「福沢諭吉は『アジア侵略論』者と言われたら」

2013-10-28

この文章について

雑誌『諸君』38巻2号64頁(2006年)に掲載され、後に中嶋嶺雄編『歴史の嘘を見破る――日中近現代史の争点35―』(文春新書、2006年)の34頁に掲載されることとなった論説「福沢諭吉は『アジア侵略論』者と言われたら」の全文です。

『歴史の嘘を見破る』についてもご覧ください。

当該記事について言及しているブログ等は以下の通りです。

本文

福沢諭吉は『アジア侵略論』者と言われたら

平山 洋

中国人の研究者、やや早口の中国語で。

「福沢諭吉は確かに日本の近代化には貢献したかもしれない。しかしアジアに対してはどうか? 日清戦争に積極的に荷担し、多数の論説を書いたではないか。また、「脱亜論」などアジア蔑視の論説もある。一九三〇年代の日本による侵略の原因も福沢にある」。

 中国人研究者による福沢諭吉批判のパターンは常に同じである。例外はない、といってよい。二〇〇五年の五月、私は自著『福沢諭吉の真実』(文春新書)が、在日中国人向けの週刊新聞『中文導報』で紹介されているのを知った(五月一二日付)。李長声による「一万円札の福沢諭吉」というその記事がそれだ。年間七百タイトルほども出される新書のうちで、とくに拙著が取り上げられたのは、まずは光栄というところであろう。

 とはいえ、内容はかなりの辛口である。李は、二十年ぶりに刷新された日本の紙幣のうち、最高額面の一万円札だけが福沢諭吉のままであったことから話を始める。そして次のように続ける。「福沢諭吉とは近代日本における最大の啓蒙思想家であり、日本人は彼の啓蒙思想によってアジアを蔑視し、膨張に熱中することになった」と。

 ああ、と私は思う。また同じだ。多分その後には、日清戦争時に多数の戦争扇動論説を執筆し、その中には、「チャンチャン」とか「豚尾児」といった蔑視表現を含んだものがある、と続くだろう。この記事も、果たしてその通りであった。

 本を書くにあたって調べてみるまで、私は、中国人による福沢批判の声の大きさに惑わされて、その主張にほとんど多様性がない、ということに、うかつにも気づいていなかった。彼らが独自に福沢の思想を分析し、歴史的に位置づけたうえで、福沢を批判していると思いこんでいたのだ。しかし今でははっきりこういうことができる。彼ら中国の福沢批判者は、彼の思想を実際に読んでいるわけではなく、ごくわずかだけ中国語訳されている、日本の福沢研究論文の骨子を、中国語で叫んでいるだけなのである。

 彼らが下敷きにしているのは、服部之総・遠山茂樹・安川寿之輔らの研究である。それ以外の、福沢を「市民的自由主義者」として肯定的に評価する丸山真男らの論文が出発点となることはない。そして、私の本は、福沢を「侵略的絶対主義者」と見なす服部・遠山・安川らの立論にとって、はなはだ都合の悪いものである。なぜなら、彼らが福沢の侵略主義の証拠として挙げている論説そのものが、福沢とほとんど関係がない、と言っているからだ。

 あまりにも突拍子のない主張なので、にわかには信じがたい、というのが、おおかたの反応だろう。私も最初は自分の発見に落とし穴があるのではないかと、何度も調べなおしたほどだ。だが、今でははっきり言える。アジア侵略者、アジア蔑視者という福沢像には、根拠がない。

 現行版『福沢諭吉全集』(岩波書店・一九五八~六四年)は、全二一巻別巻一巻で構成されている。そのうち福沢諭吉名で発表された著作は第七巻までにすぎない。第八巻から第一六巻までは、福沢が所有していた新聞『時事新報』の社説等で、大部分が無署名論説である。第一七、一八巻が書簡集で、残りは福沢関係資料である。

 そこで、中国人研究者が福沢批判に用いる論説はいつも同じである。福沢の代表作である『学問のすすめ』(一八七二~七六年)や、『文明論之概略』(一八七五年)が使われることはない。かわりに『時事新報』掲載の、「朝鮮独立党の処刑」、「脱亜論」、「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(以上一八八五年)、「日清の戦争は文野の戦争なり」(一八九四年)、「台湾の騒動」、「先ず大方針を定む可し」(以上一八九六年)などが、福沢のアジア蔑視・侵略主義の証拠とされている。

 しかしこれらは、現行版全集の前身の一つである昭和版『続福沢全集』(岩波書店・一九三三~三四年)に、はじめて収められた無署名論説にすぎない。それまでは古新聞の山の中に埋もれていた『時事新報』社説なのである。掲載された当日の紙面を目にした読者しか読むことのできなかったこれらの論説が、満州事変(一九三一年)に始まるアジア侵略の原動力になるはずがないであろう。

 二〇〇五年八月に中国語版が出たため、ますます福沢批判のネタ本化している安川寿之輔の『福沢諭吉のアジア認識』(高文研・二〇〇〇年)は、現行版全集の中から侵略主義やアジア蔑視と見なしうる表現を抜き出した資料篇を巻末に備えている。そこで、「アジアへの侮蔑・偏見・マイナス評価」と判定された民族偏見は七九例あるが、そのうち第七巻までのものはわずかに六例である。署名著作にも書簡にも、「チャンチャン」や「豚尾児」の用例はない。そもそもアジア蔑視を戒める福沢自身の演説が残っているのだ。

 また、侵略主義については、署名著作『通俗国権論』(一八七八年)の第七章「外戦止むを得ざる事」が指摘されることがあるが、ここには、祖国防衛戦争について、その不可避性が述べられているだけである。日清戦争中の九四、九五年には署名著作はなく、戦後刊行の『福翁百話』(一八九七年)、『福沢先生浮世談』、『修業立志編』(ともに一八九八年)、『福翁自伝』、『女大学評論・新女大学』(ともに一八九九年)などに、そうした要素はない。つまり署名著作には侵略主義を唱えたものはないのである。もし福沢の思想的主題がアジア侵略主義にあったとしたら、日清戦争後の国威高揚期に、そのことを唱える署名著作がただの一冊もない、というのは不自然なことではなかろうか。

 私の見るところでは、福沢の生涯は文明主義の唱導に極まっている。それは、文明政治の六条件とでもいうべきものを、日本に、また全世界に広げることである。文明政治の六条件とは、①個人の自由尊重、②信教の自由、③科学技術の振興、④教育の推進、⑤産業育成のための政治、⑥国民福祉の充実、の六つである。福沢は『西洋事情』(一八六六年)で最初にこの六条件を提示し、以後の署名著作のテーマは、必ずこのいずれかである。

 先にも触れたように、福沢は一八八二年創刊の『時事新報』に多数の論説を執筆したが、それらを自身の編纂による明治版『福沢全集』(一八九八年)に収めることをしなかった。現行版には九巻もの「時事新報論集」があるが、それらを採録したのは、『時事新報』の論説担当石河幹明(一八五九~一九四三年)であった。彼は、慶應義塾から依頼された『福沢諭吉伝』(一九三二年)と、現行版全集の前身である大正版『福沢全集』(一九二五~二六年)と昭和版『続福沢全集』の編者であったのである。

 石河は福沢自筆の原稿が残存している論説を集めたわけではなかった。大正版所収二二四編は時事新報社備付のスクラップブックから、昭和版所収千二百編余は直接紙面にあたって、選択したのである。福沢以外の執筆者がいたことは、現行版全集の「時事新報論集」の「後記」にも明言されている。比較文学者の井田進也が開発した方法によって、それらの論説の本当の筆者が誰であったかが明らかになりつつある。社説は、福沢と、他に常時三名いた論説委員の持ち回りで書かれていたのであった。

 もちろん全集編者である石河は、自分が選択した社説は全て、福沢直筆か、福沢の意を受けて論説委員が執筆したもの、と主張している。しかし、それを裏付ける証拠は存在しない。私の判定では、先の六編のうち、一八八五年発表の三編は福沢、残りの三編は石河である。「脱亜論」は本物ということになるが、それはアジア蔑視や侵略主義ではなく、文明政治の立場から、当時の清国・朝鮮国の政府を批判したものである、と私は考える。

 李長声は先の記事で、日清戦争時に掲載された多数の社説が、現行版全集に収められていることを以て、福沢の戦争荷担の証拠としている。しかしこれは、戦時に多数の戦争関連の論説が紙面に掲載された、という当然の事実を証しているにすぎない。そのうち実際に確認できる福沢直筆の論説はごくわずかである(二八四編中六編程度)。もちろん、直筆以外のものも、福沢が書くように指示した可能性はある。それは何ともいえない。この点を衝いて、李は私の本を批判する。「福沢自身の思想に背馳する文章は、発表されるはずがない」と。が、ここで李が挙げる根拠は、一切が石河の言葉に由来しているのである。

考えてもみてほしい。多数の日清戦争関連論説の存在からは、満州事変後の時局に合った論説を、石河が『続福沢全集』に収めた、ということが分かるだけだ。左翼の服部・遠山・安川らは、石河の伝記と、時局迎合としか思えないこの全集を真に受けて、戦後に福沢批判を展開したのであった。そして現在我々が耳にする中国人の福沢批判は、李長声の記事を含めて、じつに彼らの主張の範囲を一歩も超えてはいないのである。

 一八九五年、広州で最初の武装蜂起を図って失敗し、清国から追われる身となった孫文は、九七年九月に横浜を亡命地に選んだ。その孫文を助けた日本人の中に、福沢の愛弟子犬養毅(一八五五~一九三二年)がいた。福沢自身が孫文を知っていた形跡はないが、孫文の主張は、中華思想を除いておおむね文明政治の六条件と合致していたから、もし知っていたなら、朝鮮の革命家金玉均らの場合と同様に、熱心に支援したであろう。(終)