「自由主義に対する妄評」

2010-11-14

このテキストについて

『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』107ページから112ページに掲載されている、「自由主義に対する妄評」(1941-03執筆)を文字に起こしました。

本文

第1段落

近年殊に時局以来、我が国に於ては自由主義に対する批判、攻撃が昂まって、自由主義と言えば何か時局の解決 や国家の進路を妨ぐる悪魔か外道の如くに言う者もあるが、併し其の言う所の自由主義なるものは一体如何なる意味、如何なる内容を有するものであるかと問えば、之に対しては誰一人として明確なる答えをなす者がない。 それにも拘らず一部の人々の間には動もすれば己れと意見を異にする者を目して彼は自由主義者なり。 彼の議論は自由主義の残滓を嘗むるものなりなどと頭から之を罵倒し排斥する癖があるが、実に嗤うべき限りである。 言うまでもなく自由主義なる言葉は西洋舶来のものであるが、之を彼の国々に於ける学者の著書に付て見るも其の説く所は区区にして恰も雲を掴むが如く、其の本体を捉えることは出来ないのである。 今茲に溯ってジョン・ロックとかアダム・スミスとかベンザムとか又はジョンスチュアード・ミルとか、是等の学者が自由主義に付て述べて居る所の六づかしき意見や議論などを引出すには及ばない。 極めて通俗的に且つ常識的に言うならば、自由主義とは国民に向つて自由を許す主義なりと言うて少しも差支へはない。 併し国民に自由を許すと言うた所で、古今東西何れの国に於ても国民に絶対無制限の自由を許して居る国はない。それは当然のことであって、左様なることを許して国家が存立する訳はないのである。 ロビンソン・クルーソーの如くに絶海の孤島に唯一人生存して居る者ならば兎も角、苟も多数の人間が集まって国家を組織して居る以上は其の国家の生存発達を図るが為に或る程度まで国民の自由を制限するの必要があることは言を俟たない所であって、如何なる自由主義者と雖も之を否定することの出来るものではなく、左様なる自由主義者は世界に一人もあるべき筈はない。 若し左様なる自由主義者があるならば、彼は自由主義者にはあらずして無政府主義者である。 唯問題は如何なる程度に於て国民の自由を制限することが国家の為に必要であるかと云うのであるが、それは国家を率いる政治家が内外の情勢に適応して決定すべきものであって、之を決定するのが政治家の責任である。

第2段落

自由主義に関する原則は唯是だけのことであるが、偖て之を国家の実際に適用するとなると種々の問題が起る。 而して自由主義が最も議論の的となるのは政治に関する場合であるが、是も専制政治の下に於ては問題は起らない。 専制政治の下に於ては一人の独裁者が政治上の権力を握り、其の人の単独意思が法律となつて現われ、全国民は其の法律に無条件服従を強制せらるるのであるから、斯かる政治組織の下に於て国民に政治上の自由などがあるべき訳はなく、国民は全く奴隷の境遇に於かれるものである。 然るに之に反して立憲政治の下に於ては国民の自由が認 められるのであるから、茲に於て初めて自由主義なるものが台頭して来る。 固より立憲政治の下に於ても国民の自由が法律の範囲内に限られることは無論である。 之を我が国の憲法に付て見るも、憲法第六章臣民の権利義務の中には、国民に向って数多の自由が認められて居れども、何れも法律の範囲内に止まり、一歩も其の外に出づることを許されない。 併し其の法律を制定するには議会の協賛を求めなければならず、而して議会は国民の選挙する議員に依って構成せられて居るから、帰する所は国民の自由意思が現われて法律となり、其の法律に依りて国民が支配せられることとなる。 換言すれば国民が自分で自分を支配するのであるから、此の関係に於て政治上の自由主義なるものが現われて来たのである。 随て立憲政治は自由主義の政治であるとともに、立憲治下の国民は自由主義の国民である。 然るに同じ自由主義の国民でありながら甲が乙を目して、彼は自由主義者なりと非難するのは何のことであるかさっぱり訳の分らないことであるが、斯かる種類の分らず屋が近年我が国の政治界に横行し、各種の方面に向って全く出鱈目の言論を放って得意がり、遺憾なく自分の迂闊を暴露して居るから呆れざるを得ない。 例えば彼等は政党は自由主義の産物であるとして非難して居るが、自由主義の産物であるのが何で悪いか。 憲法政治は自由主義の政治であり、日本臣民は結社の自由を許されて居るではないか。 此の許されたる自由に依りて政党の起るのが悪いと言うならば結社の自由を許す憲法其のものが悪いと云うことになるのであるが、まさか左様なる考えを有する者もなかろう。 それ故に政党の起るのを非難する理由はないのみならず、健全なる政党が起るにあらざれば立憲政治は円滑に運用せらるべきものではない。 但し我が国の政党が悪いと云うならばそれは全く別問題であつて余も亦同感である。 余も三十年来政党生活を続けて来たが、近年民政党と言わず政友会と言わず政党の無能無力にして不甲斐なきことには呆れるの外はない。 我が国の政党は真の政党でも公党でもなく、全く私党朋党の類であるから、颱風一過、崩壊するのは当然である。 併し是は全く我が国の政党が悪いのであって、政党が自由主義の産物であるから悪いと云う理由にはならない。

第3段落

或は政党内閣も自由主義の産物であるから悪いと言ふ。 なぜに政党内閣が悪いのか。 多数国民の支持を受くる政党の首領が、天皇の大命を受けて内閣を組織し、国政燮理の任に当るのがなぜに悪いか。 悪いと云う理窟は出て来ないではないか。併し是も我が国の政党内閣が悪いと云うならば別問題である。 従来我が国の政党の如く、金力や情実其の他利害関係を以て党勢を拡張し、其の領袖と称せらるる人々も殆んど国家を経営する高邁なる見識を有せず、唯高位高官に就きたいと云うが如き低級なる希望より外には持合せのない連中が集まって居る政党が内閣を組織した所で国家の発達を益することの出来ないのは分って居る。 それ故に五・一五事件は動機として政党内閣が中断せられたのは当然である。 併し是も我が国の政党内閣が悪いのであって、之を以て政党内閣は自由主義の産物であるから悪いと言う理由にはならぬ。 此の区別を明かにするものでなけれは政治論を為す資格はない。

第4段落

近頃普通選挙も自由主義の産物であるから、之を制限選挙に引戻せと云う議論が起って、政府も之に耳を傾け戸 主選挙権なるものを案出して、之に依り全国一千四、五百万人の選挙人中より戸主にあらざる四、五百万人の選挙権を剥奪せんとする選挙法改正案を作って居るそうであるが、茲に至っては最早言う所を知らない。 普通選挙を自由主義の産物であると言うて排斥するならば、何故に一歩を進めて選挙其のものが自由主義の産物であるから、選挙制度を撤廃し立憲政治を高閣に束ねと言わないか。 彼の有名なる明治元年三月十四日御発布の五箇条の御誓文の第一には、広ク会議ヲ興シ万機公論二決スベシとあるが、自由主義を非難する彼の徒は之を何と見るか、議論があるならば忌憚なく吐いたが可かろう。とあれば如何程自由を制限しても憲法違反にはならぬように憲法の条章は厳然として存在する。 之を国家の目的に副うべく、適当に運用するのが政治家の責任である。 而して今日は非常時である。 建国以来の困難に直面して、国家の興亡を賭して戦争に従事して居る以上は、戦争の目的を達成するが為に必要とあらば政治と言わず、経済と言わず、凡ゆる方面に亙り其の必要なる程度に応じて国民の自由を制限するのは当然の事であって、何人も之に反対することは出来ないとともに、其の程度を超越して濫りに国民の自由を拘束するが如きことがあるならば、之に反対するのも亦当然である。 凡そ是等のことは政治上の実際に当りて徹頭徹尾国家の利害を標準として論議せらるべく、其の何れに左袒するも此の間に自由主義とか何とかの区別が立てられる訳はない。 若し夫れ国民の自由を不当に拘束し、官僚専制を行うことを以て愛国者の如く心得、之に反対する者を目して自由主義者なりとして排斥せんとするが如き者に至りては、真面目に国事を談ずる相手にはならぬ。 元来自由主義とか何とか主義云うことは畢竟するに学究に心酔する白面書生の空論であって、政治の実際に当りては斯かる主義があるべきものではない。 政治は空論ではなくして事実である。 国家の現実に適応する政治が最も善良なる政治であって、之に反する政治が悪政であるから、政治家は実際政治を行うに当っては斯かる空論に捉わるることなく、国家の利害と国民の自由とを適当に調和することを眼目として進むべきであって、是より外に主義はない。 若し強いて主義と云う言葉が使いたいならば、自由主義に反対する主義は非自由であり、非自由主義は即ち奴隷主義である。 国民的自由を放棄し、奴隷の境遇に甘んぜんと欲する者は自由主義を排斥すべく、人間の自由を重んじ国民的自由を発揮して国家の進運に貢献せんと欲する者は堂々と自由の大旗を押立てて邁進すべきである。