福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?

last updated: 2010-11-14

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以下は、2010年3月発行の静岡県立大学国際関係学部紀要『国際関係・比較文化研究』第8巻第2号(190~214頁)に掲載の論考「福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?」の全文です。 掲載にあたり、平山氏からの指示によって、一部漢数字を算用数字に替えるなど変更が加えられています。

なお、このページにリンクしているウェブサイトを以下に列挙します。

2010-05-30
東都アロエ : 諭吉の公金横領疑惑はえん罪?

福沢諭吉は公金一万五千ドルを横領したか?

一 福沢諭吉が謹慎処分を受けることになった四つの理由

慶應三(一八六七)年の第二回アメリカ派遣での不手際の責めを問われて、福沢諭吉が登城差し止め処分を受けたことはよく知られている。その事実については、まず明治三二(一八九九)年刊の『福翁自伝』「再度米国行」の章「謹慎を命ぜらる」の節中に、(一)幕府向けの洋書選定を断るなど上司小野友五郎への不服従、という理由が示されている。その後、昭和七(一九三二)年刊の石河幹明著『福澤諭吉伝』第一三編「第二回の米国行」第二「委員長小野との衝突」(第一巻四九七頁以下)では、福沢が幕府勘定所に提出した弁明書(現行版全集第二〇巻一五頁)に基づき、すでに知られていたこの理由(一)に加えて、(二)サンフランシスコで雇用した英国人下役に五百ドルを持ち逃げされたことへの監督責任を問われたことも処分の理由の一つだった、とされている。その後、昭和三九(一九六四)年刊行の現行版全集第二一巻に新収録された「アメリカ出張中の福沢に対する弾劾の一件書類」(以下「弾劾一件」と略・二八三頁以降)により、さらに次の二点が処分の理由として付け加えられた。すなわち、(三)福沢がニューヨークで買い付けた大量の書籍を公費で運送したことによる不適切流用、および(四)国内で組んだ為替のドルへの換金に手間取るという公務上の不手際、である。

以上四点が現行版全集所収の書類等から読みとれる処分の理由の全てである。ところがどうしたことか、近年になって、福沢諭吉はこの第二回米国行時に公金約一万五千ドルを横領していたのだ、という噂が広まっている。たとえば、平成一八(二〇〇六)年刊行の中村彰彦・山内昌之共著『黒船以降-政治家と官僚の条件』(平成二一年・中公文庫版)には、滞米中のこととして、

では、福沢は何をしていたかというと、公費でやたらと洋書を買い付けていた。それが膨大な金額になり、明らかに私用で買ったとしか思えない本もあった。それを咎められると、「では、私の金で卸値で買い付けますから、定価との差額をください」なんていう。これもまた藤井哲博さんの研究によると、どうやら一万五千ドルほど、懐に入れてしまったそうです。(二六五頁)

とある。

この中村彰彦の発言については、まず何より、福沢が洋書の買い付けに使った資金に関する事実誤認がある。というのも、福沢の洋書購入は全て自ら持参してきた費用による払いで、上司の小野に差額(コミッション)を要求するという暴言を吐いたのも、幕府の公費による購入代行の依頼を断るのが目的だったのである。もちろんそれより重要なのは、ここで語られている一万五千ドル横領の嫌疑のほうで、発言者の中村は、昭和六〇(一九八五)年刊行の藤井哲博著『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』(以下『小野友五郎』と略・中公新書)を用いてその疑惑について紹介している。福沢諭吉による公金一万五千ドル横領の容疑が語られる場合、その出典として挙げられているのはこの一書だけなので、横領疑惑の真相に迫るために、次にその内容を検討することにしたい。

二 福沢公金横領疑惑は、藤井哲博の著書『小野友五郎の生涯』に起源をもつ

第二回米国行での福沢本来の任務は、アメリカ海軍から買い付けた軍艦の引き渡しを受ける小野友五郎ら受取委員団に随行して、その通訳を務めることだった。ただ、福沢としてもおそらく二度とない機会ということで、公務ばかりではなく、自分の塾のためや、和歌山藩・中津藩から依頼された洋書の購入、また仙台藩から頼まれたライフル銃購入などの私的用務も、かねてより渡米中に果たすつもりであった。

洋書やライフル銃購入のために持参した資金についてはきちんと管理されていて、仙台藩依頼の買い物については、持ち帰った荷物の内容が支払った金額にほぼ見合っていることが確認されている。(注1)つまり福沢が一万五千ドルを横領したとするなら、それは中津・和歌山・仙台三藩より委託された資金のことではなく、幕府の公金についてと見なければならない。そのことを念頭に置いた上で、『小野友五郎』の問題の箇所(一二一頁)を参照すると、福沢が謹慎を解除されたときの経緯を扱った部分のすぐ後に、次のようにある。

当時、同僚の誼みをもって事件の解決に奔走した福地源一郎(外国奉行支配調役並格・通弁御用頭取助)が、明治になって証言したところによると、福沢自身が、福地の問いに答えて、幕府の買上げ品の手形払いのなかに個人の買い物代一万三千ドルをもぐりこませ、それに私物運賃を公金払いとした分、両替の際、為替差金を私した分、および物品買上げの際、商人からとったコミッションを加えると、合計約一万五千ドルを利得したと正直に告白していたという(『福沢諭吉公金使込に関する件』)。一万五千ドルといえば、ダールグレン砲二台分の金額である。決して小さな金額ではない。

まことに具体的、かつ、もっともらしい記述である。その手口とは、幕府の買い上げ品を手形払いとしたときに、私物買入品を幕府購入と偽った分が一万三千ドル、それに私物運賃分と為替差益分、さらに商人からのコミッションを合わせて二千ドルで、締めて一万五千ドルということである。その根拠は、『福沢諭吉公金使込に関する件』(以下『公金使込』と略)なる文献に記されているというのであるが、巻末の「主なる参考文献」に、その題名の本は見られない。そこに掲げられている刊行書すべてに目を通したが、当てはまる内容を含む書籍はなかった。

いったいどういう文献なのか、「福沢諭吉」に加えて「公金横領」や「使い込み」といった検索語を使って国立国会図書館や大学図書館の蔵書目録を検索してみたが、該当する書籍にはあたらなかった。そこで範囲を広げて、この引用部に出ている福地源一郎が書いた『幕末政治家』、『幕府衰亡論』等入手可能な著作をある限り調べたが、福沢が公金を横領した旨の記述を含む章や節を発見することはできなかった。さらに「証言」とあることに注目した中西晴代氏(静岡県立大学図書館司書)より、それが福地の受けたインタビューの記録かもしれぬこと、また、実際に明治文学者の証言集『唾玉集』(東洋文庫五九二)中に福地のものがあることを教えられて、その証言を調べてみたが、福沢に関しては、維新前に一緒に書生をしていた、という一行を発見できただけだった。

この『唾玉集』に収められている証言は、もとは明治三〇(一八九七)年から翌年にかけて刊行されていた短編小説雑誌『新著月刊』のシリーズ企画「作者苦心談」を単行本化したものである。単行本にするにあたり証言に削除がなされている可能性もあったので、明治三〇年一二月三日刊行の第一〇号(一六四頁以降)掲載の初出にあたってみたが、その内容は単行本収録の証言とまったく同一であった。単行本化されていないとすると、福地はもと東京日日新聞の主宰者であったことから、膨大な分量の新聞記事や論説のどこかに、『公金使込』があるとも考えられた。しかしそれでは調査範囲が広がりすぎてしまって、探求は不可能である。せめて藤井がその所蔵者を記載していれば手繰ることもできたのだが、そのヒントもない。

福沢諭吉の公金横領疑惑、という重大問題の証拠となる書籍または文献の所在を、福地源一郎という関係者の方向から探す試みはこうして頓挫した。そこで再び『小野友五郎』巻末の「主なる参照文献」を見直すと、小野本人に由来する非刊行の資料が、子孫の小野清なる人物の所蔵となっている。小野友五郎は、もと常陸国笠間(現茨城県笠間市)の牧野家の家来で、後に幕臣となったため、小野家には笠間系小野氏と東京系小野氏があるのだが、そのうち東京系の子孫が刊行当時広島県に居住していた小野清なのだった。

藤井が小野友五郎の調査をしていたのは今から二〇年以上も前のことであり、現在それらの資料がどのようになっているのか、知るすべはなかった。そうではあれ、既刊行の参照文献は調べ尽くした以上、非刊行の文献を調査対象にする以外にない。そこで「小野友五郎」と「資料」でネット検索したところ、「東京府日本橋区小野友五郎家文書仮目録」なる、広島県立文書館所蔵資料の目録が見つかった。(注2)広島の小野家が寄贈した友五郎関係の資料の目録がアップロードされていたのである。さらにその目録を「福地源一郎」および「福沢諭吉」で検索すると、福地についてはヒットしなかったが、福沢については「亜米利加国江召連候外国奉行支配調役格翻訳方福沢諭吉勤方之儀御聴置候書付」(資料五八六)という慶應三(一八六七)年七月付の文書が一件だけ抽出された。

慶應三年七月とは、帰国直後の未だ幕府が存続していた時点の文書だから、『小野友五郎』中の「福地源一郎(外国奉行支配調役並格・通弁御用頭取助)が、明治になって証言した」という内容と合致しない。また、この資料の表題は、「弾劾一件」の(その五)「亜国え召連候外国奉行支配調役格翻訳方福沢諭吉勤方の儀に付入御聴置候書付」(第二一巻二八六頁)とほぼ同じ上、提出者名も資料五八六と同じ小野と次席の松本寿太夫になっているところから、旧幕府勘定所から放出されたとされる「弾劾一件」(その五)の下書きとも推測された。なお、「弾劾一件」一一通が全集に収められることになった経緯については富田正文(全集編集代表)による以下の註が参考になる。

註 福沢が慶應三年幕府の軍艦受取委員に随行してアメリカに渡ったとき、彼地に於て委員長小野友五郎と副委員長松本寿太夫の両名と衝突し、帰朝の後に謹慎を命ぜられたことは、「福翁自伝」の中に福沢みずから詳しく記していたが(本集第七巻一三〇頁以下参照)、この一件に関し小野松本等の言い分を明らかにするのが、茲に記載する十一通の文書である。この文書は福沢家に保存せられていたもので、やや大型の白封筒に納められ、その封筒の上には福沢の長男一太郎の筆跡で「外国より書物買入れ来りし時の事情に関する書類拾壱通在中 妄に他見を許す可らず」と記され、その中にもう一つ封筒があって、その表に「幕府勘定所書類 亜州一件書類の内拾壱通 福沢家へ寄贈いたし候 明治四十三年七月十七日 生田目経徳」と記され、ここに掲げる十一通の文書が納められてあった。察するに幕府の勘定所の書類が明治の終わり頃に整理されたとき、慶應三年アメリカ行の関係書類中に、福沢が不都合を働いたというような文言を発見し、その整理事務の関係者がこれを取纏めて福沢家へ寄贈したものであろう。福沢一太郎は、事情を知らない者の目に触れて誤解を招くことを慮り、妄りに他見を禁じて秘蔵しておいたものと思われる。この文書に就いては本全集第十二巻の付録に「福沢諭吉告発に関する文書」と題する解説が載っている。また、本全集第十七巻所収三二及び三四号書簡、第十九巻所収「内外旅行記録」中の「慶應三年日記」、第二十巻所収「雑纂」の「小野友五郎松本寿太夫両人の申立に対する弁明書」等参照。(現行版全集第二一巻二八三頁)

さらに、全集第一二巻の付録「福沢諭吉告発に関する文書」(富田正文執筆・昭和三五年一〇月)には、「福沢家に保存されていた福沢諭吉関係文書は、先年一括して慶應義塾に寄託せられ、従来世に知られていなかった多くの資料が明らかとなり、それが本全集刊行の一つの契機ともなった次第であるが、今年の三月末に福沢家で意外なところから意外な文書が出て来たといって、一束の文書を私に示された」と、それが再発見されたのが昭和三五(一九六〇)年三月であったことが明らかにされている。つまり、明治四三(一九一〇)年に寄贈されてから五〇年の間、「弾劾一件」一一通は福沢家に上記の形態でそのまま保管されていたのである。

ともかく、広島県立文書館が所蔵している資料五八六と「弾劾一件」(その五)が同一であるかどうかは、実際に行ってみて確認してみなければ分からない。先に触れたように、維新前という作成の日付からいって、それに福地源一郎の証言が含まれているとは考えがたいが、他に手掛かりもない。私は広島に行くことにした。

三 「弾劾一件」は、生田目経徳が小野家から借りた書簡類だった

広島県立文書館に収蔵されている小野友五郎関係の資料は、藤井哲博が『小野友五郎』を執筆するにあたって参考にしたもので、それらを最初に整理したのも藤井だった。それなら、『公金使込』もそこに含まれていそうなものである。

そこで、文書表題中で唯一福沢の名前が含まれている資料五八六は、予想の通り全集所収の「弾劾一件」(その五)とまったく同文だった。資料冒頭の右肩に朱で「七月中申上候書付之写」とあることから、明らかに小野の手元に残された下書きである。その他思いつくかぎりの、関係がありそうな資料を見たが、公金使い込み関連の資料はもちろんのこと、文中に福沢が登場している資料さえ先の一通のみで、福地源一郎に言及している資料は一件も発見できなかった。担当の西村晃氏(広島県立文書館主任研究員)に心当たりについて尋ねてみたが、公金使い込み、福地源一郎いずれに関する資料も見た記憶はないとのことであった。さらに、明治二七(一八九四)年一月付の「住所録(小野控)」(資料六六三)には、福地はもとより福沢の名前も記載されていなかった。福沢の弟子である犬養毅や箕浦勝人らの名前はあるのに、本人の名前がないのは、維新後の小野は完全に福沢と絶交していたことの明かしであるようだ。逆に福沢が毛嫌いしていた伊藤博文や勝安房・榎本武揚・加藤弘之らの名前は最初のほうに出てくるのが興味深い。

私は当初、『小野友五郎』の記述から、福沢の不正に関する福地の証言とは、維新後に小野が福地から聞き出して記録に留めておいたものではないか、という予想を立てて広島での調査を始めたのだが、このように福地と小野の交流を示す証拠は発見できなかった。(注3)こと公金使い込みの調査に関し、広島行は全くの徒労だったのか、と思い始めていた矢先、小野友五郎ではなく、その養子熊次郎の日記(資料八二一)から、意外な人名を発見することになった。それは、「弾劾一件」を福沢家に寄贈したという生田目経徳の名前である。小野熊次郎は鉄道関係の技術者で、明治三一(一八九八)年には津軽鉄道の工事に携わっていた。その年の一〇月二九日に養父友五郎が八二歳で逝去したため、東京に戻っていたところ、翌明治三二年三月一三日に、日本橋区本銀町一丁目の小野家を生田目が訪ねてきたのである。そして九日後の三月二二日条に、次のような注目すべき記載がある。

生田目氏来たる 来り面して航海日記六冊外書類貸し与フ

さらに三月二九日条には、

生田目氏来面ニテ軍艦買入応受ノ原文書状一式二袋ニテ貸与

とある。要するに熊次郎は、生田目に養父友五郎の資料を貸していたのである。

藤井哲博は熊次郎が生田目に資料を貸したことに気づいていない。というのも、広島県立文書館に藤井が寄贈した解説「小野友五郎関係の史・資料の所在と解説-後に続く研究者のために-」(非刊行)で、藤井は「弾劾一件」を旧幕府勘定所由来のものと見なし、それを生田目が後になって入手したように述べているのである。

これら(小野友五郎関係資料・平山)は初め、全部まとめて、東京系小野氏が保存していたが、正五位追贈(大正七年・平山)の時、小野友五郎の史料が必要になり、一部鈴木昌太郎(笠間系小野氏の年長者・平山)の手に移った。それは海軍関係のもの(天文方時代のものを含む・ママ)が大部分であった。一方、幕末維新の混乱期に友五郎が入獄したため、幕府勘定所にあった彼の第二回渡米関係の日記・報告書・福沢諭吉告発書・米国交渉書類などは回収不能となった。これらは後に生田目経徳の手に渡ったが、鈴木昌太郎がこれを回収した。(生田目はこのとき福沢諭吉告発書類だけを鈴木に渡さず福沢家に寄贈した・ママ)従って鈴木昌太郎は、友七郎(熊次郎の子・平山)の保存史料のうちの幕府海軍関係分と生田目経徳から回収した史料を保存していたのである。これらは鈴木家の子孫に伝えられたが、終戦後の混乱期に鈴木正氏の代になって処分された。(処分した史料は行李に一杯分あった由・ママ)

全集では先ほど引用した富田正文による註にただ一回出てくるだけの生田目経徳を、私は、維新後大蔵省か何かの幕府引継書類から廃棄予定の「弾劾一件」を見つけだした下級職員か、すでに放出されていた書類を古本屋などで偶然発見した善意の市民だと考えていたのだが、調べてみると、国会図書館に二六冊もの著書が収められている国文学や日本史の研究者なのだった(本論考末「生田目経徳著作一覧」参照)。生田目の来歴についてはまた後に触れることにして、明治二〇年代に初等教育改革運動をしていた小野友五郎と、明治二四(一八九一)年に尋常科用の教科書『日本歴史』を編纂刊行していた生田目には、どこかで接点があったとみてよいであろう。ただし、先にも述べたように、明治二七年の「住所録(小野控)」には生田目の名前は記載されてなく、そのせいか藤井は「弾劾一件」を生田目が小野家から借りたということに気づかなかったようである。

明治三二(一八九九)年三月二二日と二九日に、生田目が小野家から友五郎の日記や書簡を借り出して、一一年後の明治四三(一九一〇)年七月一七日にその内の「弾劾一件」一一通を福沢家に寄贈した、という事実はこうしてはっきりしたが、問題はなぜそのようなことをしたのか、ということである。小野熊次郎は日記にその理由を記していないので断言はできないが、後に寄贈した動機はともかくも、拝借の口実についてはある程度まで推測できる。それは、『福翁自伝』が、明治三一年七月一日から翌三二年二月一六日まで時事新報紙上に連載されていたことと関係している。

友五郎自身は連載途中の明治三一年一〇月二九日に逝去したとはいえ、遺族は、自伝中で友五郎が悪く描かれていることを憤っていたに違いない。生田目は学者であったばかりではなく、春雨亭主人の名前で芝居の脚本を書くなど、一般向けの仕事もしていた。以下は私の推測になるのだが、生田目は熊次郎に、『福翁自伝』での小野の不当な扱いに関して雑誌に福沢への反論を書くつもりである、などという約束をしたか、あるいは、咸臨丸渡米談の劇化を思い立ったので、そのための参考資料にしたい、などという口実を使って、小野家から友五郎の日記その他を借りたのだと思う。

それをはっきりさせることは最早できないが、ともかく、生田目によって小野家から航海日誌等が借り出されたこと、そしてそれらの一部が一一年後に「弾劾一件」として福沢家へ持ち込まれたことは確かめられた。だが、肝心の『公金使込』は依然として正体不明のままである。その文献は一体どのようなものなのであろうか。

四 「福沢諭吉の幕府公金流用との噂についての覚書」の出現

広島まで『公金使込』を探しに行ったところ、そこで生田目経徳に関する新発見はあったものの、こと福沢が公金を横領した証拠とされるその文献そのものは、ついに見つけることはできなかった。困り果てた私は、福沢の公金横領疑惑に関する藤井の主張に反論を試みた西川俊作氏(慶應義塾大学名誉教授・元福沢協会常務理事)に、福地の証言とそれが載せられた文献の所在について尋ねることにした。その反論「慶應三年にアメリカから福沢諭吉の購入してきた図書をめぐって」は、まず『福沢諭吉年鑑』一三(昭和六一〔一九八六〕年)に掲載され、その後『福沢諭吉の横顔』(平成一〇〔一九九八〕年刊)に再録された。そこには「私は寡聞にして藤井氏が言及しておられる福地源一郎『福沢諭吉公金使込に関する件』という文書を知らない」(一〇四頁)とあるのだが、著書刊行後に藤井本人からその所在の確認をしているかもしれない、と思ったのである。

西川氏からの回答は、藤井より確認をとったわけではないが、そもそも『公金使込』なる独立の文献の実在性はきわめて疑わしい、とのことだった。この文献に関する西川氏の見解は、

藤井氏によれば、右の文書で福地は、福沢が一五、〇〇〇ドルを使い込んだと告白したと述べている由であるが、それはとうてい信じがたいことだ。福地の回想には回想に伴いがちの誤りがあるのではないか。たとえば、金額が一桁違ってはいないだろうか(海上運賃とチャールスの持ち逃げで一、五〇〇ドルになる)。このあたりは双方の資料の突き合せによって明らかにしうることであろう。(一〇五頁)

というもので、その考えに変わりはないようであった。

とはいえ藤井の記述はもっともらしく、その原型とされた福地の回想なるものだけは突き止めたいものだと考えて、福沢関係の資料に詳しい西沢直子氏(福沢研究センター准教授)に尋ねたところ、それとよく似た内容の文書を見た記憶がある、との意外な回答を得た。それは、現行版全集に未収録となっている福沢研究センター所蔵資料で、すでにマイクロフィルム化されているばかりか、その目録にも掲載されているという。

福沢研究センター編の『マイクロフィルム版福沢関係文書-福沢諭吉と慶應義塾』(平成七〔一九九五〕年三月刊)なら私も所持している。そこで改めて確認すると、西沢氏の言うとおり、「弾劾一件」の直ぐ後に、「福沢諭吉の幕府公金流用との噂についての覚書」(以下「覚書」と略・目録四七頁)なる文書の記載があった(マイクロとしての所在は、F8記録類R-2、AC.旅行記録04-21)。佐志伝氏(福沢研究センター顧問)による解説は次の通り。

巻紙墨書(163×483)。上記資料(弾劾一件のこと・平山)と関連した内容の資料であるが、出所は別であり筆者は不明である。ただし、文中「当時拙者は福沢と同役の間柄なるを以て」とあるから、慶應3年に同行した者としては外国奉行支配通弁御用出役の津田仙弥あるいは箱館奉行支配同心格通弁御用外国方御雇の尺振八があり、外国奉行支配調役次席翻訳御用の同役とすれば箕作秋坪がいる。この文書の筆者は上記三名の内の一人が、幕府崩壊後に認めた覚書であろう。全集未収録。

このように解説文中には、肝心の福地源一郎の名前がないが、ともかく公金流用の噂に関する文献ということで、さっそく慶應義塾に閲覧を求めたところ、その内容は先に引用した『小野友五郎』中の記述と正確に一致するものだった。以下でその「覚書」の全文を引用する。

福澤諭吉外国奉行へ召預の事ニ付福地源一郎へ当時の事情を尋ねたる處これは元来未表向の發表にならず幕府の秘密中に幕府は倒れたるを以て事件も自然消滅したるものなればたとへ微禄なりとも幕府に禄仕したるもの今更旧秘密を語るを欲せざれども證據書類の存するに於いては已を得ざる次第なり 当時拙者は福澤と同役の間柄なるを以て救済の策を講する為外国関係事務多端に際し翻譯方人不足の故を申立秘密に外国奉行並に小笠原壱岐守殿公用人等の間に運動尽力し一方福澤よりは別ニ木村摂津守を以て五百ドルを御勘定方へ弁償して糾明せざるべく内々頼ミ入たる等にてとにかく表向之吟味は延引せられたる間に幕府は倒れ事件も消滅したる事情なり

福澤が政府の公金を私したといふ金高は當時拙者の問に福澤自答へたる所を手扣したるによれば政府買上の書籍代二萬ドル火消道具八千ドル小銃三万四千ドル其他買上物代五千ドル見積にて政府は手形拂としたる内へ自分買物の拂壱萬三千ドル斗と表ハ用名受取として差出たる荷物運賃共政府支拂に混入し其外為替屋の為替差金商人より買上の間銀等にて大概壱万五千ドル斗利得したるものとなる由なり

見ての通り、内容はコンフィデンシャルかつスキャンダラスなもので、もしそれが真実なら大変なことである。一九八〇年代の始め頃、まだ未整理だった資料の中からこの文献を発見した藤井は、それを本物とみなし、『福沢諭吉公金使込に関する件』と名づけて要約引用したわけだが、先にも述べたとおり、なぜかその所蔵を明示していない。そこに「慶應義塾蔵」の五文字が入っていさえすれば、私としても的外れな調査をせずとも済んだのだが。それはさておき、問題はこの「覚書」を誰が書いたのか、そしてその内容の信憑性はいかばかりか、ということである。

五 「福沢諭吉の幕府公金流用との噂についての覚書」の筆者とその信憑性

この「覚書」の筆者は、「福地源一郎へ当時の事情を尋ねた」のと同じ人物である。その上で藤井の解釈は、「これは元来」以下全部を福地の告白と見なし、「覚書」筆者については、「告白していたという」(一二一頁)と、特定しないままにしている。一方「覚書」の解説を書いた佐志氏は、福沢と「同役」であった「拙者」という記述を手がかりとして、津田仙弥・尺振八・箕作秋坪の三名のうちの一人を「覚書」の筆者に比定している。

そこでこの「覚書」が、「弾劾一件」と関連した内容の書類であることは、「福沢よりは別ニ木村摂津守を以て五百ドルを御勘定方へ弁償して糾明せざるべく内々頼ミ入たる」とある内容が、「弾劾一件」(その十)と符合することから確実である(全集第二一巻二八九頁)。その内容は、木村の家来である大橋栄治が「拙者」の家来貫造と親しいため、福沢は大橋から貫造を通して、チャールスに持ち逃げされた五百ドルを返済することで、内々に済ませたいと申し出てきたが、いまさらと思って突っぱねた、というものである。

この「拙者」とは、藤井の解釈によれば福地、佐志氏の解釈によれば津田・尺・箕作のうちの誰かでなければならない。ところが、「弾劾一件」(その十)は、その出所が小野家であることを別にしても、なお客観的な証拠から、友五郎によって書かれたと証明できるのである。

従来の研究では、「弾劾一件」(その十)には宛名も差出人名が欠けているうえ、貫造の姓の部分も汚損しているため、誰が書いた手紙なのか不明とされてきた。ところがこの「拙者」の家来の貫造とは、文書館資料三五八により、小野の家来の土岐貫造のことと分かる。つまり生田目は、「弾劾一件」を福沢家に持ち込むにあたって、(その十)の出所を隠すため、わざと手紙を汚しまた切断して、福沢の家人に小野が「拙者」であるとは知られないようにしたのである。(注4)もちろん第二回米国行で、小野と福沢は、「同役」ではなく、「上司部下」の関係にあった。それゆえ、「覚書」中の、「拙者」と福沢は「同役」である、という記述は虚偽である。昭和三九年に全集に収められるまで、「弾劾一件」の中身を知っていたのは、小野本人と、生田目と、福沢家にごく近い人だけだった。それら三者のうち、「拙者」を小野から福地など別人にすり替える工作を行い得たのは、生田目一人である。そうすると、生田目と「覚書」の筆者が同一であることは、疑問の余地はないであろう。

生田目は「覚書」を書くにあたって、謹慎解除に奔走した福沢と同役の「拙者」から、告白されたとしたい訳で、その場合に筆者の想定する拙者とは、文脈からいって福地以外にはあり得ない。つまり「覚書」が想定しているのは、生田目から「弾劾一件」を見せられた福地が、「證據書類の存するに於いては已を得ざる次第」と、しぶしぶ福沢の公金横領事件の真相を証言した、という状況なのである。ところが、「拙者」はすでに、福地ではなく小野だと確認されているため、その告白の内容の信憑性も低くなってしまう。

もとより、生田目が生前の小野本人から告白を受け、「覚書」ではそれを福地に仮託して書いた、という可能性も残されてはいる。これは「覚書」の中身自体は真実であると見なす立場だが、そう想定するには無理がある。というのは、生田目と生前の小野が交流していた可能性はあったとしても、生田目が「弾劾一件」を含む資料の中身を知ったのは小野の死後で、しかもそれは、福沢家に持ち込む一〇年以上も前だということである。明治三一年に第二回米国行のくだりが紙上に掲載された時点では小野も福沢も存命だった。小野は生田目を隠れ蓑にして、公金横領疑惑の暴露により、未だ存命の福沢に打撃を与えられたのに、小野本人はそうはしていない。これは要するに、明治四三年の「弾劾一件」寄贈が、小野の意思に由来しないことを意味している。

以上のようなことを踏まえて、この「覚書」の正体を証せば、これは生田目経徳が福沢家に「弾劾一件」を持ち込む際に、その信憑性を高めるために虚構した偽作文書に他ならない。「覚書」はただの一枚紙に毛筆で書かれた文書で、書き損じも多く、いかにも怪文書っぽい体裁である。(注5)おそらく「弾劾一件」が福沢家で発見された昭和三五(一九六〇)年に同時に見つかったのであろうが、現行版全集の編纂担当の富田正文がそれを収録しなかったのは賢明であったといえる。

それからおよそ二〇年後、慶應義塾塾史資料室(後の福沢研究センター)で偶然「覚書」を発見した藤井哲博は、その中身を本物と判断し、さらに一五年後、資料のマイクロ化にあたり解説をつけた佐志伝氏は、「弾劾一件」と「出所は別」としながら、「覚書」をむげに怪文書扱いはしていない。以下でその理由を推測する。

思うに、佐志氏が、「弾劾一件」一一通と「覚書」の「出所は別」と判断したのは、「覚書」には「弾劾一件」に触れられていない、「政府買上の書籍代二萬ドル火消道具八千ドル小銃三万四千ドル其他買上物代五千ドル見積」という記述があったからである。正確に言うと、「弾劾一件」(その五)には、書籍代二万ドルのみが記載されていて、他に火消道具や小銃を購入したことは書かれていない(全集第二一巻二八六頁)。いっぽう藤井がこの「覚書」を本物と判断した理由も、同じ部分に着目したことによると思われる。というのも、藤井が小野家で見たであろう慶應三年六月付の「富士山丸残金・ストーンウォール外購入費精算下書」(文書館資料五七九)には、「八千ドル但し蒸気仕械火消道具買上げ代」、「三万三千八百八十ドル小銃」などと購入品目とその代金が記されていて、それらは「覚書」の金額と一致するのである。(注6)

小野らがアメリカで火消道具(蒸気ポンプ)を購入したことは、藤井の調査により明らかになったことである。「覚書」と資料五七九で、品目ばかりか購入金額まで一致しているのは、偶然ではあり得ない。確実な小野家資料と「覚書」記載の数字が一致していれば、「覚書」の信頼性もまた高いと考えるのは当然のことである。が、真実はといえば、明治三二年三月に生田目が小野家から借りた書類中には資料五七九が含まれていて、その内容を記録していた生田目が、「覚書」作成にあたって参考にしたからに過ぎなかったのである。

生田目によるこの「覚書」は、「弾劾一件」を福沢家に持ち込むに際し、その中には触れられていない福沢の公金横領の事実を、関係者に信じさせる役割を果たしたと考えられる。その中で名前を使われた福地(歌舞伎座座主・明治三九年死去)と生田目は、演劇改良運動の関係で面識があった可能性が高い。もとより「弾劾一件」には福沢の公金横領の疑惑など全く触れられていない。そもそもそこでの不届は、小使に五百ドルを持ち逃げされ、自分の荷物を公費で運送(千ドル分)したことも加えられているが、一番重要なのは、福沢が「書物御買上の御用は難相勤」(幕府買上の本選びはできません)と言って断ったこととされているのである。

ところが、「弾劾一件」と「覚書」を合わせて読むと、まるで「弾劾一件」が、福沢の公金横領を証明しているかのような錯覚が生じてしまう。その原因は、「弾劾一件」(その五)にある、アメリカで購入した書籍二万ドルについて、もしコミッションをとるならそれは二五パーセントが相場である、という小野が注記した仮定の話と、「覚書」で福沢が利得したという金額が見合うようにできているからである。すなわち、「覚書」には、政府買上の品物合計五万九千ドルの二五パーセントである一四五七〇ドルとごく近い金額の一万五千ドルを福沢が利得した、と書いてあるため、「弾劾一件」(その五)に書かれたコミッションの相場があくまで仮定の話で、福沢は実際には政府の買上には関係していなかった、という明確な事実を思い出しにくくさせているのである。

しかも念入りなことに、「覚書」はこのコミッション相当金額の大部分である一万三千ドル分については、「政府は手形拂としたる内へ」紛れ込ませた、と書いている。これが本当なら、福沢のしたことは明白な公金横領となるのだが、生田目が小野家から借り出して、大正時代の半ばに鈴木昌太郎から要請されるまで返却しなかった『小野友五郎日記』(注7)によれば、本の選定を福沢に断られた小野は、仕方なく米国海軍省の軍艦引き渡し担当者であるシルトンに選書を依頼して、実務担当者として津田仙弥と神野信之丞を付けている。また、小銃と蒸気ポンプについては、シルトンの部下のブラウンが納品までを仕切っている。そして一切が完了した後の小野日記五月八日(西暦六月一〇日)付けには、「買入物都て一纏ニいたし五万八千ドル相払呉候様書付シルトンに相渡」とあって、政府買上の品物は、小野自ら点検のうえ、シルトンに手形払いしたことが記録されているのである。その中に一万三千ドル分もの福沢の私物が混入していたとしたら、その場で露見していなければおかしい。

以上により、福沢が政府買上の支払い代金のうち約一万五千ドルを横領したという嫌疑は晴れたと思うが、なおも問題が残されている。それは要するに、生田目経徳が「覚書」を虚構した方法は分かったが、そうした理由が分からない、ということである。これは非常に興味深い問題だ。そのことについては、思うに、江戸時代にまでさかのぼる古い話をする必要がある。

六 謎の人物生田目経徳

明治三二(一八九九)年三月に、小野友五郎の養子熊次郎から日記や書簡そして福沢弾劾書などを借り出し、明治四三(一九一〇)年七月にその一部に「覚書」を添えて福沢家に寄贈した生田目経徳は、謎の人物である。国立国会図書館には、明治二〇(一八八七)年から昭和一四(一九三九)年までの半世紀以上の間に刊行された二六冊(重複込み)の著書が収蔵され、そのうち一一冊は同館近代デジタルライブラリーで全文を参照できるにもかかわらず、そのいずれにも著者略歴の記載がないため、出身地・生没年・学歴その他を知ることはできない。人名辞典や著作権台帳にも出ていないので没年を確認できなかったのだろう、近代デジタルライブラリーへのアップロードにあたっては、文化庁長官の裁定が下されている。

生田目自身は何も語っていないが、その珍しい苗字によって、出身地についてはおおよその見当がつく。生田目氏は栃木県芳賀郡益子町生田目を本拠地とし、主に栃木県北東部から茨城県北西部にかけて分布している氏族である。それを裏打ちするように、教育勅語の解説書である『聖訓述義』(明治二四〔一八九一〕年四月刊)に、帝国大学教授内藤恥叟が寄せた跋文には「常陸久慈人生田目経徳」とあって、彼が茨城県久慈郡の出であること、また、それを書いた内藤が元水戸藩校弘道館の教授であったことから、生田目もその関係者ではないかという推測が成り立つ。だが、正確な出身地と生没年は著書群の検討からは分からない。

これだけ著作があるのなら、新聞等で取り上げられているかもしれないと考えて、データベースで調査したところ、一件の記事が抽出された。昭和一一(一九三六)年三月二七日付読売新聞夕刊(四面)の「小塚原刑場に消えた勤王烈士の慰霊祭-非常時の春に蘇へる」という記事である。全文を引用する。

明治維新の大業を成就するため悲壮小塚原刑場の露と消えた、桜田義挙関係の諸烈士を中心とする殉難勤王烈士の慰霊祭が、春雨そぼふる二十五日午後二時半から荒川南千住回向院で「小塚原烈士常行会」の手で盛大に営まれた。

定刻桜田義挙の首謀者金子孫二郎、同刺客大関和七郎、同森山繁之介、同杉山弥一郎らの各遺族をはじめ常行会顧問頭山満、池田弘、末永節、会長生田目経徳の諸名士以下会員ならびに関係有志百余名参列、式場は荒木大将と愛国社から贈られた大弔花や西郷従徳侯、田中光顕翁、頭山翁その他関係諸団体の供物がところせまきまでに飾られ、かくて水野回向院住職司祭のもとに祭典を開始、読経についで田中翁(代理)愛国青年同盟、愛国学生連盟代表の各弔詞朗読があつて遺族、来賓一般の焼香を行ひ同三時半に終つた。なほ同日は別室で諸烈士の遺墨展も催されて参列者一同が往時を偲ぶなど非常時の春にふさはしい会合であつた。

桜田義挙関係烈士とは、万延元(一八六〇)年三月三日に大老井伊直弼を江戸城外で襲撃して討死・自刃また処刑された人々のことである。この記事から、二二六事件発生の一ヶ月後、桜田門外の変関係者の七七回忌法要が営まれたときに、彼らの遺族が未だ存命であったことが分かる。

生田目が会長をしていたという小塚原烈士常行会なるものの実態はよく分からないが、明治維新前に尊王倒幕運動で命を落とした人々の行動を敬い、彼らに習うために、その墓所を維持管理していた団体のようだ。その会長をしていた生田目も、桜田門外の変か、四年後の天狗党の乱で反幕府活動をした者の遺族に違いない、と推測して『靖国神社忠魂史』(昭和八〔一九三三〕年~昭和一〇年刊)を見たものの、尊王倒幕派として落命して後年靖国神社に合祀された生田目姓の方は一人もいなかった。

とはいえ生田目が水戸藩関係者であることは確実と思われたので、水戸学関係の書籍にあたったところ、照沼好文著『水戸の学風-特に栗田寛博士を中心として』(平成一〇〔一九九八〕年刊)に、生田目の回想記「水戸の碩学津田信存先生」(昭和一三〔一九三八〕年発表)が引用されていた。同論文には、明治維新後、水戸徳川家に移管された大日本史編纂事業について詳述されており、生田目はその編纂に明治九(一八七六)年頃から関わっていたらしいのだが、彰考館(編纂所)での彼の位置づけには触れていない。ただ、編纂の中心人物である栗田寛に対し、『勅語講義』(明治二五〔一八九二〕年刊)の中で自らを門弟と称しているので、栗田に付いていたことは分かる。また、『水戸の学風』には、生田目について、佐佐木信綱と東京大学で一緒であったとの記述がある。そこで、引かれている佐佐木の『明治大正昭和の人々』(三四頁)を見ると、東京大学文学部古典科国書課の第二期生(明治一七〔一八八四〕年入学)中に生田目の名前がある。(注8)ここで教えていた内藤恥叟とは師弟関係にあったことになって、『聖訓述義』に跋文を寄せている理由も頷ける。

明治二一(一八八八)年に改編された帝国大学を卒業したことはほぼ間違いなく、最初の注釈書『妹背山婦女庭訓』(明治二〇年六月刊)を出版したのは在学中のことになる。ところがその後の生田目については、一、二年毎に著作を出版したこと以外には、ほとんど何も知られていない。学歴からいって、歴史または国文学の教職に就いていたのではないか、という予測を立てて調査してみたが、突き止められなかった。著書の版元となっている学海指針社や誠之堂、また国光社といった出版社名から、中学受験予備校のような学校で教えていた可能性がある。また、演劇脚本の注釈書を出したり、自ら春雨亭主人と名乗ったりしていたことから、芝居関係の仕事もしていたとも考えられるが、証跡は残らないようにしていたのかもしれない。

図書館やインターネットで調査でできる範囲はこれくらいで、やはり実地での調査が不可欠と分かったので、私は常陸久慈の中心地太田に向かった。着いてまず郷土資料館を訪ねたところ、学芸員の西野保氏から、生田目経徳の名前は聞いたことはないものの、水戸徳川家の墓所がある常陸太田市瑞竜町に今も生田目家が存続している、という情報が得られた。また、桜田門外の変または天狗党の乱関係で、尊王攘夷派として弾圧された人々の聴取記録『天狗党関係殉難死節履歴』(昭和五四〔一九七九〕年三月刊)を閲覧すると、その中に一人だけ生田目姓の人物がいる。それは生田目又一郎という瑞竜村の農民で、文政五(一八二二)年四月生まれだから明治維新当時四六歳、聞き取りされた明治八(一八七五)年には瑞竜第二区の戸長になっていた。

その聴取内容は興味深いもので、安政五(一八五八)年に日米通商修好条約締結に反対したかどで徳川斉昭が謹慎処分を受けた際に、赦免嘆願書を幕府に提出するため水戸藩中屋敷に集結した領民の一人で、翌年斉昭が国元へ護送された時にはその行列を警護しつつ水戸まで付き添った、という根っからの斉昭信奉者であった。農民である生田目は水戸徳川家と主従の関係にはなかったが、主君の墓所を管理する瑞竜村の有力者であったせいか、または、天保の藩政改革で広く庶民にも開かれるようになった藩立の学校(郷校)の出身者のためか、斉昭への敬愛の念は非常に強かったようである。帰郷半年後に起きた井伊直弼暗殺に加担したかは不明なものの、経徳が崇敬していた桜田烈士とメンタリティを共有していたことは確実である。その後元治元(一八六四)年九月に起きた尊王攘夷派の反乱事件、天狗党の乱ではその一員として活動、諸生党(佐幕派)が勝利したため、幕末の四年間を常総各地で潜伏生活を送った。明治維新で天狗党の名誉が回復されて故郷に戻ったときに、残していた妻子が永らく弾圧されていたことを知ったのだという。

この生田目又一郎と、幕末から明治初年生まれの経徳が父子関係にあったとしても不思議ではない。というのは、光圀の時代から、水戸徳川家の墓所を管理していた瑞竜村の子供は優先して大日本史の編纂所に採用されていて、約二五〇年後の経徳が水戸彰考館に奉職したのはその縁とも考えられるからである。ただ、それだけでは出自の認定として弱いので、私は市立図書館に場所を移して、更なる手がかりを探すことにした。そこで見つけだせたのが、市内瑞竜町在住の生田目操氏(大正八〔一九一九〕年生)の著書『光をまとう』(平成九〔一九九七〕年刊)で、そこには、戦前朝鮮で教員をしていた操氏の父と、秋田在住の生田目経徳が文通していた、との記述があった(同書五六頁)。私はさっそく市の中心から三キロほど北に離れた瑞竜町に向かい、徳川家墓所門前の生田目姓の家を訪ねたが、そこは目当ての家ではなく、教えられた近所の操氏宅は不在のようだった。

調査から戻って、改めて生田目操氏に問い合わせたところ、自分の家は瑞竜の生田目本家の分家筋で、分家初代の曽祖父から父親(昭和二〇年没)までの系図上に経徳の名はない、父親からは経徳との血縁関係について聞いたことはなく、自分は単に同姓の歴史研究者と思っていた、経徳との最後の文通は父親没後の昭和二三(一九四八)年で、経徳はその時確かに秋田(県か市かは失念)に居住していた、との返信があった。そこに添付されていた由緒書には、生田目家は戦国時代以来常陸国を治めていた佐竹家の家来で、江戸時代の初めに佐竹家が秋田に転封されたときに、主家に従った者と帰農して太田に残った者に家が分かれた、と記されていた。

確認されている生田目経徳の最後の著作は昭和一四(一九三九)年刊の『国体史徴』であるが、その時点での居住地は東京とはっきりしている。経徳の出身地が茨城県久慈郡というのは確かで、そうだとすると、理由は分からないものの、戦時中に、故郷ではなく秋田へ疎開したと考えられる。ともかく六〇年前まで存命していたと分かったので、経徳の最期を知る方が今も健在かもしれないと思い、苗字と家紋の研究者である秋田市在住の丸山浩一氏に問い合わせの手紙を出した。

その返信には、生田目経徳の名は『家紋の由来』を秋田県立図書館で閲覧したので知っていたが、晩年になって秋田に移住したとははじめて聞いた、生田目という稀姓については自分でも調べたが、県内居住の生田目氏は、佐竹家に随従して常陸から出羽まで来た者の子孫のようで、現在確認できる生田目家は、秋田市に一家、湯沢市に一家、大仙市に八家ある、その中に経徳の子孫がいるかどうかは分からない、とのことであった。

生田目経徳ほどの有名人が秋田で亡くなったとするなら、そこに何かしらの痕跡を留めていても不思議ではない。そこで、秋田県立図書館に人物照会を依頼したところ、同館所蔵の郷土関係人物事典等に、生田目経徳の記載は発見できないとのことであった。調査は未だ続行中である。

七 生田目経徳と石河幹明・高橋義雄との関係

今のところ明治八(一八七五)年当時常陸久慈郡瑞竜村第二区戸長だった生田目又一郎と経徳の父子関係についても、また彼の生没年についても、確認することはできていない。確実なのは、明治九年頃から栗田寛や津田信存の下で大日本史の編纂事業に携わった後、明治一七年に東京大学へ入学し、以後著作活動を行って昭和二三(一九四八)年にいたるも存命であった、ということだけである。以下では、生田目が「覚書」と「弾劾一件」を福沢家に持ち込んだ理由について考察するが、経徳を又一郎の息子と仮定するなど、相当程度が推測に基づいていることをあらかじめお断りしておく。

経徳と又一郎が親子関係にあったとすると、まず問題となるのは、経徳の誕生年である。『天狗党関係殉難死節履歴』によれば、又一郎は元治元(一八六四)年から明治元(一八六八)年まで丸四年の間潜伏生活を送っていた。逃亡生活に入る前に妻が経徳を産むなり宿すなりしていたならば、経徳の生年は慶應元(一八六五)年以前となる。又一郎が瑞竜村に帰還した後に生まれたなら、明治二(一八六九)年までが、引き下げられる最大限となろう。それより若いと仮定すると、遅くとも明治九年に水戸で大日本史編纂の手伝いを始めることは不可能と思われるからである。昭和二三(一九四八)年時の年齢は、前者の場合は八三歳以上、後者の場合は七九歳となる。東大同期の佐佐木信綱が明治五年の生まれであることからすれば、後者のほうが妥当かもしれない。

このようにしてみると生田目経徳が親元を離れて水戸に赴いたのは、まだ年端もゆかぬ頃であったと考えられる。その頃の彰考館について、経徳は回想記「水戸の碩学津田信存先生」の中で次のように述べている。

廃藩になつた後に、徳川家は、更に先生(津田信存)に嘱託して、大日本史志類の編修削正を再興したのであるが、この時の彰考館には、先生と監庫の奥谷直貞の二人の外は、筆生と雑役の小使などで、極めて消極なものであつた。(中略)先生は、毎日出勤しなくてはならぬといふことでなく、宅調をして差支ない、勝手な勤めである。明治九年の四月に、太政官の修史館の編修官である、川田剛号甕江が、史料訪採として、彰考館の書籍を閲覧に来た。(東洋文化学会『東洋文化』第一六二号〔昭和一三年六月〕四四頁)

これは生田目が自分で目撃した、具体的に年月の示された最初の記事の導入部なのであるが、この引用部中の「筆生」についてはその姓名が記されていない。これはその地位が軽いことによるのではなく、おそらくこの筆生が生田目本人なのである。「水戸の碩学津田信存先生」によると、生田目は津田の直孫幹信の信頼を得て、津田に関する資料の管理を任されている。この事実は、生田目が幼い時期に津田家の書生となって、以後親戚同様の扱いを受けていたことを示唆している。大日本史の編纂主任は栗田寛であったが、この時期は教部省に出仕していて、実務を津田に任せきりにしていた。その津田を下から支えていたのが筆生の生田目とするなら、この回想記の全体がすんなりと理解できるわけである。

維新前津田信存は藩校弘道館の教授だった。弘道館での同僚の一人が漢学者の内藤恥叟であるが、内藤は維新後東京大学に招聘されたため、大日本史編纂事業には加わっていない。とはいえ、生田目にとって彰考館での直属の上司にあたる栗田寛が帝国大学教授に就任したのは、生田目卒業後の明治二五(一八九二)年のことであるから、彼の入学には、すでに東大に勤務していた内藤への、津田の働きかけが有利に働いたとみて間違いないであろう。

生田目が福沢邸を訪れた明治四三(一九一〇)年七月当時、時事新報の主筆は水戸弘道館の主宰者石河明善の甥幹明であった。幹明はもと慶應義塾の給費生(奨学生)である。福沢諭吉が旧水戸藩出身者を給費生に招いたのには、明治一四年に持ち上がった、政府系新聞を福沢に委託するという、大隈重信ら時の政府首脳の意向と関係があった。すなわち、福沢と懇意だった水戸師範学校の松木直巳校長が、福沢の意を受けて、卒業後の時事新報社勤務を条件に、師範と中学の生徒中から希望者を募ったのである。そこに応募したのが高橋義雄・石河幹明・渡辺治・井坂直幹の四名で、彼らは卒業後に新聞社での論説担当記者となることを期待されていた。

元来水戸藩は尊王攘夷派の拠点であり、明治維新後は、かつて天狗党と呼ばれた尊王攘夷派が県政を掌握していた。ところが同時に水戸藩は一五代将軍徳川慶喜の出身藩でもあって、藩論としては幕末にいたるも佐幕の立場を維持したために、旧指導部(諸生党員)の維新後の状況は悲惨を極めていた。慶應義塾に入ることになった四名はいずれも佐幕派上級士族の子弟で、とりわけ石河の家は、諸生党の指導者である明善(明治元〔一八六八〕年に獄死)を出したことで、旧天狗党員からは目の敵にされていたのである。

高橋義雄の自伝『箒のあと』によれば、石河を含む後の給費生四名は、はじめは水戸上市の学塾自強舎に通い、ついで明治一一(一八七八)年に水戸師範付属中学予備校に移っている。一方生田目は、津田の手ほどきを受けた後、明治一三年に栗田寛が開設した輔仁学舎に学んだらしい。高橋はこの学舎の聴講生でもあった。高橋と親しかった石河も栗田の講義を聴いたかどうかは不明だが、栗田も津田も幹明の叔父明善の弟子である。石河と、彼より五歳程度年少の生田目とは、栗田や津田を介して、水戸で既に面識があったものと思う。

廃藩置県の後に、大日本史の編纂は水戸徳川家の私的事業となった。栗田と津田は徳川家の家扶としてその仕事を続けたが、明治一七(一八八四)年に栗田が元老院に出仕することになって、水戸での大日本史編纂事業はその養子勤が継ぐことになった。後に荘園史の研究で有名となる清水正健は明治四年以来栗田寛の弟子であったが、途中東京府師範学校に入学するなど水戸を空けていて、明治一五年に事業へと復帰した。栗田寛が去ってから八年の間は、津田とこの清水の両名が専ら編纂に従事していたが、明治二五年に津田が没した後、栗田勤と清水の関係が悪化したらしい。明治二九年には清水も彰考館を辞職して、大日本史の編纂は専ら栗田勤の手に委ねられることになったが、問題は、この勤の歴史学者としての才能に、清水も生田目も疑問を抱いていたことである。津田が死に清水が去ったために事業は停滞するうち、明治三二年に全体の統括者栗田寛が死去した。

このことに危機感をもったのが、大日本史編纂事業を何とか完成させたいと外から支援していた水戸出身者たちだった。その中心人物である実業家高橋義雄は、明治三六(一九〇三)年二月二日に自宅で大日本史編纂評議会を開催した。出席者は手塚任・古川哲・福原脩・香川敬三・石河幹明・佐藤奉・川崎八右衛門らで、彼らは資金を拠出を約した上、三年以内に大日本史を仕上げるよう、正式に編纂代表となった栗田勤に要請した。勤の指導により大日本史が完成したのは、明治三九年一二月のことである。

高橋が『箒のあと』で語る大日本史の編纂事業はここまでである。ところが、生田目による「水戸の碩学津田存信先生」には話の続きがある。すなわち、明治四〇(一九〇七)年に刊本が刷り上がったとき、栗田勤筆の跋文に不備を見つけた生田目が、水戸徳川家にそれを指摘、その結果跋文を含む終結部の訂正を清水が担当することになって、実際の刊行が大正元(一九一二)年まで繰り延べとなった、というのである。確かに、大日本史全体が完成してその清書が水戸徳川家に提出されたのが明治三九年で、吉川弘文館からそれが刊行されたのは、明治四四年から大正元年にかけてとなっている。完成から刊行まで間が開きすぎで、不備の修正に五年が費やされたとすれば辻褄は合う。

ただ問題は、生田目以外の関係者が、清水も含めて、問題の発端が生田目の指摘にあったと証言していないことである。大日本史が昭和の初めに再刊された際に、巻末に付せられた清水の「頭書傍訓大日本史凡例十則」(昭和四〔一九二九〕年八月)によれば、「余等」が水戸徳川家へ上申したのが明治四四年で、翌年一二月に改作が完了した、とある。つまり、不備の指摘が生田目の証言より四年も後のことになっているのである。しかも、現在の刊本に、生田目が津田の下で大日本史編纂に関わり、終結部の不備を水戸徳川家へ上申した者の一人であったことは、一言も触れられていない。

生田目は、自分が栗田寛や津田信存の弟子であったことを、一生の誇りとしていた。そのことは、「水戸の碩学津田存信先生」を読めば明白に分かる。ところが現在に残る大日本史編纂に関する文献で、生田目がその事業に携わったことに触れた文献は、彼自らが記したその回想記以外には見あたらない。そればかりか、『家紋の由来』、『楠木氏新研究』、『国体史徴』など質の高い研究を出版しているにもかかわらず、生田目の名前は水戸学の系譜から完全に抹消されている。生田目は親しい先輩であったかのように書いている清水でさえ、生田目について少しも触れるところがない。これは、何らかの理由で、生田目が他の水戸学研究者から排除されていたことを意味している。その原因としては、まず第一に、編纂事業を養父から引き継いだ栗田勤との不和が考えられる。

そこで、次のような事実に目が向けられる。すなわち、生田目が「弾劾一件」と「覚書」を携えて福沢家を訪問した明治四三(一九一〇)年七月は、訂正済みの大日本史が刊行され始める前の年に当たっている、ということである。生田目にとって、その時期は、大日本史編纂協力者として巻末に名を連ねることができる最後の機会だったはずだ。その刊行には福沢門下の高橋義雄と石河幹明が深く関与していた。彼らを味方にすることができれば、その宿望を達することができる、と生田目は考えはしなかったろうか。そこで浮かんだのが、一〇年以上前から小野家より借りっぱなしになっていた「弾劾一件」と、新たに自作した「覚書」を福沢家に持ち込むことで、福沢門下生にいわば恩を売り、それと引き替えに高橋や石河の支援を取り付けることで、かねてよりの宿望である大日本史の仕上げに参加する、という計略ではなかったか、ということなのである。(完)

注意:本論説執筆にあたり、直接接触のあった方には氏を付し、故人を含め交流のなかった著者・作者名には敬称を付けていません。

 

西川俊作先生は、平成二二年一月二七日に逝去されました。ここに長年にわたる学恩を謝し、哀悼の意を表します。

生田目経徳著作一覧(年代順)※は国立国会図書館蔵

明治二〇(一八八七)年六月『新註戯曲妹背山婦女庭訓』(注釈書)春雨亭主人名義 金港堂刊 ※
明治二二(一八八九)年『応用美術』第一号(雑誌)英風社刊 ※
明治二三(一八九〇)年『応用美術』第二号(雑誌)英風社刊 ※
明治二三(一八九〇)年五月『国文』第一号(雑誌)園田三郎共編 国語伝習所刊
明治二四(一八九一)年四月『聖訓述義』金港堂刊 ※
明治二四(一八九一)年九月『標注異本曽我物語』(注釈書)金港堂刊 ※
明治二四(一八九一)年九月『標註義経記』(注釈書)金港堂刊 ※
明治二四(一八九一)年九月『日本歴史』全二冊(尋常科教科書)文学社刊
明治二四(一八九一)年一二月『仮名手本忠臣蔵』(注釈書)並木千柳共著、春雨亭主人名義 金港堂刊 ※
明治二五(一八九二)年九月『勅語講義』(通俗教育全書第四二編)栗田寛他共著 博文館刊 ※
明治二八(一八九五)年一二月『大日本歴史地図』内藤恥叟閲 清華堂刊 ※
明治二九(一八九六)年六月『雅文消息集』(注釈書)国光社刊 ※
明治二九(一八九六)年『徳川実記』旧徳川将軍家編纂内藤恥叟校注 
明治三〇(一八九七)年三月『国文学講義全書』(生田目経徳分担執筆)伊藤岩次郎編 誠之堂書店刊 ※
明治三〇(一八九七)年七月『古今和歌集講義』(中等教育和漢文講義第一八編) 増田于信共著 誠之堂刊※
明治三一(一八九八)年四月『花はさくら』福島書店刊 ※
明治三二(一八九九)年八月『名家紀行集』(国文叢書)東京図書出版刊 ※
明治三七(一九〇七)年一月『標註異本曽我物語』(注釈書)誠之堂書店刊 ※
明治四三(一九一〇)年九月『家紋の由来』学海指針社刊 ※
明治四四(一九一一)年四月『山鹿素行修養士談』(注釈書)春秋堂刊 ※
大正 五(一九一六)年『大礼御式場明細図』(一~四図担当)伊藤岩次郎編 ※
大正一〇(一九二一)年『親鸞聖人伝活動写真脚本』(ガリ版)春雨亭主人名義 黒井直良印刷非売品
大正一四(一九二五)年『親鸞聖人立教旧蹟大観』聖蹟研究会刊 ※
昭和 九(一九三四)年『明治維新秘史』(桜花叢書第二篇)桜花倶楽部刊 ※
昭和一〇(一九三五)年『楠木氏新研究』吉川弘文館刊(昭和一四年清教社より再刊)※
昭和一三(一九三八)年『教育勅語渙発関係資料集』(国民精神文化文献第二二)国民精神文化研究所※
昭和一三(一九三八)年一~七月「水戸の碩学津田信存先生」『東洋文化』(一五九、一六一~六三)無窮会刊
昭和一四(一九三九)年九月『国体史徴』国体宣揚会発行 清教社刊 ※
掲載時期未詳「バビアン伝」(『三眼』三号)成田山仏教図書館蔵

参考文献一覧(年代順、刊行物に限る。福沢著作は現行版全集に、生田目著作は前掲一覧にあるため省略)

昭和 四(一九二九)年徳川光圀他著『大日本史』全一七巻 義公生誕三百年記念会・大日本雄弁会刊
昭和 七(一九三二)年石河幹明著『福沢諭吉伝』全四巻 岩波書店刊
昭和 八(一九三三)年高橋義雄著『箒のあと』全二巻 秋豊園刊
昭和三六(一九六一)年一月佐佐木信綱著『明治大正昭和の人々』新樹社刊
昭和五四(一九七九)年三月常陸太田市史編纂委員会編『天狗党関係殉難死節履歴』常陸太田市刊
昭和六〇(一九八五)年一〇月藤井哲博著『咸臨丸航海長小野友五郎の生涯』中央公論社刊
平成 七(一九九五)年福沢研究センター編『マイクロフィルム版福沢関係文書(目録)』雄松堂刊
平成 九(一九九七)年五月生田目操著『光をまとう』近代文芸社刊
平成一〇(一九九八)年三月西川俊作著『福沢諭吉の横顔』慶應義塾大学出版会刊
平成一八(二〇〇六)年一月山内昌之・中村彰彦共著『黒船以降-政治家と官僚の条件』中央公論新社刊(平成二一年一月再刊文庫版を使用)

脚注

(1)
西川俊作「慶應三年にアメリカから購入してきた図書」『福沢諭吉の横顔』八一~一〇八頁
(2)
URL http://www.pref.hiroshima.lg.jp/soumu/bunsyo/monjokan/198909OnoTomogoro-HP.pdf
(3)
その代わり、意外な発見があった。私は先に、『福翁自伝』の「王政維新」の章「競争の二字を消す」の節で、福沢が翻訳した『西洋事情』外編の中の「競争」という文字が穏やかではない、として訳語の変更を求めた幕府高官とは小野友五郎ではないか、と推測した(拙著『福澤諭吉』二三六頁)。これは西川俊作氏の示唆によっていたのだが、案の定小野日記慶應二年一〇月一六日条に、福沢が家に来てポリティカル・エコノミーの話をしていった、と記されていたのである。
(4)
その日が慶應三年九月一五日であったことが、福沢の備忘録中の「大橋栄次小野友五郎え談判の義に付来る」(全集第一九巻二八六頁)という記述から分かる。ちなみに慶應三年の日記・備忘録等に、福地源一郎の名前はまったく書き留められていない。
(5)
この書き損じを調べると、一行飛ばして次の部分を先に書いてしまったのを消して、改めて続けた部分が三箇所ある。これは、「覚書」が写しであることを示唆している。つまり、生田目から「弾劾一件」の添え書きを見せられた福沢一太郎(?)が、筆写する際に間違えたということである。
(6)
東京大学史料編纂所蔵『小野友五郎日記』によれば、当初は購入予定のなかった小銃を買うことにしたのは、ストーンウォールの代金を支払ってもなお相当の金額が余剰となることが分かった、慶應三年四月一七日(一八六七年五月二〇日)以降のことである。四月二二日、小野・松本・福沢・津田・尺の五名はアメリカ陸軍のグラント将軍(後に大統領)と面会、新式元込め銃の性能に関する説明を受けている。南北戦争が終結してから二年後のこと、米軍も余剰兵器の払い下げに熱心だったわけで、小野はその場で元込め銃千二百挺の購入を決めている。文書館資料五七九の「三万三千八百八十ドル」とはその代金で、一挺当たり二八ドルとなる。ところで、私はかつて自著『福澤諭吉』において、小野との対立の原因を、仙台藩から依頼された小銃購入に際し、福沢が小野から妨害を受けたためではないか、と推測した(二二〇頁)。福沢の日記には、一行がワシントンDCに到着した翌三月二五日、咸臨丸の航海で世話になったブルック退役大尉が来訪したとある。旧南軍所属の銃砲の専門家のブルックは、日本海軍への就職を望んでいて、来訪は自らの売り込みが主目的だったのだが、私は別に、出国前の福沢から、仙台藩向けのライフル銃の用立てを依頼されていたのではないかと思う。ブルックは、福沢預かりの二千五百両分の小銃をあらかじめ確保しておいたが、小野が福沢の購入計画を阻止したため、売られずにいたところ、幕府公金に余剰が出たので、小野が代わってそれらを購入したのではないか、ということである。福沢が小銃の購入をあきらめて書籍の買付を始めるのは、ブルックがレキシントンの自宅に帰った翌日の四月五日からで、小野日記によれば、幕府向け書籍の選定を断ったのは、小野が小銃の購入を決めた四月二二日より後の五月五日のことらしい。つまり福沢としては、小銃を小野に横取りされたうえ、さらに幕府向け書籍の買付を命じられたようで、腹を立てるのも無理はない、という推測も可能なのである。
(7)
小野の日記(写本)は、現在慶應三年分のみ東京大学史料編纂所蔵となっている。その蔵書目録によれば、原本所有者は生田目経徳、書写されたのは大正五(一九一六)年となっている。これは、小野家から借りた資料の一部を「弾劾一件」として福沢家に寄贈した後も、生田目は残りをなお所持し続けたことを意味している。笠間系小野氏の鈴木昌太郎が生田目に資料の返却を求めたのは大正六年頃のことで、慶應三年日記原本も鈴木の手に移ったが、それは終戦後処分されたと考えられる。
(8)
東京大学文学部古典科とは、綜理加藤弘之の発案で、日本固有の学問を廃れさせないようにすることを目的として本科とは別に設置された課程である。卒業しても学士号は授与されなかったので、生田目は帝国大学(明治一八年改組)の卒業生ではあるが、文学士ではなかった。なお、生田目経徳は、「なまためつねのり」と読まれることが多いが、生田目操氏の著書によれば、その姓は「なばため」と読むのが正しいようである。