「戦争の哲理」

last updated: 2010-11-14

このテキストについて

『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』124ページから131ページに掲載されている、「戦争の哲理」(1941-09執筆)を文字に起こしました。

本文

第1段落

戦争が始まってから戦争に関する印刷物が山の如く現われて来る。 新聞、雑誌は言うに及ばず、其の他何会とか何社とか何聯盟とか種々様々な名称の下に時局に便乗して、雨後の筍の如く起った団体から発行する印刷物や個人の意見書等に至るまで日々余の手許に到達するものだけでも数知れぬほどであって、是等の意見は何れも時局を憂い国を思う真心から出づるものには相違なかろうが、余の見る所を忌憚なく言うならば、何れも其の説く所は如何にも薄っぺらであって、独立の見識もなければ信念もなく、曲筆阿世、媚態迎合、自画自讃、誇大妄想、全く歯の浮くようなる記事論説を以て充たされて居るように思われ、転た此界の悲哀を感ぜずには居れない。 殊に怪しむべきことには比較的世間の上位に在りて世人から相当に重きに置かれて居る人々が何等事実上及び科学上の根拠を有せざる太古の夢物語りや所謂神がかりのようなることをくだくだしく述べたて、己れの無学を曝け(注1)出して自ら気付かざるに至りては、余は実にそれ等の人々の心理状態を疑わざるを得ない。 一体此の非常時局に当りて此の種の言論を以て真に国民を指導し国民を発奮せしむることが出来るであろうか。 国民は此の種の議論に中心から感服して居るであろうか。 国民は斯様な薄っぺらな議論よりももつともっと根底ある真の議論を聴かんことを望んで居るのではなかろうか。 想うに我が国にも此の種言論界の外に立ちて、一世を学理の研究に委ねる学者の一群も存在する筈であるが、是等の学者は今日何を為して居るか。 書斎に閉ぢ籠りて古今東西の学問を研究しながら、今日我が国の言論界を見て晏如として手を下すことなく、唯黙々として酔生夢死するならば、世に学者ほど意気地なき者はない。 それとも何か隠れたる事情でもあるのか。 余は之を聴かんと欲する者である。

第2段落

余の同郷の大先輩に加藤博之博士があった。 余は先生の在世中屡々其の門を叩きて教えを受け、其の所信に感化せられた一人であるが、博士は青年時代には長崎に於て蘭学を修め、後に東京に出で、専ら英独の学問を研究し、第一代の大学総長に就任せられ、疑いもなく近世我が国に於ける教育界の権威者であった。 博士はダーウインの生物進化論を咀嚼して之を政治、道徳共の他一般の社会現象に応用し、博士独特の智学を構成せられたのであるが、其の根底をなすものは生存競争、優勝劣敗、適者生存の三原則であって、此の原則を基礎として凡ゆる社会現象を道破せられたる所に奪うべからざる科学上の根拠が窺わるるのである。 而して博士は明治三十七、八年の日露戦争に当り、此の三原則を本として戦争の原因から日露両国の国情等を検討せられたる末、結論として日本必ず勝つべしと予言せられたことを記憶する。 非常時局に当りて、国に尽す学者の本領は斯くの如きものでなくてはならぬ。 余は今茲に戦争を論ずるに当りて、決して博士の所論を其の儘踏襲するものでもないが、併し其の根本思想に至りては博士の所説に負う所少なからざることを断って置く。

第3段落

端的に言うならば、戦争は人類生存競争の現われである。 生存競争を外にしては戦争を説明すべき何ものもない。 戦争を以て正義や道義の現われであるなどと説明した所で、それは戦争当事国が世界を欺瞞せんとする口実と見るの外には、苟くも道理を弁える者は何人と雖も之を真面目に受取る者はない。 而して戦争を以て生存競争の現われであると断言した所で、それが戦争国の体面を傷付けるものではなく、仮りに体面を傷付けるものとしても事実であり真理であるならば仕方がない。 言うまでもなく人類社会は生存競争の社会である。 固より独り人間社会のみに限らず、其の他一般の生物社会に於ても亦其の通りであるに相違ないが、茲には他の社会のことには言及するの必要はなく、人類社会のみが問題の対象となるのであるが、已に生存競争の社会である以上は、個人は個人と競争し、民族は民族と競争し、国家は国家と競争せざれは、個人も民族も国家も生存を保つことは出来ずして遂には滅亡するから、競争は人類社会保存の絶対条件であると共に、之を向上進歩せしむる為にも亦欠くべからざる条件である。 競争なき所に社会の向上もなければ進歩もない。 而して個人間の競争は国権の作用に依りて一定の範囲が定められてあるから、如何に競争が激化するとも此の範囲を乗越えることは出来ないが、国家間の競争には何等の規準はな い。 国際法とか其の他之に類する多少の何物かは存すれども、是等は何れも之を強行する権力の背景を欠くから有って無きに均しきものであって、要するに国家競争は全く自由競争であって、之を拘制する最高の権力は何れの所にも存在せない。 已に自由競争である以上は優勝劣敗、即ち強者が勝って弱者が敗ける。 是は当然の帰結であって、何等怪しむに足らない。 優勝劣敗、一名は弱肉強食であって、弱肉強食は国家競争の神髄であるのみならず、世界幾千年の歴史は明かに之を裏書きして居る。 然るに世の偽善者は此の奪うべからざる真理と歴史を解することが出来ず、弱肉強食を以て正義人道に背反する罪悪なりと妄断するが、其の言う所の正義人道とは一体如何なる意味であるか。 何を標準として之を定むるのであるかと問えば、恐らくは之に答うる者は一人もないであろう。 殊に甚だしきは、弱肉強食を以て自由主義、個人主義、唯物主義の現われであると称し、之に代うるに民族主義全体主義、 を以てするにあらざれば世界の平和は望まれないなどと論断して居るが、斯くの如き論断は其の本人に於てすら何の意味であるか、自ら理解することも出来ないに相違ない。 自由主義がなぜに悪いか。 人間に又国民に自由を与えずして如何にして進歩発達を望むことが出来るか。 人間を奴隷視し、国民の手足を拘束し、国家社会を武断専制の昔に逆転して、其処に何の進歩発達があるか。 個人主義が何で悪いか。 人間として自己を愛せず、自己の発達を望まない者が一人でもあるか。 個人が発達することは即ち民族が発達する所以であり、民族が発達することは即ち国家が発達する所以である。 固より自由主義と言い個人主義と言うも、国家を忘れて単独に存在するものではない。 国家の為には個人の自由を拘束せられ、個人の利益を犠牲に供する。 是は当然のことであって、自由主義も個人主義も断じて之を拒絶するものではない。 古往今来国家を忘れたる自由主義、個人主義が存在する理由はない。 然らば彼等が攻撃する自由主義、個人主義なるものの正体は如何なるものであるか、訳が分らないではないか。 唯物主義とは何を意味するのであるか。 唯物主義は物質を尊重する主義であるならば、それがなぜに悪いか。 個人が物質を重視すると同じく国家も亦物質を重視せねば(注2)ならぬ。 物質を重視せざる所に個人の生存も国家の生存もない。 殊に戦争は物質を目的として起るものであって、戦争とは要するに物質の争奪である。 領土や償金や其の他利益の獲得を目的として戦うのが戦争であって、是等の利益を度外視して正義とか人道とか、斯かる空名を捉えて戦争を始むるものは世界の何れの所にも見当らないのみならず、仮に斯かる戦争ありとせば、其の戦争は敗戦であることは疑いない。 何れの国民と雖も物質欲と生存欲を充さんが為に生命、自由、財産を犠牲として戦うのであつて、此の希望なき所に国民の戦争意識が湧出る訳はない。 又民族主義とは何であるか。 同一血族の個人が集合したるものが民族であって、其の民族の生存発達を図ることを目的とするのが民族主義と言うならば、それは当然中の当然であって、何人が之に反対するか。 古今東西之に反対する主義が何れの所に現われたる例があるか。 自由主義と言い個人主義と言うも、決して之に反対する主義にあらずして、帰する所は同一の目的に向って進むものであることは自明の理である。 又全体主義とは何であるか。 国家全体の為に個人の利益を犠牲に供しようと云うのであるならば是れ亦当然のことであって、世に言う所の無政府主義者にあらざる限りは何ものも之に反対することの出来るものではなく、自由主義、個人主義及び唯物主義も断じて之を否定するものではない。 若し夫れ全体主義なるものは国家の名に依りて国民の自由を弾圧し、人間を駆って戦場の走狗たらしめんとする野心家の陰謀より案出したるものとするならば、今日の日本国民中斯かる主義に左袒する者が一人でもある訳はない。

第4段落

斯く観じ来れば自由主義、個人主義、唯物主義、民族主義、全体主義、何れも全く相容れざる別個の思想に基づくものではなく、其の達せんとする目的は一であって、決して二ではない。 然るに之に気付かずして彼の主義とか此の主義とか自分勝手に名称を附し、剰へ其の中の或るものを迎えて他のものを排斥し、之を以て国家革新の大発見の如く吹聴するに至りては全く白面書生の空論であって、識者の顧みるべき何ものでもない。

第5段落

繰返して言うが、戦争は徹頭徹尾生存競争の現われであると共に、国際競争は全く自由の競争であるから、世界何れの国も苟くも国力の許す限りは此の競争場裡に現われて勝者の地位を獲得すべく、是が為に他国を侵略し征服することは必然に起るべきものであるが、此事決して罪悪でも何んでもない。 輓近ヨーロッパにも東洋にも戦争が始まって居るが、或る者は是等の戦争を目して持てる国と持たざる国との争いであると称し、今日の持てる国が曾て他国の領土を侵略して、大をなしたるは国際正義とか人道とかに背反する罪悪の結晶であるが如くに論ずるも、余は其の論拠が何れの所にあるかを解せない。 生存競争、優勝劣敗、適者生存が自然界に於ける奪うべからざる天則である以上は、強者が弱者を征服して自ら其の大をなし、強を誇るのは自然の法則に追随する必然の結果であって、若し仮に此の間に罪悪があるならば、其の主体は征服者にあらずして寧ろ被征服者にありと言わねばならぬ。 殊に怪しむべきは、前に持たざる国として持てる国を非難攻撃したる者が今日は全く前言を打忘れ、より以上に持てる国の轍を踏みて四隣の弱小国を片端から征服して領土の拡張を図り之を以て新秩序の建設などと囁くものがある。 斯くの如き次第であるから国家間に於ける正邪曲直の論争の如きは何れを見ても取るに足るべきものはなく、真理は斯かる論争の中にあらずして全く他に存在することを悟らねばならぬ。

第6段落

国際競争には戦争が伴い、戦争には侵略が伴うが、侵略は決して邪悪にあらざるのみならず人類進歩の必要条件である。 侵略しなけれは人類は進歩せず、世界の文明も発達せない。 若し之を疑う者あらば、過去数千年来世界に戦争起らず、侵略もなかったとするならは、今日世界はどうなって居るであろうか。 世界は依然として野蛮蒙昧の域に沈滞して、人類は禽獣的生存状態に甘んじ、今日の文明を見ることは出来なかったに相違ない。 今日の文明は全く生存競争の一つの現われであり、戦争の賜ものであり、同時に侵略の賜ものである。 今日我が国民の間には頻りに英米其の他白人諸国の海外侵略、殊にアジア方面の有色人地域に対する彼等の侵略を目して、正義人道に反する弱肉強食の野獣行為なりとして飽くまでも非難攻撃を浴せかけて居る者もあるが、固より侵略は事実であるに相違ない。 併し侵略が何故に正義人道に反するか。 白人が強者であって有色人が弱者であるならば、強者のために弱者が征服せられ侵略せらるるのは当然ではないか。 侵略者を非難するならば何故に彼等を撃退せないか。 彼を撃退するのみならず、何故に更に進んで彼等を侵略せないか。 彼等を撃退することも侵略することも出来ず、彼等の脚下に蹂躙せられながら、退いて彼等の侵略を非難するは之を称して弱者の悲鳴と言うのである。 之を我が日本の立場より見るならば、十八世紀の初め頃より、彼等白人諸国がアジア方面に向って盛んに暴威を揮って弱小地域を侵略するに当りて、当時我が日本は何を為して居たか。 鎖国政治の下、武陵桃源の夢に耽りつつアジア同胞が白人の爪牙に懸りて咬えて振らるるにも気が付かず、後に至り鎖国の門を叩き破られて漸く夢醒めたる時は時既に遅くして施すに途がない。 去れば今日に及んで吾等は苟且にも彼等の侵略を呪詛するが如き女々しき愚痴を繰返すべからず、苟くも独立国民である以上は、如何なる場合に臨みても泣言や愚痴を断念して、堂々と国際競争場裡に現われて勝敗を決すべく、今日は既に其の幕が切って落されて居るのである。

第7段落

尚一言するが、戦争は飽くまでも力の競争である。 力以外に勝敗を決する何ものもない。 力とは即ち物心両方面の綜合力である。 物的方面のことは暫く措いて問わず、心的方面の力とは何であるか。 言ふまでもなく国民の精神力である。 国家の為めには生命、自由、財産、其の他一切を投げ棄てて惜まざる愛国心の発露であるが、此の愛国心の発露を如何なる根拠に求むべきか。 是が真に国民を率ゆるに当りて考えねばならぬ尤も大切なる要点である。 即ち実に国民精神を捉え、国民挙って中心より喜び勇み自ら進んで戦争の犠牲たらんことを希わしむるに当りては、 国家と国民とを有機的に結合し、国民をして心の底から理解せしむるに足るべき哲理上の根拠を示さねばならぬ。 腐儒の人道論や神がかりの天佑論などは戦時に当りては害あって益なし。 次から次にと現われ出づるスローガンの如きものも、之を屡々すれば却って国民軽侮の的となるべし。 勢いに阿る群小政治家、職業記者、自称愛国者乃至官僚の言説の如きは取るに足るべきものなく、是に於て学者の奮起を希うの情切なるものがある。 戦争は凡ゆる者を動員する。 広き学界にも其の人なしとは思えない。 政府は断じて学者を弾圧すべからず。 宜しく彼等を総動員して、国家の為に彼等の蘊蓄を披瀝せしむるの必要はないか。

脚注

(1)
原文では「暴け」と表記されている。
(2)
原文では「ねは」と表記されている。