平和思想は世界平和に貢献したか?

2010-11-14

このテキストについて

2007-06-16 に開催された、比較思想学会第34回大会【シンポジウム提題】(於愛知学院大学)での平山氏による講演のアウトラインと原稿を、平山氏の許可を得て転載します。

発表の模様ですが、比較思想学会シンポジウム 2007-06-16 (平山分).mp3として公開しています。

なお、2007年04月23日付 管理人へのEメール「平和思想は世界平和に貢献したか?」に要旨が掲載されています。

アウトライン

比較思想学会第34回大会(2007年06月16日) シンポジウム:アジアにおける平和の思想

パネリスト提題3 平和思想は世界平和に貢献したか?:アウトライン

静岡県立大学国際関係学部助教 平山 洋

Ⅰ 2つの平和概念と平和思想の理想派と現実派

平和A概念
個人またはその周辺のごく限られた人々の心が平安である、という意味
平和B概念
国家間に紛争がない、通常は国交が正常に維持されている状態、という意味
平和思想の理想派
平和Aと平和Bは連続的で、前者を追求すれば後者に至る、と主張
平和思想の現実派
平和Aと平和Bは断絶的で、外交交渉によって後者に至る、と主張

Ⅱ 日本近代におけるウッチャンナンチャンそしてマルチャンの思想について

1 ウッチャンすなわち内村鑑三(1861~1930)の場合

プロテスタントキリスト教から一直線に世界平和の到来を予言。「どうやって?」と突っ込まずにはいられない。『聖書之研究』の読者には理解できるのかもしれないが、私にはとても。なお、無教会派にしか読まれることのなかった『聖書之研究』が、同時代の一般人に与えた影響は皆無である。

2 ナンチャンすなわち南原繁(1889~1974)の場合

内村鑑三の弟子。プロテスタント信仰+カント『永久平和論』(1795)。南原は学生時代からカントの思想に傾倒。内務省から東大に移ってからの「カントに於ける国際政治の理念」(1927)が初期の代表的論文。前田恵学先生も聞いた(であろう)1951年の東大卒業式での訓話「平和か戦争か」は、丸ごとカントの平和論である。戦前戦後を通じて南原の一貫性は見事なもので、「曲学阿世」(吉田茂首相)との批判は当たらない。吉田首相は、「南原総長は学者バカだ!」と言うべきだった。ただし、第2次世界大戦によって、カントの理念に基づいて作られた国際連盟(1920~1946)体制が崩壊し、加盟国が軍隊を供出する集団安全保障を平和Bの根拠としようとする国際連合が発足して後までも、まだカントを信奉していたところから、単に現実の変化に鈍感な人物であった可能性もある。

3 マルチャンすなわち丸山真男(1914~1996)の場合

南原繁の弟子。師匠がキリスト教に依拠していたのに対し、本人はマルクス主義を密かな拠りどころとしていた。しかしそれをはっきりとはさせないのが賢いところである。「憲法第九条…」(1964)でも、ソ連のフルシチョフ首相による全面完全軍縮案がより高い次元の提案として肯定的に扱われ、米のラスク国務長官による、核軍拡は安全感を低下させるという演説を、低い次元の平和思想の敗北宣言として引用している。私にはフルシチョフ提案とは、軍拡競争についてゆけぬソ連指導部が苦し紛れに言い出したことにすぎないように思われる。さらに私には、丸山報告が憲法第九条を重要だとする決定的根拠として、それが東側陣営を利するから、と言うこと以外には見いだすこともできない。

Ⅲ 自宅に立てこもり、突然発砲する隣人がいるような国際社会において

第2次世界大戦後、日本が戦争に巻き込まれることがなかったのは、べつに戦後民主主義や日本国憲法によるわけではない。ましてや平和Aが平和Bを直ちに招来すると考える平和思想の理想派の活躍によるわけでもない。理想派が発言しようがしまいが、行動しようがしまいが、実際の影響はほとんどなかったと私は思う。というのも、理想派の言論が社会一般に与えた影響は極めて限定的で、彼らが支持する政党は戦後1度も選挙で勝利したことがなかったため、国の政策に寄与しなかったからである。祈祷師が雨乞いの祈りを捧げたあとに雨が降ったとしても、それが祈祷師の祈りのお陰であると考えるのは、ばかげている。平和への祈りが平和を実現させる、と考えるのも同じことである。日本が戦後平和であったのは、単に在日米軍と自衛隊が国土を守っていたからにすぎない。

本文

平和思想は世界平和に貢献したか?

静岡県立大学 平山洋

Ⅰ 二つの平和概念と平和思想の理想派と現実派

平和という概念には相当な広がりがある。そこで、平和の概念を分類するなら、おおむね次の二つの使用方法があるように思われる。一つ目は、個人またはその周辺のごく限られた人々の心が平安である、という意味での平和である。プライベートな平和とでも言うべきもので、この用法での平和を平和Aと呼ぶことにしたい。二つ目は、この平和A概念と、ある人々は連続的に、またある人々は完全に断絶したものとして考えている平和概念、すなわち国際関係上の平和である。これは国家間に紛争がない、通常は国交が正常に維持されている状態を言う。この国際関係上の平和概念を平和Bと名付けることにしたい。

この平和Aと平和Bの関係について、その両者が連続的であると考える人々と、この両者は決定的に断絶していると考える人々がいて、日本においても明治維新直後から、ずっと論争が続いてきた。そこで試みに両者が連続的であると考える人々を理想派、断絶的であると考える人々を現実派と呼ぶことにする。

理想派は次のように考える。「個人は平和Aを望む。世界は個人の集合体である。故に平和Aを広めれば、必然的に平和Bへと至る」と。いっぽう現実派は次のように考える。「個人は平和Aとともに利益を望む。世界は利益を望む個人を内に含む国家の集合体である。国家は国民の利益を最大化する行動をとるから、その目的のためには戦争も厭わない。したがって、平和Aは平和Bとは必然的には結びつかない。そのため平和Bの実現には国際関係上の取り決めや、軍事力を背景とする抑止力が必要である」と。論理展開は現実派のほうが複雑になるが、平和AB両概念ともに目的と考えている点では理想派と同じである。

現在平和の思想と言う場合には、平和Aと平和Bを連続的に考える理想派の思想が主に想起されるようである。理論的には、例えば、「我が国も現行憲法、とりわけその第九条を改正し、軍事力の強化と核武装によって抑止力を高め、もって平和Bを維持するべきだ」という考え方も、立派に平和の思想だと思うのだが、なぜかこうした現実派の思想は平和の思想とは見なされない。

その理由として、第二次世界大戦後の日本において、平和の思想が、必ず政府および米国への反対運動の形をとってきたことが挙げられる。その平和運動も日本国内からの自発的な運動というよりは、コミンフォルムが一九五〇年一月に発表した、『日本の情勢について』という日本共産党批判に示唆されてのことであった。そこには、米国による日本の軍事基地化と永久占領に反対するため、「日本の独立、民主・平和日本の建設、公正な講和条約締結」を目指すべきだ、とあった。反米思想が平和思想と見なされる要件なのであるから、事実上現実派の思想は平和思想から排除されることになる。

本論で、私は、現実派の立場から、従来まで平和の思想と見なされてきた、平和Aの拡大が平和Bへと至る最善の方法である、という考えを批判し、国際関係上の平和B(国家間の政治的平和)は、軍事力による抑止以外にはありえないことを明らかにする。

Ⅱ 内村鑑三・南原繁・丸山真男の平和思想について

ここで私が取り上げるのは、平和思想の理想派三名である。とはいえ内村鑑三・南原繁・丸山真男をその代表として選ぶことについては、異論があるかもしれない。そこでこの三名を選んだ理由を述べるならば、第一に、彼らが平和思想だけではなく、一般に二〇世紀の日本を代表する思想家として扱われてきたこと、第二に、少なくとも公には特定の政党や政治勢力とは独立の、個人の立場から発言したとされてきたこと、第三に、内村と南原、また南原と丸山には直接の師弟関係があって、理想派の思想を流れとして捉えるのに適切であると考えられたこと、の三点に基づいている。

一 内村鑑三(一八六一~一九三〇)の場合

日本近代の思想家、また無教会キリスト教の指導者として内村鑑三の名前はよく知られている。しかし、存命中から日本の世論に大きな影響を与えた、ということについては相当の疑問がある。

内村の名前が広く世間に知られることになったのは、札幌農学校を卒業後、アメリカ留学から戻って嘱託教員となっていた第一高等中学校(後の第一高等学校)で挙行された教育勅語奉戴式において、勅語に最敬礼しなかったことにより事実上の解雇となった、いわゆる内村不敬事件(一八九一年一月)が最初である。

この式はもともと宗教儀式ではないとされていたから、他のキリスト教の教員は当然のように最敬礼して事なきをえていた。それに、どうしても嫌なら、専任教員ではなかった内村は、式に欠席するだけでよかったのである。この事件は、江戸時代に実施されていた踏み絵のようなことを、明治の官立学校が行うことについて、反発心をもった内村が、故意に騒動を引き起こして、世論に訴えようとしたのが実態であると考えられる。

不敬事件と俗称されているものの、もちろん刑事犯罪としての不敬罪が構成されるはずもなく、また学校当局も、内村が勅語に最敬礼を行わなかったことで、免職処分などはできなかった。内村は騒動の拡大によって出講できなくなっていたが、そのうちに依願退職願いが何者かによって提出され、学校はその願いを受け入れる、という形で幕引きとなったのである。

その後の内村は官立学校で教えることはなくなったが、キリスト教系私立校では特に問題とされることもなく教壇に立っている。また、一八九四年七月に始まる日清戦争では、当然のように開戦に賛成して、非戦の立場はとっていない。非戦を唱えるようになるのは、二〇世紀に入ってからのことである。

内村が考えを改めて戦争に反対するようになったのは、一八九七年以降、黒岩涙香の『万朝報』に関わって、そこで社会主義思想に触れるようになったためである。その非戦思想の根本には、戦争で犠牲になる兵士たちは、たとえ勝利したとしても報われることのない労働者階級である、ということがあった。日露戦争は日本本国の安全保障上の必要から起きた戦争ではなく、主に中国東北部の利権を巡っての争いであったから、その戦争に異を唱えたことについては、十分に合理的な根拠がある。

とはいえ問題は、日露戦争後に本格化した非戦論の展開において、当時内村が主宰していた雑誌『聖書之研究』に掲載されたそれらの論説が、持ち前のプロテスタント・キリスト教の信仰から、一直線に世界平和の到来を予言していることである。絶対神を信じていない大多数の日本人にとっては無関係な話で、何度読み返しても、「平和は神によって来る」というその主張が、どのような根拠によるのか分からない。『聖書之研究』の読者には理解できるのかもしれないが、私にはとても無理である。当然にして、無教会派キリスト教徒にしか読まれることのなかった『聖書之研究』が、同時代の一般人に与えた影響は皆無なのであった。

二 南原繁(一八八九~一九七四)の場合

内村鑑三の論説が今なお容易く読むことができるのは、彼がたまたま札幌農学校で新渡戸稲造と同級で、後年第一高等学校校長となった新渡戸の紹介により、一高生であった矢内原忠雄・南原繁・宇佐見毅・塚本虎二らが内村の聖書研究会に出入りしたことから、彼らの師として不自然なほどに祭り上げられたため、という見方が適切である。

内村の門下生からは南原繁と矢内原忠雄の二人の東大総長が出ているが、その学問的内容によってではなく、後述の丸山真男の師であるということにおいて、南原の後代に与えた影響がより大きい。香川県出身の南原が一高に入学したのは一九〇七年、東大法学部入学は一〇年、そしてその卒業は一四年であるが、思うに、日露戦争の直後から第一次世界大戦直前の時期に東京で学生生活を送った、ということが重要な意味を持っている。

田舎出の一高生が、尊敬する新渡戸校長の紹介により内村の研究会に出席して非戦思想に触れ、そしてその考えを一生のよすがとした、というわけである。日露戦争の講和条約であるポーツマス条約(一九〇五年)は日本人の満足とするところではなかったので、日露戦後の当時、戦前には一部から批判を受けていた非戦思想にも、一定の再評価が与えられていた。戦争を極力回避するべきだ、という考えそのものは危険思想でも何でもないから、その信奉には、社会主義サークルに参加する場合のような決断も不要であった。

さらに南原の学生時代は、新カント主義が世界的に隆盛を極めた時期でもあった。一九〇四年がカント没後百年、二〇年が生誕二百年にあたっていて、その間に日本でも多くのカントの翻訳が出されている。もちろんドイツ語の得意な南原にとって、日本語訳の出版などさしあたって無関係なわけだが、自分がカントに言及してもそれを一般人が理解できるようになった、という意味では、南原にとってよい時代がきた、ということではある。

南原は学生時代からカントの『永久平和論』(一七九五年)に傾倒していた。一九一四年に卒業して内務省に入り、二一年に大学に戻って後に書いた「カントに於ける国際政治の理念」(二七年)が初期の代表的論文である。前田恵学先生もお聴きになったという、東大卒業式訓話「平和か戦争か」(五一年)は、丸ごとカントの平和論である。戦前戦後を通じて南原の一貫性は見事なもので、ソ連を含む全交戦国との平和条約締結をあくまで求めたことについて、それを「曲学阿世」(吉田茂)とみなす批判は適当ではない。

ただし、カントの理念に基づいて作られた国際連盟(一九二〇年~一九四六年)体制が第二次世界大戦によって崩壊し、集団安全保障体制、すなわち加盟国が軍隊を供出することで平和Bを維持しようとする国際連合の制度が発足して後までも、まだカントを信奉していたところから、単に現実の変化に鈍感な人物であった可能性もある。そうなってくると、吉田首相は、「南原総長は学者バカだ!」と言うべきだった、ということになろう。

三 丸山真男(一九一四~一九九六)の場合

丸山真男は言わずと知れた南原繁の高弟である。内村や南原が今なお読まれることがあるのも、一九三七年に東大助手に採用され、助教授を経て五〇年から七一年まで法学部教授であった丸山の、静かな働きかけがあってこそといってよい。第二次世界大戦後まもなく創刊された岩波書店の雑誌『世界』を中心に活動した丸山は、直接の師南原と、さらにまたその師である内村にことあるごとに言及しては読者に注意を喚起したのであった。

東大総長であった南原については、東大出版会がその名声の維持に協力したのは当然としても、内村については、たとえば筑摩書房の現代日本文学全集第五一巻(一九五八年)で、丸山自らが論説の選択と解説を担当している。内村や南原の講演や論説は、それらが発表された当時よりもはるかに多くの読者を、ずっと後になって編纂されたアンソロジーにおいて獲得している。内村と南原の講演や論説を含む著作を刊行したのは、キリスト教系の出版社を除いては、ほぼ岩波・筑摩・東大出版の三社に限られるが、丸山はそのいずれにも影響力があった。

恩師南原については、その名が忘れられないように努めるのは当然のことなのだが、内村の顕彰についてはやや釈然としないものがある。というのは、丸山にはキリスト教臭がまったくしないのである。有名なジャーナリスト丸山幹治の息子として東京の山の手で育った彼は、南原の二十四年後に入学した一高で、心のすき間を埋めるための宗教を必要としなかった。そうした非キリスト教徒の読者が内村の論説を読むとき、私がすでに述べたような論理の飛躍を感じるのが普通なのではないか、と思われるのである。

先に述べたように、内村は存命中、同時代の世論にほとんど何の影響も与えてはいなかった。一高に在籍していた数名の弟子が後年有名になって、非戦論者内村との印象を一般に与える操作をしたことにより、昔から有名であったと思われているにすぎない。信仰上の動機から南原が内村を顕彰するのは当然だとして、丸山が内村を評価するのは、少なくとも信仰によるのではない、もっと別の、内に秘めた動機があったと考えられる。

思うに、キリスト者南原に対し、丸山本人が依拠していたのはマルクス主義であった。しかしそれをはっきりとはさせないのが賢いところである。その一例として、「憲法第九条をめぐる若干の考察」(一九六五年)という比較的有名な論説がある。一九六四年一一月の憲法問題研究会で口頭発表され、『世界』六五年六月号に初出となっているこの論説は、その後、六七年(平凡社)・七七年(三省堂)・八二年(未来社)と三回も再録されている。このうち現在もよく読まれているのは、八二年の著作集『後衛の位置から』に収められている版で、岩波の『丸山真男集』第九巻(一九九六年)中の「一九六五年」の部に入っているのは、六五年の初出時のものではなく、この八二年の改訂版なのである。

六五年版において、丸山は、ソ連のフルシチョフ首相による全面完全軍縮案をより高い次元の提案として肯定的に扱い、米のラスク国務長官による、核軍拡は安全感を低下させるという演説を、低い次元の平和思想の敗北宣言として引用している。私には一九五九年九月のフルシチョフ提案とは、軍拡競争についてゆけぬソ連指導部が、苦し紛れに言い出した遁辞にすぎないように思われる。さらに私には、丸山報告が憲法第九条を重要だとする決定的根拠として、それが東側陣営を利するから、と言うこと以外には見いだすこともできないのである。

Ⅲ 自宅に立てこもり、突然発砲する隣人がいるような国際社会において

たとえ同時代の人々には何らの影響も与えていなかったとしても、また、自分自身はその信仰にまったく共感していなかったとしても、内村の非戦論を丸山が顕彰したのは、第二次世界大戦後の一時期において、そうすることが自らの政治目的と合致していたから、としか言いようがない。つまりは現実的な要請というわけだが、それに加えて、丸山のみならず、平和思想の理想派は、その理想を西側社会に強いようとはしたが、東側の国々に求めようとはしなかった、ということにも注意が向けられるべきである。

フルシチョフは丸山が憲法問題研究会で口頭発表する一か月前に失脚し、「憲法第九条をめぐる若干の考察」が『世界』に発表された時には、すでにブレジネフ体制が発足していた。プラハの春はその三年後の一九六八年のことである。本来なら同年八月にソ連軍がチェコスロバキアに軍事介入したときに、理想派はソ連に完全軍縮の履行を要求するべきであった。そうしなかったのは、東側がそんなことに耳を貸すはずがないと、理想派自身がよく知っていたから、ということになろう。

そうなると理想派自身が、平和Aから平和Bへの連続的な移りゆきを、本当には信じていなかった、という疑いが出てくる。心の平安(平和A)をあくまで広めるようなフリをして、実はそうすることで国際関係上の平和(平和B)がもたらされるなどとは考えていないにもかかわらず、それでも理想派を装う理由は、そうすることが、別な方向から彼らの目的へ至る最短の道である、という透徹したリアリズムがあったからではなかろうか。

思うにそれは次のようなものである。理想派が表向き高く評価するカントの『永久平和論』の平和へのプロセスは、平和を愛する個人の集団が一つの平和国家を形成し、異なった文化を持ちながらも同様に平和を愛する諸国家と対等な不可侵条約を結ぶことで、加盟国が平等の権利を有する国際連盟体制が創られる、そしてそうなった以上は、もはや軍事力は不必要となるから、結果として永久平和が実現する、というものである。ここで重要なのは、連盟加盟国が全て均しく邪念なしの平和愛好国である、という点である。

そうでなかった場合に結果が悲惨となるのは明らかであろう。邪悪な国家だけが秘密裏に軍事力を保有し、善意の国々が完全非武装に踏み切ったとたんに、加盟国全てを自分の勢力下に入れることが可能となるからである。六八年八月のチェコスロバキアの場合は、それでもチェコ軍は果敢に抵抗したから、ソ連軍はまったくの無傷でプラハに入城したわけではなかった。ところがこの崩されたカント・モデルの場合は、流血などまったく無しで、世界全体を手に入れることができるのである。実は透徹したリアリストである理想派は、それこそが平和Bであると称して、実現を目指していたのではなかろうか。

とはいえ、幸いなことに、理想派が発言しようがしまいが、行動しようがしまいが、実際の影響はほとんどなかった、と私は思う。というのも、理想派の言論が社会一般に与えた影響は極めて限定的で、彼らが支持する政党は戦後一度も選挙で勝利したことがなかったため、国の政策に寄与することもなかったからである。

第二次世界大戦後、日本が戦争に巻き込まれることがなかったのは、べつに戦後民主主義や日本国憲法によるわけではない、ましてや平和思想の理想派の活躍によるわけでもない。祈祷師が雨乞いの祈りを捧げた後に雨が降ったとしても、それが祈祷師の祈りのお陰であると考えるのは、バカげている。平和への祈りが平和を実現させる、と考えるのも同じことである。日本が第二次世界大戦後に平和を維持できたのは、単に、自衛隊と在日米軍が国土を守っていたからにすぎないのである。