統の存する所は固より明なりと雖も国内の人心健全にして苟も侵すべきの間隙なきに於ては如何なる危険思想の病毒も国民の間に感染を逞くするの患あるべからず

是れ亦明白なる道理なり

或は世界交通の今日我思想界の変化著しきものあり

危険思想の輸入も余儀なき次第なりとの説あらんか

我輩に於ては決して之を余儀なき次第と認めざるものなり

外国には無政府主義者の出歿して時として凶虐を演出したることあれども人心の健全なる社会に於ては自国の臣民が此主義の為めに自国の君主を云々したるの例殆ど稀なり

況や皇室の恩沢最も渥く臣民の尊王心最も盛なる我国の如きに於てをや

自から一種特別の団体にして海外の風潮如何に拘わらず既往幾千百年この事を見ず

将来何万千年この事なきを期すること敢て難きに非ざるは我輩の確信して疑わざる所なりしに仮令(注1)極めて少数とは云いながら国中に危険なる病毒思想の感染者を出して聞くも怖ろしき企を敢てせんとしたる大陰謀事件を生じ建国以来無垢無欠なる我歴史上に一転の汚痕を印するに至りしは返す返すも残念至極にして我輩は自から身を切らるるよりも尚お一層の苦痛を感ずるものなり

而して幾万千年この事あるべからずと期したる我国に斯る事件の生じたるは社会の人心に危険思想の侵入すべき間隙を存したるが為めより外ならざるは疑うべからざる所にして此点に関しては主として政府当局者の反省注意を乞わざるべからず

我輩が数日来言を重ねたる所以なり

此程当局者が衆議院に於ける議員の質問に対する答弁に当局者は就職当時より社会の一部に危険思想の発生せるを探知して早く今回の事あるを予知したる為め事を未発に防ぎ得たるは誠に天佑と云うべし

政府は今後に於てもますます進んで予防の策を講じ啻に彼等を取締るのみならず思想界の変化に心を注ぎ独り内地のみならず海外までも注意を怠らず再び危険思想の発生せざるよう努力すべし云々と云えり

若し万々一にも未発に防ぎ得ざりしならんには夫れこそ真実天柱折れ地維拆くる開闢以来の大変なれ

之を未発に防ぎ得たるは実に天佑とも云わんなれども苟めにも斯る大陰謀を生じて我歴史上に汚点を印したるの一事、既に恐懼寒心に堪えざる所、当局者は今後如何にして之に処せんとするか

啻に彼等を取締るのみならず思想界の変化に心を注ぎ海外までも注意を怠らざるべしと云う其取締注意とは如何なる方法を以てする考なるや

所謂彼等の取締も固より大切なりと雖も是れは既に発生したる危険思想を防ぐの方法のみ

我輩が数日前より記したる此三十年来政府歴代の当局者が経世の考に乏しく施政上に一身上に散々の不養生不始末を演じて其結果、社会の人心を荒ましめ為めに危険思想の病毒にも侵され易き間隙を生ずるに至りたる次第は之を解したるや否や

直接の取締法も決して忽にすべからずと雖も更に溯って社会の人心に間隙を生じたる原因を極め其原因にして政府の措置、当局者の行為より来るものあるに心付たらば自から其方針を改め其心事を正して荒みたる人心を緩和回復し以て社会の間隙を塞ぐの一事に一心を注ぎ全力を用うるは極めて緊要事にして亦当局者の大責任なりと云うべし

更に他の両当局者の議会に於ける答弁を見るに内務大臣は一面に於ては文教を盛にして民の恒心を養い他の一面に於ては民の恒産を起すこと為政者第一の急務なりと信ずと云えり

如何にも堂々たる言にして漢書などに所謂王者の言とも見るべきものなれども今後の実際に処する方法手段を説かざれば聞くに足らず

又文部大臣は国民道徳の根本を深く学生青年の脳裡に刻印せしむるを以て健全なる思想の涵養上に大切なるを信じ事件発生以来或は教授法に改正を加うる等偏に教育勅語の精神を普及せしむることに力を用い居れり云々と云えり

文部省が徳育の奨励に熱心なるは他年来の事にして単に現当局者が就職以来殊に此点に注意したるのみに非ず

文部の徳育奨励その趣旨は可なりと雖も実際は形式一偏に流れて人心涵養の効なかりしは今回の如き事実の発生したるに徴しても明ならずや

文部一流の形式的筆法を以て所謂思想界の変化に処し人心を矯正するの効あるべきや否や自問自答するも自から明なるべし

若しも我輩が数日来記したる所果して非にして人心思想の荒廃、変化は別に原因を存し自から救済の方法ありとならば我輩は謹んで其教を乞わんと欲するものなりと雖も凡そ此三十年来政府当局者の不養生不始末は歴々たる事実にして之を弁護せんと欲して弁護するを得ず

全く世道人心に影響なしとは我輩の信ずること能わざる所なり

当局者にして多少にても其原因の茲に在るを認めんには今日は単に恐懼の意を表するに止まらず正に自から省みて自から悛むるの時機に非ざるか

抑も我皇室は万世一系、世界万国に其比類を見ざる一種特別の地位に立ち賜う人心帰依の中心点にして苟も日本帝国のあらん限り国中臣民の子孫後世に至るまで永遠無窮に仰ぎ奉る所のものなり

平時に於ける文明の進歩、智徳の発達も其庇蔭恩沢に依るもの多きは勿論、国中の前途は甚だ遼遠にして亦甚だ多事なり

挙国の臣民が皇室を運動の中心として更に大に外に対するの日なきを保すべからず

即ちますます其尊厳神聖を維持せざるべからざる所以にして当局者の精神も此に存するは言を俟たざる所ならん

而して彼の危険思想が国民の間に感染したるは我社会の人心に侵すべきの間隙を存したるが為めなること争うべからざる所にして然かも其間隙を生じたるに就ては我輩の列挙したる事実の如き其原因の最も有力なるものと認めざるを得ず

果して然らば三十年来の不養生不始末は固より歴代当局者の共に犯したる所にして共に免れざるの連帯責任なりと雖も兎に角に事の発したるは現政府の時代なれば其善後の処置が依然として経世の道に適わず人心を緩和回復するの効なくして万々一にも更に今回の如き不祥事件の発生することあらんか

是ぞ漸く立国の根本の動揺を来すものにして事茲に至りては其罪は之を誰れに帰するも最早取返しは付くべからず

国家の大事に非ずして何ぞや

或は我輩の言を目して杞憂と為さんか

杞憂果して杞憂に終らば実に国家の幸なりと雖も一片の葵心自から禁ぜず

前途を考えて憂慮措く能わざるは自から臣子の至情にして我輩が苦言敢て憚からず

只管当局者の反省を促す所以なり

当局者幸に自覚して我輩の鄙見聊かにても経世上に資する所あらんには独り記者の本懐のみに非ざるなり

(明治四十四年二月四日)

脚注

(1)
原文では「仮令い」と表記されている。