「福沢諭吉は朝鮮甲申政変の黒幕か?」

2012-11-14

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福沢諭吉は朝鮮甲申政変の黒幕か?

平山 洋

はじめにー研究史の整理

福沢諭吉が甲申政変と何らかの関わりがあったということは、現在では一般に認められている。ただ、その関係の深浅については、首謀者の金玉均らに単にアドバイスを与えただけ、とするものから、黒幕として遠方から彼らを操縦したとするものまで、様々ある。もとより福沢自身は甲申政変に関与したとは述べていない。そのため福沢は甲申政変の黒幕だとする主張は、福沢以外の人物の証言によって形作られたと推測できる。その中心人物が弟子の井上角五郎であるが、さらに同じく弟子の石河幹明が角五郎の証言を補強する福沢書簡を『福沢諭吉伝』(1932)で紹介している。角五郎の存命中に福沢黒幕説を支持する著作として検出できたのは石河による伝記のみとはいえ、この著作の影響力が大きかったため、黒幕説は広く知られることになった。

角五郎の没後、朝鮮近代史研究として現在なおも高く評価されている田保橋潔『近代日鮮関係の研究』(1940)が、角五郎の証言を採用して福沢黒幕説を追認している。この著作は戦後も権威として扱われたため、その影響の下、山辺健太郎(『日韓併合小史』(1966))が、金玉均による後藤象二郎宛書簡「擬以朝鮮策略」を、その証人として指定されている福沢の政変事前関与を示す証拠として発掘した。この書簡は金玉均研究の最高峰と目される琴秉洞の『金玉均と日本ーその滞日の軌跡』(1991)で再度紹介されて、認知の度合いをより深めた。

これらの先行研究を踏まえて、福沢黒幕説について現在最もまとまった記述をしているのが杉田聡である。杉田は『福沢諭吉ー朝鮮・中国・台湾論集』(2010)の解説に「二 甲申政変と福沢ー福沢はむしろ開化派の堅実的な発展を阻んだ」という節を設け、次のように述べている。「福沢が、朝鮮の客観的情勢をまともに見ることもないまま、したがって成功の見通し・もたらされる影響等についての熟慮などないまま、金玉均・朴泳孝らにクーデターを煽ったのは、確実である」(三五九頁)。

そこで本論文の目的は、甲申政変当時の関係者の主な証言・報告・書簡等を一覧することで、福沢黒幕説が成立するかどうかについて考察することである。なお、文中で紹介される資料はすべて時系列順で番号が付されていて、以下タイトル・日付・出典(注1)となっていることをあらかじめお断りしておく。

一 福沢諭吉が語る朝鮮と朝鮮人―明治十四年六月十七日から明治十七年十一月四日まで

福沢と朝鮮人の接触は、明治十三(1880)年夏の僧侶李東仁との出会いに始まる。金玉均ら朝鮮開化党と交流があった李と福沢との間にその時どのような会話がなされたのかは明らかではないものの、その後の状況の進展から推測して、朝鮮国内で西洋的な近代化を目標にしている開化党への人的な支援が約束されたものと思われる。その後明治十四年五月、魚允中・洪英植・朴定陽ら六十二名で構成された紳士遊覧団が日本に向けて出発し、加者のうち兪吉濬・柳正秀(共に慶應義塾)・尹致昊(中村正直の同人社)は初の日本留学生となった。

李東仁と面会したことを示す書簡は発見されていない。朝鮮人との交流を示す最初の言及は、明治十四年六月の次の書簡である。

資料一 小泉信吉・日原昌三造宛書簡(明治十四年六月十七日)福沢諭吉書簡集三

「本月初旬朝鮮人数名日本の事情視察の為渡来、其中壮年二名本塾へ入社いたし、二名共先づ拙宅にさし置き、やさしく誘導致し遣居候」と、兪吉濬・柳正秀の両名が留学したことを示したもので、しばしば引用されている有名な手紙である。

さて、かねてより開化党の領袖と見なされていた金玉均が最初の日本訪問を果たしたのは、翌明治十五年三月から八月にかけてのことである。東京に到着した金が福沢と初めて面会したのは六月初旬で、飯田三治によればそこには徐光範も同席していたという。

朝鮮開国後の開化党の活動に不満を募らせたのが、かつての鎖国政策に憧憬を抱いていた事大党員だった。明治十五年七月下旬、劣悪な待遇に甘んじていた旧式軍隊が暴発した。彼らは国王の父大院君李夏應を奉じて決起、日本軍が軍事指導していた新式軍隊を打ち破り、開化党寄りになりつつあった政府を転覆させ、その渦中で在朝鮮日本人が多数が殺傷された。この時点で混乱の拡大を憂慮する在朝鮮清国軍が介入、大院君を逮捕して天津に護送、朝鮮は清国の影響下のもと、前の閔一族を中心とする政府に復帰したのだった。これが壬午軍乱の顛末であるが、その直後の書簡に次のようなものがある。

資料二 寺田福寿宛書簡(明治十五年十月一日)福沢諭吉書簡集三

東本願寺の僧で朝鮮語を学んでいた金色良忍との面会を希望する手紙である。福沢の弟子の寺田も真宗僧侶で、金色とは面識があった。福沢は同郷人で朝鮮情勢を知悉している金色に関心をもったのである。

資料三 井上角五郎宛書簡(明治十六年七月一日)福沢諭吉書簡集三

牛場や高橋が帰国後、金玉均と面会したことが書かれている。「金玉氏到着、御地の様子を承候得共、確なる事は不相分、唯原田氏へ御託しの貴書に拠り大略を知るのみ。書中御注意の件々は能く心得居候積、御安心可被下候」とあって、角五郎が帰国する原田一(武芸家)に何らかの秘密情報を託したことが分かる。この文書は未発見である。

資料四 井上角五郎宛書簡(明治十六年十一月二十一日)福沢諭吉書簡集四

朝鮮で『漢城旬報』を刊行していた角五郎に、すでに出来上がったハングル文字活字が手元にあるので、必要ならば送付する旨書き送っている。

資料五 飯田三治宛書簡(明治十七年四月十七日)福沢諭吉書簡集四

四月十五、十六日の両日長崎にいる金玉均に慶應義塾在籍の朝鮮人留学生をどうするかについて相談する電報を打ったが返信がないので、留学生から直接金へ打電するよう依頼する内容である。金は前年初夏から来日していたが、福沢からの電報が届く前に長崎から帰国の途についていた。

資料七 福沢一太郎宛書簡(明治十七年九月八日)福沢諭吉書簡集四

甥の今泉秀太郎が朝鮮に行く決心をして、十月初旬に出発するつもりである、「先方にては山田季治も居り、又井上角五郎は過般再渡、京城にて新聞に従事致居候事ゆへ、秀さんも多分井上之方へ参り可申」とある。

資料八 福沢一太郎宛書簡(明治十七年十一月四日)福沢諭吉書簡集四

追伸に、「秀さんも昨今は朝鮮着之時なり。井上角五郎と同居之事ならん。今度角五郎より書状壱封々入さし送候」とあるが、本書簡に同封された角五郎の書簡は非残存である。

以上が、甲申政変が起こるまでの分である。

二 福沢諭吉が語る甲申政変―明治十七年十二月二十一日から明治二十一年三月二十三日

明治十七年九月、壬午軍乱以後主に日本で活動していた金玉均が帰国した。壬午軍乱と甲申政変の乱間期の朝鮮政府内の勢力としては、清国追従の事大党と、文明開化だけは日本に習うという開化党穏健派、そして清国からの完全独立を図る開化党独立派の三派があった。このうち独立派が同年十二月四日、郵征局(郵政省に相当)開局の祝宴に集った閔泳翊ら開化党穏健派(事大党ではない)の要人数名の暗殺を皮切りに、その行動を清国軍の仕業と見せかけることにより国王を動かし、日本軍の出動を要請させて宮中を制圧、さらに参内してきた事大党の閣僚たちを殺害することによって、一挙に独立派政権を樹立することを目論んだのだった。

郵征局では閔泳翊を負傷させたのみで開化党穏健派の排除には失敗し、日本軍の支援により王宮の占拠には成功して事大党閣僚の抹殺を実行したものの、清国軍の介入によって新政権を軌道に乗せることはできず、六日にやむなく退去、日本公使館に潜伏することになった。日本公使館も危険になったため、竹添公使ほか館員や日本人避難民は日本軍の護衛のもと済物浦の租界に移動、公使館員はそこで職務を続け、日本人避難民と変装した首謀者たちは十一日出港の定期船千歳丸に乗船して十三日に長崎に上陸したのだった。

福沢書簡における甲申政変への初言及は、十二月二十一日付書簡である。

資料一七 福沢一太郎宛書簡(明治十七年十二月二十一日)福沢諭吉書簡集四

「今泉も彼地へ参り早々にて遭難、危き処を遁れ、井上共無難」と角五郎と今泉秀太郎が危うく難を逃れたこと、そして角五郎は明日また出発するとある。

資料二〇 京城変乱始末(明治十七年十二月から明治十八年三月頃)福沢諭吉全集二〇

この文書は、金玉均の「甲申日録」と並んで、政変に関する最重要文献である。執筆後は長らく福沢家が秘蔵していたが、日韓併合で解禁となり、時事新報紙上に掲載され、また後年『福沢諭吉伝』に全文掲載された。注目すべき点の第一は、十月三十一日条「此日竹添は代理公使島村及び井上角五郎を招き、我政府は此度支那を攻むるに決したり、朝鮮にして隙あらば之に乗ぜんと欲し、且つ其人望を得るが為め四十万弗の償金を還与することとなれりなど、種々の談話あり」という部分である。

また第二に、この文書には甲申政変に四名の日本人が参加した旨の記述がある。すなわち、政変当夜の郵征局外の配置を記した後、「右の如く部署して、日本人は四名、殿後に備へ、韓人の手に仕損じたらば必ず継がんとの約束なり。(日本人四名の内一名は陸軍より出で、一名は公使館より出で、外二名は金朴の手より出でたり。)」とある。この部分は金玉均の陳述を採用した部分と思われ、事実「甲申日録」にも、日本人四名の参加があったとある。

資料二三 福沢一太郎宛書簡(明治十八年四月十日)福沢諭吉書簡集四

「井上角五郎は一寸帰国致候得共、又候渡韓、明日出発之積り。同人は朝鮮政府にて非常に信用を受け、甚だ都合宜し」とある。福沢の「京城変乱始末」はこの時までに完成していて、角五郎はそれを閲覧したようだ。

資料二四 井上角五郎宛書簡(明治十八年四月十八日)福沢諭吉書簡集四

朝鮮に再び向かう途中の角五郎が神戸から発した書簡(四月十三日付)への返信。次の下関在住の中村宛書簡に同封されて送られた。角五郎は途中で福山に帰省するとの目算である。内容は朝鮮に着いてからの連絡の方法についてで、東京からは東条軍平の差出人名で山田季治宛に出すから、以後そのつもりでいてほしい、とある。

資料二五 田中不二麿宛書簡(明治十八年四月二十八日)近代日本研究二三

二〇〇六年に発見された非常に重要な書簡である。当時田中は駐伊特命全権大使で日本不在であったため、福沢もあけすけに甲申政変について評論している。すなわち、「去年京城之変乱に日本公使は全く知らざる者にあらず、ただに公使のみ然るにあらず。朝鮮の日本党を助け支那党を斥け、支那の勢力を挫けてやれと申すは、竹添の後口之方に大丈夫なる後押しありし事なり(内極)」。竹添公使は蜂起を事前に知っていただけでなく、別の勢力からの指示を受けていた、というのである。「而して此後押も内の親分一同一致の事にあらず。一、二之人が極々怜悧に抜駆けしたる内実にて、之が為めさて事は首尾能参らず、大失敗之暁に至りて大心配なり。これ即ち二大使が特に韓清二廷に出掛けたる由縁ならん」。

ところが、開化党独立派支援は政府一致の方針ではなく、一・二の人の独断だったため、政変への支持は首尾一貫したものではなくなり、大失敗となった。場合によっては清国との戦争も覚悟しなければらなくなり、井上馨と伊藤博文がそれぞれ朝鮮と清国に派遣されたのも、その後始末のためだった、という。「内閣などにても、老生が兼ねて朝鮮人に親しく致すゆへ、福沢が教唆したと申居候よし。此の言掛けはあまり拙し、ほんとふに詮議致せば足元から鳥が立ち可申、気の毒なることにござ候」。ここで福沢は、自分へ向けられた疑惑を一蹴しつつ、閣内に扇動者がいたことを示唆している。

さらに福沢は、亡命してきた金玉均や朴泳孝を支援したことに触れ、前年十月末に再着任した竹添公使が彼らを見捨ててしまったことを憤っている。そして「今度之変乱に、彼の大臣暗殺之刺客中日本人が四名出掛け候。姓名も場所も明白なれ共、態と此に略す」と、日本人が甲申政変に参加したことをここにも書いている。

資料三〇 飯田三治宛書簡(明治十九年三月二十三日)福沢諭吉書簡集五

朝鮮に何かを百本送ったということが記されている問題の手紙である。「朝鮮より未だ便は無之候得共、注文品は百本丈御用意被成下候よし」とある。『福沢諭吉伝』には、「事変の発する前に飯田三治をして横浜の商人の名を以て数十口の日本刀を井上の手元に送らしめた」(第三巻三四一頁)とあるので、石河の考証ではこの書簡は甲申政変前の発信となっているのかと思って調べてみたが、昭和版『続福沢全集』でも明治十九年となっている。本書簡は丸屋について触れているし、明治十六年一月にも丸善横浜支店から馬車と人力車を送らせているので、この「横浜の商人」とは丸善で間違いない。つまり、石河が発見した手紙からは、甲申政変一年四ヶ月後に、福沢が朝鮮に向けて何かを百本送らせた、ということしか分からないわけである。

資料三四 福沢一太郎・捨次郎・桃介宛書簡(明治二十一年一月二十九日)福沢書簡集五

井上角五郎の逮捕を伝える手紙である。角五郎は明治十九年末に朝鮮から戻り、続いてカリフォルニアへの移民事業に携わるため渡米、明治二十一年一月二日に一旦帰国していた。「何事ならんと驚入り色々聞合せ候処、先年来朝鮮国へ参り彼の政府へ被雇中、何か不審の事有之、其嫌疑の為めと申事なり」と、突然の逮捕への驚きが綴られている。

資料三五 大隈重信宛書簡(明治二十一年三月十六日)福沢諭吉書簡集五

意外に事が重大であることを外務大臣の大隈に知らせた手紙である。

資料三六 福沢一太郎宛書簡(明治二十一年三月二十三日)福沢諭吉書簡集五

この尋問について、「本月十五日は井上角五郎被告の事に付、証人として裁判所へ呼出され候。併事柄は誠につまらぬ事にて、直に相済候。角五郎もとんだ事を致して拙者までも面倒を掛け、今更困つた男なりと云ふの外なし」とある。

井上角五郎はなぜ逮捕されたのか。以下四つの節で角五郎の動向を調べることにしたい。

三 朝鮮での井上角五郎―明治十六年一月から明治十七年十一月まで

明治二十五(1892)年夏の壬午軍乱の後日朝関係を修復するため東京に派遣された修信使の正使朴泳孝、副使金晩植、随員金玉均・徐光範・閔泳翊らの日本滞在は明治十五年九月下旬から翌年一月初めに及ぶが、彼らの帰国に合わせて、福沢は弟子の牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎らを朝鮮に派遣した。彼らの目的は、西洋式教育機関の設立と啓蒙を目的とする新聞の創刊にあった。修信使帰国の記念としてなのか、慶應義塾には、正装の閔泳翊を中心に、福沢一太郎・井上角五郎・兪吉濬・福沢捨次郎・牛場卓蔵(?)らが囲むように並んで撮られた写真が残されている(『福沢諭吉事典』(2010)二二七頁)。井上角五郎はそれまで福沢兄弟の家庭教師だったが、彼らが米国に留学することになったので、朝鮮人への英語教育という新たな仕事を求められたのである。

最初の朝鮮渡航時に二十三歳だった角五郎は年齢が上の牛場卓蔵の従者の扱いだった。明治二十四年に書かれた『漢城之残夢』には、意気揚々と朝鮮に向かったはよいものの、現地で事大党の妨害に遭ってしまい、わずか四ヶ月にして教育担当の牛場・高橋および武芸担当の松尾三代太郎・原田一らは帰国し、もとは漢城で教育するつもりでいた朝鮮人の生徒たちは、慶應義塾と陸軍戸山学校に留学することになった、とある。元は教育担当として朝鮮に赴いた福沢門下生のうち、現地に踏みとどまったのは角五郎だけである。

明治十六(1883)年四月以降は、政権内部の理解者金允植(晩植の従兄弟)の後援によって、漢城で最初の新聞『漢城旬報』の発刊準備に従事し、十一月にその創刊号を出した。その新聞は海外情報を広めることを主な目的としていたが、同時に官報の役割も果たしていた。編集を一任された角五郎は清国を批判する記事の筆禍のため、翌年五月から八月まで帰国していた。前年四月に日本留学をした朝鮮人生徒のうち、徐載弼ら陸軍戸山学校に入った者が、明治十七年五月に卒業した。金玉均の帰国も九月で、甲申政変の発生は十二月四日、その失敗がはっきりしたのは六日である。

政変後角五郎は九日に済物浦居留地に移動、十一日に千歳丸に乗船して十三日に長崎に着いている。東京に帰着したのは十八日で、先ずは伊藤博文・井上馨・松方正義ら政府要人と福沢に一連の経過を報告した。そして休息もそこそこに二十二日には事件処理の特命大使となった井上馨の随行員として、再度朝鮮に向かい、明治十八年一月三日に漢城に到着している。

四 時事新報が報じる政変前後の朝鮮情勢ー明治十七年十一月・十二月

明治十七年九月に『漢城旬報』の仕事に復帰してから甲申政変の発生までの約三ヶ月に角五郎が何をしていたかについては、時事新報に掲載された朝鮮関連の記事が参考になる。というのも、時事新報掲載の朝鮮関連情報は角五郎が発信したものだからである。

資料一二 雑報欄・朝鮮京城通信(明治十七年十一月二十六、二十七日)時事新報

十一月十一日に発送した記事である。十月二十三日から十一月六日までの出来事が日記体で綴られている。注目するべき記述は、十月二十六日条に「閔(泳翊)氏は朝鮮中第一の有力家にして且つ才智共に優れ忠真の人なり」と最大級の賛辞が贈られている一方で、徐載弼ら戸山学校出身者については、「いずれも官吏の受けよろしからず皆々遊びおれり」と否定的に書かれているところである。

資料一三 井上角五郎書簡・京城政変始末附録(明治十七年十二月十日頃着?)全集二〇

十一月二十日頃角五郎から福沢に宛てた情勢報告があったことは、「甲申日録」にも角五郎の証言にもある。「京城政変始末」の附録に井上角五郎が十一月九日に発送して十一月二十六日に届いたという書簡が掲載されている(後年紙上掲載)。内容は資料一二に連続していて、こちらが後に書かれたのは間違いない。にもかかわらず資料一二より先に発送されたことになっている。これは日付が改竄されているのではないだろうか。

内容は、竹添が日本は清国を攻撃すると明言して以降独立派は勢いづいている、というもので、金玉均が何かをしそうだが、それがどのようなことかまでは途中に中略があって判然としない。

資料一五 朝鮮事変欄・遭難の日本人神戸特別電報(明治十七年十二月十八日)時事新報

角五郎が神戸から送った電報で、「朝鮮ノ変ニ殺サレタル日本人ハ語学生上野通弁金色センニン(盲人カ)相島…」とある。

資料一八 雑報欄・襲撃した犯人(明治十七年十二月二十二日)時事新報

角五郎によれば、郵征局門外で閔泳翊に切りつけたのは、宗島和作なる人物である(資料三九)。この人物は資料一五資料一六の相島と同一人と思われる。しかし閔自身は角五郎の取材に答えて「切り付けたるは柳赫魯と言へるもの」と証言しているのである。金玉均の「甲申日録」によっても、郵征局の隣家が燃え上がって「火事だ」との声が上がった午後九時に柳が局の門外にいたのは間違いがなく、暗殺の対象になっている閔泳翊が出てきたため、逃亡されてはまずいと考え、つい切りつけたのだと思う。なお閔が外に出たのは、近くにあった父親の閔台鎬の家が放火されたと誤認したためと推測される。当時の政権の最有力者である閔台鎬は、その夜遅く宮中に参内したところを独立派によって暗殺された。

五 井上角五郎が語る甲申政変(1)ー明治十七年十二月から明治二十四年十月まで

甲申政変発生の第一報は、次のようなものであった。

資料一四 長崎打電政変勃発の電報(明治十七年十二月十三日)時事新報

長崎に上陸後角五郎が福沢に宛てて打った電報である。その電文は「去ル四日閔泳翊暗殺セラレ開化党政権ヲ取ル反対党皆殺サル」に始まる平文で打たれている。不穏な内容の電報ということで、先に外務省に届けられた。

資料一六 遭難記事(明治十七年十二月十九・二十日)時事新報

甲申政変についての最初の報告「遭難記事」は、帰国直後の時事新報紙上に掲載されているが、一連の事実経過によって、十二月十一日から十八日までのごく短い期間に書かれたものと分かる。それによれば、政変当日、角五郎は新聞発行所兼住居である博文局にいた。未だ帰趨の決着がついていなかった六日までは周辺を取材していたが、身に危険が迫ってきたので公使館に身を寄せた、ということになっている。なお、「金色良忍、相島某は金玉均の宅にあり」と金色(資料二参照)と相島という二人の日本人が金玉均の使用人となっていたことが記されている。

資料一九 朝鮮事変紀事(明治十八年一月)

角五郎が漢城に着いて半月ほど経過した一月十七日と十九日の日付をもつ『明治十七年十二月朝鮮事変紀事』なる文献が慶應義塾図書館に収蔵されている。表紙には「在朝鮮漢城井上角五郎君寄贈交詢社文庫」とも記されていて、朝鮮にいた角五郎が交詢社に送ったものと分かる。一月十七日の日付の付いた文献は、金允植が竹添公使に提示した事件に関する問い合わせで、千五百字程度の漢文である。十九日付の文献は竹添公使の回答で、二千字程度のやはり漢文である。

資料二二 井上角五郎発信井上馨宛書簡(明治十八年四月六日)都倉武之論文(2007)

明治十八年二月下旬、角五郎は郷里(広島県福山)の母死去の知らせを受けて、一旦帰国した。東京では福沢家に滞在していたのだが、滞在中の四月六日に突如井上馨外務卿に絶交状とでもいうような激しい調子の手紙を出している。直接の理由としては、外務省からの手当てが少なすぎて生活できない、朝鮮の支援者からより多い報酬が得られる見込みができた、と言っている。

資料二六 密書(明治十八年五月頃)秘書類纂二二

角五郎が書いた三月十七日から四月十二日までの漢文による「井上角五郎日記」と「福沢諭吉記事」が、現在「密書」と呼ばれている文献である。「日記」には福沢から、「政変を仕組んだのは外務省の指示を受けた竹添で、その証拠になる詳細な記録がある。その翻訳も別冊にしてある。首謀者である伊藤博文や井上馨ら日本政府の要人は、政変が失敗したので私の策略だと言っているのだ」という話を聞いていた、とある。この別冊が「福沢諭吉記事」で、一部「京城変乱始末」(福沢による亡命者の聴取記録)と類似点が見られる漢文の文書である。

不審なのは「京城変乱始末」には、清仏戦争の混乱に乗じて事を企てるという案に島村久書記官は乗り気だった、としか書かれていないのに、「福沢諭吉記事」には、伊藤・井上両参議を始め、陸奥宗光・渋沢栄一・岩崎弥太郎・勝安房ら日本の有力者が共謀して、日本とフランスが協同のうえ清国を挟み撃ちにする計画があった、という本当なら驚くような謀略が書かれていた点である。

「井上角五郎日記」と「福沢諭吉記事」は角五郎が漢城に戻った直後の明治十八年五月に朝鮮政府に提出された。簡単にいえば、甲申政変福沢黒幕説が朝鮮内に漂いはじめたので居づらくなった角五郎が、それを否定するため書いた弁明書である。自分と開化党独立派とは無関係であることを強調するためか、「日記」には、金玉均らの亡命滞在先が詳しく記してある。角五郎は、意図して亡命者たちを危険にさらそうとしていたことになり、それくらい福沢や角五郎本人の政変関与疑惑に迷惑していたわけである。

明治十八年三月から四月にかけての帰国期間中に、角五郎が福沢から出来上がったばかりの「京城変乱始末」を見せられたのはおそらく事実である。問題は「福沢諭吉記事」が「京城変乱始末」の漢訳にはなっていないことで、「記事」のオリジナルを検分した高平が角五郎の筆跡と確認している。要するに角五郎は、自分の朝鮮での仕事(『漢城周報』刊行の準備)を円滑に行うために、明治政府の要人たちが政変を扇動した、という虚構の福沢手記を創作したのである。

この問題が表面化したのは、「密書」が閔泳翊により日本公使館に持ち込まれた明治二十年七月のことであるが、角五郎は既にその前年の暮れに帰国していた。「記事」中で甲申政変の黒幕にされた伊藤博文や井上馨は、この「密書」は官吏侮辱罪を構成すると判断した。明治二十一年一月二十七日、角五郎は高輪警察署で逮捕された。翌明治二十二年二月十一日の憲法発布の大赦により出獄したので、角五郎の拘禁はほぼ一年に及んだことになる。

資料三七 漢城之残夢(明治二十四年十月)国立国会図書館近代デジタルライブラリー

出獄二年半後に出版されたのが、明治十六年初から十九年末までの約四年間に亘る朝鮮見聞録『漢城之残夢』である。金玉均と朴泳孝が序文を寄せていることから、角五郎が朝鮮の要人に示した「密書」中の「日記」で彼らの所在を朝鮮政府に密告したことは露見していなかったと分かる。

角五郎はこの記録を政変との無関与の証明のために書いたと考えられる。というのも、角五郎は明治二十三年十一月の第一回衆議院議員総選挙の補欠選挙で当選しているのであるが、三十歳の最若手代議士としては、朝鮮の近代化に貢献した事実は誇るべき業績だとしても、実際にクーデタに参加したとなると、日本の政治家として不利益となるおそれがあったのである。以後角五郎は大正十三(1924)年まで三十三年にわたり衆議院議員だったことは、念頭に置かれるべきことであろう。

六 井上角五郎が語る甲申政変(2)ー明治四十三年一月から昭和十八年十二月まで

明治二十四(1891)年までは否定していた自分と福沢の甲申政変関与を角五郎が証言しだすのは、日韓併合後のことである。

資料三八 福沢先生と朝鮮問題(明治四十三(1910)年十一月)慶應義塾学報

角五郎が、自分や福沢が甲申政変に関与していたことを初めてにおわせたのは、管見のかぎり、『慶應義塾学報』同年十一月十五日号掲載の「福沢先生と朝鮮問題」が最初である。この講演の終わり近くになって、角五郎は「其内乱に対して先生は此様な関係があると云ふことは私はハッキリ此所で言得ないが、殆ど小説めいた、如何にも小説らしい話があるから、茲に其話を一つ二つして見たい」と述べ、先ず第一に、諭吉の偽名を東条軍平、角五郎の偽名を山田千治として通信したということ、第二に、「丁度十二月四日の争乱の前に大きな白い木の箱が、私の京城に居る時に届いた」ので、それを「開けると云ふと刀が丁度八十本出てきた」という話である。

資料三九 関係書類は何もない(大正五(1916)年三月)金玉均

葛生東介編『金玉均』中に寄せた講演筆記である。その中で角五郎は、逮捕された関係で関係書類は何もないが、秘密計画に関する手紙が二通あったと記憶する、その中身を紹介したい、として次のようなエピソードを伝えている。

まず第一の手紙は、日本刀や小銃やダイナマイトを用意したときのことで、「日本刀八十振在中の大箱が着いたから吾々は大喜びで箱を開けて見ると、豈計らんや、白鞘に入った物で柄頭がない」。そこでその辺りのものを使って間に合わせることにした。とにかく武器の用意ができたので、今度はどのように挙兵するかについて密議を開いた。すなわち北岳の麓に金玉均が建てた別荘の新築祝いの席上、日取りは月明かりの都合が良い十二月一日と決定し、「日本から帰つた士官学校の留学生十七名に、支那軍服を着せ、予て用意の日本刀を翳ざし」て宴会場に切り込んで清国兵の狼藉を装う、という謀略をたてた。「そこで吾輩は之を福沢先生に報すべくその大略の記事を書いた、罫紙に十枚以上もあつたらう、金君の屋敷の模様から、変装支那人の斬込道筋やら又は殺すべき朝鮮人の名前等まで書いた、当時は日本からの船は釜山までは度々あるが仁川に少なかつたので、京城から態人に持たせて釜山まで送り、それから日本に送るようにした」。その「第一の手紙は十二月十日頃には已に福沢先生の手に入つて、吾輩が官吏侮辱で捕へられた当時まで保存されてあつたのだ」と角五郎は述べている。

第二の手紙は、実行場所を金の別荘から郵征局に移した案を記したもので、その開設の祝宴の最中に隣の藁屋にダイナマイトを置いて点火させ、「一同が驚いて表の通りに逃げ出したら、其通りに沿ふた溝の中から日本人の刺客四人が飛び出して、事大党の奴等を手当り次第に斬殺」するというアイディアであった。角五郎はその詳細を綴った手紙を福沢に送ったが、それは到着しないで、自分のところに返送されてきた。その後も所持していたが、「入獄事件の際亦た闇へ葬られて仕舞つた」ということである。

それから講演は、事件当夜のことに進む。そこでは藁屋に放火したのが福島春秀、閔泳翊に斬りつけたのが宗島和作(ママ)という日本人だったことを明かしている。

資料四〇 朝鮮政府の顧問(大正八年十月)井上角五郎君略伝

本書は角五郎本人の著作ではなく井上角五郎君功労表彰会の古庄豊が書いた略伝である。甲申政変に関しては、『漢城之残夢』と同じである。つまり混乱が大きくなってきたので公使館に避難した、とあるだけで、角五郎の政変関与にはまったく触れていない。

資料四一 朝鮮事変に就いて(昭和四年三月)『明治文化研究』五ノ四

昭和三年十二月の明治文化研究会での講演筆記。資料三九とほぼ同じ内容である。

資料四二 先生手記の変乱始末(昭和七年四月)福沢諭吉伝三 

ここまで角五郎が政変関与を表明している資料三八は慶應義塾の学内報、資料三九は金玉均の支援者たちによる記念刊行物であるから、一般社会に広く知られたものではない。それに対しこの伝記は多くの読者を得たため、甲申政変福沢黒幕説は一般に認知されるまでになった。石河は、明治四十三年の韓国併合時に時事新報に掲載されたきり、その後の全集には収録されなかった「京城変乱始末」の全文を掲載したうえ、角五郎に直接取材し資料三九の内容を紹介している。さらに新情報として、横浜の商人を通して日本刀を数十振りか送ったことを意味する書簡を新情報として提示している(第三巻三一二頁以下)。

資料四三 朴・金諸氏改革運動の前後(昭和九年二月)福沢先生の朝鮮御経営と朝鮮現代の文化に就いて

角五郎が福沢の朝鮮への貢献を顕彰するためにまとめた報告で、甲申政変に関しては、福沢の援助は大きかったとするが、その具体的な話はしていない。

資料四四 故友金玉均君の回想(昭和十年五月)古筠二

総島和作は宗島和佐と表記されている。あとは資料三九と同じである。さらに、資料三九では紛失したとされていた第二の手紙が発見されたともされている。

資料四七 金玉均君に就て(昭和十二年五月)中央朝鮮協会パンフレット(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

角五郎自身が語った甲申政変についてのもっとも詳細な告白である。資料三八資料三九の情報に加え、日本人の郵征局襲撃参加者として、巡査の中村四郎兵衛と車夫の金太郎が参加していた、としている。これで都合四人となって、当日郵征局周辺にいた日本人壮士全員の名前が明らかになった。しかも、彼らを指揮していたのが、実は角五郎であったことになっている。

資料四九 甲申義挙の計画(昭和十八年十二月)井上角五郎先生伝

角五郎の死後、それまでの発表物に、本人からの聞き書き、さらに本人が死の直前まで手を入れていたという自筆年譜をもとに書かれた伝記である。甲申政変では角五郎の最大限の関与が示されていて、この本が戦後のすべての福沢黒幕説の出典となっている。ここでの福沢の役割はまさに黒幕というにふさわしいもので、角五郎にあらかじめ暗号表をあたえて直前まで電報で指示を出しつつ、日本刀・ピストル・ダイナマイト、さらには日本人壮士を送り込んだとされている。

七 金玉均が語る甲申政変―明治十七年から明治二十七年まで

ここまでで福沢諭吉と井上角五郎による甲申政変関係の言及を見てきた。角五郎が述べていたように、まさに「関係書類は何もない」。角五郎が甲申政変への福沢関与の証拠として挙げてきた、福沢による偽名の指示は明治十八年四月十八日付書簡(資料二四)に、また福沢が何かを百本朝鮮に送った事実は明治十九年三月二十三日付書簡(資料三〇)に記されているが、いずれも政変より後のものである。また、現行版全集(第二十一巻三七四頁)には暗号表なるものが掲載されているが、都倉武之(修士論文2004)によれば、政変後再度朝鮮に渡った明治十八年十二月末以降に、井上馨外務卿との連絡に使われた可能性が高いことが明らかとなっている。

今まで福沢関与の証拠とされてきたこうした事柄が、例え政変より後にあったことだとしても、事前の関与がなかったことを証明するものではない。決起した開化党独立派の当人たちが証言していれば、それだけで明白な証拠となろう。そこで、政変を生き延びた金玉均・朴泳孝・徐載弼・李奎完の四名がどのように言っているかを見ることにしたい。

資料六 金玉均筆・擬以朝鮮策略(明治十七年八月頃)金玉均と日本

一九六〇年代初頭に研究者の山辺健太郎によって発見された書簡である。後藤象二郎に宛てられたこの手紙には日付が入っていないが、内容からいって、最後の帰国直前の時期に朝鮮の改革について自らの決意を述べたものと考えられる。証人として福沢の名前が挙げられているので、福沢もこの書簡を知っていたはずである。

その内容は、清国が宗主権を強化しようとしている現状にあって、政治改革のためにはまず旧慣の打破すなわち掃除破壊を行う必要がある。そして、「その掃除の道に二策あり、第一はここに君(国王)の密勅を得て、平和に事を行うなり、(次の)一は、ここに君の密意に頼りて、力を以て事に従うなり」と、二つの策を提示し、「もし、平和(の策)を用いれば則ち朝鮮国人を皆これに用い、もし、武力(の策)を用いれば則ち勢い日本人を雇用せざるを得ず」と、武力を使う場合は日本人の協力が必要と述べている。

従来までの研究では、福沢にも送られたのがほぼ確実なこの手紙によって、後藤と福沢の両人が国内で壮士を募って朝鮮に送り込んだ、とされてきた。「京城変乱始末」や、次に述べる金自身の「甲申日録」に登場する四人の日本人がそれである。しかしその四人は「京城変乱始末」にあるように漢城在住の者たちばかりで、後藤や福沢が手配したわけではない。私は、「日本人の雇用」と金が言っているのは、独立派の武装蜂起の際に日本軍が出動することを意味していると思う。

十二月四日の決起に参加した独立派は、金・朴・徐など日本に亡命した九名を除いてすべて死刑に処され、参加しなかった同調者も重罪に問われた。一九二〇年代初頭に朝鮮総督斎藤実が調べさせた記録(『金玉均と日本』九二四頁)によれば、独立派の総数は九十二名である。彼らの内政変直後に処刑された者は四十二名で、その多くが慶應義塾と陸軍戸山学校を卒えたばかりの帰国留学生たちである。彼らが銃器を所持していなかったことは、資料四五の朴泳孝の証言により明らかで、宮中を固めて新政権を発足させるためにはどうしても日本軍の支援が必要だったのである。

実行に移された甲申政変が結果として失敗してしまったために、そのもともとの構図が曖昧になっているが、郵征局開局祝宴の最中に隣の家屋を炎上させるというのは、清国軍人を装った独立派による、ほんの序曲にすぎなかったのである。事の本質はすなわち、開化党穏健派の数名が清国軍人によって斬殺されたと臨席していた西洋諸国の外交官に信じ込ませるところにあり、その後独立派の主力は宮中に駆けつけ、国王に日本軍の出動要請を働きかける一方、事大党閣僚の参内を促して、おびき寄せた彼らを殺害し、速やかに新体制に移行することにあった。

資料二九 金玉均筆・甲申日録(明治十八年中に成立と推測)

甲申政変の記録として最重要とされる文献であるが、金本人の校訂による版本がないために、永らくその内容の確実性が問題となってきた文書でもある。

私が見ることができたのは次の三つの刊本・複写本・写本で、先ず第一は『秘書類纂』に収められている、題名「金玉均自書日記・明治十九年四月写総理府」とある刊本である。第二は、ソウル大学が刊行した複写本(『金玉均全集』2)で題名は「甲申日録」、原写本は京都大学にある。第三は、金の支援者須永元の手元にあった見事な写本で題名は「甲申日録略抄」、呉世昌(書道の大家)の手になるものである。

金自身が書いた「甲申日録」は、明治二十七年三月に上海に旅立つ直前に支援者小山悦之助に託されたのであったが、その原本は大正十二年に関東大震災で焼失している。呉の写本(第三)はおそらくそれより前に作られたもので、中身を比較すると第二の京都大学本と大差がない。ところが第一は、重要な点で後二つと大いに齟齬しているのである。単なる写し違いなのか、刊行のときの誤植なのか、それとも、第一が書写された後に金が推敲を重ねたのかは判然としない。

金玉均らが武装蜂起を決意したのは、いずれの文書でも竹添公使が再赴任した十月三十一日以後のことで、十二月四日の当日までの準備期間は約一ヶ月だったことが分かる。「始末」には当日の日本人参加者四名の動向は記述されていない。「日録」には、彼ら四名は後殿に控えていた、とある。

ところがここからが秘書類纂本と京都大学本との大きな違いとなってくるのだが、後者では祝宴開催中の郵征局の外にも日本人壮士がいたことになっている。それは、屋外の「火事だ」という叫び声を聞いて外に飛び出した閔泳翊が、しばらくして血塗れになって屋内に戻ってきた描写に続く部分で、京都大学本には、

閔泳翊先出、日人急欲先切、而遂下手云々(閔泳翊が先に出てきたので、日本人が急に切りつけたくなり、手を下してしまったそうだ)

とあるのに対し、秘書類纂本では、

閔泳翊先出、曰人急欲先功、而拠下手云々(閔泳翊が先に出てきた。証言によれば、「ある人が急に先功を欲したので、手を下してしまった」そうだ)

となっている。要するに、先に成立していた秘書類纂本では、「曰く人」となっている部分が、京都大学本では「日人」(日本人)と表記されているわけである。

後に井上角五郎は宗島和作なる日本人がその下手人であると表明したわけだが、それは金玉均死後広く流布することになる京都大学本系の「甲申日録」とは合致するものの、明治十九年に筆写されてから昭和十一年まで刊行されることがなかった秘書類纂本とは一致しないのである。

ちなみに、いずれの系統の「甲申日録」でも、郵征局の隣りに潜んでいた独立派のメンバーは名前まで判明していて、全員が朝鮮人である。出てきた閔に日本人の誰かが斬りつけたのだとしたら、金玉均の知らないうちに配置についていたことになる。

八 朴泳孝・徐載弼・李奎完が語る甲申政変ー昭和十年から昭和十九年まで

金玉均以外の参加者は、どう証言しているのであろうか。

資料四五 朴泳孝談・吾等一生の失策(昭和十年三月一日)古筠一

金玉均を顕彰するために組織された古筠会の機関誌『古筠』の創刊号に、当時現職の貴族院議員にして侯爵の朴が寄せた文章である。その中で朴は、「彼の時の失敗の大いなる原因は、清仏間の戦端はじまらず、講和の機熟するによって、日本政府の朝鮮政策に、大いなる変動を来たすことにあつたのである」と、甲申政変の失敗の決定的要因を、日本の政策の転換に見出している。もしろん決起した開化党独立派にも至らなかったところがあって、第一に金玉均が、漢城判尹沈相薫なるものを味方と思っていたところが、実はそうではなく、外部に情報が漏れてしまったことがある。また第二に徐載弼についていうと、自分たちの掌中にあった国王夫妻への食事提供担当は徐だったが、彼は夫妻へ届けられた食器の底に外部からの連絡文が隠されていたことに気づかなかった。独立派の仕業と悟った国王は、避難していた景祐宮(狭い第二宮殿)から景福宮へ戻ることに固執するようになった。第三に朴自身のこととして、景福宮に戻って武器庫を点検したところ、小銃が錆だらけだったので、全部を分解整備していたところ、六日の午後に事大党と清国の兵の攻撃にあった。景福宮に立てこもっていた独立派には銃がなかったので、手も足も出なかった、という。

以上が朴泳孝の回想であるが、福沢の支援についても井上角五郎の政変参加にも触れていない。

資料四六 徐載弼筆・甲申政変を顧みて(昭和十年五月十五日・七月二十五日)古筠二・三

アメリカに亡命していた徐が『古筠』第二号・第三号に寄せた文章である。在米五十年となっていた当時の徐は日本語はもとより韓国語も忘れていたため、この文章ももとは英語によると思われるが、翻訳者は明記されていない。彼は先ず政変の失敗を、「その一つは、一般民衆の声援薄弱であつたことと、又一つは、余りにも他に依頼せんとしたことである」と総括する。そして金玉均が一般庶民教育の拡大を唱えたのに、それが受け入れられなかったことを慷慨している。この徐の回想にも、政変への福沢や角五郎の関与については、一言も触れられていない。ただ、注目すべき記述として、「我々学生一行は、戸山学校に入学し、初めの二三ヶ月は、その後甲申変乱に、戦死したる金子某を、通訳に雇はねばならなかつた」とある。

資料四八 徐載弼自叙伝(昭和十三年)延世大学出版刊 My Days in Korea(1999)

甲申政変に日本人が参加したことも、その準備に福沢が関わったことにも、まったく触れていない。閔泳翊に斬りつけた壮士は元留学生だった、としている。

資料五〇 李奎完談・実況談話(昭和十九年十二月)金玉均伝上

郵征局の隣家に放火した実行者である李奎完の談話である。当夜の様子を宴会場の外から描いたもので、興味深い内容である。それによれば安洞別宮での最初の爆発は午後八時で、「この爆発は金玉均の家人高永錫が金玉均の所蔵せる無烟爆発物を別宮の各要所に装置したるものの爆発」だったのだが、この火災はすぐに鎮火してしまったので、午後九時に郵征局の隣家に放火をして騒ぎを大きくした。「形勢は変革なりと感付いた閔泳翊は、逸速く宴席を離れて場外に逃れ、門より飛出し行かんとしたり。忽ち待機中の壮士に一撃され、耳を切り落とされ、鮮血を被りながら場内に舞ひ戻れり」。これによって大混乱に陥った宴会場に清国の軍服を着た「李奎完と崔殷童は抜刀しながら闖入したり。奧から一人「コラー」と叫びつつ立ち向かふものあり。味方と気付き李奎完は一寸と待てと呼はりて互に名乗りをすれば、其の一人は金玉均方の雇人金吉と云ふものなり、今夜宴会の手伝をなす為め来り居りしものにて、同人は短銃と刃物を持参し、格闘の用意をなし居れり」とある。その後郵征局から引き上げた同志は朴泳孝邸に集まって、次の命令を待った。間もなく辺樹が来て、しばらくして昌徳宮に参入せよ、という命令を伝えた、と続く。

李奎完の証言でも襲撃側に日本人はまったく登場しない。この『金玉均伝』は、井上角五郎が会長をしていた古筠会の編纂にかかる本なのだが、当日の事態の推移について、角五郎の証言を一切採用していない。郵征局を襲撃した壮士の中に日本人などいなかった、という立場をとっているのである。

九 外交文書が語る井上角五郎ー明治十七年十一月十二日から明治二十年八月二日まで

前節では福沢・金・朴・徐・李らによる甲申政変に関する証言を見てきた。日本人の政変参加についていうなら、福沢と金と角五郎が四名の日本人が参加したといっているが、その固有名を明かしているのは角五郎だけである。しかも角五郎は郵征局襲撃の一部の行動について、自分が指揮をとったかのように述べている。はたしてそれは本当のことなのことなのか、外交文書に残された記録のうちに、ことの真相が見えてくるかもしれない。

金玉均が決起を決意したのは、十月末に再赴任した竹添進一郎公使が、日清開戦は避けられない旨の発言をしたと角五郎から聞いたことによってだった。ところが竹添自身の記録からは、彼がそのような発言をしたという証拠も、また日清開戦を望んでいたことを示す記述も発見できなかった。「漢城に戻ってみたら、いつの間にか日清開戦の噂が立っていて、独立派はそれを契機にクーデタ起こしそうだ、どうするべきかを本省に問い合わせねば」というのが、外交文書からうかがわれる竹添の困惑ぶりなのである。

資料九 竹添進一郎具申対韓策甲乙二案(明治十七年十一月十二日)秘書類纂二一

そこで書かれたのが、独立派が蜂起したら日本軍が全面的に支援するか、それとも静観して事態の推移を見守るべきか、ということを問い合わせたことを示すこの文章である。その中に角五郎が登場していて、「閔泳翊は井上角五郎に向て頻りに己れ支那党に非ずと弁明致候。権勢赫々たる閔泳翊すら如此に付、其他の支那党推して知るべし」とある。

この問い合わせの本省からの回答は、「静観せよ」というものだったが、甲申政変には間に合わず、済物浦(仁川)居留地に撤収した竹添らの元に届けられた。以後竹添らは独立派と距離を置くようになる。

資料一〇 竹添進一郎書信要略(明治十七年十一月十二日)秘書類纂二一

資料九が外務省に宛てられた公信であるのに対して、資料一〇は竹添から伊藤博文と井上馨に向けて書かれたものである。冒頭に十一月十二日に角五郎から寄せられた密報が載せられていて、そこには、十日の朝鮮国王臨席の閣議において駐日本朝鮮公使を派遣することが決定されたとある。この情報源については「閔泳翊より承りたる所にては」とある。

資料一一 徐光範ト島村久トノ談話提要(明治十七年十一月十六・十八日)秘書類纂二一

竹添から伊藤と井上馨への報告書。日清開戦の風説が虚伝と明らかになったので、事大党(シナ党)が安堵しているという徐の見解の紹介の後に、角五郎による、清国軍の兵営では現在厳戒態勢がとられている、という報告がある(以上十六日分)。また、翌々日の十八日分には、角五郎からの密報として、竹添公使の再着任以来独立派が勢いに乗ってきたので、事大党の閔泳翊らが、金玉均と朴泳孝を流罪にしようと画策している、という情報が書かれている。また、独立派は何か「一時に大改革を行はん胸算と被察候」ともあり、竹添はこの時点で独立派が何かをたくらんでいることを察知していたが、それが武装蜂起とまでは知らなかったようである(注2)

以上が、甲申政変発生前の外交文書に現れる角五郎の動向である。朝鮮政府に食い込んでいる角五郎を竹添は情報源として重要視している。さらに角五郎は主に閔泳翊から情報を得ていて、もし晩年の角五郎の証言が真実ならば、角五郎は間もなく自分たちの手にかかって命を落とそうとしている人物と親しく交流していたことになる。

そして十二月四日の当日を迎えるわけであるが、八日に竹添が済物浦の居留地に着くまでの同時的記録はない。また公使館も博文局(角五郎の住居も兼ねる)も放火されたため、そこに残されていた書類も消失している。

すでに述べたように、井上角五郎は井上馨公使らとともに明治十八年一月初めには漢城に戻っていた。おそらく一月中には金允植の依頼により博文局の再建に携わるようになり、政変後の事大党政権の内情を知ることができる立場になったようだ。以後角五郎は内報(秘密の通報)の形で日本政府に情報を流すようになる。現行版全集所収の暗号表等はその時に使われたもののようである。

資料二一 在朝鮮近藤臨時代理公使報告朝鮮政府ニ於テ清国ヘ使節派遣等ノ件 (明治十八年三月十八日)アジア歴史資料センター資料番号A03023658400の0002

井上角五郎からの内報として、「日清間の交渉決裂に備えて朝鮮政府が英国に対し国王の保護を求めている」旨の記述がある。当時天津で開催されていた李鴻章と伊藤博文の間での甲申政変事後処理交渉が決裂すれば日清戦争勃発ということになるので、その場合の朝鮮国王の身の安全を図るための画策が進行中ということを、角五郎は日本政府に伝えたのである。

明治十八年三月までの井上角五郎は、外務省にとってじつに便利な存在だった。ところが帰国中の四月六日、福沢家に滞在していた角五郎は、突如井上馨外務卿に今後情報を流さない旨宣言する。そして日本の外交当局は知らないことであったが、五月頃「密書」を上司である金允植らに提出している。次に角五郎が外交文書に登場するのは十二月二十二日である。

資料二七 京城訛伝・機密信第百七十六号京城騒訛之事(明治十八年十二月二十二日)アジア歴史資料センター資料番号 B03030199100の0034

十二月初めに角五郎が日本公使館を訪れ、十一月下旬に金玉均に賛同する日本人が爆発物をもって朝鮮に渡ろうとしたところを逮捕された、という情報をもたらした。この大阪事件の情報を角五郎は朝鮮の港湾担当者の金宏臣にも流したのだが、それが金玉均の勢力が襲来しつつある、と誤って伝えられて漢城が混乱した、という内容。

資料二八 京城小事変並栗野書記官同地へ出張・高平小五郎書簡(明治十八年十二月二十七日)アジア歴史資料センター資料番号B03030199700の0285

この手紙には福沢諭吉が刀剣を朝鮮に送ったことが記されている。しかも甲申政変で負傷した閔泳翊への見舞いの品としてである。すなわち、四月初旬のこと、朝鮮に赴任するため準備をしていた高平のもとに角五郎が突然現れ、自分も再び朝鮮に向かうつもりだが、途中福山まで帰省するので、長崎まで福沢の荷物を運んで欲しいと要望した。承諾すると数日後岡本貞烋なる者がやってきて、角五郎はすでに出発した、ついてはこれがその荷物である、というので検分すると、「荷物は大小交せ三四個にして、物品は福沢諭吉より閔泳翊への寄贈品を箇折りたる者にして、其内刀剣四五本あり」、そこでその他は差し支えないが刀剣類は困ると答えた、とある。

高平はさらに続ける。漢城に着いてからも三回角五郎と面会したが、五・六月から姿を現さなくなった。十一月初めにまた姿を現したが、朝鮮の官報として『漢城旬報』を再刊しようとしているらしい。角五郎の挙動は朝鮮官吏とりわけ金允植の下僕ともいうような怪しげなもので、日本の国益を損ねている、と。

明治十八年五月の再渡航以後の角五郎が、時の事大党政権のために働いていたことは明らかで、これがいわゆる井上角五郎二重スパイ説である。詳しくは都倉武之(2007)「明治十八年・井上角五郎官吏侮辱事件(一)」(『近代日本研究』二四)を参照されたい。

資料三一 朝鮮臨時代理公使高平小五郎具申井上角五郎挙動之事(明治十九年三月三十一日)秘書類纂二二

かねてより挙動が不審な角五郎を再雇用してもいいかどうかの照会が朝鮮政府より来ているが、要するに角五郎は金允植らの庇護下に置かれているのではないか、という内容。その時角五郎は帰国中で、何とか朝鮮に戻ってこないようにすることはできないか、と高平は本省に具申している。

資料三二 高平小五郎具申井上角五郎密書之事(明治二十年七月二十五日)秘書類纂二二

高平による「密書」入手を告げる報告書。この「密書」の内容が朝鮮政府内に知れ渡ったため、日朝間の諸問題の解決が困難になっている、とある。

資料三三 高平小五郎具申井上角五郎密書之事第二(明治二十年八月二日)秘書類纂二二

この文書には、政変直後、日本公使館から福沢邸まで亡命者一行に付き添ってきた大庭永成という通訳が、朝鮮に復命後、政変の黒幕は福沢である旨の文書を頒布した、とある。すなわち「大庭永成なる者、福沢が金玉均等を教唆したるのみならず、更に暴徒を聚め銃器を備へ、朝鮮を侵襲するの計画有之旨を書面に認め、朝鮮人間に流布せるに付」角五郎が反論したとあって、後年角五郎自身が主張したまさにそのことを、政変直後には躍起になって否定していた事実が記されている。なお、現在では亡失している大庭の文書でさえ、政変前の福沢は教唆したのみで、人員や兵器を集めるというのは、将来予定されている反転攻勢において、とされていることに注意が必要である(都倉修士論文(2004)の指摘)。

以上が外交文書が語る井上角五郎の中身であるが、ここから描き出せる角五郎の姿は、金玉均ら独立派の活動を支援する日本人どころか、まさにその逆といってよい。角五郎は金玉均よりも閔泳翊と親しかった。そして彼への見舞いの品として福沢が贈った日本刀の到着を、先に戻っていた漢城で、今か今かと待ち受けていたのだった(資料二八)。それも、明治十七年十一月にではなく、明治十八年五月にである。

十 真相の探求

以上が福沢諭吉が朝鮮甲申政変で黒幕の役割を果たしたかどうかを追究するための資料である。黒幕ではないことを証明するのは悪魔の証明の様式の一つであるから、それを提示するのは不可能といえる。しかし、現在まで黒幕の証拠とされてきたことの信憑性についてなら、何事かを語ることはできる。

先ず、黒幕説を広めた井上角五郎の証言であるが、これはすでに都倉武之(2004)が指摘しているように、信頼できない。角五郎は最晩年になって、自分が郵征局の外にいて、部下の福島春秀にダイナマイトへの点火を命じたり、溝の中に宗島和作や車夫の金太郎、巡査の中村四郎兵衛を潜めさせたとしている。しかし、この話は極めて怪しい。というのは、もしそれが事実だとしたら、政変に関係して死刑に処せられた四十二名の独立派メンバーは、誰一人日本人の参加を白状することもなく処刑されたことになるからである。彼らの多くは慶應義塾または陸軍戸山学校の出身者で、角五郎のこともよく知っていた。

また彼らが日本刀で武装していた、という角五郎の証言も信じられない。亡命した首謀者たちは誰も日本刀について触れていない。郵征局襲撃はそもそも清国兵を装うのが主眼なのだから、日本刀が遺留されては怪しまれることに彼らが気づかないはずもないであろう。そして、政変後の事大党政権は、血眼になって日本の関与の証拠を探していたにもかかわらず、遺留品として日本刀の発見は報告されていないのである。漢城は当時でも人口三十万人の大都会で、最新式兵器ならばともかく、刀剣類など簡単に入手できた。この話は政変で負傷した閔泳翊の見舞いのため福沢が日本刀を贈った、という高平の報告(資料二八)にある事実に尾ひれがついたものと考えられる。

福沢が角五郎に偽名での通信を命じたのも、何かを百本朝鮮へ送らせたのも、政変後である(資料三〇)。この百本が何であるかについては、明治十九年に丸善横浜支店から発送させた、ということから類推して、その頃丸善が売り込みに躍起になっていた最新式万年筆だったろうと、私は推測する。また、政変前に福沢が日本から壮士を送り込んだ、という事実は確認できなかった。武術指導のため松尾三代太郎や原田一を派遣したのは明治十六年一月で、彼らはわずか四ヶ月で帰国してしまった。福島春秀は九月に渡航した今泉秀太郎の従者にすぎず、「遭難記事」でも、単に逃げ回っている描写があるだけである。それに、政変に参加した日本人の所属は、「京城事変始末」によれば公使館・陸軍・金朴家なのだから、福島がその中に含まれていないのは明らかである。

角五郎の証言がたとえ虚偽であろうとも、福沢が日本から独立派を教唆して甲申政変を起こさせた可能性があるのではないか、という疑念を抱く人がいるかもしれない。たとえば暗号電報でのやり取りはどうなるのか、と(資料四九)。そのことについて言えば、電報による指示はまったく不可能だった。なぜなら当時日本と朝鮮の間に電信は開通していなかったからである。東京から電信で届けられる最遠の地は長崎で、電報はそこで月に一度しか往来していなかった定期便千歳丸で済物浦(仁川)まで運ばれ、さらに小船に載せかえられて漢城まで届けられていた。出港日に間に合えば五日程度で情報がもたらされることもあった。しかし多くの場合手紙のやり取りは片道二十日程度はかかっていた。

つまり金玉均や朴泳孝が武装蜂起に方針を切り替えてすぐに福沢に支援を求めようとしても、その回答までには往復四十日程度はかかってしまう、ということである。金が方針転換をしたのが十一月初旬なのは「京城変乱始末」でも「甲申日録」でもはっきりしていて、状況の変化を察知した日本公使館が本省に武装蜂起が発生した場合に協力するかどうかの甲乙二案の選択を迫る書簡を発送したのは十一月十二日である。その返信が千歳丸で届いたのは政変より後のことで、竹添公使は、本省からの、「蜂起に関与してはならぬ」という指示を、撤収していた済物浦居留地で受け取った。

では独立派の武装蜂起は、金が帰国する九月より前からの既定の路線だった、とするならばどうか。最初に福沢黒幕説を唱えた公使館通訳大庭永成はそのように受け取ったらしい。井上角五郎の言葉を全面的に信じた田保橋潔は明らかにそう考えている。もしそうだとすると、「擬以朝鮮策略」での、金が後藤象二郎と福沢諭吉に示した最初は平和路線、だめなら武力行使というプランと齟齬をきたすことになる。そのためであろうか、「擬以朝鮮策略」の発見者である山辺健太郎は、その第一策の平和路線をまったく無視して、第二策の武力行使が規定の路線だった、と述べている(『日本の韓国併合』一二一頁以下)。その場合は、後藤・福沢らの全面的支援のもとに政変は実行に移された、と解釈することも可能となるが、従来福沢関与の証拠とされてきた指摘がすべて政変後のものと明かされた以上、それを裏付ける物的証拠は存在しなくなる。そればかりか、金玉均自身の言葉とも矛盾するし、さらには井上角五郎の告白後も存命だった朴泳孝・徐載弼・柳赫魯・李奎完らも、福沢からの指示や支援にまったく言及していない。

もともと福沢は金玉均よりも閔泳翊と親しかったほどで、交詢社の名簿にも閔の名前は掲載されているが金の名前はないそうである(都倉武之修士論文(2004)による)。武装蜂起は既定路線で、それは福沢の指示によると主張する井上角五郎や石河幹明は、福沢の「余は作者で、筋書を作るのみである」(『福沢諭吉伝』第三巻三四〇頁)を政変の黒幕としての発言であるかのように引用するが、それは国の文明化の方法全般について言っていると解釈するのが妥当であろう。

つまり福沢本人としては、朝鮮の文明開化に貢献していると自負してはいたが、事が暴力に移行したことなど何も知らされていなかった、ということなのである。

おわりにー甲申政変に参加した四人の日本人について

朝鮮甲申政変に福沢諭吉が黒幕の役割を果たした可能性が限りなく低いということは、以上によりはっきりしたと思う。政変の計画は明治十七年十一月初旬に練られはじめたので、東京の福沢から指示を受ける時間的余裕はなかった。与ったのは失敗後亡命した九名の首謀者たちと日本留学から戻ったばかりの四十数名のほかは、独立派に共鳴して情報提供したり、王宮の扉を内から開けたりした朝鮮政府関係者が何十名か、というところである。日本人の参加者は、韓国語に熟達していて、主に日本軍を円滑に景祐宮に出動させるための伝令の役割を有していたと考えられる。

そこで最後に、甲申政変に参加した日本人四名についての私なりの考えを述べたい。まず金朴家の雇い人とは、総島和作と金色良忍の二人に間違いない。総島は対馬国厳原の出身で、現地で魚の仲買を営んでいた総島屋の関係者と思われる。対馬は江戸時代から対岸の釜山と関係が深く、維新後も早い段階(明治六(1873)年頃)から釜山で商売をしていたらしい。寛文二年に釜山倭館を建て直した津江兵庫の招魂碑(明治十二年十一月建立)には発起人の一人として彼の名前が刻まれている、という。金玉均と面識をもった時期は分からない。甲申政変で殺害された日本人の遺体は済物浦居留地に埋葬された。現在彼の墓は仁川広域市富平区富平洞仁川家族公園内の墓地にある。

金色は豊前下毛郡の出身で、本願寺派の僧籍を有していた。真宗の朝鮮半島布教に従事するうち明治十三年に釜山で独立派の李東仁と交流するようになった。明治十六年に徐載弼らが陸軍戸山学校に入学したとき、通訳として彼らの日本語修得の手助けをしたのが金色だった(資料四五)。清国軍人に化けて郵征局に乱入した李奎完たちに短剣やピストルで応じたのも彼である(資料五〇)。福沢とは同郷人で面識もあったようだ。彼の墓も仁川家族公園内にある。

陸軍で独立派に協力したのは、おそらく語学生徒上野茂一郎である。漢城駐留日本陸軍一個中隊(仙台鎮台)は明治十七年十月に着任しているが、ほぼ同時に彼も参謀本部から派遣されてきている。朝鮮語通訳の多くがそうであったように彼も対馬国厳原の出身である。前任地が東京だったことから、徐ら戸山学校に留学した朝鮮人たちとは前から面識があったと思われる。政変当日は郵征局の後殿にいて、南に二キロほどの南山北麓にあった日本軍駐屯地へ決行の知らせを届けたのだろう。このように推測するのは、郵征局近傍の火災の発生から、日本軍の公使館への出動までがあまりに迅速だったからで、午後十時に島村が郵征局近くの公使館に戻ったときにはすでに館内に武装した日本兵がいたことを、他国の外交官に目撃されている。その後の宮中への出動要請をあらかじめ知っていたかのようだ、というのが政変後事態収拾のため済物浦へ派遣されてきた金允植ら朝鮮側の疑念であったが、竹添公使も中隊長村上正績大尉もそれを強く否定、当日午後九時に公使館近隣に火災が発生したので出動した、と回答している。

あくまで私の推測だが、独立派と日本軍の間には、あらかじめ午後八時の別宮放火を合図に部隊を日本公使館まで移動させる申し合わせがあったのだと思う。ところが別宮の火災はすぐに鎮火してしまったので、午後九時の郵征局隣家の放火がことの始まりとなったのだが、日本軍は八時の段階で出動したため、それが早すぎると疑われる原因となったのではないか。その後夜十時頃朝鮮国王より出動要請があり、公使館近くの景祐宮の警備につくことになった。このとき通訳の上野も同行している。国王が景祐宮に避難してきたのは翌五日の午前二時で、それと相前後して参内を命じられた六人の大臣たちが景祐宮内で殺害された。国王夫妻を掌中にしていた独立派は、六日午後三時に維新の詔を発表しようとしたが、大臣暗殺が外部に漏れたため、事大党に協力する清国軍の攻撃が始まった。竹添公使らは国王夫妻の警護を断念、日本軍ともども公使館へ戻ろうとしたが、途中で清国軍との戦闘があり、数名の死者を出してしまった。上野語学生徒もその一人である。

公使館員からの参加者とは、通訳浅山顕蔵のことと思われる。彼もまた対馬国厳原の出身で、江戸時代の朝鮮通詞養成機関の流れを汲む厳原韓語学所を卒えて外務省に入った。朝鮮語通訳としてはもっとも高い地位にいて、他の通訳たちを統率する役目である。明治十三(1880)年、漢城に日本公使館が設けられてからは基本的に現地に詰めて、東京から着任する外交官たちを助けつつ朝鮮国内の情報を収集していた。明治十五年七月の壬午軍乱のときも漢城にいて、暴徒の襲撃を受けながら済物浦居留地まで撤収している。

明治十七年十一月三日に清国領事の面前で清国を批判する朝鮮語での演説を行って話題となった。この演説は福沢の田中不二麿宛書簡(資料二五)に引用されている。甲申政変中は常に竹添公使に随従、一緒に済物浦居留地に避難した。浅山は反清国派日本人外交官としてつとに有名で、井上馨全権大使との交渉中に督弁趙秉鎬らから独立派との内通を疑われていると判明した。結局証拠は出てこなかったが、私はその疑いは正しかったと思う。

私が推定する四人の日本人参加者のうち、甲申政変を生き延びたのは浅山ただ一人である。十年後の明治二十七年十二月に起きた閔妃暗殺事件の予審裁判では、新聞記者になっていた浅山も実行犯の一人として審議されている。そしてその予審の結果は、証拠不十分のための不起訴であった。

(追記)この論文を書くにあたり静岡県立大学図書館司書中西晴代氏と佐野市郷土博物館学芸員山口明良氏から助言を受けました。ここに感謝の意を表します。

脚注

(1)
福沢諭吉からの引用は、原則『福沢諭吉全集』(岩波書店刊)または『福沢諭吉書簡集』(岩波書店刊)による。『近代日本研究』は慶應義塾福沢研究センター刊である。『秘書類纂』は伊藤博文のもとに残されていた書類や書簡を纏めたもので、昭和十一(1936)年に刊行され、昭和四十五(1970)年に原書房より復刻されたものを使用した。雑誌『古筠』は早稲田大学の所蔵である。
(2)
秘書類纂二一には、資料九資料一〇に挟まれる位置に、「朴泳孝邸ニ於テ洪英植・金玉均・徐光範等ト島村久談話筆記要略」(二六九頁)という、十一月四日に島村書記官と首謀者たちが、また十一月九日に竹添公使と金玉均が蜂起の打ち合わせをしたことを示す文書が収められている。山辺健太郎『日本の韓国併合』一四六頁以降)はこの文書を甲申政変の日本関与を示す決定的証拠として重要視しているが、この文書には他の文書には必ず記載されている日付・差出人名(竹添進一郎)・宛先(伊藤参議・井上参議)が欠けている。また、金の発言中には「既ニ日本刀五十本兼テ用意ヲ致シ、日本ヘ刺客ヲ注文致置候間、不遠内来着致シ可申」とあって、資料三八に先立つ唯一の日本刀への言及となっている。本論文七・八でも示したように、首謀者たちは日本刀に一切触れていないし、また、遺留品としての発見もない。金以外は日本人の参加さえ語っていない。この文書は、後年捏造されて他の文書中に混入された偽書ではなかろうか。