「『学問のすすめ』と『文明論之概略』」

2010-11-14

この文章について

慶應義塾福沢研究センター発行『近代日本研究』第25巻(2008年度)慶應義塾大学出版会、2008年11月、97-123頁所収の平山洋「『学問のすすめ』と『文明論之概略』」を転載します。

論文

はじめに

同時期に書き進められていた『学問のすすめ』(以下『学問』と略)と『文明論之概略』(以下『文明』と略)が、どのような関係にあるのかについて、従来の研究ではさほど注意が払われてこなかった。それというのも、前者は、中津市学校生徒募集の宣伝文として書かれた初編(明治五年二月刊)が図らずも大ヒットしたのを受けて、約二年後の明治六年(一八七三)一一月から月刊形式で書き続けた啓蒙パンフレットである一方、後者は、そうした実状に飽き足らなくなった福沢が、『学問』のような思想の切り売りをやめにして、文明論を一つの体系として書き下ろした著作であるということが、自身の証言(註釈1)ではっきりしているからである。

明治八年(一八七五)八月に刊行された『文明』は、まず、表紙に「明治七年二月八日初立案二月二十五日再案」とある和装三八丁の構想ノート「文明論プラン」が成立し、続いて本文が翌三月から翌年三月まで、ほぼ一年をかけて書かれている。その構成は、緒言、第一章「議論の本位を定る事」、第二章「西洋の文明を目的とする事」、第三章「文明の本旨を論ず」、第四章「一国人民の智徳を論ず」、第五章「前論の続」、第六章「智徳の弁」、第七章「智徳の行わるべき時代と場所とを論ず」、第八章「西洋文明の由来」、第九章「日本文明の由来」、第十章「自国の独立を論ず」である。

一方『学問』は、この間に、六編「国法の貴きを論ず」(明治七年二月刊)、七編「国民の職分を論ず」(三月刊)、八編「我心をもって他人の身を制すべからず」(四月刊)、九編「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」(五月刊)、十編「前編の続、中津の旧友に贈る」(六月刊)、十一編「名分をもって偽君子を生ずるの論」(七月刊)、十二編「演説の法を勧むるの説・人の品行は高尚ならざるべからざるの論」(十二月刊)、十三編「怨望の人間に害あるを論ず」(十二月刊)、十四編「心事の棚卸・世話の字の義」(明治八年三月刊)と計九編出されていて、後に触れるように、そのうち十一編までは、『文明』と内容上の相関関係がある。

本論文は、『文明』の成立過程を『学問』各編との連関から明らかにしようとするものである。そこで、そのようなことを追究する目的については、論者なりの目算がある。すなわち、最初に成立した「文明論プラン」と、完成された『文明』にはかなりの相違が指摘できるのであるが、その内容の変更について、それを随時発表されていた『学問』各編に加えられた批判への応答の結果として理解できるのではないか、ということである。つまり『学問』各編は『文明』にとって観測気球の役割を果たしていて、読者の反応や反発、さらには政府の言論統制の状況を見計らいつつ完成された、という推測である。さらに、この方向からの追究を進めることで、『文明』の最終第十章「自国の独立を論ず」が、いかにも取って付けたような報国心(愛国心)の主唱で締めくくられている謎の解明にも期待がもたれよう。

このような見込みのもとで、本論は主に時系列に従って展開することになる。

一 『文明』の基本プランを構想する――明治七年一月から三月――

明治七年一月刊行の『学問』五編「明治七年一月一日の詞」(以下「詞」と略)は、慶應義塾における年頭の演説を採録したものである。この五編において諭吉は、文明の精神として人民独立の気力をとくに重要視し、その担い手として中産階級の覚醒に期待を寄せている。多くはその階層の出である塾生に向けての演説なのだから、それが中産階級を鼓舞する内容をもつのも当然ではあるのだが、この五編には、それに留まらないある種の切迫感が漂っているように感ぜられる。

その一つの理由は、文中にもあるように、維新後わずか六年のうちに鉄道・電信・トンネル・鉄橋などを敷設建設したり、学校や軍備の制度を整えてきた明治政府が急速に権威をもつようになったため、文明の精神ともいうべき人民の気力が衰えてきている、という認識が諭吉にあったからであろう。諭吉にとって政府とは人民から選ばれて実務を担当する技能集団にすぎなかったから、かつての幕府のようにそれ自体が人民を威圧するなどというのは、決して許してはならない退歩として映ったのである。それ故に、政府の外にいる中産階級が自ら独立の気力を高めてそれを制御しなければならない、と主張するのであるが、私は諭吉がこの時とくに中産階級論を展開したのにはもう一つの理由があったと推測する。

明治七年の正月にあって、確かに政府は権威を高めてはいたが、同時に分裂の危機に瀕していた。すなわち前年十月に征韓論を巡っての政府内部の意見調整が不可能となり、朝鮮を開国させるために軍事力を行使するべきだ、とする土佐の板垣退助・後藤象二郎、佐賀の江藤新平・副島種臣、薩摩の西郷隆盛らが一斉に下野してしまっていたのである。政府の屋台骨がぐらついているときに、人民の期待がその政府に集まるのは危険な兆候であった。だからこそ、中産階級はしっかりと政府を監視して、彼らがよい政治を行うように仕向けなければならない、というわけである。

中産階級が自らに課せられた使命を認識するのには、『学問』五編所収の演説だけでは明らかに力不足であった。そこで諭吉は、この「詞」の内容を、より理論的により詳しく記述した『文明』を明治七年初に構想したのだと私は思う。

とはいえ時は大久保利通政権下である。言論の自由はこの時期より幕末期のほうがかえって保たれていたくらいで、一度目を付けられたら当分著述活動はできない、という覚悟がいった。福沢が、ある程度までは融通のきく月刊『学問』で言論の自由の範囲を探りつつ『文明』を書き進めたのも、当時の日本人が抱きがちな誤解を、あらかじめあぶり出すためだったのだろう。たとえば、すでに西洋思想を身につけていた福沢には明白な社会契約説の説明でも、それまで西洋学を学んだことのない日本の中産階級の読者にとって、あたかも「国体」の変更であるかのように誤解されてしまう場合があるが、そうした誤解を前もって潰しておくことができる、という見込みである。

征韓論の直後に刊行が開始された月刊『学問』二編「人は同等なる事」(明治六年十一月刊)・三編「国は同等なる事」(同年十二月刊)に、すでに中産階級への呼びかけとでもいうべき側面があるとはいえ、続く四編(明治七年一月刊)の「学者の職分を論ず」では、初学者ではなく学問を修めた成人が明確に読者として想定されてきている。その中で福沢は、中産階級たる洋学者は、あくまで政府の外に留まりつつ、政府に適切な刺激を与えてそれを正しい方向に導かなければならない、と主張している。そして同じ一月刊の五編「詞」の冒頭には、「この五編も、明治七年一月一日、社中会同の時に述べたる詞を文章に記したるものなれば、その文の体裁も四編に異ならずして或いは解し難きの恐れなきに非ず。畢竟四、五の二編は、学者を相手にして論を立てしものなるゆえこの次第に及びたるなり」(註釈2)とあって、想定読者層の水準の引き上げが告知されている。

少し前に述べたように、この「詞」は、『文明』の構想メモとなっている。完成されたそれとの連関からいうと、文明の本質は物質文明にあるのではなく精神的な部分にある、ということを示した「詞」冒頭部は、『文明』の第三章「文明の本旨を論ず」の梗概となっており、また、「詞」の中盤で日本人が独立の気概に乏しいことをなげいた部分は、『文明』の第九章「日本文明の由来」における日本人の国民性を批判した部分との類似性を指摘しうる。「詞」の終盤三分の一ほどは、文明の主導者たるべき中産階級の覚醒を促す一種の呼びかけになっているのであるが、『文明』中には具体的にあてはまる部分はないようである。あえて言えば、『文明』全体が中産階級に向けられているのだから、「詞」の結論部は『文明』の総てをおおっている、ということもできる。

元旦の演説である「詞」と、「文明論プラン」までには一カ月半ないし二カ月ある。この間に福沢は二月刊の『学問』六編「国法の貴きを論ず」を執筆しつつ、『文明』の構想を練っていたわけである。この六編は、内容的に『文明』第七章「智徳の行はる可き時代と場所とを論ず」と重なる部分が多い。また、三月刊の『学問』七編「国民の職分論ず」は、国民こそが政治の主体であることが示されていて、『文明』の第九章「日本文明の由来」の一部に利用されている。

ところで、福沢は「文明論プラン」に基づいて、明治七年三月から『文明』本文の執筆にとりかかっている。現在まで福沢自筆の『文明』草稿は十八綴り発見されていて、No.1からNo.18までの綴り番号がふられている。それらの綴りを戸沢行夫が系統別に整理しなおしたのが、草稿Aから草稿Hまでの八系統分類(註釈3)である。参考までにやや簡略化した一覧表を以下に掲げる。

一覧表「『文明論之概略』の自筆草稿と執筆過程」

No.1No.3No.6No.1No.2No.2No.7No.7(追加)戌3戌3No.5No.5No.87/16-23No.4No.12No.12No.12No.13No.13No.14No.159/209/209/209/239/23No.12No.15No.10No.11M8/3/252/3-52/5-211/18-2/2No.9No.9No.16No.16No.17No.18No.18
緒言第一章第二章第三章第四章第五章第六章第七章第八章第九章第十章
草稿A
草稿B
草稿C
草稿D
草稿E
草稿F
草稿G
草稿H

出所:『福沢諭吉著作集』第四巻「解説」(戸沢行夫)より簡略化して引用

見られるように、大まかにいえば、成稿の順は系統のアルファベット順・綴り番号の若い順(一部前後あり)といってよい。綴りの一部には成稿の月日が記入されているので、各系統の執筆時期を推定できる。たとえば三月までに書かれた草稿A・Bは、第一章から第五章までの下書きで、この下書きの総分量は、四百字詰原稿用紙に換算して五十枚強である(註釈4)。完成された『文明』の第一章から第五章までの総枚数は約一六五枚なので、それから一年の間に、三倍以上もの増補がなされることになるわけである。

二 学者職分論・赤穂不義士論・楠公権助論、批判を受ける――明治七年四月から八月――

『文明』第五章までの下書きが出来上がった三月十五日、福沢は母順を始め総勢三十名程の家族・弟子を引き連れて箱根入湯に出発し、二十九日に帰京している。そしてその直後の四月、福沢はいわゆる学者職分論争に巻き込まれることになる。四月刊の『明六雑誌』第二号には加藤弘之・西周・森有礼・津田真道らからの批判が寄せられていて、その反論として見ることのできる『学問』九編・十編「学問の旨を二様に記して中津の旧友に贈る文」を書くことになったのである。

明六社は、明治六年七月にアメリカ留学から戻った森有礼の主唱で設立された日本最初の学術団体であった。九月一日に最初の会合がもたれたが、その時には諭吉は出席していない。『学問』四編「学者の職分を論ず」(明治七年一月刊)のもとになる演説がいつの会合でなされたかは分からないものの、刊行日から逆算して明治六年末の可能性が高いようだ。

その中で福沢は、政府を人間の身体に、人民をそれに対する外部からの刺激と捉え、身体(政府)の健全な育成には適切な働きかけ(外刺)が必要だと論ずる。さらに、従来の儒学者や国学者ではこの外刺の役割を果たすことはできず、西洋文明を深く理解する民間人が人民に方向づけを行いつつ、文明政治の主体としての政府を正しく導いていくことで初めて可能となる、とする。

私立する洋学者という諭吉のこの考えは、後に二〇世紀の「知識人」が果たした役割と重なっている。諭吉にとって学問とは単に社会の役に立つ技術的知識のことではなく、文明の政治を実現するための知的活動全般を指しており、そのために学者は政府の外にいなければならないのである。

その三カ月後に刊行された『明六雑誌』第二号の中で示された加藤・森・津田らの意見は、学者は政府の中でこそ役立つ、というものであった。たとえば加藤は福沢の学者職分論を民権対国権の図式で捉え、洋学者が在野で活動すると民権が伸長しすぎるのでよくない、と憂慮を表明する。それよりもむしろ政府の内部から人民を指導するほうが効率的だし混乱をきたさない、というのである。こうした意見に対して福沢(『学問』十編)は、学者の居場所が政府の中だけにあるという考えは狭隘で、学問の使い道は、農業にも、商業にも、研究にもあり、それは公務員・文筆業・新聞記者・法律学者・芸術家・工場経営者また議会政治家となっても有用である、と反論した。

また、西からの批判は、福沢の実践志向の早急さに懸念を表明するアカデミックな立場からのものであったが、その西が心配していたのは、本来学問研究を本旨とするべき学者が世論の先導者となることへの危うさについてであった。オランダの大学に留学していた西の抱く学者のイメージとは、研究室にこもって勉強を続ける大学教授のそれであった。ところが、英米系の学問を修得していた福沢は、学者の範囲を教養ある知識人にまで広げて理解していたので、彼らが社会全体へ貢献するのは当然だと考えていた。福沢が影響を受けていたJ・ベンサムもJ・S・ミルもB・フランクリンも、大学教授職に就いたことはなかったのである。

福沢は象牙の塔などというものに、価値があるとは思っていなかった。西のアカデミズム賛美を意識してのことであろうか、『学問』十編は、彼への皮肉とも取れる一文で結ばれている。「学問に入らば大いに学問すべし。農たらば大農となれ、商たらば大商となれ。学者小安に安んずるなかれ。粗衣粗食、寒暑を憚らず、米も搗くべし、薪も割るべし。学問は米を搗きながらも出来るものなり。人間の食物は西洋料理に限らず、麦飯を喰い味噌汁を啜り、もって文明の事を学ぶべきなり」(註釈5)

四月中に学者職分論批判への反論を書いていた福沢は、五月八日に母順が亡くなったことでしばらくの間執筆活動ができなかったようだ。二月に刊行されていた『学問』六編中のいわゆる赤穂不義士論と、三月刊行の七編にある通称楠公権助論への批判が、新聞に掲載されるようになったのはこの時期のことで、浜松県下一丈夫の投書(『郵便報知新聞』六月二十八日(註釈6))が確認できる最初のものである。そこには、日本の国体を社会契約説で説明することからみて、福沢はアメリカ型政治の支持者なのではないか、という疑念が表明されている。さらに翌二十九日、『日新真事誌』四八号に掲載された佐藤信衛(秋田県)の投書では、楠公を権助扱いしたとして、「慨嘆憤激自ら禁ずる能はざるを以てす」(註釈7)とある。七編は楠木正成の名前に触れてはいないのだが、これでは楠公を名指しで貶めたと『真事誌』の読者は誤解したであろう。

上毛一万田如水の「学問のすすめの中童蒙に課し難き一二の弁議」(註釈8)が『新聞雑誌』(二七七・二七八号)に掲載されたのは七月一八日・二〇日のことで、それは『学問』初編の社会契約説の説明を当時の児童に施すのは望ましくない、という内容である。ちょうどこの時期には、それまでの『文明』草稿には含まれていなかった、第六章「智徳の弁」の下書き・草稿C(No.8)が書かれているのであるが、それは、六月以降にわかに高まった赤穂不義士論・楠公権助論への批判に対抗するためのようである。すなわち、智徳の進歩に従って、かつて賞賛されていた行為も時代遅れになり、かえって進歩を妨げる保守主義になってしまう、というのである。この『文明』第六章の後半は、時代遅れの君子論にあくまでしがみつく人々を偽君子として批判しているのであるが、それは七月刊行の『学問』十一編「名分をもって偽君子を生ずるの論」と大きく重なっている。

その後、注目すべき投書として、『真事誌』第八八号(八月一八日)には、南豊鶴谷山人による『学問』六・七編擁護論が掲載されている(註釈9)。山人の正体は当時慶應義塾に在籍していた藤田茂吉であったが、その文中で藤田は、バックルの「凡そ時世よりも進歩せる人は必ず人の謗譏を受く」という言葉を引いて、「世の開明日に新たに月に改まり、昨日の確論は今日の僻説となり、今日の賢人も明日の愚夫となるべし」と、孔孟の道もすでに時代遅れになっている、と主張している。この投書は、完成された『文明』第二章「西洋の文明を目的とすること」と同じ内容をもつものである。

山人が福沢の弟子であることを看取したものか、『真事誌』第九七号(八月二九日)の久保豊之進(広島県)による投書「弁駁」(註釈10)は、「(福沢の)此論を推し窮むるや、終に共和政治に帰するのみ。予深く之を悪む。是れ予同氏の論に服せざる大趣意也」と、話をさらにあらぬ方向へもっていこうとしている。

ここまで来るともはや言いがかりである。福沢はそれまで共和制が理想的であるなどということを言明したことはなかった。明治初年の段階で西洋文明国で共和制が確立されていたのはアメリカ合衆国だけで、第三共和制(一八七〇~一九四〇年)が開始されたばかりのフランスの動向は定まっていなかった。イギリスはもとよりドイツも君主制であったから、文明の進展度と国家の体制(政体)とはとくに関係はない、というのが福沢の考えなのである。

三 楠公権助論批判を受けて、『文明』草稿を書き換える――明治七年九・十月――

六月から九月にかけて、福沢は主として楠公権助論による強い批判を浴びている。先にも書いたように実際には『学問』七編中に楠木正成自身に触れた部分はなく、二つの政治勢力が抗争している最中に、主君に忠義だてをして討ち死にしてもそれは無駄な死であると言っているだけで、それを南北朝の争乱のことであると限定しているわけではない。にもかかわらず攻撃にさらされてしまったことで、福沢は書きつつあった『文明』にさらに改訂を加える必要を感じたものと思われる。

先の一覧表中、九月二十日と二十三日の日付が記入された草稿E(No.12,13)と呼ばれているものがそれで、第一章から第五章に相当する部分に手が加えられている。進藤咲子の研究によれば、『文明』第一章に相当する草稿B(No.1追加)、草稿C(No.5)、草稿E(No.12)の推敲の過程を見ると、次のことが明らかとなる、という。すなわち、三月に執筆された草稿Bと、草稿C(七月執筆)までは、和学(国学)について、「(漢学に比して)和学には読む可き書類も少なく、証す可き事実も稀なり」と、学問としての国学を低く位置づける一節があるのに、草稿E(九月執筆)では、この部分が削除されているのである(註釈11)

また、草稿B(三月)と草稿C(七月)までは、「和学者は一系万代を主張するに在るのみ」とされていた部分は、草稿E(九月)以降は「在り」に書き替えられている(註釈12)が、これは、福沢は万世一系の国体を軽視している、という批判を避ける狙いによるのであろう。書き替え前でも、文脈的には、中国と日本の国家観の「違いは」、中国では易姓革命を許すのに、日本では万世一系を唱えるというところ「だけだ」、と言っているのは明らかで、国学の主張の根幹は万世一系の重視「だけだ」、と主張しているわけではないのであるが、福沢は、その部分だけを用いての攻撃を避けようとしたのである。

このように『文明』第一章から第三章までの改稿について綿密な検討を加えた後、進藤は次のように述べる。「草稿が全部そろっているわけではないので速断はできないが、この国体部分での書き替えは結果的には論を鋭くするより鈍いものにしたようだ。当時の福沢の筆は紙の上でなく剣の刃を渡るようなものだったのではなかろうか」(註釈13)

明治七年九月のこの頃にはまだ発覚していなかったが、八月二九日の久保豊之進の投稿を読んだらしい京都府士族山科生幹なるものが、福沢が政府の有力者と結託して日本を共和制にしようとしているから、このような国賊はことごとく誅殺しなければならない、と唱えて、同志を募るため福沢一味の密約書なるものを偽造し、公家の九条家や中山家に示して福沢排除の密勅を得ようとする策動を、この時期にはじめている(註釈14)。この福沢諭吉暗殺未遂事件は翌明治八年一月に発覚しているが、それを知ったときの福沢の衝撃はいかばかりであったろうか。自伝の「暗殺の心配」の章「回国巡礼を羨む」の節には、「維新後明治六、七年のころまで」夜分決して外出しなかった、とあるが、どうやらこの『文明』執筆期間が、暗殺を心配しなければならない最後の時期であったようである。

第六章・第七章に相当する草稿E(No.14,15)には日付の記入がないが、No.13に引き続いて十月頃執筆されたものと思われる。進藤によれば、七月に書かれた草稿C(No.8)との相違点として、偽君子の実例が日本人から西洋人に書き替えられていること(註釈15)が挙げられ、またNo.14の「寺社建立の名を以て酒食の資を求る者は敬神愛国を唱る神職僧侶の内に在り」の一文は、神職僧侶からの反発を慮ってか、後に削除されている(註釈16)という。

執筆にあたって福沢が同じ部分を何度も改稿した、ということはつとによく知られていることであるが、これは内容上の変更を意味するよりもむしろ、表現の上から維新前は尊王攘夷派であった人々をいかに刺激しないで済ませるか、ということを目的としていたようである。

四 楠公権助論、大槻磐渓により擁護される――明治七年十月――

明治七年(一八七四)夏の楠公権助論批判には、福沢もほとほと参ってしまったようだ。『学問』七編発表の段階で注意を払ったつもりなのに、それでもこれだけの反発を招き、ついには共和主義者呼ばわりされてしまうとすれば、どのように書いても誤解を免れることはできないだろう。

先にも少し触れたことだが、こうした事態の背景には、前年十月の征韓論破裂に伴って、西郷隆盛・江藤新平・前原一誠ら征韓派参議とともに政府関係機関から旧尊王攘夷派が放逐された、という政治情勢の変化が暗い影を落としている。もともと征韓論は国内で高まりつつあった不満を対外戦争で解消しようとすることを目的としていたのだから、朝鮮との戦争は回避されたものの、征韓派の敗北によって、その内的圧力はますます高まっていたのである。福沢批判を新聞に投書していた人もまた、そうした現状に不満をもつ士族であったように思われる。

大久保利通らは彼らの気を逸らすため、明治七年五月に無防備な台湾に出兵したものの、わずか三千人余の正規軍を派遣したにすぎないその征台の役は、明治四年の廃藩置県後、放置されたままになっていた不平士族に、就職の機会を与えるものではなかった。

福沢を擁護する声は主に洋学者によって細々と唱えられていたが、『朝野新聞』十月二八日号掲載の「読余贅評六号」(註釈17)において、大物儒学者である大槻磐渓からの強い支持を受けることになった。洋学者大槻玄沢の息子である磐渓は、安政五年(一八五八)冬に福沢が江戸に到着した当初に世話を受けた仙台藩の儒者である。砲術の研究者として佐久間象山と交流していたため、ペリー来航時には象山の弟子であった吉田松陰から米国への密航の方法について相談を受けた人物でもある。

仙台藩実学派の思想的背景として磐渓は、文久二年(一八六二)に帰国後、弟子の但木土佐とともに同藩内において公武合体運動を推進し、慶應四年(一八六八)には奥羽越列藩同盟で中心的役割を果たしている。戊辰戦争での敗北の結果、維新後はしばらく投獄されていたが、明治二年(一八六九)には出獄、在野の文筆家となった。後明治七年の『朝野新聞』の創刊にあたっては、社長の成島柳北に協力している。

さて「読余贅評六号」で、磐渓は、「(福沢のいう)忠臣義士は蓋し狷介徒死の輩を云ふにて、決して楠公を指すに非ず」と述べる。その理由は、福沢自身による文明の定義、すなわち智徳の進歩に照らして、楠公のとった行動はそれを推進したことが明らかであるからである。そのため、「福沢氏の意楠公を相手取て論を建つるに非ざる事、断じて知る可し」と磐渓はいう。

言うまでもなく楠木正成は南朝の功臣である。正成が生きているうちに彼の事績は評価されることはなかったし、南北朝の合一も北朝の優位のもとで行われたため、その後の天皇はすべて北朝の系譜を継いでいる。明治天皇もまた例外ではない。しかし正成のように同時代の人々には評価されず、数百年も経過してから智徳の進歩としての文明を推進した者として再評価を受けることがある、と奥羽越列藩同盟を影から支えた思想家大槻磐渓は示唆するのである。福沢の弁護にこと寄せて、彼が何を言わんとしていたかは明らかであろう。

福沢自身が「慶應義塾五九楼仙万」の筆名で書いた弁明は、その十日後の十一月七日の『朝野新聞』に掲載された。そこで福沢は、自分は戦死したことをもって忠臣とする風潮を批判したまでで、楠公が偉大であるとすればそれは死んだことによってではなく、彼が目的としたことがマルチルドムに価するからなのである。また、自分を共和主義者だとする攻撃については、あまりにばかばかしい、ためにする誹謗中傷である、と反論している。この弁明は「福沢全集緒言」に再録されている(註釈18)

五 『文明』において楠公権助論批判などに応答する――明治七年十一・十二月――

おそらくは明治七年の夏以降に高まった楠公権助論批判によって、七月までに執筆されていた『文明』中で、国学を低く評価しているかに受け取られかねない部分の表現が弱められていることは、すでに三で見た。完成された『文明』には、そればかりではなく、福沢自身が楠木正成や共和政治をどのように評価するかについて、彼自身の見解が示された部分がある。

楠木正成に関するまとまった記述は、第四章の中盤、全集では第四巻五九頁から六五頁八行目までにある。それを要約するなら、南北朝の争乱で楠木正成が討ち死にしてしまったのは、当時の日本に勤王の気風が十分には育っていなかったためで、結局のところ正成は時勢に敗れたにすぎない、「英雄豪傑の時に遇わず」ということはいつの時代にもあることで、人民の智徳の進歩に応じていずれは再評価されるものなのである、というものであるが、その内容は大槻磐渓による楠公権助論弁護とほぼ同じ内容である。

進藤の研究によれば、この部分の原型は三月に書かれた草稿B(No.7)にはすでにあって、福沢は、時勢に遇わなかった不幸な英雄楠木正成のことは、当初から取り上げるつもりであったらしい。ただ、楠公権助論批判以後の九月二三日の日付をもつ草稿E(No.13)、大槻磐渓(十月二八日)・福沢本人(十一月七日)の投書より後に作成された草稿H(No.16)では、旧尊王攘夷派の誤解を招かないよう念入りな修正が施されている。

その一例として、進藤によれば、草稿E(No.13)では、当初、「楠氏の如きは唯勤王の名を以て近傍の数百人の士卒を募り得たる者にして、当時の勢力は固より足利新田と肩を併ふ可き者に非ず」とあった部分が、傍線で削除されている(註釈19)。完成された『文明』では、「(正成は)河内の一寒族より起り、勤王の名を以て僅に数百人の士卒を募り、千辛万苦奇功を奏したりと雖ども、唯如何せん名望に乏しくして関東の名家と肩を並るに足らず」(註釈20)とある部分である。読み比べてみると後者のほうが正成を高く位置づけているのは明白である。

また、『文明』第一章には、「今、人民同権の新説を述る者あれば、古風家の人はこれを聞きて忽ち合衆政治の論と視做し、今、我日本にて合衆政治の論を主張せば我国体を如何せんといい」(註釈21)という部分があるが、これは明らかに『学問』七編への批判が念頭にある。八月二九日の久保豊之進の投書によって、さらなる説明の必要を感じたのであろうか、その無理解への回答として、第二章「西洋の文明を目的とする事」の中では、君主の血統を守ることと、政治体制(政統)を時代に応じて変革することはまったく別のことであるから、天皇のもとに日本人が日本政府を維持する限り、国体は護持されているといってよい、と述べている(註釈22)

進藤によれば、三月に書かれた草稿B(No.2)の第二章相当分は、全集では一九頁四行目までで、今述べた血統と政統に関する部分は、九月二十日の日付をもつ草稿E(No.12)で始めて完成された形で現れる(註釈23)。また、九月から十月にかけて書かれた草稿E(No.12,13,14,15)は、『文明』緒言及び第一章から第七章までを含んでいるのであるが、そのうち第二章までに相当するNo.12は、その前段階である草稿CのNo.5の二倍強の文章量になっている(註釈24)、という。草稿Cは七月頃の分と推測できることから、九月になって大幅加筆がなされたということになる。

明治七年の夏に、福沢は楠公権助論を批判され、また共和主義者という言いがかりをつけられて、『文明』の草稿はどんどん増加していったのである。

六 『文明』第八・九・十章を年明けに執筆する――明治八年一月から二月――

夏以降『文明』の増補に手間取っていたためか、『学問』は七月刊行の十一編の次は、ともに十二月刊の十二編「演説の法を勧むるの説、人の品行は高尚ならざるべからざるの論」・十三編「怨望の人間に害あるを論ず」まで五カ月間中断している。十二編以降『文明』との内容的連関が希薄になっていることは、すでに指摘した通りである。

ところで、『文明論之概略』のタイトルが、当初は『文明論』だけであったことは、梗概が「文明論プラン」と題されていたことからもはっきりしている。中井信彦と戸沢行夫は、「本書の書名は、もと単に『文明論』であった。草稿のうちで『文明論之概略』と書かれているのは、一月十八日に始まる日付のあるNo.11が最初で、それに続いて作られたNo.15・No.10も同様である。そして、それに先立って作られた整理稿であるNo.12・13・14・15はみな「文明論」と書かれたあとで「之概略」の三字が補われている。従って、書名の変更は、No.12・No.13の合綴が行われたと覚しい七年九月からNo.11が作られた八年正月までの間に行われたと推測されるが、それ以上に時期を限定する手掛りは今のところ得られていない」(註釈25)と述べている。

本論文の一にも再掲している戸沢行夫作成の一覧表「『文明論之概略』の自筆草稿と執筆過程」(註釈26)とこの記述を照らし合わせてみると、草稿Eまでの『文明論』という表題が、草稿F以降『文明論之概略』となったことが分かる。草稿EのNo.14,15に日付が入っていないため題の変更時期は十月以降としか言えないものの、その変更理由については推測が可能である。要するに、第八章「西洋文明の由来」と第九章「日本文明の由来」、そして第十章「自国の独立を論ず」を書き加えることになって、「論」に留まらない歴史的過程の要素が大きくなったため、「概略」を付けたと考えられるのである。

すでに「文明論プラン」にも、ごく大まかに、第八章・第九章に相当する「英は英、魯は魯、足利北条皆時代の人智相応の政を為せり」(註釈27)という記述があるが、その程度の内容ならばすでに第七章以前に含まれている。大部の西洋文明史と日本文明史をここで増補した理由は、想定される読者が、『文明』一冊だけで、その発達史の全体像を理解できるようにするためなのであろう。

第八章の執筆期間は明治八年二月三日から五日、第九章は五日から二十一日とされているが、ギゾーの文明史の要約とはいえ、第八章はいかにも短い期間のうちに書かれている。ギゾーは慶應義塾本科で教科書として使われていて、明治七年頃まで福沢の他小幡篤次郎が担当した、という須田辰次郎の証言がある(註釈28)。『文明』「緒言」中の小幡への謝辞は並々ならないものであるのだが、あるいはこの第八章の執筆にあたって、何らかの貢献があったのかもしれない。

第九章については、慶應義塾には日本史の授業科目がなかったこともあり、福沢が自らの知識を駆使して書き上げたと見るのが適切である。問題は第八・九章に先立つ一月十八日から二月二日にかけて書かれたとされる第十章「自国の独立を論ず」の内容である。

この『文明』全十章の内九章までは、西洋文明を目的として政治体制の変革を推進することが日本にとっての緊急の課題で、そのために中産階級は自らを政治の主体としてしっかりと自覚し、もって人民を正しく導かなければならない、という内容をもつと整理可能である。ところがそれだけではこぼれ落ちてしまう重要な部分がある。それが最終章「自国の独立を論ず」であるが、この章は、西欧諸国に蚕食されているアジアの立場から書かれているため、当然にギゾーやバックルの著作にその由来を求めることはできない。しかもその主張は相当に鮮烈で、愛国心(報国心)を自国至上主義の発露と捉えたうえで、自国の独立のためにはそうした心情をもつことも大切なことだ、と一見すると福沢らしからぬ見解が表明されている。

戸沢はこの章の要素はすでに「文明論プラン」中に見いだせる(註釈29)と述べているが、論者としてはその事実を確認することはできなかった。そもそも「文明論プラン」には、独立・愛国・報国といった用語が一度も使われていないのである。

第九章までで十分に完結しているにもかかわらず、この第十章があるために、全体を整合的に理解するのが容易でなくなっている。最終章に至るまで、西洋の文明が目的である、というつもりで読んでくると、第十章に、「今の日本国人を文明に進るは、この国の独立を保たんがためのみ。故に、国の独立は目的なり、国民の文明はこの目的に達するの術なり」(註釈30)などという言葉が出てきて戸惑ってしまう。文明は目的なのかそれとも手段なのか、手段だとするなら国の独立と個人の自由とはどのような関係にあるのか、説明はしっかりついていないように感じられる。

なぜ第十章は執筆されたのか、この問題は重要と思われるので、節を改めて論じることにする。

七 『文明』第十章「自国の独立を論ず」はなぜ書かれたのか――明治八年一月――

最終章に至って突然愛国心が重視されていることについての違和感は、多くの『文明』の読者に共通した感想のようで、小泉信三は、「合理主義の哲学の眼から見ると、先生自身の愛国心というものは説明出来ない。そこで先生はこれは公道に外れたものである。しかし外れておっても構わないと言われる。ここにおいて、先生の著作の中には屡々猛烈な色彩をもって、イルラショナリズムの思想が現れて来るのであります」(註釈31)と述べている。

つまり諭吉の内面にもともとあった愛国心がここにきてあふれ出ている、ということで、こうした主張は西洋崇拝者としての福沢という見方しかできない人々には意外の感があろう。とはいえ本論文ではその愛国心の由来に立ち入ることはせずに、明治八年の年も明けてから急に第十章を付け加える気になった動機について考察を進めることにする。

明治七年から八年にかけての年末年始は、『文明』執筆に掛かりきりで手紙さえ書く暇がなかったのか、長沼事件に関して千葉県令柴原和に宛てて書いた明治七年十二月二五日付書簡の次は、脱稿してから出かけた日光見物の途中、束原熊次郎なる人物に面会を求める明治八年四月十八日付の手紙まで、約四カ月もの空白期間がある。

そこで十二月以前について調べてみると、参考になりそうなものとして、「読余贅評六号」掲載の礼状として書かれた明治七年十一月六日付大槻磐渓宛書簡一七五が見つかった。そこでは、磐渓の弁護論を、「頗る吾意を獲たるものなり」と評価したうえ、さらに「今の新聞投書家之如きハ、自分にても必ず世を憂るの心得なるへしと雖とも、其実ハ世に憂らるる者なり。何とかして此輩の議論を今一段高尚之域ニ導候様いたし度」(註釈32)と述べている。この部分が『文明』改訂の抱負を語っているのかについては速断はできないが、この時期に、第七章までほぼ書き上げられ、表題が『文明論』から『文明論之概略』へと変更されつつ、残り三章の増補の準備が行われようとしていたのは事実である。

国を憂える憂国者こそ実は国を憂えさせる、ということが書かれた磐渓宛書簡の指し示すことは意味深長である。幕末期、幕臣であった福沢は外国方に所属して外国公館から持ち込まれる案件の処理に大わらわであったのだが、それらの多くは、尊王攘夷派が仕掛けた攘夷事件の被害にあった外国公館からの、幕府の責任を問う苦情の数々だった。文久二年(一八六二)年八月の生麦事件は、翌文久三年七月の薩英戦争を、同年五月の長州藩による関門海峡での攘夷実行は、翌元治元年八月の英米仏蘭四国連合艦隊の下関砲撃事件を、それぞれ引き起こしていた。

この二度にわたる外国との交戦が大規模な戦争にまで発展しなかったのは、偶然にすぎない。現実には、これらの小規模の戦争は長州・薩摩が英国と手を結ぶきっかけとなったのであるが、それは尊王攘夷派がもともと目指したことではなかったはずである。

インド独立戦争は、薩英戦争のわずか五年前の出来事であった。結果としてムガール帝国は滅亡し、インドは独立を失ったが、それと同じ運命を日本がたどらなかったのは、まさに運がよかった、としか言いようがない。明治維新により政府が交代したとはいえ、それは日本の国内的な事象にすぎず、諸外国としては、もとの尊王攘夷派が考えを改めて明治政府を新たに組織した、といった程度の認識しかなかった。征韓論の結果、日本政府が分裂したことをじっと見守っていた諸外国は、国論が再び攘夷へと傾くのを見取ったなら、容赦なく攻撃を仕掛けてくるだろう。それが明治七年にあっての福沢の情勢分析である。

しかも先にも少し触れたように、明治七年は、近代日本初の軍の海外遠征が進行中であった。同年四月、わずか半年前に征韓論をはねつけた大久保利通は、軍事力などあって無きがごとしの台湾への出兵を決定、翌五月、西郷従道中将率いる征台軍三千が台湾に到着して掃討を開始した。彼らが東京に凱旋するのは、明治七年十二月二七日のことである。福沢が第十章を書いていたのは、日本軍の初めての海外派遣で、民衆が戦勝に沸いていた、そんな世相下なのであった。

台湾を清国領と認めた上で、沖縄の漁民を虐殺した現地人を懲罰する、というのが台湾征討の名目であった。これは日本の清国への侵略の意図をあらかじめ否定するためだが、諸外国はそのようには見なかった。彼らは、日本が国力を貯えれば、いずれは台湾や清国本土を侵すに違いない、との懸念を強めたのである。福沢は征韓論はもとより台湾征討にも反対していた。そうすることが諸外国の疑いを深める結果となることを、福沢はよく知っていたからである。

こうした政治情勢を考慮に入れるならば、第十章執筆の動機も、自ずと見えてこよう。「詞」でも触れられていたように、福沢は明治六年十月の征韓論の破裂までは、日本にも順調に文明主義が根づきつつある、という考えをもっていた。そのため『学問』初編(明治五年二月刊)結論部における報国心(愛国心)の唱導はもはや不必要との考えだったのだが、征韓論以後の急速な逆コースによって、状況は明治四年の段階にまで戻っていたのである。この第十章で、福沢が、商品製造と貿易によって経済力を高めることが独立した文明国へと至る最短の経路である、と三年前の『学問』初編と同じ主張を繰り返しているのは、野放図な軍備増強による国威発揚に警鐘を鳴らすためと推測できる。

『学問』初編は、「人誰か苛政を好みて良政を悪む者あらん、誰か本国の富強を祈らざる者あらん、誰か外国の侮を甘んずる者あらん、これ即ち人たる者の常の情なり。今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦すほどの心配あるにあらず」(註釈33)というところで終わっている。この真の報国心への期待は、『文明』第十章における、「政府よく人民を保護し、人民よく商売を勤め、政府よく戦い、人民よく利を得れば、之を富国強兵と称し、其国民の自から誇るは勿論、他国の人も之を羨み、其富国強兵に倣はんとして勉強するは何ぞや」(註釈34)、という問いかけに、それは「世界の勢」で、「止むを得ざるもの」であるから、「自国の権義を伸ばし、自国の民を富まし、自国の智徳を修め、自国の名誉を燿かさんとして勉強する者を、報国の民と称し、其心を名けて報国心と云う」(註釈35)との答えで報国心を定義づけたうえで、その報国心を国民が養うことは何より重要なことだ、とする中産階級の読者への呼びかけと、正確な対応関係にあるのである。

おわりに

以上、『学問』各編と『文明』各章の相関関係を見てきたが、相当に煩雑なこともあり、次に本論文で明らかになったその関係をもう一度整理しておきたい。

『文明』第一章一一頁一四行目から一二頁一一行目は、『学問』二編人民同権論への応答。

『文明』第二章一六頁八行目から二三頁一五行目は、『学問』四編学者職分論の敷衍。

『文明』第三章四一頁二行目から四三頁九行目は、『学問』五編冒頭部文明精神論の敷衍。

『文明』第四章六三頁三行目から六五頁八行目は、『学問』七編楠公権助論への応答。

『文明』第五章七九頁一五行目から八一頁三行目は、『学問』七編国民職分論の敷衍。

『文明』第六章一一二頁一二行目から一一四頁一〇行目は、『学問』十一編偽君子論と同じ。

『文明』第七章一二七頁一〇行目から一三三頁九行目は、『学問』六編法令遵守論と同じ。

『文明』第八章はギゾーのヨーロッパ文明史の翻案であるため、『学問』に対応部なし。

『文明』第九章は福沢の日本文明史であるが、それは『学問』七編国民国家論の反対物として提示。

『文明』第十章一九〇頁六行目から一九二頁四行目は、『学問』初編結論部報国論と同じ。

六にも書いたように、『文明』第十章の自国の独立に関する記述は「文明論プラン」にはまったくなく、書名が『文明論』から『文明論之概略』へと切り替えられた明治七年十月以降に、新たに盛り込まれることになった主題のようである。『文明』の最後に至ってこのような変更が行われた理由としては、一つには、楠公権助論批判の過程で、旧尊王攘夷派に連なる人々が文明の本質を相変わらず理解していないことが明らかとなったこと、二つには、彼らの愛国的活動が、かえって日本の独立を脅かす危険のあることを、さらに強調するにしくはないことがはっきりしたこと、そして三つには、日本のアジアへの進出が招来する西洋諸国の疑念は、最終的には日本の独立を脅かす危険があることを警告する義務感が生じたこと、などが考えられる。

(註釈1)
「福沢全集緒言」『福沢諭吉全集』(以下単に全集と表記)第一巻六〇頁。
(註釈2)
全集第三巻五七頁。引用文中の表記は適宜改めることにする。
(註釈3)
「(表)『文明論之概略』の自筆草稿と執筆過程」『福沢諭吉著作集』第四巻三五〇~三五一頁掲載。
(註釈4)
この換算は、進藤咲子『「文明論之概略」草稿の考察』(二〇〇〇年・福沢諭吉協会発行・非売品)第一篇「草稿の形態について」より、草稿A・Bに含まれる綴りNo.1,2,3,6,7の、一行文字数×一丁当たり行数×総丁数の和によって求めた。
(註釈5)
全集第三巻九五頁。
(註釈6)
石河幹明『福沢諭吉伝』第二巻三三七頁。
(註釈7)
『福沢諭吉研究資料集成同時代編』第一巻(一九九八年、大空社刊)一〇三頁。
(註釈8)
『福沢諭吉研究資料集成同時代編』第一巻一〇四~一一一頁。
(註釈9)
『福沢諭吉研究資料集成同時代編』第一巻一一二~一一三頁。
(註釈10)
『福沢諭吉研究資料集成同時代編』第一巻一一四~一一五頁。
(註釈11)
『「文明論之概略」草稿の考察』六〇~六一頁。
(註釈12)
『「文明論之概略」草稿の考察』六一頁。
(註釈13)
『「文明論之概略」草稿の考察』六八頁。
(註釈14)
尾佐竹猛『明治秘史疑獄難獄』(一九二九年、一元社刊)一三七~一五〇頁「非常上告の始め山科生幹一件」
(註釈15)
『「文明論之概略」草稿の考察』一五〇頁。
(註釈16)
『「文明論之概略」草稿の考察』一四九頁。
(註釈17)
『福沢諭吉研究資料集成同時代編』第一巻一二〇~一二二頁。
(註釈18)
全集第一巻三八~四七頁。
(註釈19)
『「文明論之概略」草稿の考察』一一一頁。
(註釈20)
全集第四巻六四頁。
(註釈21)
全集第四巻一一頁。
(註釈22)
全集第四巻三〇~三三頁。
(註釈23)
『「文明論之概略」草稿の考察』六二~七〇頁。
(註釈24)
『「文明論之概略」草稿の考察』三三頁。
(註釈25)
中井信彦・戸沢行夫「『文明論之概略』の自筆草稿について」『福沢諭吉年鑑』第二号(一九七五年、福沢協会刊)四九頁。
(註釈26)
『福沢諭吉著作集』第四巻(二〇〇二年、慶應義塾大学出版会刊)三五〇~三五一頁。
(註釈27)
『福沢諭吉書簡集』第一巻(二〇〇一年、岩波書店刊)四〇七頁。
(註釈28)
西沢直子「小幡篤次郎考Ⅱー慶應義塾教職員としてー」『近代日本研究』第一八号(二〇〇二年)二三八頁。
(註釈29)
戸沢行夫「解説」『福沢諭吉著作集』第四巻三五三頁。
(註釈30)
全集第四巻二〇七頁。
(註釈31)
「福沢先生の国家及び社会観」『小泉信三全集』第二一巻(一九六八年、文藝春秋刊)三六八頁。
(註釈32)
『福沢諭吉書簡集』第一巻三一四頁。
(註釈33)
全集第三巻三四頁。
(註釈34)
全集第四巻一九〇頁。
(註釈35)
全集第四巻一九一頁。

付記

議論の関係上、本論文では拙著『福澤諭吉ー文明の政治には六つの要訣あり』(二〇〇八年、ミネルヴァ書房刊)の記述を、とくに断ることをせずに使用している。また、本稿成立にあたり貴重なコメントを寄せてくださった西川俊作氏に感謝の意を表する。