日本の先覚者 山崎為徳

2010-11-14

このテキストについて

2007-10-13に開催された、「山崎為徳顕彰有志の会」主催の講演「日本の先覚者 山崎為徳」(岩手県奥州市水沢区)のアウトラインを、平山氏の許可を得て転載します。

発表の模様ですが、日本の先覚者山崎為徳 2007-10-13.mp3として公開しています。

アウトライン

日本の先覚者山崎為徳

2007年10月13日・於水沢

静岡県立大学国際関係学部助教平山洋

Ⅰ山崎為徳とは何者であるか?

(1)農学者としての山崎為徳
明治4年(1871)敗軍の卒山崎為徳の決断
3月、胆沢県少参事野田が上京する際同行最初は東京で勉強するつもりだった(東大の前身または慶應?)。父為美の江戸遊学は嘉永3年(1853)から安政3年(1856)と、万延2年(1861)から文久3年(1863)の2回と推測。為美は江戸に相当詳しい。安場・野田の友人である肥後実学党の大田黒惟信・庄村助右衛門とは江川塾(芝新銭座)で一緒だった可能性あり。7月、来日したジェーンズらとともに熊本に向かう。もともと何を学びたかったのか?もはや砲術の時代ではない。郷里のため農学を学ぶつもりだったのではないか。ジェーンズは農学の専門家である。札幌農学校はまだない(1876年創立)。
明治6年(1873)『生産初歩』の翻訳
理科系の論文だから文法的に難しいわけではないだろうが、よく2年の修学だけで翻訳までこぎ着けたものである。当時の生徒は英単語を「英漢辞書」で引いて英文を漢文のようなものに変換し、それを読み下して翻訳としたという。そういえば漢文には活用も関係詞もないが、文法構造は英語に似ている。ともかく『生産初歩』は、当時最新の米国農学書の日本での応用書であるから、為徳も満足したであろう。
明治8年(1875)熊本洋学校を卒業、東京開成学校に入学
9月からの新年度に合わせて入学。東大の前身は4年前よりずいぶんと整ってきたが、それでも教科は不十分。明治10年に改組された東京大学理学部化学科に進むも、宣教師でもあったパーソンやマッカーティを除いて講義はいかにも理学部っぽいもので、ウンザリした模様。よかったのが現在の一般教育科目に相当するサマーズやホートンのシェイクスピア講義であったのは皮肉。明治10年8月31日付けで東大を中退、同志社に向かう。
(2)神学者としての山崎為徳
明治10年(1877)同志社に移る
いわゆる熊本バンドは明治9年で、山崎はすでに上京。東京で宣教師らと交流するうち信仰心が芽生えたようである。在京の山崎と伊勢時雄(横井小楠の息子)が受洗したのは4月以降、授洗者はカナダ人メソジスト宣教師コクラン。5月には帰国するジェーンズを横浜で見送っている。この時期は西南戦争の最中で、熊本は薩摩軍の猛攻に遭っていた。何らかの思いが去来したのか。9月に同志社に移ってからの山崎に迷いは見られない。
明治11年(1878)有神進化論の研究
日本に移入されたダーウィン進化論は、キリスト教や天賦人権論を否定する有力な武器とされた。また、弱肉強食という陳腐なスローガンによって、帝国主義を肯定する思想にも転化した(社会進化論)。宣教師には生物学や医学を学んでいた人も多かったので、むしろ逆に、進化論は神の存在を証明する、という有神進化論の講演をした(J・T・ギュリック)。山崎としては、東大で必死にとった生物学や植物学のノートが、神学に応用できるとわかって、うれしくなったであろう。サイエンスを学んだことは無駄とはならなかったのである。
明治12年(1879)フォールズ『変遷論』
東京築地居住の宣教医フォールズが書いた論文を山崎は伊勢時雄とともに翻訳。1月から12月まで七一雑報に掲載。内容的にはギュリックのほうが綿密で、後年の著作への影響はギュリックのほうが大きかったようだ。山崎は明治11年に同志社でギュリックが講演してから、ずっと連絡をとっていたのではなかろうか。この年同志社を卒業、教員となる。夏、水沢伝道。
明治13年(1880)『天地大原因論』第一章
本著作の準備は春頃から進められていたようである。8月から12月にかけて七一雑報に連載される。この第一章は、批判部ともいうべきもので、その従来の学説への批判は非常に明晰である。大西祝の『良心起源論』への影響は拙著でも指摘したが、『天地大原因論』の完成自体に大西が関わっていたのではないか。
明治14年(1881)『天地大原因論』第二章そして死
明治11年11月に発表した「不釣合を論ず」を書き換えて、建設部ともいうべき第二章を執筆。「神の目的論的証明」はオリジナルではないが、全体的な構成には無理がなく、相当な水準である。同志社余科で以後教科書として使われたのは当然のことであった。初夏までに書き終えて出版の準備をしているうちに発病、11月には病没したのはじつに惜しまれる。
(3)英文学者としての山崎為徳
明治8~10年 開成学校でサマーズ、ホートンに学ぶ
熊本洋学校で習ったジェーンズはサイエンティストであったから、英文学は東京に出てから身につけたことになる。山崎は化学科であるから、講義をとっただけであろう。当時開成学校(東大)は、海外の書籍・雑誌を大量に購入していたから、勉強は自分でドンドン進めることができたはずである。
明治10~12年 同志社在学中の勉学
同志社で学んでいたときの英文学の教師について、はっきりしたことは分からない。ラーネッドであろうか。山崎より英語のできた日本人は新島以外にはいないので、英文学の師は日本人ではなかったろう。
明治13年 英文学教師としての山崎
ミルトンを暗唱し、シェイクスピアを講ずる新進気鋭の学者として、山崎はさぞ魅力的であったことだろう。徳富蘇峰とは感情的な行き違いがあったようだ。当時の同志社生による受講ノートはないものだろうか。明治13年12月18日に上演されたという「ベニスの商人」は、演技なしの朗読会のようなものであったらしいが、その時の脚本は何を使ったのであろうか。またもし日本語にされていたのなら、シェイクスピア翻訳史上でも重要な出来事なのだが。

Ⅱ水沢の風土と山崎為徳

(1)偉人が生まれやすい風土

高野長英・斎藤実・後藤新平・山崎為徳の共通点

  • 1)伝統にとらわれない柔らかい心
  • 2)科学的思考法
  • 3)意外に中央との交流が密

→藩閥ではないので、個人の能力が発揮できる場所で、その能力によって評価された。

(2)山崎為徳がもし長生きしていたなら
斎藤
海軍→政治
後藤
医学→政治
山崎
学界→やはり最後は同志社教授から政治家になったのであろうか?