「2010 年 9 月 1 日付 平石直昭氏への書簡(石河幹明の社説採録を信じられない 3 つの理由)」

2015-03-13

このテキストについて

平石直昭氏への書簡を、平山氏の許可を得て掲載します。 なお、文中の福澤と福沢の使い分けは『福沢諭吉の真実』からの引用文中でのみ福沢とし、それ以外は福澤と表記されている、との伝言がありました。

書簡全文

2010 年 9 月 1 日

平石 直昭 先生

残暑お見舞い申し上げます。

今年の夏は尋常ではない暑さでしたが、いかがお過ごしでしょうか。7 月 24 日に営まれた故西川俊作先生を偲ぶ会でお目にかかれるかと思っていたのに、それがかなわなかったのは残念でした。

さて、『政治思想学会会報』第 30 号政治思想学会編・ 2010 年 7 月 20 日発行)に掲載された平石先生の評論「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」(同会報 3 から 9 頁・以下『会報』と略)を拝読しました。どうやら石河幹明の全集への社説採録に関する私の考えに誤解があるようです。そこでそのことについて私見を述べ、ついで石河による社説採録には信憑性が乏しいことについて、その根拠を 3 つ示したいと思います。便宜上、前段のタイトルを、「石河「例言」の解釈は、平石先生と私(平山)では異なっています」とし、後段のタイトルを、「石河の社説採録の不誠実には物的な証拠があります」とします。

前段・石河「例言」の解釈は、平石先生と私(平山)では異なっています

評論全体の基調は、拙著『福沢諭吉の真実』(以下『真実』と略)での、「現行版『福澤諭吉全集』「時事新報論集」の社説採録は信憑性が乏しく、それらの主張の多くは福澤諭吉ではなく石河幹明のものである」(『真実』 120 から 123 頁)という主張に反対して、石河は社説採録の仕事を「原則に立って一貫した選択」のもとに誠実に進めていて、その点についての「彼の大きな功績を認めてよい」(『会報』 9 頁)とするところにあると拝察します。その原則は、石河が昭和版『続福澤全集』(1933 年から 1934 年刊)の「時事論集」を編むにあたり、その冒頭に掲げた「例言」に示されています。

「時事新報」の社説中には先生が其趣旨を記者に語って起草せしめられたものもあり、又記者の草したる原稿を添削して採用せられたものもあるが、元来先生の筆政は極めて厳密にして、文字は勿論その論旨までも自身の意に適するまで改竄補正を施し、殆ど原文の形を留めないものもあった。或は此集を注意して通読する読者は間々生硬不熟なる文字用語を発見することがあろう。先生の削正は常に一字一句の末にまで及んだけれども、非常に繁忙の際もしくは印刷の急を要する場合などには多少の字句は看過せられたこともあるが、併しながらかかる場合は極めて稀れであった。而して先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた。(『続全集』第 1 巻 1 から 2 頁)

上と同じ部分を私は『真実』 73 から 74 頁に、また平石先生は『会報』 5 頁に引用しています。この引用部の最後の一文の解釈が、本前段の問題となる点です。(それから、引用第一文に「筆政」とありますが、これは新聞用語のようで、原典の通りとしました。これを「筆致」とした『真実』も『会報』もともに誤りであるようです。)

この「例言」の最後の文について、平石先生は次のように述べています。

「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」における「他人の草稿に係る分」を、竹田(行之・平山註)は福澤以外の人が草稿を書いた分として理解し、そうした原稿に福澤が加筆したものも続全集に採録されている事実に基づいて、上のような注釈を加えたわけである。しかし石河の一文は「福澤以外の者がアイディアを書いたものは、それに福澤が添削して新報に掲載されたものでも省いた」という趣旨にも解釈できる。つまり余人がアイディアを出して草稿を書き、それを福澤が添削したものは、福澤の筆は入っていても採録しなかったということである。福澤が賛成したとしても、その説は案を出した当人のものであり、福澤の加筆の有無に拘らず、福澤全集に採録するのは不適当だからであろう。(『会報』 6 頁)

引用部の竹田行之氏の解釈とは、『福澤諭吉年鑑』 22 号(福澤諭吉協会編・ 1995 年)所収の「「時事新報論集」について」にある読み方で、「例言」引用部最終文中の「他人」を「福澤起草以外」ととって、実際には石河などが起草した社説も『続全集』に所収されているので、この「例言」の記述は正確ではない、という見解を指します。平石先生は、この竹田氏の解釈とは異なり、「他人」を「福澤以外のアイディア」ととって、もともと石河は社説を福澤のアイディアかどうかを基準として選んでいたのだから、実際の起草者が石河を初めとする社説記者であっても何ら問題とはならない、という解釈に基づき、

石河はこの福澤書翰(社説の責任は自分で持つ、という 1889 年 12 月 25 日付荘田平五郎宛書翰・平山註)を自分の福澤伝で引いており(3 巻 248 頁以下)、社説に対する福澤の姿勢を熟知していたはずである。その上で彼は、元来のアイディアを福澤が出した社説とそうでない社説とを判別していったのであろう。むろん実際の選択において誤りはあったかもしれない。しかしそれは誰がやっても恐らく不可避であり、上記のような原則に立って一貫した選択を行った点に彼の大きな功績を認めてよいと考える。(『会報』 8 から 9 頁)

との結論を導いているわけです。そして、先の「例言」の解釈については、その注(1)において、私の解釈について次のように述べています。

平山前掲書(『真実』・平山註)74 頁は、本文で引用した石河の文章を同様に解釈している。80 頁でも、福澤立案・記者起稿と記者立案・福澤添削とを区別する必要に触れており、これも私と同じ見方である。研究史的には、この区別を立てて井田の<筆癖>による判別法がどこまで有効かという問題を出した点に平山の独創性があった。不思議なのはこのように理解しながら平山が、どの論説を全集に採録するかにつき、石河は選択基準を説明していないと書いていることである(72 頁)。石河は彼なりに規準を示しているわけであり、平山の主張は読者を誤解に導きかねない。この点と関連して平山が福澤全集の編纂における石河の底意の暴露というような面に力を集中し(そこには安川寿之輔との長年にわたる論争という要素が影をおとしている)、読者の側でもそうした面に注意がむきがちで、上記の区別がもつ積極的な意味を十分明らかにせずにきたことは、学界にとって不幸なことだったと私は思う。(『会報』 9 頁)

上記引用部中の『真実』 72 頁に関する部分には誤解があるようです。当該部分の原文は、

書簡は原則として肉筆署名入りであるから真偽の問題は生じにくいが、主に無署名のもので構成されている「時事論集」と「諸文集」はどのような基準で福澤が書いたものとして選定されたのであろうか。そこで「時事論集例言」に選択基準についての説明があるかというと、それが全くないのである。(『真実』 72 頁)

となっています。そこで平石先生は、この「選択基準についての説明」を、「例言」引用部最終文「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」と同じと受け取って、「不思議なのはこのように理解しながら平山が、どの論説を全集に採録するかにつき、石河は選択基準を説明していないと書いていることである」と述べているようです。しかし、私としてはこの「例言」引用部最終文全体こそが「選択基準」であり、その根拠についての説明がない、と書いたつもりだったのです。つまり石河は、選択された社説が福澤のアイディアとの証明をしていない、ということです。

さらに『真実』 74 頁の記述についても、確かにそこでは平石先生と同じ意味でとっていますが、最終的には異なる解釈をしています。私は「例言」中の「他人」とは「石河以外」と理解するのが正しいと考えているのです。以下で当該部分を引用します。

福沢が自らの論説・講演集である『修業立志編』に入れることを許した北川筆「活発なる楽を楽む可し」が福沢の思想ではない、などということがあり得ようか。昭和版「時事論集例言」の「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」(① 2 頁)の「他人」とは「福沢以外」の意味ではなく「石河以外」のことだったのだ。昭和版への採否の基準は極めて主観的なもので、要するに、『福沢諭吉伝』で描かれた福沢像を補強する論説で、かつ自らが起筆したものを優先して収録していったに過ぎないのである。(『真実』 122 頁)

後段でも触れることになりますが、ご存知のように、「活発なる楽を楽む可し」とは、草稿が発見されたことによって北川礼弼が起筆し福澤が添削したと証明されている社説です(『福澤諭吉年鑑』 22 号所収)。この社説は福澤諭吉名で存命中に刊行されながら、今まで一度も全集に収められていない『修業立志編』中の一編でもあります。福澤立案記者起稿であるからこそ署名入りの単行本に収録されたのは明らかで、石河は故意にそれを全集から排除しているわけです。こうなると石河は、自分以外の「他人」の草稿による社説は採録しなかった、と「例言」で述べていたことになり、私のこの「他人」の解釈は、「福澤以外」ととる竹田氏とも、「福澤以外のアイディア」ととる平石先生とも異なっているのは明らかです。

以上で石河「例言」の解釈の違いについてははっきりしたと思いますので、以下後段で石河の社説採録に信憑性がないことを証明したいと思います。

後段・石河の社説採録の不誠実には物的な証拠があります

刊行時に形成された強固なイメージを覆すのはなかなか難しいもので、『真実』に関しても、未だに私が井田進也先生の方法(井田メソッド)に基づいて無署名論説を選別し、その中の侵略的絶対主義的なものを石河に帰することで福澤の名誉回復を図った、という受け取られ方をされているのは心外です。私が『真実』で行ったのは、確実な論説に基づくかぎり福澤は市民的自由主義者とみなされる、ということだけです。その結論までの間に石河による全集への社説採録の問題点を指摘していますが、それは彼を「悪玉」とすることを目的としていたのではなく、彼の仕事上の不誠実を証明することによって、「時事新報論集」所収社説の取り扱いに注意を促すのが眼目でした。(この辺の経緯については、同封の拙論「誰が『尊王論』を書いたのか?」をご参照ください。)

現行版全集の「時事新報論集」に入っている社説のほとんどが石河の起筆によるものだとしても、福澤の思想の範囲外と断ずることができないのは言うまでもないことで、そのことは『真実』 106 頁他で私も認めていることです。問題は石河が採録に際して誠実にことに当たったかどうかで、それについては井田メソッドによる文献判別などとは無関係に、不誠実の物的な証拠があるのです。以下でその証拠を 3 つ指摘します。

不誠実の証拠 1  石河は福澤署名入りの著作『修業立志編』を全集に収録していません

この事実については、『真実』の第三章「検証・石河幹明は誠実な仕事をしたのか」の 4「『全集』未収録単行本『修業立志編』について」で私が最初に指摘し、さらに拙論「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」(これも同封しております)でより詳しく論じたにもかかわらず、管見のかぎり、『真実』刊行後 6 年の間研究者によるいかなる言及もないのが現状です。平石先生も今回の評論において『修業立志編』を巡る問題に全く触れていませんね。

この『修業立志編』への黙殺は、現行版全集の編纂に与った人々を母体にして結成された福澤諭吉協会の関係者ばかりではなく、福澤を批判して止まない安川寿之輔先生らもまた同様なのです。福澤の単行本が全集からまるまる一冊抜けている、という事実は極めて重大なことだと思うのですが、誰も触れないのは、言及してしまえば石河の不誠実が一挙に露呈してしてしまうのを恐れているから、と私には感じられます。

よく知られているように、明治版『福澤全集』は、1898 年に福澤自身の手によって編まれました。その編纂方針は、1893 年刊の『実業論』までに福澤名で刊行された著作を何らの修正も施さずに再録する、というもので、福澤はその原則に忠実に則って事に当たっています。1897 年の『福翁百話』以降の著作は、単行本として売れ続けていたためか、明治版全集には収録されませんでした。1925 ・ 1926 年刊の大正版『福澤全集』の編纂者は石河でしたが、福澤の方針を踏襲するなら、『福翁百話』以降の著作同様、1898 年刊行の『修業立志編』をそのまま収録すればよかったのです。ところが石河はそうはしませんでした。『修業立志編』を入れなかったことについて、大正版全集の「端書」には次のようにあります。

一 本全集所載の内容を挙れば、第一巻より第六巻の『実業論』に至るまでは既刊全集の分に属し、第六巻の『丁丑公論』以下第十巻に至るまでが、今回新に加えたものである。尚ほ慶応義塾編纂の『修業立志論(ママ)』に載て居る文章は、本集『時事論集』中の各篇に分載せるを以て、別に一冊として収録せず。(『真実』 67 頁)

苦労して入手した『修業立志編』を見てみると、その表紙には確かに慶應義塾編とありますが、同時に福澤先生著とあって、福澤の緒言も付せられた署名入り著作に間違いありません。内容は青少年向けの演説・論説集で、『福翁百話』のジュニア版とでもいうべきものです。1898 年から 1936 年まで 40 年近くも慶應義塾で教科書として使われ、226 事件直後に刊行された第 52 版を以て絶版となっています。

この著作を全集に入れない理由として、石河は、『時事論集』に分載されているから、と書いていますが、実際には全 42 編の中「活発なる楽を楽む可し」を含む 9 編を収録していないのです。これら 9 編は現行版全集にも入っていないので、一般には国立国会図書館のデジタルライブラリーでしか読めなくなっています。

不誠実の証拠 2  『修業立志編』全集未収録 9 編のうち、「忠孝論」と「心養」の 2 編は福澤直筆です

石河が北川起筆の「活発なる楽を楽む可し」を全集から排除したことは、弟子の心情としてまだしも理解できます。優れた師匠の門下生同士が互いに激しいライバル意識をもつことは、むしろ当然のことといってよいでしょう。同様のことは、プラトンやイエスの弟子たちにも、また丸山眞男の門下生の間にもあったに違いありません。師匠を尊敬する余り、自らと師匠を同一視してしまった弟子の物語として石河の行為を描くことは可能だと、この問題に取り組み始めた当初の私も考えていました。ところが、そうではなかったのです。というのも、石河は確実に福澤の直筆と分かる論説まで全集から排除した、ということが明らかになったからでした。

福澤直筆と私が判断した「忠孝論」「心養」の 2 編の考証については、「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」をお読みください。より重要なのは「忠孝論」ですが、その文中に自著として『文明論之概略』が触れられています。私の価値観からいうと、いずれも優れた出来映えの論説で、なぜ全集から落とされているのか理解に苦しむところです。もちろん私の立場からは、石河がそれらを排除したのは、そもそも福澤と石河の考えに違いがあったから、となりますが、それはあくまで私の憶測なので置いておいて、ともかく石河は意図的に福澤直筆の論説を全集に収録しなかった、ということがはっきりしさえすれば、不誠実の証拠を示すというここでの目的は達せられたことになります。

不誠実の証拠 3  石河は福澤の直筆原稿残存社説 92 編のうち、50 編を全集に採録していません

証拠 1 ・ 2 はすでに『真実』で指摘してあることです。最後の 3 は、私が伝記『福澤諭吉ー文明の政治には六つの要訣あり』を執筆する途中で、現行版全集の「時事新報論集」・『福澤諭吉年鑑』各号・マイクロフィルム版福澤関係文書目録を調べた結果として確かめられた新事実となります(「福澤諭吉直筆草稿残存社説一覧」『福澤諭吉』巻末)。

直筆原稿残存社説 92 編中 50 編不採録ということは、石河は過半数を選んでいないわけですから、『続福澤全集』緒言末尾の、

大正十五年再版の「福沢全集」に漏れてをる先生の遺文は、此続全集七巻の中に殆ど全く抱羅した筈であるが、ただ世上に散在してゐる書翰の中には或は幾分漏れてゐるものがあるかも知れぬことを、念のために記しておく。(『真実』 71 頁)

という言明は、全くのはったりであったことになります。この、はったり、という評価は、あくまで石河が社説採録に際して誠実に仕事に取り組んだ場合に下される評価です。そして、その場合には、事実として石河には福澤直筆の社説を見極める力などなかった、という結論が導かれることになります。

福澤直筆社説の過半数を落としているという事実から、もう一つの可能性が導き出されます。それは、石河には直筆を判別する能力があったが、その力を誠実に用いることはせずに、福澤直筆のものをわざと採録しなかった、という可能性です。私はこちらの可能性のほうが高いと考えています。

というのは、落とされている社説には、福澤の署名入り著作や書簡の内容とは整合するのに、石河の『福澤諭吉伝』の記述とは矛盾するものがあるからです。そうした社説の最たるものが、日清戦争直前の 1894 年 7 月 5 日に掲載された「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」です。この社説は日本による朝鮮併合を厳しく戒めたもので、それまで金玉均ら朝鮮独立党を強力に支援してきた福澤の言動と適合的ですが、逆に、福澤の真の狙いは朝鮮を足がかりにして中国へ進出することだった、と主張する石河の伝記の記述とは整合しません。

興味深いのは、開戦直前の 1894 年 7 月には石河によって 24 日分の社説(大正版に 2 編・昭和版に 22 編)が採録されているのに、後に福澤直筆草稿が発見されることになる 7 月 4 日と 5 日の社説だけは採られていないことです。もちろん前後の 7 月 3 日と 6 日の分は昭和版に掲載されています。

日清戦争時には有力な社説記者となっていて日々編集部に詰めていた石河が、7 月 4 日と 5 日の社説を書いたのが福澤本人だとは知らなかった、などということがあり得るでしょうか? 知らなかったうえに、文体による判別もできなかった、と仮定しなければ、石河の誠実さを救う方法はないのです。

現行版全集には、1894 ・ 1895 年の 2 年間の社説 284 編が採録されていますが、そのうち戦後に発見されたのは、「衆議院又又解散」(1894 年 6 月 3 日)・「国立銀行」(6 月 22 日)・「兵力を用るの必要」(7 月 4 日)・「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(7 月 5 日)・「長崎造船所」(1895 年 4 月 6 日)の 5 編だけです。石河は現行版より前に、既に残る 279 編を大正版・昭和版正続全集編纂時に採録していたことになりますが、このうち直筆原稿が残存している社説はやっぱり 5 編です。つまり現在福澤直筆原稿が確認されている日清戦争中の 10 編についていうと、石河の全集採択率は 50 %にすぎないことになります。

石河が誠実であったとすれば、文体による判別はできなかった(「五分五分」ではそう言うしかないでしょう)ことになって、全集「時事新報論集」の信憑性は低まり、石河が不誠実で、『福澤諭吉伝』の論旨に合わせるために故意に福澤直筆の社説を落としていたとするならば、もはや「時事新報論集」を信頼することなど全くできない、というのが結論となります。

以上が石河の社説採録に際しての不誠実を証明する 3 つの根拠ですが、私自身としても、それをはっきりさせてしまうのは、心苦しいことでもあるのです。というのも、石河幹明のご子息である故幹武氏(元日本航空副社長)は私が所属する藤沢三田会の 2 代目会長だったうえ、今も拙宅のすぐ近所にお住まいのご令孫とは日常的な交流があるからです。

福澤研究者としてはいたって新参の私ですら、ご遺族との心情を慮って躊躇してしまうほどですから、幹明に支援されていた諭吉の長男一太郎、幹明の弟子である富田正文や昆野和七、富田の友人の丸山真男、さらに丸山の門下生である平石先生や、岩波書店の一員として現行版全集編纂に携わった竹田行之氏らが、たとえ石河の社説採録の結果に疑いをもったとしても、それを言い出せなかったのは、当然のことだと思うのです。

ただ、現行版全集の「時事新報論集」における社説採録には重大な疑いがあり、その疑いの根拠が解釈の相違というような微妙な点ではなく、事実として石河幹明が、福澤諭吉の署名入り著作を全集から省き、また直筆の社説を排除している、という物的証拠に基づいている以上、その事実を黙って見過ごすわけにはいかないのです。放っておけば、最近流された、福澤は第 2 回渡米旅行で公金 1 万 5 千ドルを横領した、という風説のように、いつの間にか虚偽が真実とされてしまうことでしょう。福澤による公金横領がまったくのデマであったことは、同封の「福澤諭吉は公金 1 万 5 千ドルを横領したか?」で証明しております。

最後になりますが、私のほうは、10 月 9 日・ 10 日に慶應大学三田キャンパスで開催予定の日本倫理学会での主題別討議で、「福沢諭吉における国家と個人」という発表を行う予定で、今その準備に追われています。他の討議者は静岡県立大学の同僚でもある八木公生先生と青山学院大学の朴倍暎先生で、どのような討議になるのか、ふたを開けてみなければ分かりません。そうしたわけで充実した日々を過ごしております。

9 月に入ってもまだまだ暑い日が続きそうです。先生も何卒お体にお気をつけ下さい。

敬 具