「赦すも赦されるもない、戦争とは政治にすぎない」

last updated: 2014-05-28

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2014年3月の比較思想研究第40号40-43頁(比較思想学会)に掲載された、比較思想学会ミニシンポコメントです。

比較思想学会ミニシンポコメント

赦すも赦されるもない、戦争とは政治にすぎない

静岡県立大学国際関係学部助教 平山  洋

 高橋氏の発表に関して、『戦後責任論』(一九九九年一二月刊)と『犠牲のシステム福島・沖縄』(二〇一二年一月刊)を参照にしつつ、事前に用意していた疑問三つと、発表内容に即した疑問一つを提示したい。

 まず第一の疑問は、すでに解決済みの問題について、今さら「赦しを乞う」必要があるのかについてである。

 これはドイツやフランスのことではなく日本に関することなのだが、そもそも戦争とは外交交渉の決裂後国家間で行われる実力行使にすぎない。その終結は相手国との間での休戦協定およびその後の講和条約の締結によって定まる。第二次世界大戦当時成立していなかった中華人民共和国と大韓民国(当時は日本領朝鮮)とは戦争をしていないため、この二カ国に対して通常の意味での戦後処理をしなければならない理由は見当たらない。

 とはいえ、たとえ戦争をしていなくとも、中華人民共和国に対しては国交を結ぶにあたり、一九七八年一〇月発効の日中平和友好条約により戦時賠償の代替となる経済援助の約束をしている。また、大韓民国に対しては、一九六五年一二月発効の日韓基本条約により、一九一〇年の日韓併合以前に大韓帝国との間で結んだ条約はもはや無効との確認がなされ、さらに一九六五年一二月発効の日韓請求権・経済協力協定により三億ドルの無償供与と二億ドルの低利借款を行うことで、国及び法人を含む国民の請求権に関する問題が最終的に解決された、との確認がなされている。これ以上何かをする必要があると考えることの根拠を知りたい。

 ついで第二の疑問は、日本の戦後処理とドイツの戦後処理を比較することの無理についてである。

 思うに戦後の西ドイツ(および統一ドイツ)は戦争被害者に対して個人賠償をしているのに、日本はそれをしていないのは不当だ、ということくらい奇妙な主張はない。というのは、ドイツは国家賠償をしてはいないからである。ナチス・ドイツの被害にあったのはユダヤ人やロマ族といった特定の民族で、戦後生き延びた彼らはイスラエルや米国他世界の諸地域に散り散りになってしまった。そうした場合、面倒でも一人ひとりに賠償しないといけない。しかし日本の場合、被害を与えた地域は確定していて、そこにいた人々もほとんど動いていないのだから、戦後そこにできた中華人民共和国や大韓民国にまとめて支払うことができた。もし日本の被害にあったという中国や韓国の国民が新たに現れたなら、その人は自らの政府に請求すればよいのである。

 また、日本の戦争犯罪をナチス・ドイツのジュノサイドと同一視するのも奇妙なことである。極東軍事裁判で問題になった一九三七年一二月のいわゆる南京事件での中国側死者は国民政府軍の捕虜を中心に五万人程度である。そのため指揮官の松井石根将軍は一般戦争犯罪(B級)で有罪となり処刑された。南京事件後八年も継続した日中戦争において、大規模な民間人殺害は報告されていない。また、そのようなことが起きていたとしたら、終戦後降伏した日本軍捕虜への処遇はもっと過酷になっていたはずである。戦争犯罪が少なかったからこそ彼らは無事帰国できたのはなかろうか。

 さらに発表に関して付け加えるならば、高橋氏が「赦しを乞う国家」の実例としてあげているのは、主にはナチス・ドイツによる民間人犠牲者へのドイツ連邦共和国大統領や首相による謝罪である。加害者として認定されたのはナチス親衛隊であってドイツ国防軍ではない。謝罪が正規軍同士の交戦による死者に対してなされたものではないことに注意が必要で、交戦に伴って民間人に死者が出たとしても、その事実に対して遺憾の意は表明しても謝罪はしないのが、戦勝国戦敗国双方の通例となっている。

 さらに第三の疑問は末木文美士氏の東日本大震災「天罰」論についてであるが、これは高橋氏著『犠牲のシステム福島・沖縄』に収録されている問題である。具体的には、末木氏が二〇一一年四月二六日付中外日報に掲載した時評中、「日蓮の『立正安国論』では、国が誤れば、神仏に見捨てられ、大きな災害を招くと言っている。その預言を馬鹿げたことと見るべきではない。大災害は人間の世界を超えた、もっと大きな力の発動であり、「天罰」として受け止め、謙虚に反省しなければいけない。だから、それは被災地だけの問題ではなく、日本全体が責任を持たなければならないことだ」との発言に対し、高橋氏が「死者が出るケースだけでも頻繁に起こっている天災のなかで、この天災を(あるいはこの天災だけを)天罰とする判断は恣意的でしかない」(同書一四七頁)と批判することに端を発している。東日本大震災「天罰」論についての末木氏の真意は果たしてどこにあるのか。両者が会しているこの場でその点が明確になれば幸いである。

 最後に、発表を聞いているうちに浮かんだ第四の疑問として、日本が今さら「赦しを乞う」国家となる意味について尋ねたい。とりわけ日本と韓国の間では一度も戦争をしたことがないため、過去の支配に対する慰謝の意を表する日韓請求権・経済協力協定を超えて「赦しを乞う」必要を認めることはできない。国交の回復により日本と韓国はすでに対等な関係となっている。両者の関係はもっとビジネスライクなものであってよいのではなかろうか。

 この四つの疑問について、一・二・四に関する高橋氏の答えを先に、三に関する末木氏の答えを後にまとめたい。

 まず第一への回答としては、高橋氏は国家間の戦争だけではなく民間人の犠牲を含めて考えている。中韓について政府間の問題が解決しているのは事実だが、個人補償は残されている。とくに慰安婦についての請求権については人道犯罪の被害者への個人補償の必要を唱えた一九九八年八月の国連マクドーガル報告書に照らしても認めるべきと考える。また日本政府の見解としても一九九一年八月二七日の参議院予算委員会答弁において被害を受けた個人の請求権の存在が確認されている。シベリア抑留者によるロシア政府に対する個人賠償請求権の確認により、中韓についても同様の見解を取らざるをえなくなったのである、とのことである。

 また第二への回答としては、日本とドイツを同一視しているわけではなく、別問題とは考えている。ただ、ドイツも国家賠償はしていて、敗戦後のドイツは対外資産の放棄という形で相手国に現物賠償をしている。二〇一一年八月三〇日の韓国憲法裁判所の朝鮮人慰安婦と同原爆被爆者に関する判決に基づいて、二〇一二年五月二四日、韓国最高裁は日韓条約・経済協力協定内での個人賠償権の非消滅を確認した。さらにその判決によって下級審での賠償判決が出されるようになった。ドイツは個人賠償だけでなく国家賠償も行っているのであるから、日本も当然のこととして韓国人被害者への個人賠償に応じるべきである、とのことである。

 さらに第四への回答としては、日本が放置しているためにいつまでも問題の解決が続くのであって、被害者個人への償いをすることにより始めて平等な関係が築けると考えている。ドイツの大統領や首相による謝罪や同政府による個人賠償の実施は戦後ドイツの名誉回復に役立っている。そこから類推して日本が真摯な謝罪を行うならばアジアにおける日本の評価も高まるはずである。そうなって初めて加害者と被害者の関係は解消され、真の和解が成立するのである、とのことである。

 最後に末木氏に向けての第三の疑問への回答だが、同氏の「天罰」の理解は次の通りである。すなわち、まず①震災の犠牲者は日本人全体であって、天罰もすべての日本人に下ったと認識していること、ついで②震災を天恵とするとは、その犠牲を無駄にしないように善後策を講じるという意味であること、最後に③震災は他の災害と比較して別次元ともいえる大きさであったこと、である(『現代仏教論』二〇一二年八月刊)。末木氏としては、この震災は日本社会のあり方を根源的に問い直す契機となると言いたかっただけで、その方向性は、同じ災厄を機会に、弱者に被害が集中するという犠牲のシステムを発見した高橋氏と変わるものではない、とのことである。

 最後に全体のまとめとして、比較思想学会員の関心に即したコメントを加えたい。

 高橋発表の主眼は、ヤスパースが提唱した、ドイツ人はナチスの犯罪について真摯に赦しを乞うべきだという思想が、一九七〇年のブラント首相のワルシャワゲットー蜂起への謝罪演説、一九八五年のヴァイツゼッカー大統領の荒野演説、一九九四年のヘルツウォーク大統領のワルシャワ蜂起五〇周年演説、二〇〇〇年のラウ大統領のイスラエル議会での謝罪演説などに影響を与えて、その贖罪の精神がドイツへの赦しとドイツの名誉回復につながっていることを示すところにあったと思われる。さらには日本についても同様の贖罪を促すことが、思想の社会的責任であると暗に示しているようだ。しかしコメンテーターにとって釈然としないのは、ナチス・ドイツの人道犯罪が明々白々であるのに対して、日本については人道犯罪の事実が証明されていないことである。

 日本が韓国を併合した一九一〇年の段階では、主権外の地域を併合することは国際法上非合法とは見做されていなかった。パク・ジハは『和解のために』で、韓国人は日本人を赦すべきである、と書いているが、そもそも両国人は赦すとか赦されるとかいう関係にはない。植民地が独立すれば、宗主国はただ「おめでとう」と祝福するだけでよいのである。また交戦国だった中国についても、すでに清算は終了している。

 植民地支配にせよ戦争にせよ、それは国家を主体とする政治に過ぎない。ジャンケルビッチがいかに無限の赦しを主張しようとも、こと日本については、それはおよそ無関係な言葉なのである。