「石河幹明が信じられない3つの理由」

last updated: 2011-03-11

このテキストについて

以下は、2011年3月発行の静岡県立大学国際関係学部紀要『国際関係・比較文化研究』第9巻第2号(後61~69頁)に掲載の論考「石河幹明が信じられない3つの理由ー『福澤 諭吉全集』「時事新報論集」の信憑性について」の全文です。

内容は、2.5「2010年9月1日付平石直昭氏への書簡(石河幹明の社説採録を信じられない3つの理由)」および「〔論争〕石河幹明を信じられない三つの理由ー『福澤諭吉全集』「時事新報論集」の信憑性について」と重複していますが、一部最新の情報を含んでいます。

石河幹明が信じられない3つの理由ー『福澤諭吉全集』「時事新報論集」の信憑性について

平山 洋

『政治思想学会会報』第30号(政治思想学会編・2010年7月20日発行)に掲載された平石直昭氏の評論「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」(同会報3から9頁・以下『会報』と略)には、石河幹明の全集への社説採録に関する私の考えに誤解があるようである。そこでそのことについて私見を述べ、ついで石河による社説採録には信憑性が乏しいことについて、その根拠を3つ示したいと思う。(注1)便宜上、前段のタイトルを、「石河「例言」の解釈は、平石氏と私(平山)では異なっている」とし、後段のタイトルを、「石河の社説採録の不誠実には物的な証拠がある」とする。

前段・石河「例言」の解釈は、平石氏と私(平山)では異なっている

評論全体の基調は、拙著『福沢諭吉の真実』(文春新書・2004年8月刊、以下『真実』と略)での、「現行版『福澤諭吉全集』「時事新報論集」の社説採録は信憑性が乏しく、それらの主張の多くは福澤諭吉ではなく石河幹明のものである」(『真実』120から123頁)という主張に反対して、石河は社説採録の仕事を「原則に立って一貫した選択」のもとに誠実に進めていて、その点についての「彼の大きな功績を認めてよい」(『会報』9頁)とするところにあると拝察する。その原則は、石河が昭和版『続福澤全集』(岩波書店・1933年から1934年刊)の「時事論集」を編むにあたり、その冒頭に掲げた「例言」に示されている。

「時事新報」の社説中には先生が其趣旨を記者に語って起草せしめられたものもあり、又記者の草したる原稿を添削して採用せられたものもあるが、元来先生の筆政(注2)は極めて厳密にして、文字は勿論その論旨までも自身の意に適するまで改竄補正を施し、殆ど原文の形を留めないものもあった。或は此集を注意して通読する読者は間々生硬不熟なる文字用語を発見することがあろう。先生の削正は常に一字一句の末にまで及んだけれども、非常に繁忙の際もしくは印刷の急を要する場合などには多少の字句は看過せられたこともあるが、併しながらかかる場合は極めて稀れであった。而して先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた。『続全集』第1巻1から2頁)

上と同じ部分を私は『真実』73から74頁に、また平石氏は『会報』5頁に引用している。この引用部の最後の一文の解釈が、本前段の問題となる点である。

この「例言」の最後の文について、平石氏は次のように述べている。

「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」における「他人の草稿に係る分」を、竹田(行之・平山註)は福澤以外の人が草稿を書いた分として理解し、そうした原稿に福澤が加筆したものも続全集に採録されている事実に基づいて、上のような注釈を加えたわけである。しかし石河の一文は「福澤以外の者がアイディアを書いたものは、それに福澤が添削して新報に掲載されたものでも省いた」という趣旨にも解釈できる。つまり余人がアイディアを出して草稿を書き、それを福澤が添削したものは、福澤の筆は入っていても採録しなかったということである。福澤が賛成したとしても、その説は案を出した当人のものであり、福澤の加筆の有無に拘らず、福澤全集に採録するのは不適当だからであろう。(『会報』6頁)

引用部の竹田行之氏の解釈とは、『福澤諭吉年鑑』22号(福澤諭吉協会編・1995年発行)所収の「「時事新報論集」について」にある読み方で、「例言」引用部最終文中の「他人」を「福澤起草以外」ととって、実際には石河などが起草した社説も『続全集』に所収されているので、この「例言」の記述は正確ではない、という見解を指している。平石氏は、この竹田氏の解釈とは異なり、「他人」を「福澤以外のアイディア」ととって、もともと石河は社説を福澤のアイディアかどうかを基準として選んでいたのだから、実際の起草者が石河を初めとする社説記者であっても何ら問題とはならない、という解釈に基づき、

石河はこの福澤書翰(社説の責任は自分で持つ、という1889年12月25日付荘田平五郎宛書翰・(注3))を自分の福澤伝で引いており(3巻248頁以下)、社説に対する福澤の姿勢を熟知していたはずである。その上で彼は、元来のアイディアを福澤が出した社説とそうでない社説とを判別していったのであろう。むろん実際の選択において誤りはあったかもしれない。しかしそれは誰がやっても恐らく不可避であり、上記のような原則に立って一貫した選択を行った点に彼の大きな功績を認めてよいと考える。(『会報』8から9頁)

との結論を導いているわけである。そして、先の「例言」の解釈については、その注(1)において、私の解釈について次のように述べている。

平山前掲書(『真実』・平山註)74頁は、本文で引用した石河の文章を同様に解釈している。80頁でも、福澤立案・記者起稿と記者立案・福澤添削とを区別する必要に触れており、これも私と同じ見方である。研究史的には、この区別を立てて井田の<筆癖>による判別法がどこまで有効かという問題を出した点に平山の独創性があった。不思議なのはこのように理解しながら平山が、どの論説を全集に採録するかにつき、石河は選択基準を説明していないと書いていることである(72頁)。石河は彼なりに規準を示しているわけであり、平山の主張は読者を誤解に導きかねない。この点と関連して平山が福澤全集の編纂における石河の底意の暴露というような面に力を集中し(そこには安川寿之輔との長年にわたる論争という要素が影をおとしている)、読者の側でもそうした面に注意がむきがちで、上記の区別がもつ積極的な意味を十分明らかにせずにきたことは、学界にとって不幸なことだったと私は思う。(『会報』9頁)

上記引用部中の『真実』72頁に関する部分には誤解があるようである。当該部分の原文は、

書簡は原則として肉筆署名入りであるから真偽の問題は生じにくいが、主に無署名のもので構成されている「時事論集」と「諸文集」はどのような基準で福澤が書いたものとして選定されたのであろうか。そこで「時事論集例言」に選択基準についての説明があるかというと、それが全くないのである。(『真実』72頁)

となっている。そこで平石氏は、この「選択基準についての説明」を、「例言」引用部最終文「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」と同じと受け取って、「不思議なのはこのように理解しながら平山が、どの論説を全集に採録するかにつき、石河は選択基準を説明していないと書いていることである」と述べているようである。しかし、私としてはこの「例言」引用部最終文全体こそが「選択基準」であり、その根拠についての説明がない、と書いたつもりだったのである。つまり石河は、選択された社説が福澤のアイディアとの証明をしていない、ということである。

さらに『真実』74頁の記述についても、確かにそこでは平石氏と同じ意味でとっているが、最終的には異なる解釈をしている。私は「例言」中の「他人」とは「石河以外」と理解するのが正しいと考えているのである。以下で当該部分を引用する。

福沢が自らの論説・講演集である『修業立志編』に入れることを許した北川筆「活発なる楽を楽む可し」が福沢の思想ではない、などということがあり得ようか。昭和版「時事論集例言」の「先生の校閲を経て社説に掲げたものでも他人の草稿に係る分はこれを省いた」(①2頁)の「他人」とは「福沢以外」の意味ではなく「石河以外」のことだったのだ。昭和版への採否の基準は極めて主観的なもので、要するに、『福沢諭吉伝』で描かれた福沢像を補強する論説で、かつ自らが起筆したものを優先して収録していったに過ぎないのである。(『真実』122頁)

後段でも触れることになるが、「活発なる楽を楽む可し」とは、草稿が発見されたことによって北川礼弼が起筆し福澤が添削したと証明されている社説である(『福澤諭吉年鑑』22号所収)。この社説は福澤諭吉名で存命中に刊行されながら、今まで一度も全集に収められていない『修業立志編』中の一編でもある。福澤立案記者起稿であるからこそ署名入りの単行本に収録されたのは明らかで、石河は故意にそれを全集から排除しているわけだ。こうなると石河は、自分以外の「他人」の草稿による社説は採録しなかった、と「例言」で述べていたことになり、私のこの「他人」の解釈は、「福澤以外」ととる竹田氏とも、「福澤以外のアイディア」ととる平石氏とも異なっているのは明らかである。

以上で石河「例言」の解釈の違いについてははっきりしたと思われるので、以下後段で石河の社説採録に信憑性がないことを証明したい。

後段・石河の社説採録の不誠実には物的な証拠がある

刊行時に形成された強固なイメージを覆すのはなかなか難しいもので、『真実』に関しても、未だに私が井田進也氏の方法(井田メソッド)に基づいて無署名論説を選別し、その中の侵略的絶対主義的なものを石河に帰することで福澤の名誉回復を図った、という受け取られ方をされているのは心外である。私が『真実』で行ったのは、確実な論説に基づくかぎり福澤は市民的自由主義者とみなされる、ということだけで、その結論までの間に石河による全集への社説採録の問題点を指摘しているが、それは彼を「悪玉」とすることを目的としていたのではなく、彼の仕事上の不誠実を証明することによって、「時事新報論集」所収社説の取り扱いに注意を促すのが眼目だった(注4)

現行版全集の「時事新報論集」に入っている社説のほとんどが石河の起筆によるものだとしても、福澤の思想の範囲外と断ずることができないのは言うまでもないことで、そのことは『真実』106頁他で私も認めていることである。問題は石河が採録に際して誠実にことに当たったかどうかで、それについては井田メソッドによる文献判別などとは無関係に、不誠実の物的な証拠がある。以下でその証拠を3つ指摘する。

不誠実の証拠1 石河は福澤署名入りの著作『修業立志編』を全集に収録していない

この事実については、『真実』の第三章「検証・石河幹明は誠実な仕事をしたのか」の4「『全集』未収録単行本『修業立志編』について」で私が最初に指摘し、さらに拙論「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」(注5)でより詳しく論じたにもかかわらず、管見のかぎり、『真実』刊行後6年の間研究者によるいかなる言及もないのが現状である。平石氏も今回の評論において『修業立志編』を巡る問題に全く触れていない。

この『修業立志編』(時事新報社・1898年4月刊)への黙殺は、現行版全集の編纂に与った人々を母体にして結成された福澤諭吉協会の関係者ばかりではなく、福澤を批判して止まない安川寿之輔氏らもまた同様である。福澤の単行本が全集からまるまる一冊抜けている、という事実は極めて重大なことだと思うのだが、誰も触れないのは、言及することで石河の不誠実が一挙に露呈してしまうのを恐れているから、と私には感じられる。

よく知られているように、明治版『福澤全集』(時事新報社)は、1898年に福澤自身の手によって編まれた。その編纂方針は、1893年刊の『実業論』までに福澤名で刊行された著作を何らの修正も施さずに再録する、というもので、福澤はその原則に忠実に則って事に当たっている。1897年の『福翁百話』以降の著作は、単行本として売れ続けていたためか、明治版全集には収録されなかった。1925・1926年刊の大正版『福澤全集』(国民図書)の編纂者は石河だったが、福澤の方針を踏襲するなら、『福翁百話』以降の著作同様、1898年刊行の『修業立志編』をそのまま収録すればよかったのである。ところが石河はそうはしなかった。『修業立志編』を入れなかったことについて、大正版全集の「端書」には次のようにある。

一 本全集所載の内容を挙れば、第一巻より第六巻の『実業論』に至るまでは既刊全集の分に属し、第六巻の『丁丑公論』以下第十巻に至るまでが、今回新に加えたものである。尚ほ慶応義塾編纂の『修業立志論(ママ)』に載て居る文章は、本集『時事論集』中の各篇に分載せるを以て、別に一冊として収録せず。(『真実』67頁)

苦労して入手した『修業立志編』を見てみると、その表紙には確かに慶應義塾編とあるが、同時に福澤先生著とあって、福澤の緒言も付せられた署名入り著作に間違いない。内容は青少年向けの演説・論説集で、『福翁百話』のジュニア版とでもいうべきものである。1898年から1936年まで40年近くも慶應義塾で教科書として使われ、226事件直後に刊行された第52版を以て絶版となっている。

この著作を全集に入れない理由として、石河は、『時事論集』に分載されているから、と書いているが、実際には全42編の中「活発なる楽を楽む可し」を含む9編を収録していない。これら9編は現行版全集にも入っていないので、一般には国立国会図書館のデジタルライブラリー(注6)でしか読めなくなっている。

不誠実の証拠2 『修業立志編』全集未収録9編のうち、「忠孝論」と「心養」の2編はより重要である

石河が北川起筆の「活発なる楽を楽む可し」を全集から排除したことは、弟子の心情としてまだしも理解できる。優れた師匠の門下生同士が互いに激しいライバル意識をもつことは、むしろ当然のことといってよく、同様のことは、プラトンやイエスの弟子たちにも、また丸山真男の門下生の間にもあったであろう。師匠を尊敬する余り、自らと師匠を同一視してしまった弟子の物語として石河の行為を描くことは可能だと、この問題に取り組み始めた当初の私も考えていた。ところが、そうではなかったのである。というのも、石河は確実に福澤の直筆と分かる論説まで全集から排除した、ということが明らかになったからである。

福澤直筆と私が判断した「忠孝論」と「心養」の2編の考証については、論文「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」ですでに行っている。より重要なのは「忠孝論」であるが、その文中に自著として『文明論之概略』が触れられている。[ただし、このうち「忠孝論」は福澤直筆ではなく日原昌造執筆と判明した(注7)]私の価値観からいうと、いずれも優れた出来映えの論説で、なぜ全集から落とされているのか理解に苦しむところである。もちろん私の立場からは、石河がそれらを排除したのは、そもそも福澤と石河の考えに違いがあったから、となるが、それはあくまで私の憶測なので置いておいて、ともかく石河は意図的に福澤直筆の論説を全集に収録しなかった、ということがはっきりしさえすれば、不誠実の証拠を示すというここでの目的は達せられたことになる。

不誠実の証拠3 石河は福澤の直筆原稿残存社説92編のうち、50編を全集に採録していない

証拠1・2はすでに『真実』で指摘してあることである。最後の3は、私が伝記『福澤諭吉ー文明の政治には六つの要訣あり』を執筆する途中で、現行版全集の「時事新報論集」・『福澤諭吉年鑑』各号・マイクロフィルム版福澤関係文書目録を調べた結果として確かめられた新事実となる(注8)

直筆原稿残存社説92編中50編不採録ということは、石河は過半数を選んでいないわけであるから、『続福澤全集』緒言末尾の、

大正十五年再版の「福沢全集」に漏れてをる先生の遺文は、此続全集七巻の中に殆ど全く抱羅した筈であるが、ただ世上に散在してゐる書翰の中には或は幾分漏れてゐるものがあるかも知れぬことを、念のために記しておく。(『真実』71頁)

という言明は、全くのはったりであったことになる。この、はったり、という評価は、あくまで石河が社説採録に際して誠実に仕事に取り組んだ場合に下される評価である。そして、その場合には、事実として石河には福澤直筆の社説を見極める力などなかった、という結論が導かれることになる。

福澤直筆社説の過半数を落としているという事実から、もう一つの可能性が導き出される。それは、石河には直筆を判別する能力があったが、その力を誠実に用いることはせずに、福澤直筆のものをわざと採録しなかった、という可能性である。私はこちらの可能性のほうが高いと考えている。

というのは、落とされている社説には、福澤の署名入り著作や書簡の内容とは整合するのに、石河の『福澤諭吉伝』の記述とは矛盾するものがあるからである。そうした社説の最たるものが、日清戦争直前の1894年7月5日に掲載された「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(注9)である。この社説は日本による朝鮮併合を厳しく戒めたもので、それまで金玉均ら朝鮮独立党を強力に支援してきた福澤の言動と適合的なのだが、逆に、福澤の真の狙いは朝鮮を足がかりにして中国へ進出することだった、と主張する石河の伝記の記述とは整合しない。

興味深いのは、開戦直前の1894年7月には石河によって24日分の社説(大正版に2編・昭和版に22編)が採録されているのに、後に福澤直筆草稿が発見されることになる7月4日と5日の社説だけは採られていないことである。もちろん前後の7月3日と6日の分は昭和版に掲載されている。

日清戦争時には有力な社説記者となっていて日々編集部に詰めていた石河が、7月4日と5日の社説を書いたのが福澤本人だとは知らなかった、などということがあり得るだろうか? 知らなかったうえに、文体による判別もできなかった、と仮定しなければ、石河の誠実さを救う方法はないのである。

現行版全集には、1894・1895年の2年間の社説284編が採録されているが、そのうち戦後に発見されたのは、「衆議院又又解散」(1894年6月3日)・「国立銀行」(6月22日)・「兵力を用るの必要」(7月4日)・「土地は併呑す可らず国事は改革す可し」(7月5日)・「長崎造船所」(1895年4月6日)の5編だけである。石河は現行版より前に、既に残る279編を大正版・昭和版正続全集編纂時に採録していたことになるが、このうち直筆原稿が残存している社説は同じく5編である。つまり現在福澤直筆原稿が確認されている日清戦争中の10編についていうと、石河の全集採択率は50%にすぎないことになる。

石河が誠実であったとすれば、文体による判別はできなかった(「五分五分」ではそう言うしかない)ことになって、全集「時事新報論集」の信憑性は低まり、石河が不誠実で、『福澤諭吉伝』の論旨に合わせるために故意に福澤直筆の社説を落としていたとするならば、もはや「時事新報論集」を信頼することなど全くできない、というのが結論なのである。

以上が石河の社説採録に際しての不誠実を証明する3つの根拠であるが、私自身としても、それをはっきりさせてしまうのは、心苦しいことでもある。というのも、石河幹明の実子である故幹武氏(元日本航空副社長)は私が所属する藤沢三田会の2代目会長だったうえ、今も拙宅のすぐ近所にお住まいの令孫とは日常的な交流があるからである。

福澤研究者としてはいたって新参の私ですら、ご遺族の心情を慮って躊躇してしまうほどであるから、幹明に支援されていた諭吉の長男一太郎、幹明の弟子である富田正文や昆野和七、富田の友人の丸山真男、さらに丸山の門下生である平石直昭氏や、岩波書店の一員として現行版全集編纂に携わった竹田行之氏らが、たとえ石河の社説採録の結果に疑いをもったとしても、それを言い出せなかったのは、当然のことだと思うのである。

ただ、現行版全集の「時事新報論集」における社説採録には重大な疑いがあり、その疑いの根拠が解釈の相違というような微妙な点ではなく、事実として石河幹明が、福澤諭吉の署名入り著作を全集から省き、また直筆の社説を排除している、という物的証拠に基づいている以上、その事実を黙って見過ごすわけにはいかないのである。放っておけば、最近流された、福澤は第2回渡米旅行で公金1万5千ドルを横領した、という風説のように、いつの間にか虚偽が真実とされてしまうに違いない。この、福澤による公金横領の事実がまったくのデマであったことは、拙論「福澤諭吉は公金1万5千ドルを横領したか?」(注10)で証明されていることだが、それはまた別の物語である。

脚注

(1)
本評論は、平石直昭氏の評論「福澤諭吉と『時事新報』社説をめぐって」(ネット上で公開 http://wwwsoc.nii.ac.jp/jcspt/publications/nl/030_201007.pdf )への反論として書かれた2010年9月1日付書簡を、「です・ます」調から「である」調に書き改めたものである。「忠孝論」に関する新事実の加筆([]内)のほか、冒頭末尾の時候の挨拶や近況報告の部分を省いたり、書簡ではかっこに入れた補足説明を本評論の註に移している場合があるが、内容の改変はしていない。表記については『福沢諭吉の真実』などの題名とそこからの引用にかぎり、「福沢」とし、それ以外では「福澤」を用いるほか、物故者の敬称は省略している。なお、書簡自体は拙サイト「平山洋氏の仕事」 http://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/h93/ で公開されている。
(2)
この「筆政」とは新聞用語のようで、原典の通りとした。これを「筆致」と表記した『真実』も『会報』もともに誤りであるようである。
(3)
『福澤諭吉全集』第18巻(岩波書店・1962年5月刊)348頁。
(4)
石河を「悪玉」ないし「悪人」とする字句は、『福沢諭吉の真実』を初め、私の著書・論文のどこにも見いだせない。私は単に、全集編纂に際して石河は不誠実な仕事をした、と述べているだけである。こうした誤解が生じた原因については、拙論「誰が『尊王論』を書いたのか?」静岡県立大学国際関係学部編『国際関係・比較文化研究』第5巻第2号(2007年3月発行)67-100頁を参照のこと。
(5)
石毛忠編『伝統と革新ー日本思想史の探求』(ぺりかん社・2004年3月刊)217-235頁。
(6)
『修業立志編』の国立国会図書館デジタルライブラリー内のURLは、 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/756295/
(7)
私が「忠孝論」を福澤直筆と判断した根拠は、その文中に、「但し此忠義の事に就ては余が文明論之概略中に於て審かに論じたれば復た此に贅せず依て聊か左に孝のことを説かん」と記載されていたためであった。ところが『福澤諭吉事典』(慶應義塾大学出版会・2010年12月刊)の巻末Ⅷ「『時事新報』社説・漫言一覧」(932頁)により、「忠孝論」は明治22(1889)年2月4日に「ボーストン某生」の署名入りで掲載されていることが判明した(2011年1月6日発見)。「ボーストン某生」とは、当時サンフランシスコ在住の福澤の高弟日原昌造であり、本社説が彼の筆であったことは、明治22年2月2日付日原宛福澤書簡(一三六五番)に明らかである。2月4日付紙面では、該部分は、「但し此忠義の事に就ては福澤先生の所著文明論之概略中審かなる所論あるが故に復た此に贅せず依て聊か左に孝のことを説かん」とあって、『修業立志編』に収められたときに改変がなされたことが分かった。
なお、この発見に先立ち、杉田聡氏は「忠孝論」が福澤直筆ではないことを、井田メソッドにより正しく判定していた。同編『福沢諭吉 朝鮮・中国・台湾論集ー「国権拡張」「脱亜」の果て』(明石書店・2010年10月刊)解説349頁。本稿入稿(2010年10月25日)後入手。(以上註7のみ2011年1月11日平山追記)
(8)
「福澤諭吉直筆草稿残存社説一覧」『福澤諭吉ー文明の政治には六つの要訣あり』(ミネルヴァ書房・2008年5月刊)巻末。
(9)
『福澤諭吉全集』第14巻(岩波書店・1961年2月刊)436頁。
(10)
静岡県立大学国際関係学部編『国際関係・比較文化研究』第8巻第2号(2010年3月発行)190-214頁。