「朝鮮総督府の宗教政策と国内法の関係」

2013-10-29

このテキストについて

平山氏からの依頼により、2013年10月26日に沖縄県宜野湾市沖縄国際大学で開催 された韓国日本近代学会での発表「朝鮮総督府の宗教政策と国内法の関係」の発 表草稿とスライドを、平山氏の了解のうえアップロードします。

発表草稿

(スライド1)
                                朝鮮総督府の宗教政策と国内法の関係

                                    静岡県立大学	平山	洋
                              第28回韓国日本近代学会国際学術大会発表
                                於沖縄国際大学・2013年10月26日
(スライド2)
 この発表の目的は朝鮮総督府による宗教政策と日本国内の関連法規の関係について明らかにすることです。最初にごく大まかに発表内容を説明するなら、統監府時代の1906年から1936年までは、内地と呼ばれていた日本国内の法令が朝鮮にも適応される形がとられています。いわゆる「内地延長主義」ですが、この形が1937年以降逆転するのです。逆転とは、朝鮮での宗教政策がかえって内地向けの政策に影響を与えるようになることで、興味深い現象です。
 それでは以下4枚のスライドを使って、「朝鮮総督府の宗教政策」を概説します。
 日本による朝鮮統治は、1919年の「3・1運動」で大きく二分されますが、宗教政策については、さらに1915年で二期に分けられます。この時期の重要な法規がA(1906年11月「宗教ノ宣布ニ関スル規則」統監府令第45号)、B(1911年09月「寺刹令」制令第7号)、C(1915年08月「神社寺院規則」総督府令第82号)、D(1915年08月「布教規則」総督府令第83号)の四つです。
 そのうち日本人布教者を対象とするAは、帝国議会で審議され、廃案となった1899年の「宗教法案」を簡略化したもの、もともとは大韓帝国の法令を改正したBは、日本仏教にある本寺末寺制度や責任者制度の導入を図ったもので、1884年の「太政官布達第19号」などに起源があります。Aは韓国併合より前、Bは仏教のみが対象ということで、より整理された法規が必要とされたので、作られたのがCとDです。Dもまた「宗教法案」の影響下にありますが、日本の法令中最初の「キリスト教」の使用例となっています。Cは神社や寺院の設立の用件について定めたものです。なお、韓国併合後は外国人も総督府の法規の適用を受けるようになりました。
(スライド3)
 CとDによって、朝鮮内での宗教活動には例外なく総督府の監督下に置かれることとなったので、次に実施されたのは、日本国内の神社制度を朝鮮に移入することでした。E(1916年06月「神社ノ祭式恒例式ニ関スル件」総督府令第49号)とF(1916年06月「神職任用奉務及服装規則」総督府令第50号)がそれで、1915年の勅令199号と200号に基づいています。この結果、併合前までは大韓帝国が国家祭祀として行っていた儀礼は廃止され、日本の祭祀が統一的に実施されることになりました。
 日本政府としては朝鮮内にできるだけ多くの神社を設置したいと望んでいましたが、「神社寺院規則」に基づく正式の神社は簡単には作れないため、G(1917年03月「神祠ニ関スル件」総督府令第21号)を定めました。これは朝鮮各地に散在していた自然崇拝のための神祠を便宜上神社の一種とみなす、という苦肉の策でした。
(スライド4)
 さて、3・1運動の指導者の多くが宗教家だったことに衝撃を受けた総督府は、宗教活動の取り締まりをより強化します。その要点は二つあります。
 第一は国家祭祀の拠点として、ソウルに大規模な神社を創設することでした。これが朝鮮神社H(1919年07月「朝鮮神社創立の告示」内閣告示第12号)です。この朝鮮神社は6年後には朝鮮神宮J(1925年06月「朝鮮神社を朝鮮神宮に改称する告示」内閣告示第6号)へと改称されますが、神宮は神社よりはるかに格式の高い称号です。
 第二は「布教規則」を改正して、監督をより強化することでした。I(1920年04月「布教規則中改正」総督府令第59号)がそれです。ただ、上から圧力をかけるだけでは不満が大きくなるだけなので、認可された宗教団体には保護の便宜が図られる仕組みとなっていました。この「改正布教規則」は1939年の国内法「宗教団体法」に影響を与えています。
 その結果として朝鮮の宗教界は急速に静まりましたが、神社への崇敬を深めるという日本政府の思惑は成功しませんでした。そのための政策上の変化が見られるのは1936年のことです。K(1936年08月「神社制度改正に関する勅令」勅令第250号から第254号)がそれで、1935年の「国体明徴運動」と1936年の「二二六事件」の余波として、神社参拝がより奨励されるようになったのです。
(スライド5)
 1937年に日中戦争が始まって、神社参拝は奨励されるばかりではなく、事実上強制されるようになりました。その強制のしかたは、相当に巧妙でした。まずは誰でもできるような簡単なことから始まったのです。L(1938年04月「靖国神社臨時大祭に際し国民黙祷の件」総督府通牒第13号)とM(1938年10月「靖国神社臨時大祭に際し全国民黙祷並に戦没軍人の慰霊祭執行に関する件」総督府通牒第45号)は、戦死者に黙祷を捧げることが求められていますが、黙祷であって礼拝ではないところが重要な点です。ラジオの音声にしたがって4月26日午前10時14分から15分にかけて東京の靖国神社に向かって一斉に黙祷する、ということで、それを拒否するのはかなり困難だったはずです。
 それが翌年のN(1939年08月「興亜奉公日に関する朝鮮総督諭告」)とO(1939年09月「朝鮮の国民精神総動員運動」内閣週報第151号・非法規)になると、総督府情報委員会が主宰して、毎朝夏季は午前7時、冬季は午前7時50分にラジオの号令により「宮城遥拝」が実施されるようになったのです。宮城は東京ですから、靖国への黙祷と同じ方角となります。ただし拝とありますので、両手を膝につけて90度の礼をするきまりでした。
 また神社参拝は愛国班なる住民組織を単位として奨励されましたが、参拝に行かなければ迫害されるのは目に見えていたので、事実上強制でした。一面一神社運動によって朝鮮各地に多数の神社が創設されていたのです。
 この状況が1945年の終戦まで続くことになります。
(スライド6)
 以上が朝鮮総督府の宗教政策の概説ですが、ごく簡単にその流れを説明するなら、まず3・1運動前は(1)内地の制度を移入した時期(1906-1915)と、(2)神社制度の浸透を図った時期(1916-1918)に、3・1運動後は(3)神社制度を民心の安定に利用した時期 (1919-1936)と(4)神社制度が総動員の装置となった時期(1937-1945)に分けられることになります。
(スライド7)
 さらに、各時期について説明するなら、(1)内地の制度を移入した時期については、その時期は1906年から1915年で、対象となったのは朝鮮居留日本人と朝鮮仏教、そして主たる目的は、日本人に布教の便宜を図ること、その成果は、朝鮮仏教の統制は急速に進展したものの、神社崇敬はほぼ日本人に限られたのでした。
(スライド8)
 つぎに(2)神社制度の浸透を図った1916年から1918年までの時期については、対象となったのは朝鮮居留日本人と一般朝鮮人、その目的は日本人から朝鮮人に神社崇敬を広めることでした。その成果としては神祠の認定により朝鮮各地に神社が創設されましたが、朝鮮人に神社崇敬が広まったわけではないのでした。
(スライド9)
 さらに3・1運動後の(3)神社制度を民心の安定に利用した1919年から1936年までの時期については、.対象となっていたのは一般の朝鮮人で、その目的は朝鮮人に神社崇敬の浸透を図ることでした。.成果としては、神社創設によって日本国内と同一の神社行政が可能となったものの、朝鮮人の祭祀への参加はほとんどないという状況なのでした。
(スライド10)
 最後に(4)神社制度が総動員の装置となった1937年から1945年までの時期についての対象は一般の朝鮮人でした。その目的は朝鮮人に神社崇敬の形を求めることで、成果としては、事実上の強制によって神社参拝に全員が参加することになりましたが、それは要するに愛国班による相互監視の一部となったことを意味していました。
(スライド11)
 さて、本発表の冒頭で、朝鮮総督府の宗教政策は当初の「内地延長主義」から、1937年以降むしろ朝鮮が日本内地に先行するようになると述べました。その具体例が1920年の「改正布教規則」と1939年の「宗教団体法」の相似で、最後にそのことに触れます。
 まず相似の第一は、宗教団体の範囲で、ともに「神道教派・仏教宗派・キリスト教その他」とあります。キリスト教に触れた日本内地の法令は「宗教団体法」が最初です。
 ついで相似の第二は、総督や主務大臣による権限の範囲についてで、その要点は次の三点があります。すなわち、(一)安寧秩序を乱す場合は設立を取り消せる、(二).全職員の解任を命じられる、(三)宗教団体の内部報告の提出を命じられる、ということで、この法律によって日本国内の宗教団体の活動の自由は政府によって制約されることになったのでした。
(スライド12)
ご清聴ありがとうございました

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