『福翁自伝』の舞台は今――鉄砲洲・汐留・新銭座編

2010-11-14

1. 鉄砲洲中津藩中屋敷跡(鉄砲洲塾)跡

鉄砲洲中津藩中屋敷跡(現聖路加国際病院)1 鉄砲洲中津藩中屋敷跡(現聖路加国際病院)2

中津藩の藩医前野良沢らが『解体新書』(1774年刊)を訳したのはこの場所である。 蘭癖(オランダ好き)大名島津重豪の息子である奥平昌高(藩主在職1786~1826、以後中屋敷に移り1855年まで生存)が、ここで藩士に蘭学の研究を奨励したため、中屋敷詰の岡見彦三や古田権次郎らも蘭学をかじったのである。 安政5年(1858)10月中旬に江戸に着いた諭吉が塾を開いた長屋は、国際病院の手術室の真下あたりにあった。 中屋敷の門は、看護大学と病院をつなぐ渡り廊下の下付近にあたる。 ちなみに、隣の看護大学の敷地は、かつて赤穂藩浅野家上屋敷があった場所で、奥平家には浅野長矩が刃傷・切腹した元禄14年3月14日(1701年4月21日)当日の屋敷の様子についての記録が残っている。 幕府の軍勢がずらりと周囲を取り囲み、不測の事態に備えていたそうな。 諭吉が到着する157年も前の話である。

滞りなく江戸に着いて、まず木挽町汐留の奥平屋敷に行ったところが、鉄砲洲に中屋敷がある、そこの長屋を貸すという。(「大阪を去って江戸に行く」の章「三人同行」の節)

2. 汐留中津藩上屋敷跡

汐留中津藩上屋敷跡(現銀座郵便局)

上屋敷は主君の正室・嗣子の居所であり、また参勤中の主君の住まいでもある。 江戸家老の御用部屋もここにあった。 安政5年10月中旬に到着したとき、主君奥平昌服は江戸城大手門警備を命ぜられていたため、家老奥平壱岐はその仕事に忙殺されていたはずである。 安政6年に壱岐はいったん帰国し、交代に逸見志摩が江戸家老となった。 この時期のエピソードとして、上屋敷内にあった用人土岐太郎八(後の岳父)の役宅に上がりこんで酒盛りをしていた諭吉に逸見が、「足下は近来某々の家などに毎度出入りして、例の如く夜分遅くまで酒を飲んでいるとの風聞、某家には娘もあり…」と小言を言ったというのがある(「品行家風」の章「醜声外聞の評判却って名誉」の節)。

3. 源助町の半ば

源助町の半ばあたり(現新橋駅南新橋3丁目付近)

文久2年(1862)年12月中旬、欧州から帰国直後の諭吉は、深川の藤沢次謙邸で開かれた洋学者の集会で夜更かししてしまい、大変怖い思いをして新銭座まで帰った。 新橋までは舟で送ってもらったが、あとは徒歩で行かなければならない。

新橋から新銭座までおよそ十町もある。 時刻はハヤ一時過ぎ、しかもその夜は寒い晩で、冬の月がまことによく照して、なんとなくものすごい。 (中略)進退につごうのいいように趣向して、さっさと歩いて行くと、ちょうど源助町の半ばあたりと思う、向こうからひとりやって来るその男はたいそう大きく見えた。 (中略)「コリャ困った」。 いまから引き返すとかえって引け身になって追っかけられてうしろからやられる、いっそ大胆にこっちから進むにしかず、進むからには臆病な風を見せるとつけあがるから、突き当たるようにやろうと決心して、いままで私は往来の左の方を通っていたのを、こう斜めに道のまんなかへ出かけると、あっちのやつも斜めに出てきた。 コリャ大変だと思ったが、もう寸歩もあとに引かれぬ。 (中略)だんだん行くと一足一足近くなって、とうとうすれちがいになった。 ところが、あっちのやつも抜かん、こっちはもしろん抜かん。 ところですれ違ったから、それを拍子にわたしはドンドン逃げた。 どのくらい足が早かったかか覚えはない。 五、六間先へ行って振り返って見ると、その男もドンドン逃げて行く。(「暗殺の心配」の章「疑心暗鬼互に走る」の節)

黒澤明の映画の一シーンのようだ。

4. 新銭座江川太郎左衛門砲術調練場跡

新銭座江川太郎左衛門砲術調練所跡(現新橋再開発地区)

第Ⅰ期新銭座塾は、江川の調練場の西100メートルの場所にあった。 砲術家大鳥圭介・通詞中浜万次郎の家もその敷地内にあった。 文久3年(1863)5月上旬、生麦事件収拾の不手際に不満をもった英国が艦隊を江戸湾に派遣したとき、この場所が艦砲射撃の目標となった。 諭吉は塾の疎開を決め、「そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海のほうに向けて撃つような構えにしてある」と自伝にはある(「攘夷論」の章「事態いよいよ迫る」の節)。 写真は大砲があった辺りから北の方向を撮影している。 『福翁自伝』の舞台というより、ブレードランナーの舞台である。

5. 第Ⅰ期新銭座木村摂津守喜毅屋敷跡周辺

第Ⅰ期新銭座塾木村摂津守喜毅屋敷跡周辺(現イタリア街)

第Ⅰ期新銭座塾の場所は、正確には分からない。 木村屋敷内、または隣接したどこか、ということで大雑把に定めると、このイタリア街の南側のどこか、ということになる。 そこに居住していたのは、万延元年(1860)秋から、文久3年(1863)秋までの3年間であるが、文久2年中一杯欧州に派遣されていたので、正味は2年である。 文久3年春頃の話として、適塾の同門生原田水山が訪ねて着た時のエピソードがある。 「私が新銭座にちょいと住まいのとき(新銭座第Ⅱ期塾に非ず、)『どなたか知らないがお目にかかりたいと言ってお侍が参りました』と下女が取り次ぎするから、『どんな人だ』と聞くと、『大きな人で、目が片目で、長い刀をさしています』というから、『こりゃ物騒な奴だ、名は何という』『名はお尋ね申しましたが、お目にかかれば分かると言って、おっしゃいません』」という問答の後、陰からそっとのぞくと原田だった、という話である。 文久3年6月10日の師緒方洪庵死去の知らせを、諭吉はここで受け取った。

6. 第Ⅱ期新銭座塾跡

第Ⅱ期新銭座塾跡(現神明運動広場) 第Ⅱ期新銭座塾跡記念碑

木村家の用人大橋栄治の周旋で、有馬家中屋敷を買い取ったのは、慶應3年(1867)12月25日のことで、この日はちょうど幕命により庄内藩兵が薩摩藩上屋敷を焼き討ちした当日であった。 翌慶應4年3月に塾は鉄砲洲中屋敷からこの新銭座に引っ越し、4月に慶應義塾と命名された。 慶應義塾は、明治4年(1871)3月の三田島原藩中屋敷への移転までこの地にあった。 跡地は攻玉社が取得し、現在は地域の運動場になっている。

7. 交詢ビル

交詢ビル

交詢社の位置は結社以来まったく変わっていない。 時事新報社も隣接していて、現在の交詢ビルの場所にあった。

新聞紙のことも若い者に譲り渡してだんだん遠くなって、紙上の論説なども石河幹明、北川礼弼、堀江帰一などがもっぱら執筆して、わたしは時々立案して、そのできた文章を見てちょいちょい加筆するくらいにしています。(「老余の半生」の章「陰弁慶の筆をいましむ」の節)

8. 再現新橋停車場

再現新橋停車場

汽笛一声新橋を、というのはこの場所である。 現在の新橋駅の東200メートルに位置していて、東京駅の開業にともなって貨物駅とされていたが、近年は再開発が進められている。 『福翁自伝』に登場するわけではないが、有名なところなので。