「福沢署名著作の原型について」

2015-10-24

このテキストについて

 『日本思想史学』第47号162-178頁(2015年10月)に掲載された 「福沢署名著作の原型について」です。文中の「署名著作の一覧」とは 時局的思想家福沢諭吉の誕生 ―伝記作家石河幹明の策略 その2と同一のものです。

本文

福沢署名著作の原型について

平山 洋

はじめに

 明治一五年(一八八二)三月に時事新報を創刊して以降の福沢諭吉の署名著作が、すべて同紙を初出としていることはよく知られている。そのうち『時事大勢論』(明治一五年四月刊)から『実業論』(明治二六年五月刊)までの一八タイトル一五冊 (「国会の前途」・「国会難局の由来」・「治安小言」・「地租論」は合本)は、社説欄と通称されている「時事新報」欄に無署名で発表された後、主として同社から「福沢諭吉立案」の著作として単行本化されている。『実業論』の四年後に刊行された『福翁百話』(明治三〇年七月刊)以後の著作は社説欄ではなく専用の欄に掲載された作品群である。

 本論文の目的は「時事新報」欄初出の署名著作がいかなる経緯で刊行されたかを明らかにすることである。当初は社説として発表されたそれらは、その時々の政治的経済的状況と密接な関係がある。ところが従来までの研究は、現行版全集(注1)の第五巻と第六巻に収録されている署名著作と、第八巻から第一四巻に収められた並行する期間の社説とを別個に考察してきたように思われる。署名著作も初出時には、後に「時事新報論集」に収録されることになる社説群とまったく同じ無署名による掲載であったにもかかわらず、である。

 本論文は、従来までの研究から発想を転換して、まずは初出紙面を出発点とする。後に署名著作となる連載社説も、全集の「時事新報論集」に採られることになる単発の社説も、最終的に全集未収録となった社説も、その朝新聞を開いた読者にとってはどれも「時事新報」欄掲載の論説として平等で、読者はそのうちのいずれが後に刊行されるのかを知らなかった。もとよりわれわれはすでに署名著作となる社説がどれかであるかを承知しているため、当時の読者とまったく同じ心をもって初出紙面を読むことはできない。とはいえ全集未収録社説を含む社説の全てを通しで読むことによって、署名著作創作の動機を探る手がかりを得ることは可能と思われる。

 そこで本論文は以下のように進行する。まず一では福沢の署名著作とその原型の関係について概説し、続く二から六までで「時事新報」欄掲載の署名著作発表の経緯と原型の探索を行い、七では調査の結果明らかになった新事実について整理する。そして最後にそれらの新事実が福沢研究にどのような意義をもつのかについてまとめる。

一 長編論説と原型の関係について

 福沢の長編論説には、それに先立って原型とも呼ぶべき単発論説が発表されていることが多い。時事新報創刊前の著作である『学問のすすめ』と『文明論之概略』についていうなら、明治五年(一八七二)二月の『学問のすすめ』初編の原型としては慶応二年(一八六六)二月六日付島津祐太郎宛書簡(⑰三六頁)を指摘できる。そこでは西洋の学問を科学技術に限定するのではなく、人格形成の根拠となる教養として身につけることの必要を説いている。当初は単独の著作として発表された『学問のすすめ』初編を原型として、初編発表の約二年後の明治六年一一月から刊行が開始されたのが、現在は二編以降とされている月刊『学問のすすめ』である。その二編から七編(明治七年三月刊)までは、初編の内容を分割して主題を掘り下げることにより成された諸編である。

 さらに月刊『学問のすすめ』と並行して書き下ろされた『文明論之概略』の原型として、月刊『学問のすすめ』五編「明治七年一月一日の詞」を指摘することができる。ここで福沢は文明の精神として人民独立の気力をとくに重要視し、その担い手として中産階級の覚醒に期待を寄せている。この詞を書いた翌二月に「文明論プラン」(注2)という梗概を記し、さらに翌月に本編の執筆を開始したのである。『学問のすすめ』各編と『文明論之概略』各章の連関については、すでに別のところで論じている(注3)

 明治一五年(一八八二)三月の時事新報創刊以降は必ず新聞掲載を経てから署名著作として刊行されているので、それらの原型は先行する社説のうちにあるとみてよい。おそらく単発で書いた社説に読者からの反応があったため、より深化させた内容の長編社説を執筆連載し後に署名著作とした、ということなのであろう。

 「時事新報」欄に掲載された署名著作の一覧は別掲の通りである。先にも書いたように、本論文が扱うのはそのうち「時事新報」欄に掲載された『時事大勢論』から『実業論』までの一八タイトル一五冊である。ただし、自筆草稿が残存していることにより、当初は刊行を予定されながら、同時期には出版されなかったと推測できる明治一五年五、六月連載の『藩閥寡人政府論』、明治一八年六月連載の『日本婦人論』(通称前編)等についても必要なかぎり言及する。

(一覧表)

二 明治一五年(一八八二)刊行の著作について

 三月一日の創刊後最初に福沢立案の署名著作として出版されたのは四月刊の『時事大勢論』である。その内容は表題にあるとおり、明治一五年の現在に日本が直面している問題を総体として扱っていて、わけても来る議会政治において政府と国民(民間)はどのような関係であるべきか、ということが議論の中心となっている。その結論部で提示されているのが以後の福沢の鍵概念となる「官民調和」である。

 全集未収録を含む社説を創刊から追ってみると、四月五日から一四日まで六回連載された『時事大勢論』に先立つ半月ばかり前の「国会開設の準備」(18820318(注4)・全集未収録)が、その原型となっていると判明した。その内容は総じて『時事大勢論』の前半部と同じだが、先行する「国会開設の準備」では、現在の状態では議会が開設されたとしても、その有意義な運営ははなはだ困難であるという主張にとどまっているのに対して、署名著作となった連載では、解決策として官民調和が提唱されているという違いがある。これはつまり「国会開設の準備」執筆の段階では議会政治下での政府と国民(議員)との対立を解消する方法に有効な策を見出せなかったものが、『時事大勢論』を書いた時点では官民調和という打開策を発明していたということなのであろう。

 この官民調和についてはしばしば誤解されがちで、ときに民の官への迎合と解釈される場合があるが、実際は、民間からの要求が政府の現状からはなはだしく乖離してしまうと有効な手立てを講じることができなくなるので、双方ともが相手側の言い分を汲み取ってぎりぎりの調整をしなければならない、ということを述べたものである。とはいえ『時事大勢論』では官民調和の重要性が指摘されているだけで、それがどのようにすれば実現できるかについての具体案は示されていない。爾後の時事新報の社説が随時その処方を示すことになる。

 次に署名著作となったのは五月刊行の『帝室論』である。この著作はバジョットの『英国憲政論』(注5)の影響の下に、天皇を政治社外に置くことの重要性について述べたものだが、その直接の原型となっているのは、連載開始四週間前に掲載された「立憲帝政党を論ず」(18820331,18820401・草稿残存)である。福沢は、福地源一郎が率いるこの官党の名称が天皇の政治責任を惹起してしまうことに懸念を覚えてまず単発の社説を用意し、続けて前年五月から六月にかけて『郵便報知新聞』に掲載された交詢社憲法草案の解説「私考憲法草案」のうち、天皇と内閣に関する条文についての記述を敷衍することでこの『帝室論』を執筆したと考えられる。

 ところで原型と推測できる「立憲帝政党を論ず」は、平成二六年(二〇一四)までに発見されている福沢の直筆社説草稿のうち最も古いものなのだが、石河幹明編纂の『続福沢全集』(一九三二、三三)(注6)には採録されていない。草稿発見により現行版全集第八巻に収められたのは昭和三五年(一九六〇)二月のことで、その社説は初出以来七八年間誰にも読まれることはなかったのである。また連載後刊行された『帝室論』には立憲帝政党について一言も触れるところがないため、それだけを読んでも『帝室論』執筆の動機が立憲帝政党の結党にあったことを見抜くのは難しいであろう。このことは原型と長編論説の関係について一種の示唆を与える。それは、福沢としては後世に残る署名著作は、その時々の情勢からは離れた普遍的な価値をもつものとしながら、執筆の直接のきっかけには具体的な事件があったということである。

 さて、『帝室論』が刊行されてから次の『兵論』が出される一一月まで約半年が経過することになるが、この両著作の間には、掲載途中の六月九日から一三日まで本紙が発行禁止とされたためその余波で刊行されなかった『藩閥寡人政府論』と、六月から七月にかけて連載された『時勢問答』、さらに七月下旬掲載の『局外窺見』がある。そのうち『藩閥寡人政府論』は、五月一七日掲載開始六月一七日終了の全一七回という長編でありながら、おそらく藩閥政治を批判していたためであろう、初出四〇年後の大正版全集(一九二五、二六)に収録されるまで幻の著作となっていた。論旨は多岐にわたっていて特定の原型を指摘するのは難しいが、大まかには「言論自由の説」(18820329・全集未収録)がそれにあたるようである。

 さらに社説として用意されながら掲載が見送られたと推測できる「掃除破壊と建置経営」(⑳二四三頁)と仮に題された自筆草稿が残されていて、それが「言論自由の説」と『藩閥寡人政府論』の中間に位置している。そうなると早くから腹案があったものを、『帝室論』執筆後の四月下旬にまず「掃除破壊と建置経営」が書き始められ、それが放棄されて『藩閥寡人政府論』となったという推測が成り立つ。またそれは、連載開始直前の五月一五日に三田演説会で行った内容不詳の「建置経営の説」という演説と関係があるようにも思われる(注7)

 七月下旬に朝鮮で壬午軍乱と呼ばれる親日派排斥のクーデタが発生したため、以後の本紙は朝鮮関連の記事で埋め尽くされる。「朝鮮の変事」(18820731,0801)がその第一報であるが、先にも少し触れたようにその直前の七月一九日から二九日まで『局外窺見』という八回の連載があった。自筆草稿も残存しているので、これも単行本化を予定された著作と思われるが、隣国で騒乱が勃発したため、刊行は取りやめとなったようである。内容は輸送のための道路整備の必要を主張したものであるが、やや唐突に終了しているように感じられる。道路とくれば次に鉄道について論じなければおかしいと思って調べてみると、壬午軍乱についての集中的報道がひと段落着いた時期に「鉄道論」(18820922,25)が、そしてその報道が終結した後に「鉄道布設」(18821108・全集未収録)という鉄道網整備についての社説が見つかった。これらは『局外窺見』の続編とも考えられる。

 壬午軍乱の勃発により八月より報道の体制は大きく変更された。八月二日から四日までの「朝鮮政略」を嚆矢として、九月九日の『兵論』の初回まで、ほぼ七週間にわたって時事新報欄は壬午軍乱関係の論説で埋め尽くされている。そのような状況下で『兵論』の連載は開始されたのだが、表面的には西洋諸国の強大な軍事力に日本はいかに対処するべきか、という論調になっているため、壬午軍乱の渦中に介入してきた清国への対抗策を探るという真の目的が見えにくくなっている。相手が朝鮮政府だけだった軍乱勃発後最初の三週間は事態の早期収拾のための派兵論を開陳していた福沢だったが、清国の直接介入が明らかになった後の『兵論』では、西洋諸国だけではなく清国と比しても日本の軍事力は圧倒的に劣勢であり、それゆえ清国との戦争は思いとどまるべきだ、という意見を述べている。この主張が当時の時事新報の若手記者たちの主張と異なっていたことは、すでに別のところで書いた(注8)

 福沢の長期連載は草稿完成後に掲載を開始するのが通例であったが、緊急事態ということに鑑みて、執筆途中であったにもかかわらず発表に踏み切っている。急いで起稿されたためか、原型らしい単独社説は発見できなかった。九月九日の第一回から一六日の第七回までほぼ連日掲載され、半月の休載の後一〇月三日から一九日にかけて第八回から最終第一八回が連載されている。草稿の完成は掲載終了のわずか一週間前で、主として海軍の増強について語っている後半部は壬午軍乱後の事態の推移に沿って記述されている。福沢がとくに心配していたのは清国海軍との不測の衝突で、戦力と練度の差によって、日本海軍の劣勢は彼の目には明らかだったのである。「近く前月朝鮮の事変に際しても、我輩も世人も共に第一着に危懼を抱きたるは海軍薄弱の一事なりき」(⑤三二〇頁)とある。

 一〇月中旬に『兵論』が終結し、一一月初旬に単行本化されても、壬午軍乱直前に連載されていた『局外窺見』は刊行されなかった。代わりに出版されたのは一〇月二一日から二五日まで四回連載された『徳育如何』である。この論説に特定の原型は見出せなかった。『兵論』の出版届出が一一月四日、『徳育如何』の届出は二日後の一一月六日となっている。連載時の表題は「学校教育」であったが、内容が道徳教育に限定されていたため改題されたようである。

 刊行された『徳育如何』は、いわゆる徳育論争の口火を切る儒教道徳再興に反対した著作として有名であるが、福沢がそれを執筆した動機は、明治一二年(一八七九)の「教学大旨」を巡っての論争での元田永孚の発言が念頭にあったものと思われる。とくにこの時期の出版となったのは、明治一五年末に宮内省より元田が編纂した儒教主義による修身教科書『幼学綱要』が頒布されることが決まっていて、その先手を打ったとも考えられる。福沢としては儒教主義による修身教育には大反対で、自主独立の精神こそが真の道徳心の涵養につながると主張していたのであった。

三 明治一六年(一八八三)・明治一七年(一八八四)刊行の著作について

 明治一六年の年が明けて一月二〇日から二月五日まで八回にわたって連載された「学問と政治と分離すべし」をまとめたのが二月刊行の『学問之独立』であるが、その内容は『徳育如何』の延長上にある。元田永孚や西村茂樹による再び漢学を学問の中心にしようとする運動が半ば実を結びつつあることに危機感を抱いた福沢が、教育への政治の介入を防ぐために記したものである。その原型として指摘できるのは『徳育如何』の続編として書かれた「徳育余論」(18821220,21)である。

 そこで福沢が提唱するのは、高等教育機関を文部省の下にではなく帝室(皇室)の下に置くという方法である。このようにすれば、帝室は政治的に中立であることから、ときの政権の指導を受けずに済むということで、軍の中立を保つために統帥権が天皇に帰属するのと同じ構造になっている。この場合いわゆる官立・私立の区別は、学校財政における帝室からの下賜金の割合に対応することになる。漢学の伸張をくい止めるために帝室を持ち出すというのは奇異にも感ぜられるが、福沢が理解するところの明治の帝室は五箇条の誓文の第五条「智識を世界に求め大に皇基を振起すべし」の制約下にあるので、洋学中心の私立学校が帝室の庇護下に置かれるととしても、それは不思議なことではなかったのであろう。

 明治一六年二月の『学問之独立』刊行から翌明治一七年一月の『全国徴兵論』まで一一カ月もの間が空いている。書簡や同期間に一三編という直筆草稿の残存状況からも、新聞への並々ならぬ関与が伺われるので、この間に署名著作が出されなかったのは、新聞社の運営が忙しすぎて、まとまった論説が書けなかったためと推測できる。次の『全国徴兵論』の出版の経緯は特異で、まず「全国兵は字義の如く全国なる可し」(18830405,06,07・草稿残存)という三回の掲載があり、八カ月後の「改正徴兵令」(18840104,05,07)三回分と合わせた構成になっている。

 単独では刊行されなかった「全国兵は字義の如く全国なる可し」の骨子は、徴兵というからには全成年男子に適応されるべきで例外を設けてはならないというものであった。この主張は明治一四年九月刊行の『時事小言』の結論部にもある福沢の持論であるが、それを「改正徴兵令」と合わせて出版することとしたのは、明治一六年一二月に改正された徴兵令に官立学校在籍卒業者に限っての徴兵免除規定があることに反発してのようだ。「改正徴兵令」は、この処置は私立学校在籍卒業者を(同じく徴兵免除のない)小学校卒業者と同等とみなすことであると批判している。

 学歴・社会階級によらずに兵役に就くべきだと福沢が主張したのは、国民としての連帯意識を涵養するためでもある。そのため、同時に高学歴者や兵役税を負担することが可能な階層出身者には就役期間を短縮する措置をとるべきだとも唱えていて、改正された徴兵令では官立学校在卒業者のみが兵役免除とされていることに批判の矛先を向けたのである。

 刊行された『全国徴兵論』にははっきり書かれていないため、現在では福沢の真意を汲み取るのが難しくなっているが、そのすぐ後に紙上掲載された社説「徴兵令に関して公私学校の区別」(18840118,19・全集未収録)には、この改正徴兵令が私立学校存続にとって脅威となることが指摘されている。慶応義塾は明治一〇年(一八七七)から在籍卒業者の徴兵免除特権が与えられていたが、この改正徴兵令が施行されれば志願者のさらなる減少が予想された。その危機意識が「全国兵は字義の如く全国なる可し」が掲載されて八ヶ月も経過してからの『全国徴兵論』刊行の直接の動機と思われる。このような経緯で出されたためか、「全国兵は字義の如く全国なる可し」をさらに遡る原型は書かれてはいないようである。

 明治一七年にはもう一冊、『通俗外交論』の刊行がある。六月一一日に連載が開始され、同一七日に全六回の掲載が終了して同月中に単行本化された。内容は外交全般を論じたものではなく、国家の独立にとって治外法権の撤廃がいかに重要かを述べた論説である。ほぼ同趣旨の社説として「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」(18840602・全集未収録)があって、それを読むと、それまでキリスト教に反対してきた福沢がこの時期に突如その布教に寛容になった真の理由が分かるようになっている。

 この時期外務卿として条約改正交渉を担当していたのは長州閥にしては近しい関係にあった井上馨で、彼は難度の高い税権回復を後回しに、先ずは治外法権の撤廃からと、いわゆる鹿鳴館外交を推進していた。福沢はその井上を助ける論陣を張っていたが、その一つが『通俗外交論』だったのである。一方それまで反キリスト教的な主張を貫いてきた時事新報がにわかにキリスト教容認に論調を変更したのもちょうどこの時期で、そのことを示す画期的社説「宗教も亦西洋風に従わざるを得ず」(18840606,07)の掲載は、「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」掲載の四日後、『通俗外交論』連載開始の四日前である。治外法権の撤廃は外国人の移動の自由と表裏一体であったから、それは日本人ばかりでなく、日本国内での布教の自由を求めていた外国人宣教師にとっても利益があるはずだった。福沢は外国人宣教師を味方とすることで、条約改正交渉を有利に進められるように画策したともいえるわけである。

四 明治一八年(一八八五)・明治一九年(一八八六)刊行の著作について

 明治一七年の下半期から翌年の上半期にかけての一年は、ベトナムへの影響力を巡って清国とフランスが衝突した清仏戦争と、朝鮮で勃発した独立党によるクーデタである甲申政変があったため、社説欄は事件報道に費やされることが多く、刊行を目的とした長編論説は掲載されなかったようである。それでも一〇月二四日から三〇日まで六回連載の草稿残存社説「貧富論」、や草稿非残存ながら一二月一日から六日まで六回連載された「通俗道徳論」がある。これらが刊行されなかった理由は不明である。

 甲申政変が独立党の敗北と決し、事後処理も片付いた明治一八年六月四日から一二日まで「日本婦人論」(草稿残存)と題された六回の連載がある。その一ヶ月後の七月七日から一七日まで「日本婦人論後編」(草稿残存)一〇回が載せられて、直後に後編のみが刊行されている。「日本婦人論」と「日本婦人論後編」を読み比べてみると、前者は固い文語文で書かれているのに対し、後者は分かりやすいかな混じり文となっているほかは内容に大差はない。重複が多すぎるゆえに前者は刊行されなかったものと思われるが、明治三一年(一八九八)に福沢自身が編纂した明治版『福沢全集』(時事新報社刊)には「日本婦人論」も収録されている。掲載直後に刊行されなかった著作で明治版に収められたのは本作だけである。

 このように、明治一八年六月七月に福沢の女性論が集中的に掲載されているのであるが、その原型というべき社説として、「A我国には男尊女卑の風習あり」(18850520・全集未収録)と「B男尊女卑の風習破らざる可らず」(18850521・全集未収録)の二編を指摘できる。おそらく五月初旬から中旬にかけてこの二編を用意し、七月中旬にかけて女性の地位向上のためのキャンペーンが張られたのであろうが、さらに調べてみると四月一一日に「婦人責任論」という演説を行っている。その内容については知られていないが、推測するに五月の社説のさらに原型ともいうべきものだったのだろう。

 大変な話題作となった『日本婦人論後編』から五ヶ月後の一二月に刊行されたのが『士人処世論』である。初出は九月二八日から一〇月六日までの「士人処世論」六回と、一〇月二四日から二九日までの「士人処世論続」五回に分けて一ヶ月の間に一一回掲載された。その内容は前途有為の青年が官界ばかりを目指す風潮を戒めて、もっと実業界に目を向けるように促したもので、その原型は同内容の「処世の覚悟」(18850829・全集未収録)と「農工商人たるは志士の恥辱にあらず」(18850910・全集未収録)で間違いないと思われる。

 明治一八年一二月刊行の『品行論』は、一一月二〇日から一二月一日まで一〇回の連載を初出としている。日本の男性の不品行を咎め、その生活の改善を促した本作の原型となる単発の社説は発見できなかった。署名著作も含めて広く類似した内容の記述を探すと『日本婦人論後編』に、「男子は其(婦人の・論者補足)静なるを好きことにして公けに不品行を犯して人に隠しもせず、妾を召抱へ又これを取替へ、容易に妻を娶りて容易に離縁するなど、勝手次第なる者あり」(⑤四九〇頁)という部分があって、これは『品行論』で指摘されている日本の男性が改善しなければならない問題点そのものである。そうなると『日本婦人論後編』への反響のうちに、『品行論』執筆を促す内容のものがあったとも考えられる。

 翌明治一九年の五月二六日から六月三日まで八回連載された『男女交際論』は、精神的に独立した男女が対等の関係での人間交際を結ぶべきだとする論説であるが、原型となる単独の社説は発表されなかったようである。さらにその内容と同趣旨の記述を先行する署名著作に探したが、発見できなかった。日本の男性の行状を批判した『品行論』を読めばどのような男女関係が望ましいかについてについての疑問が生じるのは当然のことで、そのような反響に応えるものとして用意された原稿だった可能性がある。

 『男女交際論』が刊行された直後の六月二三日から二六日まで「男女交際余論」四回が掲載されているが、これは福沢の手によっては出版されていない。ところが『男女交際論』と合本にした偽版が確認されていて、そのことにより福沢の女性論への反響がいかに大きかったかが分かるのである。

五 明治二一年(一八八八)刊行の著作について

 明治一九年六月刊の『男女交際論』の次は明治二一年一月刊の『日本男子論』で、署名著作が出されなかった期間は一年半もある。直筆草稿残存社説(注9)について調べると、「米麦作を断念す可し(前編)」(18860621)の次が「条約改正会議延長」(18870804)になっている。書簡によればこの時期の福沢は、中上川彦次郎主筆のほか社説記者の渡辺治と高橋義雄を駆使して日々の社説を仕上げていたので、直筆社説は書かれなかったのではなく何らかの事情で残らなかったようだ。あるいは明治二〇年四月の中上川主筆の辞職、七月の高橋の退社、そして八月の伊藤欽亮総編集の就任までの混乱期のうちに失われたとも考えられる。じっくりと腰を落ち着けて長編を書く余裕はなかったようで、同年七月九日付長男一太郎宛書簡には、「新聞社は実に忙しく、彦次郎が山陽鉄道に参候後は拙者一人にて、高橋と渡辺を加勢にして今日迄参候」(⑱一二八頁)とある。

 明治二〇年八月に伊藤総編集、渡辺・石河両社説記者という体制が整ってからやっと長い論説を書けるようになったとみえ、一〇月には六日から一二日まで「私権論」五回が連載されたが刊行はされなかった。そうして明治二一年一月一二日から二四日にかけて「日本男子論」一〇回が連載されて、同月中に刊行の運びとなったのである。

 この『日本男子論』であるが、先行する単独の社説に原型を見つけることはできなかった。執筆された時期についてはある程度の絞込みが可能で、文中で言及されている英国の政治家チャールズ・デレクの不倫スキャンダルは、「日本男子論」連載一年前の社説「言論検束の撤去」(18870125・全集未収録)で報道されている。これで執筆は『男女交際論』の直後ではなく、少なくても翌年一月以降となるが、もし「私権論」より前に脱稿していたならこちらが先に発表されたと思われるので、時系列順に「私権論」の後にとりかかったとみるのが妥当であろう。内容は『品行論』で批判されていた日本の男性のよくないところはどのようにすれば改善できるかというもので、おそらくは、掃除破壊をするだけではなく建置経営もせよ、という読者の声に応えたものである。

 明治二一年にはもう一冊一〇月刊行の『尊王論』がある。九月二六日から一〇月六日まで九回連載された。明治一八年五月の「日本婦人論」以降『日本男子論』までの三年近くの間、福沢の関心の中心は男女論にあった。ここにきて署名著作としては『帝室論』以来六年半ぶりに天皇論を刊行したことになるが、『日本男子論』刊行後の紙面にあたったところ、帝室をテーマにした社説は発見できなかった。そこでさらに遡ると、『尊王論』と同内容の社説「帝室の緩和力」(18860227,28・全集未収録)が刊行三年近く前に掲載されていることが分かった。別のところ(注10)にも書いたように、論者は『尊王論』の下書きを担当したのは石河幹明であると推測している。この時期の福沢は、男女論に区切りがついたことにより、次のテーマを天皇論に定め、石河に「帝室の緩和力」を原型とする長編社説の下書きを命じたということになろう。ただし、この時期の福沢書簡に皇室制度に対する関心をうかがわせるものがないため、それはあくまで蓋然にとどまる。

六 明治二五年(一八九二)・明治二六年(一八九三)刊行の著作について

 明治二一年(一八八八)一〇月刊行の『尊王論』の次は明治二五年六月に出された『国会の前途・国会難局の由来・治安小言・地租論』となるが、そこに含まれている四つの論説の初出は、「国会の前途」が明治二三年一二月一〇日から二三日までの一二回、「国会難局の由来」が明治二五年一月二八日から二月五日までの八回、「治安小言」が同年二月二八日から三月四日までの五回、「地租論」が同年四月二九日から五月八日までの九回となっている。

 これら四編のうち「国会の前途」のみ明治二三年の発表であるが、思うに明治二五年になってこのように古い論説を引っ張り出したのには、第一議会開会中に発表された「国会の前途」を読まないと、明治二四年一二月二五日に解散した第二議会が直面していた問題の由来が理解しにくくなってしまうからである。「国会の前途」は江戸時代まで遡って議会設立の経緯を記述したもので、長らく少数者による政治決定に慣れてきた日本の政治風土からいって、維新の精神にかなう、衆議によってものごとを決める議会制度が根を下ろすのは困難であると書かれている。案の定第二議会において地租軽減を争点として官党と民党の対立がのっぴきならない事態に立ち至り、明治二五年二月一五日に第二回衆議院議員総選挙となって、満を持して発表されたのが後の三編である。すなわち「国会難局の由来」が議会解散の遠因を明治一四年政変後の政府と在野の政治家との路線の違いに求め、対立する両者に調和をもたらすため「治安小言」では言論の自由について政府が譲るべきところを示し、さらに「地租論」では地租軽減を唱えている民党支持者に、地租軽減は民力の休養にはつながらず時には増税も受け入れなければならないと諭している。

 総選挙は二月にあったが、第三回帝国議会(特別会)が開会したのは五月六日になってからだった。『国会の前途・国会難局の由来・治安小言・地租論』が刊行されたのは、その特別会が閉会する頃で、福沢はおそらく第二議会の紛糾と解散をめぐって生じた政治停滞は今後も繰り返すことを見越して、それらを後世に残そうとしたのだろう。それぞれの論説の原型となっている単独社説を探したところ、「国会の前途」の原型は「帝国議会の開院式」(18901129・全集未収録)、「国会難局の由来」のそれは「国会は万能の府にあらず」(18880523・全集未収録)、「治安小言」については「超然主義は根底より廃す可し」(18920223・全集未収録)、「地租論」については「地租軽減」(18910829・全集未収録(注11))であることが分かった。

 社説欄への連載をまとめたものとしては最後となる『実業論』が刊行されたのは翌明治二六年五月のことで、その初出は同年三月三〇日から四月一五日までの一五回であった。その内容は、憲法と議会開設により政治の近代化は進みつつあるのに、実業の革命は未だしであるのは、高学歴の者が実業に入らないからだとして、実業における教育の重要性を述べたものである。その原型は「後進の方向」(18921009・全集未収録)で、その末尾に「猶ほ今後の就学者の心得及び政府の教育法等に就ては重ねて機を以て論ずる所ある可し」と予告されているのが、半年後に発表されたこの『実業論』であると推測できる。

七 発見された新事実について

 署名著作の原型追究は以上であるが、その過程で従来まで気づかれてこなかった新事実がいくつか明らかとなった。

 新事実の第一は、原型の大部分が全集未収録となっているということである(注12)。署名著作一八タイトルのうち、原型が発見できたものは一二タイトルである。しかしそのうち現行版全集に収録されているのは二タイトルにすぎず、さらに石河幹明が編纂した大正版全集と昭和版続全集に採録されているのは「徳育余論」だけである。つまり石河は原型の多くを大正・昭和版の「時事論集」から落したわけで、その理由としては、これらの原型を福沢起筆または福沢立案とはみなさなかったか、または福沢のものと判断したがあえて落したのいずれかが考えられる。

 福沢のものとみなさなかったと推測するのは、あまりにも不自然すぎる。論者の見るところ、署名著作と原型の関連が深く看取できるのは、『帝室論』と「立憲帝政党を論ず」であるが、石河はこの草稿残存社説さえ続全集に採録していない。また、『日本婦人論後編』と「A我国には男尊女卑の風習あり」・「B男尊女子の風習破らざる可らず」の両社説の関係も明白で、福沢直筆とは断定できないものの、少なくとも福沢立案社説ではあることは分かったはずである。『士人処世論』についても、処世という言葉が含まれている「処世の覚悟」すら落とされている。そうなると後者の故意に採録しなかった可能性が高くなるわけである。

 さらに故意に落したとしてその理由を推測したい。「時事論集」に社説を採録するに当たって、石河は故意に福沢直筆社説を排除したという疑いについてはすでに別のところに書いた(注13)。その場合は、石河が描こうとした福沢像との齟齬が考えられるわけだが、署名著作の原型の排除の理由とはならない。そうなると、原型の非採録は、全集全体を通して内容の重複をなるべく避けたいという意向によるのではないか、との推測が浮上してくる。とはいえ、こと福沢に由来する社説については網羅的に採録した、という石河の証言(注14)の信憑性はさらに低くなったわけである。

 新事実の第二は、原型の掲載から署名著作の連載が始まるまで、かなりのばらつきがあったことである。最短は『通俗外交論』の九日で、『時事大勢論』一七日、『帝室論』二七日、『学問之独立』一ヶ月、『日本婦人論後編』二ヶ月(ただし前編までは一五日)、『士人処世論』一ヶ月と、半数の六タイトルはおおむね一ヶ月以内であるのに対し、『尊王論』は二年七ヶ月後、『国会の前途・国会難局の由来・治安小言・地租論』は、原型のうち最初に掲載された「国会は万能の府にあらず」から四年一ヶ月後、最後の「超然主義は根底より廃す可し」から四ヶ月後になっている。ただし、合本である本書の刊行の事情についてはすでに書いた通りで、この場合は原型掲載四ヶ月後とするのが妥当かもしれない。なお、社説欄掲載の署名著作としては最後となる『実業論』については原型「後進の方向」発表七ヶ月後の刊行となっている。

 以上をまとめると論者には『尊王論』の原型と本編の間隔が異常に離れているように感ぜられる。しかもこの『尊王論』の版元だけが、時事新報社(慶応義塾出版社)ではなく集成社となっている。別の論文を書いたときに調べたのだが、刊行された明治二一年の書簡に、帝室に触れた書簡も社説も、この『尊王論』以外には見当たらない。もし『尊王論』が福沢立案石河起筆のカテゴリーⅡ論説だとするなら、福沢は明治二一年の夏に突然二年半も前の社説の長編化を思い立ち、下書きを石河に命じたということになる。それはありえないことだと断言はできないものの、不自然さは否めないだろう。そうではなく、石河が前々から目をつけていた社説「帝室の緩和力」の長編化を福沢に申し出た、というのなら腑に落ちるのである。管見のかぎり、後年単行本化された『尊王論』の内容に言及しているのは戦前では石河ただ一人である。

 新事実の第三は、『日本婦人論後編』を除いて、以後の男女論を福沢は書き下ろしとしていたということである。明治一八年五月に「日本婦人論」(八回)と『日本婦人論後編』(一〇回)の原型となる二編の社説が発表された後、『品行論』(一〇回)・『男女交際論』(八回)・「男女交際余論」(四回)・『日本男子論』(一〇回)はいずれも一つ前の著作の結論部が引き延ばされる形で執筆されている。これは『福翁自伝』末尾にある福沢生涯の希望三ヶ条の第一「全国男女の気品を次第次第に高尚に導いて真実文明の名に恥ずかしくないようにする」ための著作を、時局的な問題とは区別して執筆していたことを意味している。

おわりに―本論文の研究史上の意義について

 第一節にも書いたように、福沢の長編論説にはそれに先立つ原型ともいうべき短編が存在することは前から知られていた。しかし、こと時事新報掲載論説についていうなら、署名著作に対応する原型社説の探究という本論文が試みたアプローチに先行研究はないのである。というのは、第七節にも指摘したように、単独で掲載された原型社説は多くの場合石河幹明による大正版・昭和版「時事論集」への採録から洩れていて、読者はそうした社説があること自体を知ることができなかったからである。近年『福沢諭吉事典』(二〇一〇年一二月・慶応義塾刊)の「『時事新報』社説・漫言一覧」によってその全タイトルと全集への採否が明らかとなり、さらに論者を研究代表者とする全集未収録社説のテキスト化の作業により、その全貌は明らかになりつつある。

 本論文が探究した署名著作の原型は、『時事大勢論』について「国会開設の準備」(18820318・全集未収録)、『帝室論』について「立憲帝政党を論ず」(18820331,18820401・現行版収録)、『学問之独立』について「徳育余論」(18821220,21・大正版収録)、『通俗外交論』について「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」(18840602・全集未収録)、『日本婦人論後編』について「A我国には男尊女卑の風習あり」(18850520・全集未収録)と「B男尊女子の風習破らざる可らず」(18850521・全集未収録)、『士人処世論』について「処世の覚悟」(18850829・全集未収録)と「農工商人たるは志士の恥辱にあらず」(18850910・全集未収録)、『尊王論』について「帝室の緩和力」(18860227,28・全集未収録)、『国会の前途・国会難局の由来・治安小言・地租論』についてそれぞれ「帝国議会の開院式」(18901129・全集未収録)・「国会は万能の府にあらず」(18880523・全集未収録)・「超然主義は根底より廃す可し」(18920223・全集未収録)・「地租軽減」(18910829・全集未収録)、『実業論』について「後進の方向」(18921009・全集未収録)である。これらの原型は、たとえ全集未収録の社説であっても論者のホームページ「平山洋関連」(注15)で読むことができる。

 改めて署名著作と原型を読み比べて分かったことは、福沢の関心が常に具体的問題から普遍的問題解決へ、という方向性をもっていたことである。現行版全集において具体的問題は「時事新報論集」所収の社説として、また普遍的問題は第七巻までの署名著作として別個に研究されてきたために、従来の研究ではその連続性が見失われてきた。たとえば福沢の天皇論として『帝室論』はつとに重要視されていたが、研究者の関心はもっぱらその立論の骨子をバジョットに求めることや、前年に福沢も関与してなされた交詢社憲法草案との連関に向けられていた。しかしそれだけでは福沢が明治一五年五月に『帝室論』を刊行した本当の理由は分からない。執筆の直接の動機は、皇室の政治利用につながりかねない党名をもつ立憲帝政党が、同年三月に福地源一郎らによって結党されたことにあったのである。また、従来の研究でも、明治一七年六月発表の福沢のキリスト教容認論と、同月刊行の『通俗外交論』との関係は指摘されていたものの、新発見の社説「外国宣教師は何の目的を以て日本に在るか」により、治外法権の撤廃に向けて外国宣教師の協力を得るためという意図があったことが確かめられた。こうした新たな「読み」の試みは未だ緒に就いたばかりである。全集未収録社説の研究が進展することにより、福沢の署名著作への新解釈は今後も現れるであろう。

付記

 本論文は日本学術振興会平成二五年度科学研究費補助金(研究種目:挑戦的萌芽研究、課題番号:25580020)、課題名「福沢健全期『時事新報』社説起草者判定」の一部である。

 

脚注

(1)
岩波書店刊全二一巻(一九五八~一九六四)別巻(一九七一)。全集収録論説より引用する場合は、たとえば第二〇巻二四三頁を(⑳二四三頁)などと表記する。
(2)
福沢諭吉協会刊『福沢諭吉年鑑』第一八号(一九九一)所収。
(3)
「『学問のすすめ』と『文明論之概略』」ミネルヴァ書房刊『アジア独立論者福沢諭吉』(二〇一二)四三~六四頁。
(4)
一八八二年三月一八日掲載を意味する。社説の題名および本文は創刊初期にはカタカナ漢字交じりで表記されていたが、ひらがな漢字交じりで統一する。字体は新漢字である。
(5)
Walter Bagehot"The English Constitution"(1867)
(6)
岩波書店刊。以下昭和版と称す。
(7)
「福沢諭吉演説一覧」静岡県立大学刊『国際関係・比較文化研究』第四巻第二号(二〇〇六)二六三~二七四頁。
(8)
文芸春秋社刊『福沢諭吉の真実』(二〇〇四)二六頁。『アジア独立論者福沢諭吉』一四七~一五三頁。
(9)
「福沢諭吉直筆草稿残存社説一覧」『アジア独立論者福沢諭吉』後三〇~三三頁
(10)
「誰が『尊王論』を書いたのか」『アジア独立論者福沢諭吉』三一五~三五六頁。
(11)
全集収録済の同一タイトルの社説(18901203,04,05)とは別の社説である。
(12)
これらの全集未収録の原型の多くは福沢直筆の可能性が高いのではあるが、そう断定することはできない。というのも、論者が進めている社説の筆者推定作業(『尊王論』刊行時までの分に相当)において、直筆と判定されたのは、これらのうち「国会開設の準備」と「言論自由の説」(但し『藩閥寡人政府論』は非刊行)の二編だけなのである。他の原型社説はカテゴリーⅡ(福沢立案記者起筆)社説かもしれず、そうした非直筆社説を原型として署名著作を執筆することもありうると考えられる。なお、社説起筆者推定については、拙論「石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定―明治一五年三月から明治一八年三月まで―」(『国際関係・比較文化研究』第一三巻第一号(二〇一四)縦一~一七頁)および「『時事新報』社説の起筆者推定―明治一八年四月から明治二四年九月まで」(『国際関係・比較文化研究』第一三巻第二号(二〇一五)縦一~一八頁)を参照のこと。
(13)
『福沢諭吉の真実』一二四頁、「石河幹明が信じられない三つの理由―『福沢諭吉全集』「時事新報論集」の信憑性について―」『アジア独立論者福沢諭吉』三五七~三六八頁など。
(14)
「続福沢全集緒言」昭和版第一巻(一九三三)三頁。
(15)
URLはhttp://blechmusik.xii.jp/d/hirayama/である。