「『西洋事情』 の衝撃と日本人―赤松「口上書」・龍馬「八策」・天皇「誓文」・覚馬「管見」等へ与えた影響について」

2013-06-30

このテキストについて

平山洋氏の依頼により、2013年6月23日にアマゾンキンドルより出版された「『西洋事情』 の衝撃と日本人―赤松「口上書」・龍馬「八策」・天皇「誓文」・覚馬「管見」等へ与え た影響について 」(常葉叢書12)を公開します。

本文

一 赤松小三郎「口上書」(慶應三年(一八六七)五月)は『西洋事情』の日本化

信州上田藩の兵学者に赤松小三郎という人がいた。福沢諭吉の友人に赤松大三郎なる人物がいるが、親戚ではないもののともに長崎海軍伝習所の出身だったので、小三郎と大三郎は知人ではあったようである。

英国式兵学の研鑽を積んだ小三郎は、慶應二年(一八六六)三五歳のときに京都に私塾を開き、そこで英国式の錬兵術を教えた。門下生には、薩摩・肥後・会津・越前・大垣などの各藩士から新選組の隊士までとバラエティに富んでいた。小三郎が薩摩藩兵学教授として京都の薩摩藩邸に招かれたのはそれから間もなくのことで、そこで中村半次郎(桐野秋武)・村田新八・篠原国幹・野津鎮雄・野津道貫・黒木為楨・東郷平八郎・樺山資紀・上村彦之丞ら約八百人に英国式兵学を教え、藩士たちの練兵も行うことになった。こうして小三郎は薩摩藩の兵制を蘭式から英式へと改編するのに指導的役割を果たした。また会津藩士山本覚馬の頼みで友人の西周と共に在京都会津藩洋学校の顧問を務めてもいる。

一八六二年版の『英国歩兵練法』を金沢藩士の浅津富之助(後の南郷茂光)と分担翻訳し、下曾弥版として出版したが、初版には誤訳もあったため、薩摩藩から依頼を受け、一八六四年の改定版原本に基づいて、慶應三年(一八六七)五月に改めて『重訂英国歩兵練法』(七編九冊)として出版した。この重訂版(薩摩藩版)は巷に流布しないよう、薩摩藩軍局の厳重な管理下に置かれた。薩摩藩錬兵術の奥義だったからである。島津久光は、訳本の完成を大いに喜び、赤松に当時の世界でも最新式の騎兵銃を贈ってねぎらった。

この時期、薩摩藩の基本方針は大名連合が幕府を支えるという公儀政体論から、武力討伐へと転換しつつあった。あるいは小三郎はその変化に気づかなかったのかもしれない。公儀政体論に基づく「御改正之一二端奉申上候口上書」を慶應三年(一八六七)五月一七日に越前福井藩前藩主・松平春嶽に、また同じく五月に同様の建白書を薩摩藩の島津久光にも提出している。その内容は以下の通りである。

一 天孫御合體諸藩一和御國體相立根本は、先づ天朝之権を増し徳を奉備、並に公平に國事を議し、國中に實に可被行命令を下して、少しも背く事能はざるの局を御開立相成候事。

蓋し権の歸すると申は、道理に叶候公平之命を下し候へば、國中之人民承服仕候は必然之理に候。第一

天朝に徳と権とを備へ候には

天下に待する宰相は、大君、堂上方、諸侯方、御旗本之内、道理に明にして、方今の事務に通じ、萬の事情を知り候人を選みて、六人を待せしめ、一人は大閣老にて國事を司り、一人は錢貨出納を司り、一人は外國交際を司り、一人は海陸軍事を司り、一人は刑法を司り、一人は租税を司る宰相とし、其以外諸官吏も、皆門閥を論ぜず人選して、天下を補佐し奉り、是を國中の政事を司り、且命令を出す朝廷と定め、又別に議政局を立て、上下二局に分ち、其下局は國の大小に應じて、諸國より數人の道理に明かなる人を、自國及隣國の入札にて選抽し、凡百三十人に命じ、常に其三分之一は都府に在らしめ、年限を定めて勤めしむべし、其上局は、堂上方、諸侯、御旗本の内にて、入札を以て人選して、凡三十人に命じ、交代在都して勤めしむべし。國事は總て此両局にて決議の上、

天朝に建白し御許容の上

天朝より國中に命じ、若し御許容なき箇條は、議政局にて再議し、彌公平之説に歸すれば、此令は是非共下さゞるを得ざる事を

天朝へ建白して、直に議政局より國中に布告すべし。其兩局人選の法は、門閥貴賎に拘らず道理を明辨し私なく且人望の歸する人を公平に選むべし。其局の主務は、舊例の失を改め、萬國普通の法律を立て、并に諸官の人選を司り、萬國交際、財貨出入、富國強兵、人才教育、人氣一和の法律を立候を司り候法度、御開成相成候儀御國是の基本かと奉存候。

一 人才教育之儀、御國是相立候基本に御座候事

國中人才を育て候法は、江戸、大阪、長崎、箱舘、新潟等の首府へは、大小學校を營み、各其大學校には、用立候西洋人數人づゝを雇ひ、國中有志の者を教導せしめ、大阪に兵學校を建て、各學課毎に洋人數人づゝ雇ひ、國中兵事に志有る者を御教育相成、且國中に法律學度量學を盛にし、其上漸々諸學校を増し、國中の人民をに育て候儀、治國之基礎に可有之候。

一 國中の人民平等に御撫育相成、人々其性に準じ、充分力を盡させ候事

是まで、人々性に應じて力を盡させ候儀不同有之、遊民多くして農而巳多く勞し、他の諸民は運上少なく候へば、第一百姓の年貢掛り米を減じ、士、工、商、僧、山伏、社人之類まで、諸民諸物に運上を賦し、遊樂不要にに關り候諸業諸品には運上の割合を強くし、諸民平等に職務に盡力し、士は殊に務を繁くし國中の遊民、僧、山伏、社人、風流人、遊芸の師匠の類には、夫々有用の職業を授け候御所置き、治國の本源に可有之候。

一 是迄の通、用金銀總て御改、萬國普通の錢貨御通用相成、國中の人口と、物品と錢貨と平均を得候様、御算定之事

錢貨は、天地に象に準じて、萬國一般圓形に造り、且萬國大凡普通の相場有之候へば、是に準じて、銀貨金貨銅貨の割合、大凡西洋各國と同様に御吹替、其大小品位も同等に造らず候ては、往々萬國の交際に不齊を生じ、且交易通商の上に損害可有之候、又國中人口に比すれば、錢貨不足に可有之、器財物品の不足なること甚し、故に錢貨を増し、物品製造の術を大に盛にするに非ざれば、平均にいたること難かるべくと奉存候。

一 海陸軍御兵備之儀は、治世と亂世との法を別ち、國の貧富に應じて御算定の事。

蓋し兵は數寡くして、利器を備へ熟練せるを上とす、方今の形勢に準じ候はば、陸軍治平常備の兵數は、都て凡ニ萬八千許、内歩兵ニ萬千許、砲兵四千許、騎兵ニ千許、他は築城運輸等の兵とすべし。右兵士は、幕臣及諸藩より直に用立候熟兵を出し置、四年毎に交代せしめ、其隊長及諸官吏は、業と人望とに應じて、天朝より命ぜられ、望に應じて永く勤めしむ、其兵は三都其外要地に在て、警衛を職とし、此常備兵の外、士は勿論諸民皆其地へ教師を出して平常操練せしめ、且有志の者は、長官學校に入れて學問せしめ、亦士にても、望に應じて、職業商賣勝手次第行はしめて、往々士を減ずべし。海軍は速に開け難し。先づ海軍局へ洋人數人御雇ひ、國中望の者其外合せて三千人に命じて、長官より水卒迄業を學ばしめ、業の成立に準じて、新に艦を造り、又外國より買て備ふ可し。即今常備の海軍は、是迄御有合せの御艦に人を選みて乗組を命じ、用立候程に修覆し、砲を増して備ふ可し。尚國力の増すに従て兵數を改め、兵備も充分に相増し、殊に亂世には、國中の男女悉く兵に用立候程に御備立御所置有之有候儀御兵制の本源に御座候。

一 舟艦並に大小銃、其外兵器或は常用之諸品衣食等製造の機關、初は外國より御取寄せ、國中に是に依て物品に不足無き様御所置之事

諸物製造の局は、運輸の便地の利を選び、諸所に造営し、各局に西洋人を雇ひて傳習せしめ、國中職人を増し、盛に諸物を製し候へば、海陸兵用之利器海内に充満し、日用の諸品廉價にして良品を得べし。其洋人を雇ふ入費は、職人一ヶ月の雇價食料合せて凡二百より二百五十両なるべし。此金は、日本在留中大凡費すべければ、外國に持歸る貨は些少なるべし、故に洋人を雇ふも、少しも厭ふべきにあらず、諸品製造局は、往々は是非開かざるを得ざる事なれば、此節速に御開相成候儀當然と奉存候。

一 良質の人馬及鳥獣の種類御殖養之事

蓋し欧羅巴人種は、アジア人種に勝る事現然に候へば、國中に良種の人を殖育し候へば、自然人才相増し、往々良國と相成候理に候、亦軍馬は外國之良種に無之候ては、實用に不便に御座候、又牛羊鶏豚の類等の美食を常とし、羊毛にて織候美服を着候様改め候へば、器量も従て相増し、身体も健強に相成、富國強兵之基に可有之候。

此他御改正相成候とも、國風人性に逆はざる事件何程も可有之候へば、方今の無障事件丈は速に御改正相成、其他即今難行事は、人智の開け候に應じて、漸々御改正相成候儀、天理自然に可有之奉存候、斯く御國政に關り候儀を奉申上候は、甚奉恐入候得共、心付候儀を黙止仕り候も、却て不本意に奉存候間、淺見の一二端乍恐奉申上候、何卒被遊御盡力、方今適當に御國律相立、天幕御合體諸藩一和相成候様、奉懇願候、昧死稽首

慶應三年丁卯五月    松平伊賀守内

             赤松小三郎

〔上田市編『上田市史下』(昭和一五年(一九四〇)三月)一二五一~一二五三頁、明治文献資料刊行会昭和五七年(一九八二)八月覆刻〕

以上見られるようにまことに水準の高い完備された「口上書」であるが、その視野の広さと西洋の政治体制への深い理解は、かえって彼の身に危険を招くことになった。だがそれはまた先の話として、今はこの「口上書」がいずれに由来するのかについて話を進めたい。

先にも書いたように赤松小三郎は優秀な西洋軍事学者だった。京都で徳川慶喜の補佐官をしていた西周とも交友があって、西洋の政治システムについての知識も豊富といえた。ただそうだとしても、彼がこの「口上書」の建白を独力で執筆できたかといえば、そこまでの能力はなかったと思う。これほどの体系性を備えた、いわば私擬憲法のさきがけともいうべき文書を書くには、そのモデルとなる何かが必要なのではないか。その候補として、前年慶應二年一〇月に刊行された福沢諭吉著『西洋事情』初編中アメリカ憲法と英国政治の部が、この「口上書」の直接のモデルになっていると私は推測する。

その中で赤松は、定数三〇人の上局と定数一三〇人の下局からなる二院制の議会(赤松の訳語では「議政局」)政治を提唱している。上局は貴族院に相当し、その議員は、朝廷と幕府と諸藩の融和の象徴として、公卿と諸侯と旗本より選出される。下局は衆議院に相当し、その議員は、各藩を基礎とした選挙区から「門閥貴賎に拘らず道理を明弁し私なく且人望の帰する人」を、入札(選挙)によって公平に選ぶとされた。これは、身分にとらわれない民主的な普通選挙による議会政治を提言した文書として、おそらく日本最初のものであろう。「国事は総て此両局にて決議」とされ、議会は国の最高議決機関と位置付けられてもいる。

この「口上書」に先立つ七ヶ月前に刊行された『西洋事情』初編は、米国の二院制議会について次のように説明している。

政治 千七百八十七年議定したる合衆国の政治は、国民集会して国政(まつりごと)を議するの趣意にて、国法を議定するの権は議事院にあり。議事院を上下二区に分ち上院の議事官は各州の評議官にて、選挙して一州より二人宛を出し、その人数六十二名、在職六年を限とす。この人数の内三分一を二年毎(ごと)に交代せしめ、六年にして総人数一新するの割合なり。これを選挙するに定律あり。年三十歳に満たざる者及(およ)び合衆国の戸籍に入て九年を経ざる者はこの選挙に当たるべからず。上院の議事官は人物を選挙して官に命じ、外国と条約を結ぶときその事を議論し、諸有司の過失を論して之(これ)を廃黜(はいちゅつ)するの権あり。下院の議事官は各州一般に人民の選挙するものにて、その人数二百三十三名、在職二年を限とす。之(これ)を挙るの法、十年毎(ごと)に合衆国内の人口を計(かぞ)え、その総数を二百三十三に分ち之(これ)より一人宛を出す。

また「口上書」中で注目すべきは議会の決議事項に対しては、天皇ですら拒否できないとされていることで、これは米国議会と大統領の関係について説明した『西洋事情』中の、

○都て法令の案文を作り。両院の同議を経れば、必ず之(これ)を大統領に呈して可否を質(ただ)すべし。大統領その案文を見て同意なれば之(これ)に調印すべきなれども。若(も)し異存あればその異存の趣意を述べて之(これ)を返すべし。然るときは初めこの案文を作たる局にて、別に大統領の異旨を書記し、案文に副て再議を発す。若(も)し再議の上、尚(な)お前説を持張する者、局内の総人数、三分の二に至れば、この局の評議を一定して更に之(これ)を彼局に送るべし。彼局にても再議して、同意の者総人数、三分の二なるときは、大統領の異存に関わらず定めて国法となすべし。但(ただ)し斯く再議するときは、局内の総人数をして逐一その可否を述べしめ、その姓名を日記に誌し置くべし。

に由来すると思われる。つまり赤松「口上書」は、天皇を世襲制の大統領と見なしているのである。

もちろん日本は君主制なのであるから、赤松「口上書」中の国家機構の説明は英国の体制からの影響が顕著である。『西洋事情』には英国の政治に関して次のようにある。

○政府の号令は、国王より出るに非(あら)らず、王室より出るものと視做せり。王室の大臣十四名あり。その内最も権威あるものは、第一銭貨出納の権を執(と)る宰相にて即ち大閤老なり。第二、賦税(ふぜい)事務宰相、第三、刑法事務宰相(即ち上院の長官なり)、第四、内国事務宰相、第五、外国事務宰相、第六、海外所領事務宰相。此(こ)の外の大臣は王室に定位なくして参議するものなり。海陸軍の事務を司(つかさど)る宰相の如(ごと)きを云(い)う。

○右の如く律を定め国内治乱の責に任ずるものは国王に非(あ)らずして事務宰相なり。故に宰相たるもの、議事院及(およ)び国民の信を失えば事柄の是非を論ぜずしてその宰相の職を免じ、他人、之(これ)に代てその職に任じ、国の争端をも開くべき難事を平和して痕跡を残すことなし。故にその政治の景況、恰(あたか)も精巧なる器械の如(ごと)く、一体の内、自(みず)から調和の妙機あり。若(も)し外より強暴を以(もつ)て之(これ)を圧するか、或(あるい)は内より互(たがい)に不和を生じて離散する等のことなくば、此(こ)の政治は天地と共に永久すべし。

二院制議会と立憲君主制以外の事項として、赤松「口上書」では、主要都市に大学を設置し全国民への教育機会を提供すること、人民平等の原則に基づき農民に重すぎる税負担を軽減、全ての職種に公平な税率を課すこと、金貨・銀貨を国際的なレートに従って鋳造し直し、物品の製造にあわせ通貨供給量の拡大を計ること、陸軍と海軍を拡充し諸民からも軍人を養成して士族の割合を徐々に減らすこと、戦時には国中の男女を徴兵可能にすること、西洋から顧問を迎え入れ各地に諸物製造所を設け産業を振興すること、肉食を奨励し日本人の体格を改善すること、家畜も品種改良すること、などが建白されている。

これらの建白について、まず大学と教育の機会均等については、『西洋事情』に米国の教育制度の説明がある。

○合衆国の北部に於(おい)ては、児童を教育する小学校最多くその法甚(はなは)だ善し。亜米利加(アメリカ)政治の一美事と云べし学校の費用は賦税(ふぜい)より出し或(あるい)は又別に学校に附属せる元金なるもの有て、年々その金の利息を集め、州内の諸府に学童を教育する員数に準じて之(これ)を分配す。一都府の内に必ず小学校一所を設け、府外にても人家あるの地は凡(およそ)二里四方の内に一所を設けて往来の便利を為す。又一郡毎(ごと)に人物十二名を選挙し、学校の知事と為(な)して郡内諸学校の事務を司(つかさど)らしむ。学校に入らんとするものは何人の子たるを論ぜず直に之(これ)を許し、且(かつ)本人は唯(ただ)書籍を買(か)うのみにて一切他の出費なし。小学校の教は英語の初歩、算術、地理学等なり。又都府の学校には兼て羅甸(ラテン)語希臘(ギリシア)語をも学ばしむ。大学校の教も甚(はなは)だ盛(さかん)にして、その法、寛裕を主とせり。大学校は政府より建るものあり、或は私に会社を結て設るものあり。凡(およ)そ合衆国中、所としてこの学校あらざるはなし。その学科は新古語を探索し、文法を学び、歴史を読み、理学、作文学、究理学、修身学、等を研究す。

税負担の平等に関していうなら、『西洋事情』には英国での納税の実際が、実に細かく説明されている。

その収税の法、日本、支那等の制度に異なり。今こゝに英国の税法を挙て一例を示す。

港運上(うんじよう)歳入第一の高なり。この内酒類、烟草(タバコ)の運上、最も重し。千八百五十二年、港運上の高、三千一百十七万「ポント」余なるに、運上所役人の給料并(ならび)に不時の褒美(ほうび)等、諸雑費を合せて六十五万「ポント」に足らず。収税の法の簡便なること推(おし)て知るべし。

国内産物並に官許の運上 国内の産物より尽(ことごと)く運上を取るには非(あ)らず。又物に由(より)て運上の軽重あり。有税品の大略は、酒類、麹(こうじ)、烟草、紙、石鹸、蝋燭(ろうそく)、石炭、材木、硝子(ガラス)等なり。例えば麦酒(ビール)百樽凡七斗入を醸(かも)すものは一「ポント」十一「シルリング」の運上を納め、千樽以下を醸すものは二「ポント」二「シルリング」、四万樽以上を醸すものは七十八「ポント」十五「シルリング」を納む。

まことに具体的な説明で、『西洋事情』にはさらに税金の種類と納税方法の詳細が続いているのであるが、それらは省略することにして、要するに、日本と異なり西洋では一般に農民の租税負担は軽減されているということが印象づけられるものとなっている。

金銀の交換レートの国際化については、『西洋事情』に次のようにある。

〇合衆国の一「ドルラル」は我三一歩(ぶ)に当る。方今(ほうこん)我邦の貿易場に行わるゝ「ドルラル」も大抵合衆国の「ドルラル」と同量なり。この「ドルラル」は合衆国の隣国「メキシコ」の通用金なり。同、一「セント」は「ドルラル」百分の一なり。

〇荷蘭(オランダ)の一「ギュルデン」は我十八匁(もんめ)に当る。金一両六十目の相場。

〇英国の一「ポントステルリング」書中に唯「ポント」と記すは我三両に当る。同、一「シルリング」は我九匁に当る。同、一「ペンス」は我七分(ふん)五釐(りん)に当る。

〇仏蘭西(フランス)の一「フランク」は我八匁に当る。同、一「シユーズ」は我四分(ふん)に当る。

〇通用金の割合は時の相場に由(より)て一定せず。前条記する所は唯(ただ)その大概なり。

さらに米国議会の権能として、

○貨幣を造てその位を調理し外国の貨幣と平均すること、并に一国の度量を正しくすること。

○合衆国の貨幣証書を偽作する者を罰する法度を立ること。

の記載もある。『西洋事情』のこの引用により、米国では為替相場の議会の所轄であることが理解できるのである。

その他の軍事・産業育成・国民の健康増進等については、『西洋事情』中でも触れるところではあるが、主には赤松が西洋学者としてそれ以前に読んでいた書籍に由来する可能性もある。

赤松「口上書」の中核は、立憲君主制と二院制議会の提唱であるが、その二つを詳細に説明した著作は慶應二年一〇月刊行の『西洋事情』以外にはなかった。また、発想自体が独創的というわけではないにせよ、学校教育と税の平等化について、『西洋事情』の記述は具体的かつ詳細を極めている。『西洋事情』初編と赤松「口上書」を読み比べれば分かるが、「口上書」中全七項目のうちでこれらの四項目の記述は、『西洋事情』の当該部分の要約と言っていいくらいにそっくりなのである。慶應二年一〇月から翌年五月までの間、兵学教師となった赤松は薩摩藩京屋敷内で『西洋事情』の研究会のようなものを組織していたのではなかろうか。何しろ『西洋事情』は最終的には初編・外編・二編あわせて一五万部も販売されることになる大ベストセラーなのである。薩摩藩士を中心とする諸藩有志の関心を惹かなかったはずはない。新たな国家体制を構想するための手がかりを『西洋事情』は提供したであろう。

二 嵯峨根良吉「時勢改正」(慶應三年(一八六七)五月)は赤松「口上書」と同一

赤松小三郎の「口上書」について調べるうち、「幕末の新政権構想「船中八策」 宮津の嵯峨根良吉 龍馬より早く建議?」(二〇〇六年三月一〇日付『京都新聞』)という新聞記事に行き当たった。

幕末の志士、坂本龍馬が慶應三年(一八六七)六月に示した新政権構想「船中八策」より一か月早く、同様の内容をより具体的に記した意見書が、京都府宮津市出身の洋学者嵯峨根良吉(良起)によって薩摩藩に建議されたことを知ってほしいと、良吉の親戚にあたる男性が訴えている。この程見つかった良吉の履歴にも、船中八策と酷似した内容が明記されており、専門家も「良吉と龍馬の接点の有無も含め、興味深い」と改めて関心を寄せている。

◇府内の親戚訴え 保管履歴に詳述

男性は、京丹後市大宮町の岡田孝さん。同じく親戚の二木茂さん=京都市北区=が保管していた良吉の履歴を記した古文書に、「一八六六(慶應二)年に薩摩藩に招かれ、翌年五月に『時勢改正』の意見書を藩庁に建議したのが契機となり、藩籍に加えられた」と記されているのを見つけた。

更に、履歴には、

・天幕合体の後、国政は天朝の主導権の下で上下二局の議政局により行われ、全国から一三〇人の選良を出すこと

・江戸、京、大阪、長嵜(長崎)、箱館、新潟などへの学校設置

・西洋人教師を擁した人才教育―

など、具体的な数字を盛り込んで改革を訴えている。

良吉は江戸末期の医者緒方洪庵が大坂に開いた「適塾」の門下生。岡田さんは「良吉は寺島宗則や榎本武揚と航海をともにしたこともあり、海外情勢に詳しい両者らから聞いた話をもとに『時勢改正』をまとめたのでは」と推測する。

船中八策は、大政奉還の原動力となったことで知られている。霊山歴史館(京都市東山区)学芸員の木村武仁さんは「船中八策は龍馬の完全なオリジナルではないが、多くの意見を聞き、一思想ではなく現実的な国策としてまとめ、時の幕府を動かしたことに龍馬の偉大さがある」としている。

適塾記念会(事務局・大阪大学内)の芝哲夫・阪大名誉教授は「立案項目の順序やその内容からみて両者は全く軌を一にしており、偶然の一致とは考えにくい」とし、「慶應三年(一八六七)春に鹿児島にいた良吉と長崎にいた龍馬の間に接触がなかったとはいえない」と、両者の関係を調べている。

この新聞記事を元にさらに調査を進めたところ、木村幸比古著『龍馬暗殺の謎―諸説を徹底検証』(PHP研究所・二〇〇九年一二月刊)の中に、この嵯峨根の「時勢改正」についてより詳しい記述があることが分かった。すなわち、「新史料・嵯峨根良吉意見書」(同書六〇頁)の項に、「最近、龍馬の「船中八策」より、さらに一カ月前に、宮津藩士・嵯峨根良吉という人物が同じ内容の七項目を意見書にまとめていたものが子孫宅から発見され、話題となった」とあり、その内容が紹介されているのである。

●鹿児島藩士寺島宗則等の推挙する処あり、同藩に聘せらる慶應二年両寅十月、鹿児島に至り藩の子弟を調督する。五月、時勢改正の件数項を建議せり。其要綱に曰く。

●一、天幕御合体、諸藩一和、御国体相立候。根本は、天朝の権を増し徳を奉備、併に公平に国事を議し、即ち六宰相を置き、国政を主裁し、銭貸出納、外国交際、海陸軍事、刑法、租税を司らしめ、議政司上下二局を設け全国より百三十人の選良を出し、国事を議決、朝廷に上奏裁可(人皇の許可)の上、布令すべしとの趣意なり。

●二、人才御教育の儀、御国是相立候。基本に御座候事、即ち江戸、大坂、長崎、箱館、新潟等の各市に大小学校を設け、大学には西洋人散人を聘し、全国の有志を教導せしめ、大坂に兵学枚を設け西洋人を教師として教育し、又、所在法律度量学科を奨め、漸次学校を増設し、文明の教育を確立すべしとの趣意なり。

●三、国中の人民子等に御撫教相成、人々其性に準じて充分力を尽させ候事、即ち従前人民の労逸(労苦と安逸)等しからず、農に重く他は遊民多し、爾今農の負担を減じ、士、商、工、僧、山伏、社人を問はず、平等に賦課せしめ贅余品に重課し、人に労逸の差同なからしめ士人民の職を繁くし、遊民を督して其業に就かしむるを以て治国の本源とすべしとの趣意なり。

●四、是迄の通用金鎖総て御改め、万国普通の銭貨御通用相成、国中の人口と物品と銭貨の平均を得候。御算定の事、即ち万国一般円形にして、其価規定あり。故に金銀銅貨列国と同品位に改鋳し、国際貿易上の損害を避け、又国人をして融貨の便を得せしめ、盛に工業製造を発達せしむべしとの趣意なり。

●五、海陸軍御兵備の儀は、治世と乱世との法を別ち国の貧富に応じて御算定の事、即ち兵は熟練兵器精良を主とす。治平常備兵数は約二万八千人と予定し、歩二万千人、砲四千人、騎二千人と分ち、工兵輜重兵(運輸などに任じた兵)とし、幕下請藩士より撰抜四年父代に就役せしめ、士官其の他の容気は朝廷之を任命せられ、三都其他要地に註屯讐備に充てん常備兵外は、士衆を問はず所在に徴募し教官を派遣して、教練せしめ有志の徒士官学校に就学せしめん。又士にして商工業に就く者は之を許して其常職を減ぜん。海軍は先づ海軍局に洋人教師を聘して全国中より三千人を募り士官水兵を教育し成業に随ひ、戦艦を新造又は購買すべし。即今、常備海軍は在来の戦艦を修理し船員を補充すべし。爾今、国力の増進に従ひ兵制を改正し、漸次拡張せん。有事に臨んでは国中の男子皆兵となるの制を定むるを大本とすべしとの趣意なり。

●六、戦艦併ニ大小銃其外兵器、或ハ常用の諸器械衣食等、製造の機関初ハ外国より御取寄せ国中是に仍て物品に不足なき様、御処置之事。即ち各船製造局ハ運輸の便利の他所に撰定し洋人を教師に聘して伝習せしめ、囚内職工を増して製造に従事せしめば、海陸兵用の利器を充すに至るべし。洋人雇聘は毎一人月費二百五十金に上るも其金、又国内に消費せん。其携帯し去るは僅かならんのみ故に洋人雇使は、毫も厭ふべきことなからん。是れ兵器製作は必須且速急を要すべしとの趣意なり。

●七、良質の人馬及ヒ鳥獣の類、御殖種の事。即ち欧人種は亜人種に勝れり。須らく良種の人を殖育して人才を増さん。軍馬又然りとす。牛羊鶏豚の類、衣食の料に有益なるものを繁殖せしめ、国民をして肉食を常として羊絨を被服に充てしめば、識見体格健強なり。富国強兵の基たるべしとの趣意なり。

この引用に続けて作者は、「当時、嵯峨根が薩摩藩に意見書として上書したものを後人が明治末期にまとめたものであるが、かなり開明的な内容である。龍馬との接点は文献上見出せないが、嵯峨根は海舟と親交があり、龍馬と会い談じたか、もしくは薩摩藩士から風聞した可能性は十分に考えられる。嵯峨根は天保八年(一八三七)三月生まれであるから、龍馬より二歳若い」と書いている。

坂本龍馬との関係はさておくとしても、この「時勢改正」が、細部に至るまで赤松小三郎の「口上書」にそっくりなのは明らかであろう。先の新聞記事にもあるように、この文書は、嵯峨根の親戚筋が保管していた経歴書類に要約として掲載されているもので、「時勢改正」のオリジナルではない。経歴書類がまとめられた明治末年までは残っていたのであろうが、いつしか失われて、要約だけを見ることができるわけである。

なぜこのような事態が起こったのであろうか。その理由を探るための手がかりとして、経歴書類に掲載されている嵯峨根の略歴が参考になる。

(嵯峨根)良吉丹後宮津住、嵯峨根丹海季重の男なり。幼にして文武の芸術を修め歳十六、蘭学に志し大坂住、緒方洪庵の門に入りて業を受け更に長崎に赴き英学を修む。特に西洋兵書に通ず。後江戸に至り、幕司江川太郎左衛門贈正四位の招請に応じ其門弟に砲術を授く。会々幕府初めて蒸気船を製造す。良吉、勝安芳故伯爵、榎本武掲故子爵、伊澤謹吾等と乗船近海を航行測量す。途次鹿児島に色る。幕侯島津斉彬贈正一位、乗船大二良吉等の技能を感じ物を贈りて之を稿犒ふ。尋て斎藤篤信弥九郎贈正五位の塾頭となり、剣を門生に授く。良吉、文武の技能卓越なる。

適塾では福沢諭吉とほぼ同時期に在籍しているので、記録の上からは確認できないものの、面識はあったと思われる。略歴の文中にある、幕府の蒸気船が日本沿岸測量の途次鹿児島で島津斉彬を表敬訪問したというのは、安政五年(一八五八)三月または五月のことで、この時嵯峨根が乗船していたとするなら、彼は長崎で海軍伝習所に入校していたことになる。というのは、この航海は海軍伝習所の訓練としても企画されていたからである。翌年伝習所は大老井伊直弼の命により閉鎖され、それまで長崎を母港としていた咸臨丸ほかの蒸気船は、関係者共々江戸に移された。嵯峨根が江川の砲術塾の教員となったのはおそらくその時のことで、そこで塾長をしていた適塾の先輩大鳥圭介の引きによると考えられる。

慶應二年(一八六六)一〇月に嵯峨根を薩摩藩の洋学教師に推挙したのは、安政五年の鹿児島訪問時に親しくなった寺島宗則とのことである。勤務地は江戸でも京都でもなく本国鹿児島で、そこに居を構えていたが、慶應三年五月に島津久光は上洛したので、嵯峨根が「時勢改正」を提出した場所は京都だったのかもしれない。

先にも記したように、赤松と嵯峨根が、偶然同一の上申書を同時に薩摩藩に提出することはあり得ない。軍事学者としてまた英学者としての評価は赤松のほうがはるかに高いし、学問の機会も交流の幅も、政治の中心地京都のほうが鹿児島より大きかった。私は、京都で「口上書」を書き上げた赤松が、自ら福井の松平春嶽に提出する一方、親しかった嵯峨根に同じ内容の文書の島津久光への提出を依頼したものと思う。嵯峨根がそれを自分の意見として具申したのかどうかは分からない。ともかくその後の彼の運はさらに上向いて、慶應三年一〇月には正式に薩摩藩士となり、一一月には船奉行添役(西洋軍艦の副長と思われる)となった。また薩摩藩開成所(軍事学校)助教を命じられて、講義の傍ら英国海軍法規を翻訳していたが、明治元年(一八六八)六月、三二歳で病没した。

現在のところ、嵯峨根良吉の死には不審の点は発見されていない。気の毒としか言い様のないのは赤松小三郎のほうで、慶應三年五月に松平春嶽に「口上書」を提出後、薩摩藩の武力倒幕路線に反対して薩摩の西郷隆盛や小松帯刀と幕府の永井尚志らを仲介しようとしたが、八月にはその試みも挫折し、九月に本藩の上田藩に呼び戻されることになった。

薩摩藩にとって、赤松が指導した英国式練兵術は絶対の秘密だった。幕府側にそれを知られては手の内をすべて読まれてしまう。安政六年(一八五九)に急死した先代上田藩主松平忠固は日米和親条約(一八五四)と日米修好通商条約(一八五八)締結時の幕府老中である。つまりは、赤松が戻ろうとする先は幕府中央というべき場所ということで、薩摩藩としては何としても赤松の帰藩を阻止しなければならなくなった。そうして慶應三年九月三日、赤松は京都東洞院通りで無残にも斬り殺されることになる。暗殺者は弟子の中村半次郎、すなわち後年の桐野利秋であった。享年三六歳。

三 坂本龍馬「船中八策」(慶應三年六月)は偽文書

現在では有名になっている土佐藩の志士坂本龍馬が、部下の海援隊士長岡謙吉に書き取らせたという「船中八策」なる文書がある。元は慶應三年(一八六七)六月に長崎から京都に向かう船中で参政の後藤象二郎に対し口頭で伝えられたとされ、長岡自筆の書面は残っていない。

その内容は、京都にいた主君山内容堂より将軍徳川慶喜に大政奉還を勧めるというもので、さらにその後の国家構想を簡潔にまとめたものである。すなわち、

一、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事。

一、上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事。

一、有材の公卿諸侯及天下の人材を顧問に備へ官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事。

一、外国の交際広く公議を採り、新に至当の規約を立つべき事。

一、古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事。

一、海軍宜しく拡張すべき事。

一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事。

一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事。

以上八策は、方今天下の形勢を察し、之を宇内万国に徴するに、之を捨て他に済時の急務あるなし。苟も此数策を断行せば、皇運を挽回し、国勢を拡張し、万国と並行するも亦敢て難しとせず。伏て願くは公明正大の道理に基き、一大英断を以て天下と更始一新せん。

(一九六九年七月筑摩書房刊『日本の思想二〇幕末思想集』)

ということで、この文書が本当に大政奉還より「前」に作成されていたのだとしたら、まことに先見の明に富んだ、すぐれた国家構想ということができる。

あまりに有名な文書であるため、私もつい最近までその存在自体を疑ったことはなかったのだが、二〇一三年二月に刊行された知野文哉著『「坂本龍馬」の誕生―船中八策と坂崎紫瀾』(人文書院・以下『龍馬誕生』)を読んだことにより、その認識は改められることになった。引用文のような美しく整えられた文章に形成されるまでの過程の詳細は『龍馬誕生』に譲るとして、かいつまんでいえば、龍馬直筆の文書として残っている、同年一一月の「新政府綱領八策」に、前段として大政奉還論を付け加え、さらに整理した偽文書だったのである。

『龍馬誕生』(五六~五九頁)によれば、このいわゆる「船中八策」は、明治二九年(一八九六)に民友社から出版された弘松宣枝著『阪本龍馬』(九五~九六頁)で紹介されている「建議十一箇条」の内初めの八条に相当しているという。作者の弘松は龍馬の長姉千鶴の孫であるから、かなり近しい親戚である。親戚なら龍馬直筆の「新政府綱領八策」の存在や内容を知っていたとしても不思議ではなく、それを元にして、大政奉還前に策定されたという「建議十一箇条」なるものを伝記に盛り込むことも可能だったわけである。

明治二九年の段階では「建議十一箇条」だったものが、さらに「新政府綱領八策」の条数に合わせて今日見られる「船中八策」へと定まって行くのには、まだしばらく時間がかかるのであるが、その探索は『龍馬誕生』に任せることにして、次に龍馬が書いたのが確実な「新政府綱領八策」に話を移したい。

四 坂本龍馬「新政府綱領八策」(慶應三年(一八六七)一一月)は『西洋事情』の抜粋

さて「新政府綱領八策」であるが、国立国会図書館と下関市立長府博物館に龍馬自筆のものが二枚現存している。その内容は以下の通りである。

第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ

第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク

第三義 外国ノ交際ヲ議ス

第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ

第五義 上下議政所

第六義 海陸軍局

第七義 親兵

第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

右預メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云云

○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下萬民ニ公布云云

強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ

慶應丁卯十一月 坂本直柔

自筆の表題はないので「新政府綱領八策」というのは後年の俗称ということになるが、表現は簡潔でもよくポイントを突いた建策なので、そう呼ばれるのもむべなるかなである。

さて話を進める前に日付の確認をしておきたい。徳川慶喜による大政奉還は慶應三年一〇月一四日、王政復古クーデタが一二月九日、そして龍馬暗殺は一一月一五日である。このことを念頭において、龍馬が暗殺されるまでの半月の間に、少なくとも二枚の「新政府綱領八策」を書いた理由については、私なりの考えがある。

結論から言ってしまえば、この文書は、前藩主山内容堂に差し出された上書(上申書)である。後年に作られた印象とは異なり、現実の龍馬は土佐藩の一員として活動していた。下士である龍馬は前藩主という高い地位の人物と面会するのは難しく、意見の具申は書類を差し出すことによってしかできなかった。この「新政府綱領八策」も、上司である後藤象二郎を通して容堂の元に届けられたものと思う。

慶應三年一一月上旬、慶喜は大政奉還すると申し出ただけで、未だ征夷大将軍職さえ免ぜられてはおらず、依然として超大物のままだった。政治空白を避けるために幕府後の体制についての審議を目的とする会議が準備されていて、容堂も出席する予定になっていた。そこで土佐藩としての意見を求められたときの用意のために、部下に意見をまとめさせたのが、この「新政府綱領八策」という見立てである。最後の署名は起案者として責任の所在を明らかにするためで、正副二部作られたこととも合わせて上書としての性格を物語っている。肝心の新政府の盟主が伏字とされているのは、その名を記すまでの職権を龍馬は与えられていなかったためと解釈できる。最上位の候補者は徳川慶喜であろうが、会議の流れによってはその他の人名が入るかもしれないということである。

容堂が諸侯会議の席上でアンチョコのように用いることを予想しての文書だとするならば、やや奇異に感じられるのは、項目によってはややそっけなさ過ぎるのではないかということである。五・六・七義などはただの言葉の羅列にすぎず、これでどうしろというのか、という容堂の不満が聞こえてきそうである。その点の解釈について、以下は私の推測である。

この八策のうち一・二・四義は一般的な意見にすぎない。人材を登用し、きちんとした法令を作れ、というのは、過去の諸藩で藩政改革を求める上書にしばしば見られる要求で、取り立てて言うほどのことではない。問題は簡潔すぎるとも見える残り五項目についてで、私は「新政府綱領八策」が提出されるに際して、別に参考資料が供されていたのではないかと思う。それは、赤松小三郎の「口上書」の場合と同じく、福沢諭吉の『西洋事情』初編三冊である。

こう考える最大の論拠は、第八義「皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス」とそっくりな「貨幣を造てその位を調理し外国の貨幣と平均すること」という表現が、先にも引用したように『西洋事情』初編二に米国議会の権能の説明としてあることによる。さらに貨幣つながりで調べると、初編一に紙幣と中央銀行(「官の銀坐」という苦心の訳)に関する次のような説明がある。

紙 幣 西洋諸国大抵皆紙幣を用ゆ。但(ただ)しその価五十両或(あるい)は百両以上なるものは之(こ)れを銀坐(ぎんざ)手形と名づく。貨幣と唱うるものは、価一、二両許(ばかり)にして市中日常の売買に用ゆるものなり。仏英蘭等には紙幣なくして唯(ただ)銀坐手形のみを用ゆ。総(すべ)て紙幣及び手形は政府の銀坐より出(い)だす。この銀坐には固(もと)より紙幣、手形丈(だ)けの現金を備置(そなえお)くべき理なれども、一法ありて、必しもその元金の備をなさずして紙幣、手形を引替るに指支(さしつか)えなからしむべし。その法、何人(なんぴと)にても金を貸さんと欲するものあれば、官の銀坐より通法三、四分の利息を以(もつ)て之(これ)を預り、その金を以て紙幣局の元金となす。故に政府にては之が為(た)め別に元金の用意を為すことなし。金主より預け金の返済を願うときは、即時にその元利を返す。但し出入の手数銀として元金二釐五毛(もう)四百分の一を官に収む。右は政府より建る銀坐の法なり。

現在ではどうということもない説明でも、慶應二・三年の人々としてははじめて聞くことばかりだということに注意が必要である。「新政府綱領八策」で簡単すぎる五項目についても、それだけではちんぷんかんぷんだとしても、それぞれに応じた説明がなされている『西洋事情』の該当部分にしおりをはさんでおけば、各項目への理解が深められるわけである。その観点から調べてみると、例えば第三義「外国交際」については、『西洋事情』初編一に次のようにある。

西洋の諸国はその風俗言語各々異同あれども、新たに開(ひらけ)たる支那、日本の風俗と西洋の風俗と相異なるが如(ごと)くならず。その各国交際の模様を譬(たと)えて云(い)えば、日本の諸侯の国々にて互(たがい)に附合(つきあい)するが如し。各国の人民此彼(しひ)相往来して、商売は勿論(もちろん)、婚姻をも取結び、その君主も互に好(よしみ)を結び、吉凶相賀〔弔〕吊し緩急相救うの風なり。然(しか)れども元(も)と何(いず)れも独立の国にて制度一様ならざるが故に、その争端を防ぐ為(た)め各国互に約束を結で、懇親を固くし交易を便にするもの、之(これ)を条約と名づく。既(すで)に条約を結めば、此国より彼国へ全権のもの一人を遣(つかわし)てその都府へ在留せしめ交際の事務を商議せしむる者、之(これ)を「ミニストル」と称す。「ミニストル」の職掌は、条約の大義に基き両国の親睦を保全するを趣旨とせり。

これは外交に関する明快な説明であろう。

また、第五義「上下議政所」については、先にも引用した米国についての詳しい説明がある。そのほかの「海陸軍局」「親兵」についても同様で、『西洋事情』さえ座右にあれば、それを辞書のように用いることで「新政府綱領八策」の内実を捉え損ねる心配はなさそうである。

龍馬の「新政府綱領八策」は参考書『西洋事情』とともに容堂に提出された、というのは私の推測に過ぎないが、そこにある思想が『西洋事情』に由来するというのは、実は百年も前から指摘されてきたことである。というのも、『史学雑誌』大正二年(一九一三)六月号に掲載された維新史料編纂会会員岡部精一の講演「五箇条御誓文の発表に就きて」に次のようにある。

(「新政府綱領八策」と「船中八策」を続けて引用した後)

これが実に土州の大政奉還の建議の基をなしたるもので、兼てまた御誓文の前駆ともなつて居るのであります。この文の中に上下両議事所を設くる云々の事が見えて居ります。これは明治元年の閏四月に至つて政体書といふものが発布せられました時に太政官に上下両局を設けられましたが、実に其の根源であります。此頃既に福沢諭吉氏の西洋事情が世に行はれて居りましたから坂本などは長崎で既にこの書は見て居つたものであらうと思はれますから、其思想は此等の書から来つたものと見えます。現に福岡子爵の御話を聞きましたときにも此書が参考になつたと申されました。(一一頁)

出現して一五年あまりにすぎない「船中八策」まで本物と信じきっている点に岡部の問題点があるといえばあるのであるが、ともかく維新史料に精通し、次節で扱う「五箇条の誓文」の起草者である由利公正や福岡孝悌と面識もあった人物の証言として、「新政府綱領八策」や「五箇条の誓文」が『西洋事情』の影響下にあったというこの講演は重要なのである。

五 明治天皇「五箇条の誓文」(明治元年(一八六八)三月)は『西洋事情』の換骨奪胎

まあ私も人のことはいえない。「船中八策」を本物と信じていたのは岡部ばかりではなく、つい最近までの私も同様だったのだから。従来までの半ば定説では「船中八策」が「五箇条の誓文」に影響を与えたということになっているが、それは怪しくなってきた。とはいえ、「船中八策」自体は偽文書だとしても、龍馬直筆の「新政府綱領八策」は「五箇条の誓文」に四ヶ月ほど先行するので、依然として龍馬が誓文起草者の由利公正(福井藩士)に影響を与えた可能性は残る。

それを言うためには、「新政府綱領八策」を執筆した時期に由利と面会していなければならないが、その事実自体はすでに確認されていることである。というのも慶喜の大政奉還後、龍馬は土佐に味方してくれそうな松平春嶽の上京を促すため福井に赴き、そこで由利と意気投合していたのである。日付は一一月二日とはっきりしており、帰京して「新政府綱領八策」を起草する直前のことと思われる。

六月に記録されたという「船中八策」が本物だったとしたなら、龍馬から由利にアイディアが伝わった、ということが真実らしくなるのだが、偽文書とはっきりした以上、龍馬から由利へとも由利から龍馬へとも、どちらの可能性もあるわけである。その吟味は材料がそろった時点ですることにして、以下では明治元年(一八六八)三月一四日に「五箇条の誓文」が出されるまでの過程をたどりたい。

慶應三年(一八六七)一一月九日の王政復古クーデタで発足した明治新政府は、寄り合い所帯であるがゆえに、全体がまとまるための基本方針を模索していた。翌明治元年(一八六八)一月、参与に就任していた由利公正が、「議事之体大意」五箇条を起案し、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁・岩倉具視に提出した。それは以下の文面であった。

一 庶民志を遂け人心をして倦まさらしむるを欲す

一 士民心を一にし盛に經綸を行ふを要す

一 知識を世界に求め廣く皇基を振起すへし

一 貢士期限を以て賢才に讓るへし

一 萬機公論に決し私に論するなかれ

諸矦會盟之御趣意右等之筋ニ可被仰出哉 大赦之勅

一 列矦會盟式 一 列藩巡見使ノ式

制度取調参与の福岡孝弟(土佐藩士)は、この由利五箇条に対して第一条冒頭に「列侯会議を興し」の字句を入れるなどして具体的な政治状況に合わせた文面とした。表題も「会盟」と改めたため、幕末以来実施が望まれていた列侯会盟(帰順宣誓)のようなものになった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」の形式では、天皇と諸侯とが対等に宣誓することになってしまい、あくまで天皇が諸侯に命ずる形をとる必要がある王政復古の理念に反するという批判にさらされた。その福岡案は以下の通り。

會盟式

一 上ノ議事所ニ於テ

皇帝陛下臨御列矦會同三職出座(衣冠礼ノ如ク坐配議事式ノ如クス但下參與ノ者席ニ列坐スヘシ)總裁職盟約書ヲ捧テ讀之(御諱并總裁名印既ニ存ス)列矦拜聽就約

一 總裁職盟約書ヲ讀ミ終リ議定諸矦一人宛中央ニ進ミ名印ヲ記ス(本氏ヲ書スヘシ)次ニ列矦同之

一 盟約式終リ列矦退ク次日約書ノ寫ヲ以テ天下ニ布告ス

盟約

一 列矦會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

一 官武一途庶民ニ至ル迠各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシムルヲ欲ス

一 上下心ヲ一ニシ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

一 徴士期限ヲ以テ賢才ニ讓ルヘシ

右ノ條々公平簡易ニ基キ

朕列矦庶民協心同力唯我日本ヲ保全スルヲ要トシ盟ヲ立ル事如斯背ク所アル勿レ

たしかにこの「会盟」では何かの売買契約の式のようになってしまう。そこで、総裁局顧問の木戸孝允が、天皇が天神地祇(てんじんちぎ。簡単に言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いている状態で共に誓いかつ全員が署名するという形式を提案し、採用されることとなった。その際、木戸孝允(長州藩士)は、福岡案第一条の「列侯会議を興し」を「広ク会議ヲ興シ」に改め、「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して木戸最終案第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなどして大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。以下が実際に発布された「五箇条の誓文」である。

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ

一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フベシ

一 官武一途庶民ニ至ル迠各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マザラシメン事ヲ要ス

一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ

一 知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

我國未曾有ノ變革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保全ノ道ヲ立ントス衆亦此趣旨ニ基キ協心努力セヨ

 慶應四年三月十四日 御諱

勅意宏遠誠ニ以テ感銘ニ不堪今日ノ急務永世ノ基礎此他ニ出ベカラズ臣等謹ンデ 叡旨ヲ奉載シ死ヲ誓ヒ黽勉從事冀クハ以テ 宸襟ヲ安ジ奉ラン

 慶應四年戊辰三月

                   總裁名印

                   公卿諸侯各名印

ここには慶應四年とあるが、同年九月の明治改元にともない、一月一日に遡って明治とすることになったので、この日付は明治元年と読み替えられることになる。

なお二ヶ月後の明治元年閏四月に明治新政府の政治体制を定めた「政体書」は、最初に「大いに斯国是を定め制度規律を建てるは御誓文を以て目的とす」と掲げ、続いて誓文の五箇条全文を引用した。「政体書」は、アメリカ合衆国憲法の影響を受けたものであり、三権分立や官職の互選、藩代表議会の設置などが定められ、また、地方行政は「御誓文を体すべし」とされた。このことは後に触れたい。

以上が「五箇条の誓文」が出されるまでの経過であるが、普遍的な統治方針を述べた由利案が、福岡によって具体的な会盟形式に変質し、さらに木戸によって戻された結果、もとの姿をよく残していることが分かる。

偶然にもせよ結果的に普遍的な言明となったことは、「五箇条の誓文」の命脈を永らえさせただけではなく、『西洋事情』の冒頭に掲げてある文明政治の六条件との再接近をもたらすことになった。すなわちその文明政治の六条件とは、

○欧羅巴政学家の説に、凡(およ)そ文明の政治と称するものには六ケ条の要訣ありと云えり。即ち左の如し。

第一条 自主任意国法寛にして人を束縛せず、人々自(みず)からその所好(このむところ)を為し、士を好むものは士となり、農を好むものは農となり、士農工商の間に少しも区別を立てず、固(もと)より門閥を論ずることなく、朝廷の位を以(もつ)て人を軽蔑せず、上下貴賤各々その所を得て、毫(ごう)も他人の自由を妨げずして、天稟(てんぴん)の才力を伸べしむるを趣旨とす。但(ただ)し貴賤の別は、公務に当(あたり)て朝廷の位を尊ぶのみ。その他は四民の別なく、字を知り理を弁じ心を労するものを君子として之(これ)を重んじ、文字を知らずして力役(りきえき)するものを小人とするのみ。本文、自主任意、自由の字は、我儘放盪にて国法をも恐れずとの義に非らず。総てその国に居り人と交て気兼ね遠慮なく自力丈け存分のことをなすべしとの趣意なり。英語に之を「フリードム」又は「リベルチ」と云う。未だ的当の訳字あらず。

第二条 信教」人々の帰依(きえ)する宗旨を奉じて政府よりその妨(さまたげ)をなさゞるを云(い)う。古来宗旨の争論よりして人心を動揺し国を滅し人命を害するの例尠(すくな)からず。英国にてもハノオーフル家の世に至てより以来は、専ら「プロテスタント」の宗旨を奉じ、一時は国内に令を下して他宗を禁じたれども、阿爾蘭(アイルランド)人の如(ごと)きは古来天主教を信じて政府の命に服せず、由(より)て又法を改め、宗門は人々の意に任すべしと定めたり。然(しか)れども政府は固(もと)より「プロテスタント」を奉ぜしめんとする意なるが故に、或(あるい)は大にその寺院を建立し或は他宗の教師を擯斥(ひんせき)して「プロテスタント」の教師に大禄(たいろく)を与うる等のことありて、動(やや)もすれば人心に戻(もと)り、又近来は一法を立て、国政に関る大臣は「プロテスタント」宗の人に非(あら)ざれば才徳ある者と雖(いえど)も擢用(たくよう)することなし。右等の故を以て、天主教に帰依する者は家を挙て他国へ移住すと云う。是(これ)即(すなわ)ち政府にて信教の趣意を失する一例なり。

第三条 技術文学を励まして新発明の路(みち)を開くこと。

第四条 学校を建て人才を教育すること。

第五条 保(ほ)任(にん)安(あん)穏(のん)」政治一定して変革せず、号令必ず信にして欺偽(ぎぎ)なく、人々国法を頼み安(やすん)じて産業を営むを云う。譬(たと)えば、或は国債を償わず、或は通用金の位を卑(ひく)くし、或は商人会社の法を破り、或は為替問屋の分散する等、皆その政治に保任の趣意を失うものなり。現今仏蘭西(フランス)帝所有の金を英国の為替問屋へ預けしと云うも、その制度の固くして頼むべき所あるの一証なり。

第六条 人民飢寒(きかん)の患(うれい)なからしむること。即ち病院、貧院等を設て貧民を救うを云う。

とある六条件で、「五箇条の誓文」の第一条は『西洋事情』初編の最初にある英国の政治機構の説明と、第二条は文明政治の六条件の第五条件である保任安穏と、第三条は文明政治の六条件の第一条件である自主任意と、第四条は『西洋事情』初編に全文掲載されているアメリカ独立宣言の最初と、第五条は文明政治の六条件の第三条件である技術文学との間に類似がみられる。

さて、本節冒頭で提起しておいた坂本龍馬の「新政府綱領八策」と由利公正の誓文素案の影響関係だが、どうやら由利の考えが龍馬に影響を与えたと見るほうが妥当なようである。というのは、従来までは慶應三年六月に作成されたとされた「船中八策」の中の第二条「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事」が、「五箇条の誓文」の第一条「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」の下敷きとなったとされてきたが、「船中八策」が偽文書と判明して、むしろ逆に誓文から八策が作られた可能性が高まったからである。確実に龍馬が書いたと分かっている「新政府綱領八策」と「五箇条の誓文」素案を比較するなら、完成度は由利の方が高いのは明らかで、こうなると慶應三年一一月初めに福井で二人が対面したとき、由利から龍馬に誓文のアイディアが伝わり、それをもとに龍馬は「新政府綱領八策」を仕上げたというのが妥当なところであろう。おそらく彼らは、大政奉還後の政局で福井藩と土佐藩の連携を探っていたのである。

実際には薩摩藩の画策により一有力大名に降った徳川慶喜を加えた形での諸侯会議は開催されなかったので、龍馬暗殺後「新政府綱領八策」は宙に浮く形となった。そうした状況下で由利は新政府の運営が薩摩と長州に牛耳られてしまうことに懸念を覚え、「五箇条の誓文」素案の売込みを主に薩長以外の諸藩有志に図ったのであろう。

六 山本覚馬「書付」(明治元年(一八六八)三月)は赤松との協同を示唆する

京都御所の中で「五箇条の誓文」が準備されていたのとちょうど同じ頃、そのすぐ北に隣接している薩摩藩京屋敷内に囚われの身となっている一人の男がいた。会津藩砲術師範山本覚馬である。

ちょうど誓文が出されたのと同じ三月に、覚馬は薩摩藩に対して朝敵となった会津藩桑名藩の赦免を嘆願している。それが「時勢之儀に付拙見申上候書付」である。現代人の目からは読みにくい古文ではあるが、史料的な価値があると思われるので、まず全文を引用する。

時勢之儀に付拙見申上候書付

先般御取押相成重大罪之罪萬死を不免深奉恐入候儀に付謹而御所置相待居申候過日御藩渕邉直右衛門殿え申述候通り私儀兼而為國家聊心を盡し居候に付假令囚虜之身たりとも素志徹底仕度奉存當正月騒擾後も滞京罷在候儀に御座候先年来時勢紛擾既往之儀は萬ゝ御洞見之候於元幕府天朝御尊奉外國交際等其外件々不行届之廉有之然る処去る子年以来長州御所置之儀に付幕臣勝安房守申上候には長州無罪不可討且御藩之儀は従来為國家御厚配被為在候処幕府時情迂闊にして却而疑惑を生し儀に付御藩決而不可疑於弊藩も私共并両三輩同論申立候え共貫徹不仕遂に不都合之始末に至り其後土藩より國家大本御立直し之儀に付 王政復古之建白於御藩も御同論之儀慶喜公於寡君は宇内形勢も熟知 皇國一新挽回之機会と奉存昨卯年九月政権返上相成候処幕吏並諸藩士井蛙管見の輩に至り候ては因循姑息私論相立慶喜公於寡君も無拠取扱兼候廉も有之畢竟幕府者軽浮柔懦に流弊弊藩は山野に生育頑愚固陋之風俗御藩之如き西陸之一大國に而萬國時情も疾に御通し公明正大御卓見も被為在候儀有之併幕府有勿論弊藩桑藩に至り候而者為國家焦思苦慮罷在候得共事情齟齬従何となく確執形を生み天下之物議に渉り候儀も有之哉に付萬事一洗彼此嫌疑冰解仕度奉存候に付昨卯年六月私儀赤松小三郎を以御藩小松氏西郷氏え其段申述候処御同意に付幕府監察ゑも申談候得共更に取合不申猶夫是奔走周旋罷在候同年十二月 天朝より御制度御正被仰出其節幕吏並同藩井蛙輩紛沓不穏右情を察し慶喜公寡君共下坂仕當春に至り慶喜公上洛先供偶然行違従闕下及騒然候段天地神明え対し不可遁之大罪併右一戦之儀は國勢為挽回御深慮も被為在候儀と奉恐察候私従申上候者如何敷候得共幕府は勿論弊藩桑藩に於而も決而他心無之國事憂慮之余り事件に及候儀に付傍者之徒とは相違も可有之候間右情実篤と御諒察被成下幕府御疑無之弊藩桑藩共御悪み無之人心に基き萬國公法之如く正大公明之御取扱を以速に御鎮撫相成確乎たる皇國之基本相立外國と並立候様仕度奉存候私儀ヶ様之身上に而右等之始末申上僭越至極奉恐入候得共御時節柄に付私心を離れ建言仕候間可然御取捨被成下候様奉願候以上

   辰三月   山本覺馬

  御執事中

これだけでは何が書いてあるのか理解しがたいと思われるので、以下では現代語訳を掲げる。

先般逮捕された際重大な罪ということで、死刑は免れないと恐縮しつつ謹んでご処置を待っているところです。先日薩摩藩の渕邉直右衛門殿へ申上げましたように、私としても国家のためを思っていささか心を尽くして参りました。たとえ捕虜の身になっているとはいえ、初志を遂げたいと願っています。この正月の騒擾(鳥羽伏見の戦い)の後にも京都に留まっていたのはそのためなのです。先年来の時勢紛擾の経緯は、皆様よくご存知のことでしょう。先の幕府には天朝をご尊奉するその仕方や外國交際の手際など、さまざま行き届かないことがありました。そうこうするうち、去る子年(一八六四)以来、長州の処置について幕臣勝安房守は「長州に罪は無いので討伐してはなりません。さらに薩摩藩については今までも国家のために大きな貢献をしてきました」と上申していたのです。ところが幕府は情報に疎くて、かえって疑惑を生んでしまいました。「薩摩藩を決して疑ってはいけない」と会津藩でも私他三名の人たちがその意見を申し立てましたが、その意見を通すことはできず、ついに好ましからざる事態に陥りました。その後土佐藩より国家体制の大変革について、王政復古の建白が出されましたが、その点については薩摩藩も同じ意見だったでしょう。徳川慶喜公及び我が主君(松平容保)は国内の情勢をよくご存知でした。皇国の体制を一新し、再び盛り立てる機会とお考えになり、昨卯年(一八六七)九月に政権を返上されることになりました。ところが幕府の役人や会津藩の士分、井の中の蛙が狭い世界を見上げるような人々は、因循姑息にも自分勝手な論をわめきたててしまったのです。そうした内部の事情により、慶喜公と我が君は取り成すことができなくなってしまったのでした。結局幕府の人たちは軽佻浮薄な軟弱者、一方我が会津藩は山野に生育して頑なで凝り固まった風俗なのです。薩摩藩のような九州の大国では、世界の情勢にもすばやく反応して、公明正大な卓見も出されようものですが、幕府のみならず会津・桑名両藩にいたっては、国家のために思いを焦がし、苦慮はしつつも諸事情に齟齬をきたし、そのため何となく確執が形を生み、天下の物議へと事が大きくなってしまいました。全てのことを洗い流して双方にわだかまる誤解を氷解させるため、昨卯年(一八六七)六月、私が赤松小三郎を介して薩摩藩の小松(帯刀)氏西郷(隆盛)氏へ政権返上について申し述べましたところ同意してくださいました。さらに幕府監察(大目付)へも申し上げたのですが、取り合っていただけませんでした。その後も何とか周旋しようと奔走していたのですが、同年(一八六七)十二月朝廷より王政復古の大号令が出されて、その時幕臣や会津藩の視野の狭い人々が不穏な情勢を察して慶喜公と我が主君と一緒に大阪に下りました。この春(一八六八)に至って慶喜公が再び上洛しようとしたところ、先導する警備の兵が偶然にも官軍と接触してしまい、騒然となってしまったのでした。このことは天地神明に対して逃れられない大罪で、さらに戦闘にまで及びましたことは慶喜公に今一度の政権復帰への願望があったためと思われます。私として強調しておきたいことは、幕府は勿論会津藩桑名藩につきましても、国を憂える心情のあまりに起きてしまった事件だったということです。傍観者ではないのですから、その実情について厳正な判断をお願いしたく存じます。幕府をお疑いにならぬよう、また会津藩や桑名藩を憎しむことのないようお願いします。人間としての真心に基づき、万国公法のように公明正大なお取り計らいをすれば、内戦も速やかに平定されることでしょう。そして確固とした皇国の礎が築かれて、外国とも並び立つような立派な国家ができることでしょう。私としてはこのような捕虜の身の上ですので、何かを上申するというのは僭越至極ということは十分承知しております。とはいえこの時節にそうも言ってはおられず、私心を離れて建白しようというのです。この建白を捨て去ってしまうことのないようにしてください。以上。

この覚馬「書付」は従来から知られていたのではあったが、近年赤松小三郎の「口上書」と嵯峨根良吉の「時勢改正」が発見されるまで、その重要性に気付かれることはなかった。具体的に何が重要なのかといえば、それは、慶應三年(一八六七)六月について書かれた次のくだりについてである。「昨卯年(一八六七)六月、私が赤松小三郎を介して薩摩藩の小松(帯刀)氏西郷(隆盛)氏へ政権返上について申し述べましたところ同意してくださいました。さらに幕府監察(大目付)へも申し上げたのですが、取り合っていただけませんでした(昨卯年六月私儀赤松小三郎を以御藩小松氏西郷氏え其段申述候処御同意に付幕府監察ゑも申談候得共更に取合不申)」とある部分についてである。つまり覚馬は、自分が大政奉還のアイディアを出して赤松小三郎を介して薩摩藩に持ちかけ、さらに幕府大目付永井尚志にも申し出たが、彼は大政奉還を拒否した、とあるのである。

この記述の裏打ちが何もなければ、ただのはったりということになろうが、われわれはすでに赤松による完備された「口上書」の存在を知っている。そして彼が慶應三年五月に福井藩松平春嶽、また嵯峨根良吉に託して薩摩藩島津久光にそれを提出し、六月から八月まで薩摩藩の小松や西郷、そして幕臣永井らと交渉しながら挫折し、九月に薩摩藩士中村半次郎によって暗殺されたことについてもである。覚馬の「書付」は前年夏から秋に掛けての動きに正確に対応していて、それはとりもなおさず大政奉還後の体制について詳述してある赤松の「口上書」の作成にも関与していたことがうかがわれるのである。

事態の推移を時間を二年前の慶應二年(一八六六)まで戻して説明しよう。この年の一月二三日、土佐の坂本龍馬らの周旋により薩長同盟が結ばれた。ただしこの同盟はあくまで朝敵となっている長州の赦免を薩摩が支援するという内容のもので、武力倒幕が謳われたものではない。この時期には幕府による第二次長州征伐の準備が進められていたが、薩摩藩はそれに協力しないまま六月七日に開戦、戦闘に参加したのは幕府直参と譜代の一部に留まり、八月一日には幕府軍の拠点である小倉城が陥落して長州優勢となったところで、一四代将軍家茂の死(七月二〇日)を口実にして九月二日に休戦となった。

こうして、薩摩の支援なしでは幕府の政権維持は不可能ということがはっきりした。そこでにわかに現実味を帯びてきたのが大政奉還論である。征夷大将軍なしで諸大名が直接朝廷に仕える体制なら前例がある。豊臣秀吉の時代(一五八九~一五九八)がそうだった。問題は二八〇年も前の制度をどのように一九世紀後半の時代に生かすかで、大政奉還後の政治構想が喫緊の課題となったのである。そんなときに刊行されたのが福沢諭吉の『西洋事情』初編だったのである。

慶應二年冬、赤松小三郎は薩摩藩京屋敷内に設置されていた兵学校の教師となっていた。山本覚馬に請われて西周(慶喜の補佐官)とともに会津藩の洋学校の顧問にもなっている。以下は想像であるが、翌年五月に完成する「口上書」のアイディアは、『西洋事情』のアメリカ合衆国憲法と英国の国家体制の部分を参考に、この三人によって練られていったのではなかろうか。天皇を世襲制大統領に、各藩を米国諸州になぞらえるこの「口上書」の体制によれば大政奉還後の政局も安定するという見込みは、実際にそのように運営されているアメリカ合衆国が存在しているということから説得力をもっていたと思われる。

おりしも慶應三年五月には、京都でいわゆる四侯会議が開催されていた。それは薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通らが、有力諸侯として知られた伊達宗城(前宇和島藩主)・山内容堂(前土佐藩主)・松平春嶽(前越前藩主)に働きかけ、彼らを朝廷の名の下に京都に呼び寄せ、島津久光(薩摩藩主島津忠義の父)とともに開港問題や長州赦免問題について話し合うためのものだった。しかし四侯会議は、慶喜の巧みな政局操作と両問題の討議順にこだわる些末な議論に終始したために無力化してしまったのである。島津久光の意図とは裏腹に、かえって慶喜の主導により五月二三日の徹夜の朝議の結果両問題に勅許が下されることとなった。慶喜の政治手腕は尋常ではない、という一種の恐れが有力諸藩の人々の間に広がった。

赤松「口上書」の日付である五月一七日は四侯会議の開催中ということから、赤松や嵯峨根は京都でそれを提出したことになる。また「口上書」が提出された先は、今日では福井藩と薩摩藩だけが知られているが、実際には幕府・土佐藩・宇和島藩そして会津藩にも送られていたのではなかろうか。このような次第で慶應三年六月には大政奉還論が多くの人の口の端に上っているが、たとえ「口上書」自体を見ることができなかった人でも、『西洋事情』初編は大量に流布していて、その米国憲法の部から奉還後の政治体制にイメージをもつことはできたのである。

六月の段階で「口上書」案が採用されていれば、大政奉還後の徳川慶喜の排除などという事態は避けられたに違いない。薩摩の首脳部も四侯会議までは、慶喜に大政奉還さえ飲ませれば後は何とかなると甘い期待を抱いていたのだが、慶喜の政治手腕に並々ならぬものがあると判明した以上、将軍罷免後の政界放逐をも企図せねばならなくなった。覚馬は六月に大政奉還論は薩摩藩首脳に受け入れられたと「書付」に記しているが、それは誤った認識である。実際には慶喜の政権排除は同じ六月に定まっていて、その後も幕府と交渉していた赤松が九月初めに薩摩の手により暗殺されてしまったのも、その見込み違いによっていたのである。

覚馬は早期の大政奉還論が実現できなかった理由を、主に大目付永井尚志の頑迷によると見ている。四侯会議が幕府から見て成功を収めたので、大政奉還などする必要はないと強く出たとも考えられるが、私は永井にはもう一つ受け入れられない点があったのだと思う。それは第二次長州征伐の正式な講和がないまま長州藩が赦免され、大政奉還後の諸侯会議でも佐幕派の諸藩と同等の地位を占めるとなると、それまで激派テロリストとして追及してきた人々まで力を回復してしまう、ということである。四侯会議の結果決まった長州寛典論は、あくまで主君毛利慶親・広封父子の赦免だけで、穏健派指導の新長州藩首脳部による激派処罰を暗に含んでいた。大政奉還により無条件赦免となればそうはいかないであろう。

激派指導の長州藩がそのまま京都に乗り込んで来るとなると、永井にはさらに気がかりな点があったと思われる。それは長州藩がそれまで幕府に協力して洛中の安全を図ってきた会津藩配下の見廻組や新撰組の処罰要求を出すかもしれないということである。命令に従っただけの彼らに罪がないのは明らかで、幕府としては彼らの生命の安全を保障する必要があった。

現実の事態の推移はすでによく知られている通りである。永井は鳥羽伏見の戦いの後慶喜とともに江戸に戻り、その後は慶喜の帰順命令にさえも背いて奥羽越列藩同盟に合流、榎本武揚が率いていた旧幕府海軍の軍艦に同乗して函館に至り、翌明治二年五月まで抵抗を続けた。最後まで一緒だった新撰組隊士は明治政府軍への投降後処刑されたので、結局彼らの生命を守ることはできなかったが、筋を通すことはできたのである。永井はしばらくの間投獄されていたが明治四年一月に釈放され、その後明治二四年(一八九一)まで生きた。なお作家の三島由紀夫は彼の玄孫である。

七 太政官「政体書」(明治元年(一八六八)閏四月)は『西洋事情』の復古的解釈

話は明治元年初夏の京都に戻る。由利公正とともに「五箇条の誓文」の文案を練った福岡孝悌は土佐藩の上士だった。後藤象二郎の盟友で坂本龍馬の上司でもある。福沢より二ヶ月遅い天保六年(一八三五)三月生まれの福岡は、福沢より一八年も長く生きたので、明治維新の裏話を数々残している。その一つが先にも引用した「政体書」は『西洋事情』の影響下にある旨の発言で、それはすでに定説化している。

「五箇条の誓文」に比べて読まれることの少ない「政体書」は、誓文の内容を実施するにあたっての規則である。一二の項目が立てられているが、そのうち第一項は誓文前文の再掲、第一二項は官職の職制についての事務的な記述なので、以下では主要一〇項目を引用する。

一 天下ノ権力総テコレヲ太政官ニ帰ス則チ政令二途ニ出ルノ患無カラシム太政官ノ権力ヲ分ツテ立法行法司法ノ三権トス則偏重ノ患無カラシムルナリ

一 立法官ハ行法官ヲ兼ヌルヲ得ス行法官ハ立法官ヲ兼ヌルヲ得ス但シ臨時都府巡察ト外国応接トノ如キ猶立法官得管之

一 親王公卿諸侯ニ非ルヨリハ其一等官ニ昇ルヲ得サル者ハ親親敬大臣ノ所以ナリ藩士庶人ト雖トモ徴士ノ法ヲ設ケ猶其二等官ニ至ルヲ得ル者ハ貴賢ノ所以ナリ

一 各府各藩各県皆貢士ヲ出シ議員トス議事ノ制ヲ立ツル者ハ輿論公議ヲ執ル所以ナリ

一 官等ノ制ヲ立ツルハ各其職任ノ重キヲ知リ敢テ自ラ軽ンセシメサル所以ナリ

一 僕従ノ儀親王公卿諸侯ハ帯刀六人小者三人其以下ハ帯刀二人小者一人盖シ尊重ノ風ヲ除テ上下隔絶ノ弊ナカラシムル所以ナリ

一 在官人私ニ自家ニ於テ他人ト政事ヲ議スル勿レ若シ抱議面謁ヲ乞者アラハ之ヲ官中ニ出シ公論ヲ経ヘシ

一 諸官四年ヲ以テ交代ス公選入札ノ法ヲ用フヘシ但今後初度交代ノ時其一部ノ半ヲ残シ二年ヲ延 シテ交代ス断続宜シキヲ得セシムルナリ若其人衆望ノ所属アツテ難去者ハ猶数年ヲ延サヽルヲ得ス

一 諸侯以下農工商各貢献ノ制ヲ立ツルハ政府ノ費ヲ補ヒ兵備ヲ厳ニシ民安ヲ保ツ所以ナリ故ニ位官ノ者亦其秩禄官給三十分ノ一ヲ貢スヘシ

一 各府各藩各県其政令ヲ施ス亦 御誓文ヲ体スヘシ唯其一方ノ制法ヲ以テ他方ヲ概スル勿レ私ニ爵位ヲ与フ勿レ私ニ通貨ヲ鋳ル勿レ私ニ外国人ヲ雇フ勿レ隣藩或ハ外国ト盟約ヲ立ツル勿レ是小権ヲ以テ大権ヲ犯シ政体ヲ紊ルヘカラサル所以ナリ

ここに見られるように、不十分ながらも三権分立が提唱され、立法官と行政官の区別が図られ、地方自治体からの議員の選出が謳われ、さらに四年毎の選挙が定められている。全体的に『西洋事情』で翻訳されているアメリカ合衆国憲法を日本風にアレンジしたもので、問題なのはそのアレンジによって、どうすることなのか内実不分明になってしまったことである。これでは、上の議事所で政務を執る親王・公卿・諸侯以外の庶民でも、下の議事所で徴士や貢士として政治に参加できる、という程度のことしか分からない。

この「政体書」が発布された明治元年(一八六八)閏四月は未だ戊辰戦争が継続中で、その中身についてすり合わせができたとしても、実施は不可能という状況だった。「五箇条の誓文」が現在にいたるまでしばしば引用されることがあるのに、それに基づいて作られた「政体書」(これはconstitution国家体制すなわち憲法の意味とされる)がほとんど忘れられてしまったのは、この後頻繁に太政官の組織変更があり、当初の文面を参照する理由がなくなってしまったからである。また、「政体書」が新政府のモットー、王政復古という文言にとらわれて米国憲法を解釈した結果として曖昧になったという反省から、二二年後の大日本帝国憲法発布にあたっては、徹頭徹尾ドイツの法律概念の正確な移し替えが図られることになった。

八 山本覚馬「管見」(明治元年(一八六八)六月)の全文紹介

薩摩藩京屋敷内に囚われていた会津藩士山本覚馬が、弟子の手助けによって「管見」を完成させたのは明治元年六月のことだった。後にもう少し詳しく述べるが、事態の推移からみて、覚馬の能力に気づいた薩摩藩が、今後の政権運営の参考にするために彼に執筆を依頼したものと考えられる。二ヶ月前に土佐の福岡高悌を中心にしてなされた「政体書」には曖昧な点が多く、薩摩としてはもっと明確なものを作って政権の主導権を握る意図があったのだろう。かなり長いものであるが、以下で全文を紹介する。

管見

近年世上紛々騒擾に至候者寡君抔不行屆より起り殊二當春之擧動不可遁之大罪窮竟に於私共も不行屆之儀深く奉恐入候爾来國家之御動静之毫も不相辨け樣の身上にて 御國體江関係之儀申上候而者越爼至極重々奉恐縮候得共御時節故兼而時勢に付苦慮罷在候管見別紙に相認備高覽候間御不都合に無之候はゞ其江御差出し被下度尤追々文明維新之御制度御変革右等は必然蛇足に属し候儀卜奉恐棄候得共萬一御採用之廉有之献芹之野志相貫候はゞ上者 御國恩を報じ下者寡君之罪状を償ふ一端にも相成可申歟卜奉存候間格別之御乘憐を以可然御取扱被成下候はゞ難有仕合奉存候以上

   辰六月   山本覚馬   

  御役所

管見 小引

本邦迦信外國の情状を察するに魯西亞日に強大に至るべく近来北蝦夷地を彼従開拓依て去る寅年元幕府元扱には彼此の経界論に及ひしに従来混茫不毛の地なれば各随意に開所領とせは天地の道理にも叶ふべしと彼の議論にて其説行の由且先年来箱館へ番兵を置く譬へば碁に先手を下す如し或人曽て魯人と對話せしに彼地球をさして曰日本も遂に黄地に変へしと魯國は元黄地に属するものなればかく言しなり是により之を観れは我國を併呑するの萌ならん歟去る子年魯より對州を侵せし時英人の力にて之を取戻せり英人は上海を根據とし友邦本邦と交易をなす故對州魯に屬するには英の不利なり且魯英佛とも我國を覬覦する勢あれども必兵を以てせす夫意人心に基き戎弊に乗ずるなるべし元來佛欺僞を以関東に親めは英之を西に訐き、英私意を以て関西に結めは佛之を東に誹る方今佛の「ナポレヲン」は前「ナポレヲン」の甥にして一時共和政治を主張し其君を廃し其位を奪ふ誠實を以なすにあらす曽て魯従「トルコ」を侵し「セハステホル」に戦時に英佛「トルコ」を援各・其國の利不利を謀てなり我國彼三國との交際に於るも亦大に之に類すべし之を防は確乎不易の國是を立冨強を致すにしかず國家騒擾の際會に乗すれは変制も仕易ものにて追々文明の御政體御施行なるべく余憂國焦思の餘りに兼て愚考の拙口を述ぶ然るに眼か不明執筆不能依て人を雇之を認疎漏杜撰多ければ只識者の取捨を待のみ

   慶應四年戊辰五月   山本覚馬

政体

王政復古萬機一途に出るに付ては、普天率土忽風靡朝命を不仰はなし、然るに皇國開闢以来綿々継統彼漢土の夏殷周其時代につれ法制損益あるとは異る事なれば、我國體を不異萬世不易の準則を立皇威赫然外國と并立彼の侮りを受けさるは國民一致王室を奉戴するにあり、政権は盡く聖断を待へき筈なれ共、さすれは其弊習なきに非ず、依而臣下に権を分つを善とす、臣下の内議事ものは事を出すの権なく、事を出すものは背法者を罪するの権なく、其三つの中に権一人に依る事なきを善とす、宦爵の権、度重の権、神儒仏の権議事院の吏長を黜る権是は専ら王に歸すべき也。

議事院

於官府大小の議事院を立て、其大者は大臣を置(今の縉紳家又は諸侯指)其小者小臣を置(文明政事開に従つて四民従出べし然とも方今人材士にあらさればなし故に王臣又は藩士より出べし)其小者凡一万石にて半人五万石にて一人拾万石にて二人二十万石にて三人位の積りにて出す、然し恒の産なきものを出さず、大臣小臣の中に裁判人有各國従大小事件申出る事有れは其使訴たとへ訥辨の者たりとも、其國の利弊を吐露せしめ、是非を决る其任也、議事院大者議論自ら因循小者自ら果断之に依て議論自ら中を得べし

學校

我國をして外國と并立文明之政事に至らしむるは方今の急務なれば、先づ人材を教育すべし、依て京摂其外於津港学校を設け、博覧強記の人を置き、無用の古書を廃止し國家有用の書を習慣せしむべし、学種有四其一建國術性法國論表記經濟學等も亦其中なり、萬國公法の如きは其二脩身成徳学其三訴訟聴断其四格物窮理其外海陸軍に付ての学術を教諭せしむべし。(當時之に醫學を加へ五種とせり)

變制

皇國の大本御建直しに付ては太平澆季の風習を脱し、一新不易の制度御變革なるべし、億兆蒼生の父母たるものなれは強て民を束縛せす各天禀の才力を伸し、生活を遂しむるに有故に、法を改るも譬へは人の年より教を施す如く國の開の遅速に随ひよく人情に基つき緩急もある事なれは或は一月にして変、或は三月にして改、或は沿習して漸く定るもありて遂に其令一定し文明の政治四境に達すべし、又人を知らず此等は最も政治の悪弊也、且刀剣も古来國俗の佩る事にて無益にもあらされとも要用の器にも非ず、追て國の闢るに随ひ之を廃停するもならんか、此説的當也、先第一に人材を抽擢し國是を定べし。

國體

我國は皇統綿々萬國比類なき美事也、此度皇政復古なれども俄に國體を郡縣に変難ければ封建と郡縣との間の制度を立つべし、其法如何となれば我國数百年以還官武と分れ大小諸侯其禄土を自己の有とす、今更盡く 王室え帰しがたし、故に諸侯並陪臣へも有領の禄土は其まゝ與へきりに致可きなれども、普天率土は皆王臣なれば陪臣はその諸侯へ 王朝よりの被附属姿なるべく、且各従相應の賦を納しむなり、其法は惣て高従取人従取に非ず、譬へば其地を質とすといへども質より取し者従出す也、士にても業に堪さる者は其地を賣農商に帰するとも人を束縛せず、其所好をなし長枝を盡さしむべし、また従来上下隔絶之弊を止め、貴賤混淆学術技藝を磨しめ官に當るは貴賤等級を不論、賢愚により濯べし、然し貴者は資産も富萬事自由なれば我國にて学のみならす外國へ遊学となす也依て人材多く貴者従出づるは自然の理也如斯せは封建と郡縣との間にて遂に漸く郡縣の姿に変也、且軍卒は禄の大小により一家より一人或は半人つゝ出さしむべし、年齢十八九より廿五までを常備兵とし、廿六より三十まてを國衞兵とし、三十一より三十五まてを第二國衞兵とす又文吏武官に望ある有志の者にて学術技藝を学はんとする者常備國衞の年齢に當り、人をして己に代り出す是を一種賣る自由兵といふべし、如斯せは士の人々混和確執の弊なく一人武幹一人の武威にあらず、天下の武備といふべし、且兵庫港へ海軍所を立べし若し議事院の法に叛き國中乱賊の徒有之時は神速に軍を催陸軍随て之に継べく、たとひ外國たりとも萬國公法に信戻するものあらは彼をも討夷するに足るべし、且方今農は賦も取労も多き事なれは四民ともに賦を平均するを善とす、先づ然らしむるは遊藝其外遊女屋等益なきものには多分賦を収しめ、書肆米醤等ひさく人事に益ある者よりは軽く若しくは取らず、それ故物價を廉に賣しむべし、工人も是に傚ひ多少各々有差其賦税をすべて議事へ収め高何程内何用何用と定さすれば國民平均至當の法といふべし。

建國術

余思ふに宇内の國々其國本を建るに商を専とする有農を専とする有、商を以てする國は政行し衣食も足り富饒にして人も勇敢兵備も充實也農を以てする國は之にしかず。」ヨーロツパ」の内にては「イギリス」「フランス」「プロイス」商を以て盛なる國なり。日本支那等は農を以てする故に之にしかず、其故如何となれは譬へば百万石の地より収る賦凡百萬金と見て夫を工人へ渡し器物を作らしめは一倍増て二百萬金となる、夫を商人へ渡しあきなはしめは又之に倍遂には其金の増事限なかるべし、然る上に矢張元の百万金を取也如斯せは農も盛工思ふまゝに物をも作られし商も利を得べし、余曽て「プロイス」の人「レーマン」に聞く「アメリカ」にてハ器械を以て田を耕し二人にて七十人程の働をなすと「和蘭」の人「ハラトマ」に聞く「イギリス」の富を致すハ蒸汽器械ヲ発明してより也と云々、固より「イギリス」は石炭の多き國なり、故に工人の功を増せしもの也、余曽て崎陽に遊ひ「和蘭」の人「ホードーイン」「イギリス」の人「ゴロール」等に逢て事を聞くに、彼等日本へ来りし時はわつか一萬金程ももたざりし由、今に及て巨萬を累舟六七十艘も所持し崎陽上海の間に商賣し一月に十五六万金に下らすと此輩の如きは只一商人にてかくのことく其大なる事推て知るべし、余二十年前我隣國仙臺米澤の事を聞しに仙臺は其地米澤に五六倍仙臺は農を以て専とす、米澤は商を以て専らとす、然るに仙臺従ひさく米の價一ヶ年三十萬金の由、方今米の價三倍と見て凡そ百万金、帛の價一ヶ年十八万金の由、方今の價四倍と見て七八十万金なるべし、其外諸細工物の價等合せて金の入事殆比較す、仙臺は國も広大にして山海を帯至極上國なれ共、貧國なれは政事も衰へ農商ともに日々に減し米澤は之に反す故に商を以國を建る時は農ははけみ士は強壮工は巧に冨國強兵に在らん歟。

製鉄法

余曩に洋書を讀て鉄の章に至り大に感ず。其書に曰く、鉄の人の智に關係する最甚しと、先人の生活するや穀を食ひ、穀は田畑より生其田畑を耕に鉄を以てす家は木を以作る其木を伐るに鉄を以てす。鉄は山より成る其山を穿つに鉄を以す人を殺すも鉄を以てす其外人の生活に要する物鉄より大なるはなし。其鉄の発明するや始「フランス」にて鉄の降りし事有之を取て火を交へしに忽熔解す、其近き邉りに「アルペン」なる山あり火山にして烟焔常に絶へず。其山より飛出せしを察し其所に至り相似たるものを熔して見れは同種類也。故に方今追々発明加り海岸の臺場軍艦其外大小之器械盡く鉄に非るはなく其價も又木より廉也。日本にてハ鍋釜等の小器に用ひけれども猶足らず。其價木より又高し。其所以は雲伯南等にては「フイゴ」にて「トコ」といふ物ニ多分の炭を焚鐵を得る、三四日ニ千貫目程、一月ニ七千貫目過す外國は不然熔爌爐にて鉄を製し、其熔爌爐ヲ晝夜用ひて十月又は一年位保つに、晝夜にて鐵之鑛千貫目程ヲ得。一月ニ三萬貫目、十月に三十万貫目なり。熔爌爐ヲ晝夜不絶用ひても内部は微々損する而已にて外部は損せず。水車蒸汽の力を加る事故人の勞を省くなり。たまたま南部にて右之器を作り用ひけれとも「ヒールハストステイン」といふものゝ用方を知らす遂に廃物となれり。十五日程の鉄代あれは譬へ異人を雇ても一年の給料は足る可し。故に官府の命を以て要用の地へ取建へしさすれは鉄は益々盛になり鉄城も出来、鉄軍艦砲臺等作られ其外人民に益有事推て知べし。かゝる緊要の事を捨て何をかせん、昔王政の頃日本六十餘州國の大小により釜座を一州に何軒と勅許有今も猶然り。鍋釜は人民日用離しかたきものなれは右の如くせしなり。然るに鍋釜目方重けれは鉄も多く費故今より以後「反冩爐」といふものにて鍋釜を鑄、是を「ろくろ」にて薄くすべし、反冩爐は鉄を穿る所に取建鍋釜を作り釜座へ送るべし。さすれは荒鉄従は運輸の費も省へし殊に寄は釜座へ反冩爐を置も可なり。右鍋釜薄くせは一日一軒にて薪三本省くとも日本凡五千萬の人口として一家五人つゝと見千萬軒なれは三千万本也。國の開るに従ひ人も増は薪も費る事なれと薪は元造作の力にて生育し必用のものなれは多分に用ゆれば無益なり。鍋釜はたとへ高價に求るとも金は世上融通の物なれは廃るに非ず。材木を多分に用ゆるは天地に對しても無益なり。

貨幣

貨幣の位は物價高低に関る事にて國家の緊要の品なり。中古金壹兩銀六拾目と定めしは實に相當なり。然るに元幕府の猾吏金銀の間銀を上せ金を吹下け共に不相當なり。近年四民の困窮の元は幕府困窮の元より起り幕府は四民に對し借金といふよふなる者也。然し政事のために遣しものなれは自今以後年々三十万両にても五拾萬両にても元のよき位に吹替悪しき金と混して用ひは速に相當の品に改るべし、且金銀とも銅何程入と書物か又は新聞紙にても載せ公然と世界へ布告し、外國の貨幣とても其まゝ日本にて通用すべし。貨幣は融通の物なれは角なるは止りつかゆる姿故忌へり小判甲州金の如く圓形をよしとす。外國も皆然り。王政になりし事なれは新造の錢は盡く銅にすべし。青銅黄銅は銅よりは余程位劣りし物なり。然るに銅へ鉛錫を交へ銭を作るは天地萬國へ対し條理を不辨愧へきなり。日本紙幣通用の國あれとも王政になりては是を止べし。如何となれは紙幣を用ゆれは國衰微して富を不致。然れとも外國にても紙幣を用ゆる國は其用方官府にて商人より拾万金借れは十萬金紙幣を商人へ渡し隨意に融通致させ、一万金にても二万金にても返せは紙幣も其通りに致皆返せは紙幣を取上る也。如此せは紙幣の弊もなく、却而便利なり。世界不通用の我貨幣を以て外國と交易せは日を追つて日本の衰耗窮なし、速に外國に模倣して是を改むるは急務なるべし。

衣食

我國人性質怜悧明敏なれとも往々事に堪兼る者あるは其所以を尋るに養生の惡き故なりと。衣食は人身に取り最大切の者なり。粗食粗品にて学問をなし精神を費せは身體労し廃人となり後年事に堪かたし肉食の國は人材多く牛豚の肉を食ひ、毛織の衣を着すれは身體強健精神充實する也。古聖賢も牛羊鶏豚の肉を好我國も上古は肉食なりしに佛法盛に行れてより追々肉を不食、人も柔弱になりぬ。故に毛衣肉食を以て筋骨を健にし氣力を養ひ人材を育するは方今の急務なるべし

女學

國家を治るは人材によるものなれは是を育するは緊要なり。日本支那は婦人に學問を教へす自今以後男子と同しく學はすべし。夫婦とも精神十分の智を盡す者なれは其子親に優り又其子も親に優り、追々俊傑の生るは其理也。童子は婦人と関する事多けれは婦人賢にして教ゆると愚此を育つるとは其相違甚し。夫女は生質沈密の者なれは其性にかなふ学術國體に関る者を撰ひ教ゆべし、且才女は猶学はすべし。

平均法

冨者は常に逸し貧者は常に勞す。如此貧冨偏るもつまりは一國貧に至る也。且嫡子は愚なるも家督を續ぎ、二三男は賢なるも産業もなく徒然に世を過國の悪弊甚大焉。然れとも冨者をして貧者に財を分ちがたし先 天子を除くの外侯伯士農工商に至るまて其子五人、有れは五人三人なれば三人人数依りて己の家督を各へ平等分與すべし。さすれは貧冨偏することなく遂に日本の冨を致すに至るべし。且我國子なき者の家産を挙て他人へ譲るは是其理に戻る也(女子有て聟を迎家名を續す可きなり)家督の絶る時は家産を親戚に與ふへく親戚なき時は官府へ收むべし。

醸酒法

方今日本米を以常食とす。然るに人の幅輳する津港こそ米も十分あれとも僻境の山中にいたつては甚乏木實或は草なとを食す。是を以國中ならし見れは甚不足なるを知るへき也且米穀の十五分の一は酒を醸為に費也 米穀の高低は諸價に関係する事なれは米價をして廉ならしむべき也。且人身窮理を以て見るに米の酒は養生に害あり故に之を醸事を官府の命を以國中に禁べし。さすれは僻境も米に足り、諸物價廉になり、我國産にて辨し他産不廉の品を用ひさるに至らん。「麦」「葡萄」「ハレーナヨ(馬れい薯)」皆人身に補ある者なり。是を以酒をつくるべし。「葡萄」は奥羽蝦夷邉に多く生れとも捨て、取らす、空く腐るに至る。是を以製すべし。我國にてはは土器に酒をもる事なれとも體栽も悪しく酒を損不利の物なり、且之を作るに人手もかゝり薪炭も費故に西洋のふらすこを用ゆべし。是を製作するはよき仕法にいたし半時に百貳十本一晝夜二千八百八十本程は出来其釜二十日程は保つべし。一釜に五万七千六百本出来るべし。さすれは價も廉に酒もかわらず、倹なれは天地へ對してもよろしく、よく開たる國は土器を用る事少し。

條約

方今兵庫開港に付ては先淡路嶋明石阿波の鼻とまか島へ砲臺を築べし。然るに軍艦は他國の制をうけす自由に出入するは萬國公法なれども右四ヶ所は我國の内海にて領地も同様にて殊に寄れは理る事もあれは商舩は不許に入も可なり。軍艦は不許に入は不可なり方今如此規則を立されは後に外國交際に於て葛藤を生ずべし。

軍艦國律

我國追々開るに随ひ軍艦を備へざるべからず。然れとも官府のみにて是を製作し於諸藩作るを禁ずべし。如此規律を立されは後日に至つて其弊を生る事あるべし。

港制

兵庫開港貿易盛になれは各國の人輻輳すべし。異人館を横濱の如く建るを悪しとす。然れとも既に落成なれは不得止、依て今の内町内へ堀を穿海濱より舟の往来を自由にすべし。さすれは輸送の労省け物價も自ら廉ならん。今是をなすは易く後是をなすは難し。旦「コウベ」の方はさわりなき事なれども、和田のみさきの方はたつみ風にてもし誤て舟中より火災起らは延焼不可救に至らむか故に逃避の為渠を掘るべし。官府にて心を用ゆる先是等を急務とす。

救民

近頃、於西洋蒸汽船、重身、種痘三つの大発明あり。重身にて潮の差引をせぬ其外萬物の働を辨ず。昔は三年にて地球を一週す、今は蒸汽船にて僅か一月余りにて一週す。種痘にて人民数百萬を救ひ日本にては未た重力にて事物の道理を辨せず、蒸汽船も未た十分益あるに至らす種痘の事に於ては已に人民を救ふ拾萬を以算すべし。然るに疳瘡にて身を亡し病人となり其毒子孫に及ものあり。其元を推すに遊女より傳染するなり。之を防さるは國政の届さるなり。我國津港宿驛等人の輻輳する處に遊女塲あり。其病を治する方を立さるは陥井を國中へ設る如し依て官府より醫師に命し七日目位に遊女及遊ふ男子をも改め、病あらば其手當をなすべし。さすれは其病根を盡すべし。外國にても是を憂遊女を廃せし事あれとも密に犯す者多く却て疳瘡盛になりしかは遊女塲を元へ復し、病を防ぐ前に有如くし、殆絶るに至る由、曩に蘭人「ボードーイン」崎陽へ来りし時一書生一夜妓樓に登り翌日疳瘡を発し三日にして鼻腐爛遂に廃人となる。「ボードーイン」愠日是悪疾を防さるは國政の惡きなりと云々。我思ふに大に然り、夫政治は親の子を戒ると異る(遊女塲へ行事なかれといふ也)事ことなれは少く理に戻れる如くなれとも小利を見すして大害を除にあり。さすれは億兆の人民を救人材を育する一助となるべし。

髪制

余古記繪巻物の人物を見るに髭髪を剃らず、自ら質朴の風なり。今も八瀬大原の里人は髭髪を剃らず、自ら王政の古風存するべし。然るに應仁の乱夏日の炎天に困しみ頭の前を剃りしが、遂に世上一般の事となりぬ。清朝の風も見悪き事なれども、我野卑に比すれは優にして士風も品格も高く天地萬國へ對し宜き事なれは之を復するにしかず方今京大坂江戸にては凡二万五千人程の結髪職有り、其結髪所至つて雑沓する事なれば、或は半時或一時を費遊惰の者集り博奕又は遊冶の談のみにて少年輩を悪道へ導き、徒に光陰を費のみにて、大に風俗を乱す。也且日本五千萬一軒五として千萬軒也。一家一年用ゆる剃刀油元結費金二分つゝと見て五百萬金なり右人口結髪の間業を廃る入費五百万金位に當るべし。如此冗費を省古風の如く士農工商冠の前を立て、毎朝自ら梳らは品格もよく快かるべし。然れとも一時に改れは人情に背く┐もあるべし。故に十歳以下の者は古風に復し其余は随意に任すべし結髪職油元結を製する者も拾歳前は禁ずべし。さすれは二拾年を出すして古風に復すべし。

変佛法

我日本六拾余州の小國にて寺院四十五万軒あり其大者住僧数百人小なる者も二三人を下らず。法を弁へ戒を守る者千人の内一人、悪行せさる者百人に一人わつか有るのみ。余は皆肉食をなし婦女を蓄へ物欲は俗人よりも肆又は甚ものは寡妻を奪ふにいたる。古の僧は愚民を教諭し善に導きしか今は徒に仏像を擁して墳墓を守るのみにて世に益なきは推て知るべし。寺に多分入禄を与ふるあつて衣食足故に業を守らさるに至る之を廃する方可なるべし。或は貨幣の融通をなし俗に云金貸の如し、法に戻る事甚し。故に自今以後分限を正し行末業の成否を察し官許を受けて後僧となすべし。依て従来の僧は悪弊を除きまつ語学算術手跡等を始として惣て実学をなさしめ、寺を小学校に當て市町村里の商人には英仏の語、算術、農人には農業等又は人に益ある事を教へしむべし且法戒を巖にし、僧に堪兼るもの、又は法に背くものあるとも是を罪せす職人となし業を授くべし。さすれば凡百万人と見ても一人拾金の職をなせは千万金の益を得べし。且帰俗のものあらは其空寺を学校とし農商に学術を授けて両全経國の一助となるべし。

商律

兵庫開港貿易するに付ては我國産を外國へ送り、彼國産を我へ運もし洋中に於て破船すれは舩の價は五六万金位なれとも殊により産物は百万金にも及ぶべし。さすれは商人は勿論小諸侯にても家産を失ふに至らん。今世國家の事に於ては兵を商と並立者なるに右の如く不測の禍に逢ひ商を廃すに至らば益々国の縮となる。故に貿易は初は自分船を製造し別に舩の請負といふ者を立て(船を造りし時船主より分割を附如何程にても敷金を請負人へ渡し航海の度毎に同様敷金を渡船百艘あるとも破船僅か二三艘位の事なれは右金を以是を補又は年を経舩破損せは新に作べく舩主は一度造るのみにて無窮に傳はり請負人も相応の利益あり両全と云へし)荷物請負といふ者を立つ(荷物を金に百分の一を航海の度毎に此請負人へ渡し萬一荷物覆没せは百萬金に二百萬金に償ふべし)又人の請負といふ者を立て(航海の毎度分割を附此請負人へ金を渡もし千人に一人三千人に一人死亡せは父母妻子をも撫育し其子の成長まて 養へし)總て商社を結譬へは五万両分限の者五人にて一萬両つゝ出せは五万金なり。拾人なれは拾万金也。是を合せて商賣するなり。商賣は損得定りなき事なれは一人にて是をなし、産を破れば回復し難し。右の如く組合置より商社の法則を立法に背く者あれは上より是を罪すべし。是迄の貿易にては富める者は手を袖にして貧賈戎猾商なとのみなす事なれは萬一利益を得とも極意日本の縮となる。段々商法を立たとへ士にても有志の者には航海術と通辨を学しめ、商賣をなさしめは國益々大なるべし。

時法

我國の時刻は一晝夜十二時なれども、西洋各國のことく午より子までを十二時に定べし。時刻は上下日用常行の事に関る事なれは一時一分一厘と分ち正しくすべし。正しけれは人を役するにも平等に使はれ、物を製するにも正しきを得べし。生を欲し死を悪は人情の常なれとも時に駒隙を過し易きものなれば時計を以翫物とせず、必用とし寸陰を惜むに至らは人事に益あるべし。

暦法

夫暦數は上古黄帝の時にはしまり夏商周ともに しに孔夫子も夏の時を用ゆといつて我日本徃古より聊の変革はあれとも夏正を用ひ、夏正なれは年により閏月あり、閏月は人事に益なきものにて上たる者貢賦を収め下たる者給料を得るも其月を加るに至らず、しかし依旧心付ぬ事なれ共其實害なきにあらん、如何となれは人は日により生活する者なるに月により暦をつくりし故なり。且毎年新暦を取りて梓に上せ手数も費加之暦中下段は朝廷の撰なれとも天地の間の吉凶あるべき理なし。然るに愚者は惑ひ智者は是を笑へり。外國へ對しても實に愧ずべきなれは西洋の如く一年三百六十五日四分度の一と定め、四季に一日の差出べし故に四ヶ年の暦を一度作れは萬代不易にて暦の價闔國戸数に當れば二十五萬両程も省くべし。紀元も度々改るは不都合故古代の如く是を廃し神武帝即位の年を始として何年々々と数ふべしさすれは綿々たる皇統を欽仰する端にて國家の美事なるべし。

官醫

夫病を治するは醫による事なれは緊要の術なり。故に外國の醫は自他の学術共に研究し、技藝精巧なれは一級は一級二級は二級と他國へ行きても分るなり。我國官醫の如き門地を以てす。其巧拙三歳の童子たりとも論を待たず。然し崎陽にて洋醫へ親しくし業の熟せし者も両三輩あれとも是を置く。

玉體を唐醫に委するは實に恐多き事也。依而方今第一等の醫を挙け玉體を奉護する事急務なるべし。

九 山本覚馬「管見」は『西洋事情』への応答

まことに委細を尽くした立派な上申書である。提出先の「御役所」とは薩摩藩の事務方という意味で、明治政府のどこかという意味ではないと考えられる。というのは、冒頭部に松平容保の赦免について書かれていて、この「管見」の提出と引き換えに何らかの配慮があると期待しているように受け取れるからである。長州藩激派にとっては松平容保は宿敵でも、薩摩藩にとっては行きがかり上仕方なく敵対している相手にすぎない。薩摩藩としては覚馬に知恵を出させるほうが得策で、「書付」を読んで感心した薩摩藩首脳が新政府へ向けての提言を覚馬に依頼したのではなかろうか。

そこで以下内容について検討したい。「政体書」が、『西洋事情』を参考にしつつも、律令制度の残影とでもいうべきものに引きずられて曖昧模糊としたものになってしまったのに対し、「管見」の記述はどこまでもシャープである。そのポイントを今一度まとめてみよう。

①「政権」天皇制度のもとで、三権分立を確立する。

②「議事院」大小の議事院による二院制とし、大臣(大議事院議員)と小臣(小議事院議員)を所属させる。士分出身の小臣は藩の石高で人数を規定する。

③「学校」京阪と重要港に学校を設置する。

④「変制」制度改革は臨機応変に行う。

⑤「撰吏」人材を抜擢して国是を定める。

⑥「国体」諸侯に臣従している家臣は、天皇から付託されているとみなす。士分が帰農したり商売を営んだりすることを認める。徴兵制度を確立し、公平な課税制度へと改革する。

⑦「建国術」農業立国から商業立国へと転換する。

⑧「製鉄法」国営の製鉄所を設置する。

⑨「貨幣」交換レートを国際水準とし、銅の保有量を増やす。

⑩「衣食」毛織物着用と肉食の奨励を図る。

⑪「女学」女子教育を推進する。

⑫「平均法」財産の嫡子独占相続を見直し、子には均等に相続させる。

⑬「醸造法」主食である米から酒を製造するのを減らし、麦や葡萄を原材料に転換させる。

⑭「条約」開港地神戸周辺に砲台を設置する。

⑮「軍艦国律」軍艦建造については中央政府の専管事項とする。

⑯「港制」神戸開港に伴い地域水路を拡充する。

⑰「救民」種痘を奨励し性病対策をする。

⑱「髪制」髪結所を廃止し、髪型を自由化する。

⑲「変仏法」破戒僧を追放し、僧侶を官許化する。

⑳「商律」生命保険制度と海上損害保険制度を導入する。また貿易商社設立を奨励する。

㉑「時法」西洋式の定時法に変更する。

㉒「暦法」太陽暦に変更する。

㉓「官医」家格にとらわれずに優秀な医師を養成する。

以上「菅見」には二三項目の提言が含まれている。これらの提言を覚馬が無の状態から書き上げたのだとしたら、まさに驚きである。実際そのように思い込まれているものか、近年刊行された山本覚馬に関する文献で、多くの研究者がそうした驚きを率直に表明している。ところが私の印象はといえば、大方の人々の感情とは異なり、「おや、どこかで見たことがあるぞ」という既視感だったのである。

たとえば②「議事院」について、この用語は福沢諭吉が作ったとはっきりしていて、初出は慶應二年(一八六六)一〇月刊行の『西洋事情』初編である。これだけでも覚馬が「管見」執筆時に『西洋事情』を参考にしていたことが分かるが、内容から見ても、この「管見」が、『西洋事情』冒頭に掲げられている文明政治の六条件は、いかにすれば日本で実現できるか、という観点から書かれていることが明白に分かる。

そこで文明政治の六条件を思い切って項目化するなら、㈠自由の尊重、⑵信教の自由、⑶科学技術の導入、⑷学校教育の拡大、⑸法治主義、⑹福祉の充実、とでもなろうか。この六条件に従って先の「管見」二三項目を分類するなら、㈠自由の尊重については⑥⑱、⑵信教の自由については⑲、⑶科学技術の導入については⑦⑧㉑㉒、⑷学校教育の拡大については③⑪、⑸法治主義については①②④⑤⑳、⑹福祉の充実については⑩⑰㉓が当てはまろう。

これらのうち⑵信教の自由に関しては、それまで野放図だった体制的仏教の統制強化が謳われていて、それが信教の自由につながるのかどうかは判然としない。キリスト教についてはまったく触れられておらず、後年アメリカン・ボード(米国伝道機構)による同志社英学校の設立に深く関与した覚馬ではあったが、この時点では信教の自由についてさほど重要視していなかったことが分かる。

文明政治の六条件に当てはまらない「管見」の残りの六項目については、明治元年(一八六八)の現実に対する対応策で、財政に関する提言⑨⑫、農政に関する提言⑬、国防に関する提言⑭⑮⑯に分類できる。

人には得手不得手があって、軍事学者だった覚馬の得意分野が科学技術と国防にあったのは確かである。ただ、専門外である法治主義①②④⑤⑳についても頑張っていて、この分野への見識の深さがうかがわれる。ただその点についても赤松・龍馬・由利・福岡同様、『西洋事情』初編のアメリカ合衆国憲法の部が、主たる情報源なのではないかという印象がもたれる。ただ、そこで触れられていない⑳の損害保険制度の導入については、武器購入のため出張していた長崎で外国人商人からその仕組みの説明を聞いた可能性がある。とはいえ、盲目の捕囚の身でそれを一から弟子に書き起こさせる必要はなかったであろう。というのは、生命・損害保険制度については、福沢の『西洋旅案内』にすでに詳しい解説があるからである。

災難請合(さいなんうけあひ)の事(こと)イシユアランス

災難請合(さいなんうけあひ)とは商人(しやうにん)の組合(くみあい)ありて平(へい)生(ぜい)無(ぶ)事(じ)の時(とき)に人(ひと)より割合(わりあひ)の金(かね)を取(と)り万一其人(まんいちそのひと)へ災難(さいなん)あれば組合(くみあひ)より大金(たいきん)を出(いだ)して其損亡(そのそんまう)を救(すく)ふ仕法(しはう)なり其大趣意(そのたいしゆい)は一人(いちにん)の災難(さいなん)を大勢(おほぜい)に分(わか)ち僅(わづか)の金(かね)を棄(すて)て大難(だいなん)を遁(のが)るゝ訳(わけ)にて譬(たと)へば今英吉利(いまいぎりす)より亜米利加(あめりか)へ一万両(いちまんりやう)の荷物(にもつ)を積送(つみおく)るに二百両計(にひやくりやうばかり)の請合賃(うけあひちん)を払(はら)へば其船(そのふね)は難船(なんせん)するとも荷主(にぬし)は償(つくのひ)を取返(とりかへす)べし又此一万両(またこのいちまんりやう)の荷物(にもつ)を二百両(にひやくりやう)にて引請(ひきうけ)し商人(しやうにん)の組合(くにあひ)も数千艘(すせんざう)の船(ふね)を請合(うけあ)ふことゆへ其船百艘(そのふねひやくさう)の内(うち)に二艘難船(にさうなんせん)するとも九十八艘(くじうはつさう)の請合賃(うけあひちん)を以(もつ)て二艘(にさう)の償(つくのひ)となせば損得(そんとく)はなき姿(すがた)なり若(も)し又世間(またせけん)に火事難船多(くわじなんせんおほ)くして請合人(うけあひにん)は始終償金(しじうつくのひきん)を出(いだ)す計(ばかり)の様(よう)にては損亡(そんまう)なれども斯(か)く災難(さいなん)の続(つゞ)くこともなく丁(う)度(ど)平(へい)均(きん)して双方(さうう)よき様(よう)に割合(わりあひ)をなせり

○災難(さいなん)の請合(うけあひ)に三(み)通(とを)りあり第一(だいゝち) 人(ひと)の生涯(しやうがい)を請合(うけあ)ふ事此法(ことこのはう)は甚(はなは)だ入組(いりくみ)たることなり素人同士組合(しろふとどうしくみあひ)を結(むすび)て若(も)し組合(くみあひ)の内(うち)に病気其外災難(びやうきそのほかさいなん)に逢(あ)ふ者(もの)あれば組合一統(くみあひいつとう)より金(かね)を出(だ)し合(あは)せてこれを救(すく)ひ又(また)は死後(しご)に其妻子(そのさいし)を扶助(ふじよ)することあり又或(またあろひ)は商人(しやうにん)に元金(もときん)を以(もつ)て組合(くみあひ)を立人(たてひと)の生涯達者(しやうがいたつしや)の内(うち)に年々何程(ねんねんなにほど)かの金(かね)を取(とり)て若(も)し其人病気(そのひとびやうき)を煩(わづら)ひ渡世(とせい)の出来(でき)ざるよふになれば死(し)ぬまでの手当(てあて)を年々組合(ねんねんくみあひ)より払戻(はらひもど)し又(また)は約束次第(やくそくしだい)にて死後(しご)の妻子(さいし)を養(やしな)ふこともあり又或(またあるひ)は商人(しやうにん)に組合(くみあひ)ありて此組合(このくみあひ)へ年々積金(ねんねんつみきん)を納(おさむ)れば十年(じうねん)か二十年(にじうねん)の限(かぎり)にて毎年積金(まいとしつみきん)の高(たか)を減(げん)じ年限(ねんげん)を終(おは)れば金(かね)を出(いだ)さずして其組合(そのくみあひ)に入(い)り其後(そのゝち)は却(たつ)て仲間(なかま)の割合(わりあひ)を取(とり)て其身(そのみ)の老後死後(らうごしご)の暮向(くらしむき)を立(たつ)る法(はう)もあり都(すべ)て此請合(このうけあひ)は年(とし)の老若生質(らうにやくうまれつき)の病身(びやうしん)と達者(たつしや)とに由(より)て年々金(ねんねんかね)を納(おさむ)る高(たか)にも多少(たせう)あり又(また)は平生(へいせい)より死後(しご)の覚悟(かくご)と思(おも)ひ商人(しやうにん)の組合(くみあひ)へ金(かね)を納(おさ)め置(お)きしに老年(らうねん)に及(およん)で不幸(ふこう)にして妻子(さいし)を失(うしな)ひ死後(しご)の心掛(こゝろがゝり)なき様(よう)になりし者(もの)は夫(それ)まで払(はら)ひし金(かね)を自分生涯(じぶんしやうがい)の内(うち)に取返(とりかへ)し安楽(あんらく)に命(めい)を終(おは)ることもあり

福沢諭吉の『西洋旅案内』は、慶應三年(一八六七)初冬(一〇月)の刊行である。翌明治元年の初夏に「管見」を書いていた覚馬がそれを読んでいたとしても不自然ではないのだが、問題は薩摩藩京屋敷内に軟禁状態となっていた彼が福沢の著作を参照できたかどうかである。実はそれはできたのである。というのは、赤松小三郎が一年前まで勤めていた薩摩藩兵学校はこの京屋敷内にあり、その書庫には関連書目が完備されていたからである。先にも触れたように覚馬は薩摩藩の依頼で「管見」を執筆したと推測できるので、その完成に支援を惜しまなかったであろう。

なお、『西洋事情』ほか福沢の著作から強い影響を受けているとしても、そのことによって「管見」の意義はいささかも貶められるものではないのは言うまでもない。「管見」は「管見」として、明治元年の日本の現実への有効な提言だった。そして、それほど気づかれていないようなのだが、「管見」の中身は薩摩藩提案の政策として実行に移された可能性も高いのである。ざっと見たところ、二三項目中⑫⑬を除く残余については明治政府によって最終的には実施されている。もちろんそれらの実現がこの「管見」によってだけなされた、とは言わない。そこでの提案が薩摩系の政治家や官僚に共有されたことにより、最終的にそうなった、ということである。

十 おわりに―『西洋事情』の衝撃

以上、本論説は慶應三年(一八六七)五月の赤松小三郎の「口上書」から翌明治元年六月の山本覚馬の「管見」まで、大政奉還をはさんでの約一年の間に書かれた提言や、「五箇条の誓文」や「政体書」といった明治新政府から出された重要文書が、福沢諭吉の著作、とりわけ『西洋事情』初編の強い影響下にあることを示した。

なぜこれほどのことが気づかれてこなかったのかと、読者はあるいはいぶかしく思われるかもしれない。最近になってその名を高めてきた赤松の「口上書」や覚馬の「管見」ならともかくも、以前からよく知られていた坂本龍馬の「新政府綱領八策」、由利公正ら立案の「五箇条の誓文」、そして福岡孝悌ら起草の「政体書」にまで影響を与えていたのなら、どうして『西洋事情』にもっと高い評価が与えられてこなかったのか、ということである。

私の思うところでは、その理由として次の三点があげられる。

その理由の第一は、明治維新をはさんで活動していた人々にとって、『西洋事情』初編を読んだときに受けた衝撃はあまりにも自明で、そのことをわざわざ表明する必要を感じなかったのではないか、ということである。『西洋事情』初編は、明治のではなく幕末の大ベストセラーだった。佐幕派倒幕派を問わず、およそ日本の将来に関心のある人々はすべてその本を読んでいたといっても過言ではない。そこで紹介されていたのはアメリカ独立宣言や合衆国憲法、さらにイギリス憲政史や税制の詳細ではあるが、『西洋事情』の読者はそれを海の彼方の事象としてではなく、明日の日本の姿として読み込んだのである。そうして出来上がった「口上書」や「誓文」が、たとえ日本風にアレンジされた『西洋事情』の記述だと気づいたとしても、それを口にする必要を認めなかったのであろう。

ついで理由の第二は、福沢諭吉の明治政府への非協力が新政府始動時に彼が与えた影響について言及させにくくしたのではないか、ということがある。明治一〇年代(およそ一八八〇年代)に確立した日本の教育制度が、小学校から帝国大学まで、あるいは陸軍士官学校・海軍兵学校まで、国公立の学校教育を主軸としていた。慶應義塾ほか私立の学校から帝国大学へ進学する道は閉ざされ、国家の中枢が官立学校出身者によって占められるようになって、明治の国家構想に福沢が果たした役割について言及するのがはばかられるようになったのではないか。もちろん明治中期以後も慶應義塾は経済界を中心に人材を供給していて、そちらの方面からの福沢評価は一貫して高かった。実業人福沢諭吉という評価が定まって後に、いまさら「五箇条の誓文」の中核部は『西洋事情』にある文明政治の六条件でした、とは言えなくなったのではなかろうか。

そして理由の第三は、第二ともかかわることであるが、日本憲政史研究における『西洋事情』の完全無視が、現在の研究者の目をその著作からそらさせている、ということがある。本論説を書くにあたって調べなおして分かったのだが、近代日本の憲法構想について扱った著作では、主要関連文献を紹介する場合に、横井小楠の「国是七条」(一八六三)の後に伝坂本龍馬の「船中八策」(一八六七)または赤松小三郎の「口上書」(一八六七)を置くことが多い。人脈からいって小楠と龍馬・小三郎は広義の師弟関係にあって、その配列自体に疑問があるわけではないのだが、問題は両者の間にある大きな跳躍である。富国強兵と政治参加の拡大が必要とだけしか言っていない小楠から、立憲君主制や二院制議会さらには税制の改革などを唱える小三郎の意見が自然に芽生えるはずもない。この跳躍を説明するのにはどうしても間に『西洋事情』初編(一八六六)を噛ませる必要があるのだが、不思議なことに従来の憲政学者は『西洋事情』からの影響を著書に注記すらしてこなかったのである。

あるいは教えられることがなかったから書けなかったのかもしれない。あるいは気づいていたとしても書かなかったのかもしれない。いずれにせよ、赤松小三郎・坂本龍馬・由利公正・福岡孝悌・山本覚馬らに強い影響を与えた福沢諭吉の『西洋事情』に触れぬまま日本近代史研究を進めることは、今後は許されぬこととなろう。