「虚偽と迷信の世界」

last updated: 2010-11-14

このテキストについて

『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』131ページから138ページに掲載されている、「虚偽と迷信の世界」(1941-09執筆)を文字に起こしました。

本文

第1段落

昔支那の蘇東坡が、人間字を知るは憂の初めと言うたことがあるが、本当に字を知り、学問を研究して物の道理が分ったものなら、今日の世の中を見渡すと片端しから虚偽と迷信とに埋って居るように思われるであろう。 尤も是が本人の生涯に取りて憂であるかないかは別問題である。 余の見る所に依れば、凡そ世の中の人間は大体三階級に分つことが出来ると思う。 其の一は何事に付ても物の道理が分らなくて之を鵜呑みにする人々であって、之を無識階級と言う。 其の二は物の道理が分ったようでまだ十分に分らないから鵜呑みにすることも出来ず、さりとてはっきりと自ら覚ることも出来ずして半信半疑の間に迷うて居る。 之を称して半識階級と言う。 其の三は学問研究の結果として、物の道理が頭の中に映って居るから、真実と虚偽とをはっきりと弁別することが出来る人々であつて、之を称して有識階級と称する。 例えば之を宗教界に付て見るならば、仏教に於ては地獄極楽や因果応報を説き、人間は生きて居る間に善事をなせば死んでから極楽に行って仏となり、蓮華の座に上ることが出来るが、悪事を働けば地獄に落ちて鬼の金棒で撲り倒される。 或は善事をなせば次の世にも人間として生れて来ることが出来るが、悪事を働けば畜生に生れねばならぬと説いて居る。 第一階級の人々は之を鵜呑みにして一生懸命に之を信仰し、涙を流して南無阿弥陀仏や南無法蓮華経を唱えて居るが、其の実南無阿弥陀仏も南無法蓮華経も何のことやらさっぱり分って居ない。 次に第二階級に属する人々は、地獄極楽とか因果応報とか云うことはどうもありそうにも思えないが、さりとてないと断言も出来ず、時々お寺詣りをし、木像の前に頭を下げたり念仏やお題目を唱えたりするが、心の底には何となく疑念が去らない。 所が第三階級の人々になると、人間が死んでから極楽に行くとか地獄に落ちるとか、左様な馬鹿気たことがあるものか。 因果応報も真赤な嘘である。 人間は死んだら土になり灰になるより外に何ものもないと、断然大悟徹底して居るから、何事に当りてもびくともせない。 又之を基督教に付て見るに、信者が命の如くに大切にして居る聖書中の創生記中には、神が天地万物を造りて最後に土や塵を以て人間を造り、生気を其の鼻に吹込んだら生きたる人間となったと記載し、新約全書の初めにはイエスの母マリヤはヨセフと許婚になって未だ同棲したことのないのに聖霊に依り懐妊して、イエスを生んだと記載してある。 第一階級の人々は無条件に之を信仰して十字架の前に頭を下げ、アーメンを唱えて居るが、第二階級の人々はどうも怪しいことであると疑いを挟み、第三階級の人々に言わしむれば是れ亦左様な馬鹿気た非科学的のことがあるべき道理がない。 一体基督教は天地万物の主宰者として神と云うものを説いて居るが、其の言う所の神とは何であるか。 神の正体は如何なるものであるかと問い詰めれば返答が出来ないではないか。 此の世の中に神などがある訳はない。 天地万物は神などが急に造りたるものではなくして、宇宙間に行はるる天然自然の法則に依りて現われたものである。 又神が人間を造ったと云うが是も大嘘であって、我々人間は初めから人間の形を以て此の世の中に現われたものではなく、下等も下等も最下等の動物から幾百万年の間に漸次進化して今日の人間となったのである。 或はイエスの母が夫と同棲せずして懐妊したなどと言う如きは唯々笑うの外はない。 夫と同棲せざれば他の男と同棲したに相違ないと言うて頭から之を否認して居る。 余が青年時代に米国エール大学に在学中、四月の初めにイースターと称する休暇が始まった。 イースターとは何であるかと問うたら、宿のお上さんが言うのに「あなたは聖書を御読みになったことがありましょうが、耶蘇基督は磔刑に処せられて死んでから三日目に蘇生して何々と言い遺されたことがありましょう。 其の日をイースターと名付けて、此の国に於ては一般の祭日としてあります。 日本には此のような祭日はありませぬか」余は之に答へた「無論日本には左様な祭日はないが、併し不思議ではないか。 死んだ者が三日も経ってから蘇生して来るとは。 左様なことはない筈のものである。 それはまだ死にきって居なかったのでありましょう」彼女は 眼を丸くして言った。 「それは普通の人間ならば一旦死んでから蘇生することは出来ませぬが、基督は人間ではありませぬ。 彼は神であります。 全智全能を備えたる神の一人息子でありますから蘇生することが出来たのであります。 それが神の神たる所以でありまして、普通の人間のことを以て基督のことを論ずることは出来ませぬ。 又基督は死んだと言っても決して死んで居るのではありませぬ。 生きて居らるるのであります。 基督は神でありますから、天地間の如何なる所にも生きて私等を守つて居て下さるのであります。 私は左様に信じて居ます」余は呆れて暫し茫然たる後、漸く口を開いて一言した。 「そうですか、それで能く分りました」其の後余は大病に罹って入院し、一年の間に三回までも命懸けの大手術をやられて身体も精神も極度に衰弱し、生死の淵に逐込められて、幾度となく死の覚悟を決めたことがあるが、或る日基督信者の学友が見舞いに来て「如何でありますか。 長い間殊に此の異境に於て大病に罹られて、洵にお気の毒に堪えませぬが、御病臥中に何か宗教心が起りましたか」「別に宗教心は起りませぬが…」「何か起ったでありましょう」「いや何も起りませぬ。 僕は病気に罹って苦しんで居るが、是は病気に罹る原因があるからでありまするから、医者の力に依って此の原因を取除きたいと思います。 併し取除くことが出来ないならば死ぬるだけのことであります。 此の際に当りて神とか仏とか云うものが現われて僕を救って呉れるとは思いませぬ。 死ぬのは僕一人ではありませぬ。 人間は早かれ晩かれ一度は死なねばなりませぬ」「死なれた後はどうなりますか」「死んだら灰にして国許へ送り届けて下さるように御願いしました」「あなたの霊魂はどうなりますか」「死んだ後に霊魂とか云うものが残る訳はありますまい。 人間のことは生れてから死ぬるまでの間のことであります。 死んだ後には何もありませぬ。 孔子も我生を知らず、何んぞ死を知らんやと言われたそうであるが、其の通りであります。 強いて宗教と云うならば是が僕自身の宗教でありましょう」病を負ふて帰朝してから順天堂病院と大学病院とに入り、更に一年半の間に四度前後合せて七回の大手術を受けた。 或る時那須の温泉場に療養中、当時名僧と言われた鎌倉円覚寺の釈宗演法師が来られて同宿した。 鎌倉に来て一所に坐禅をやろうではないかと言われるから、余は余自身の宗教を説明したら、あなたは此の上坐禅をやられる必要はないと言われたことがある。

第2段落

迷信のことなら福翁自伝の中に次の如きことが現われて居る。

年寄などの話にする神罰なんて云うことは大嘘だと独り自から信じ切て、今度は一つ稲荷様を見てやろうと云う野心を起して、私の養子になって居た叔父の家の稲荷の社の中には何にが這入って居るか知らぬと明けて見たら石が這入って居るから、其石を打擲って仕舞て代りの石を拾うて入れて置き、又隣家の下村と云う屋敷の稲荷様を明けて見れば神体は何にか木の札で、之を取て棄てて仕舞い平気な顔をして居ると、間もなく初午になって幟を立てたり太鼓を叩いたり御神酒を上げてワイワイして居るから、私は可笑しい「馬鹿め乃公の入れて置いた石に御神酒を上げて拝んでるとは面白い」と独り嬉しがって居たと云うような訳で、幼少の時から神様が怖いだの仏様が有難いだのと云うことは一寸ともない。 卜筮、呪詛、一切不信仰で、狐狸が付くと云うようなことは初めから馬鹿にして少しも信じない。 子供ながらも精神は誠にカラりとしたものでした。 或時に大阪から妙な女が来たことがある。 其女と云ふのは私共が大阪に居る時に邸に出入をする上荷頭の伝法寺屋松右衛門と云うものの娘で年の頃三十位でもあったかと思う。 其女が中津に来てお稲荷様を使うことを知って居ると吹聴する。 其次第は誰にでも御幣を持たして置て何か祈ると其人に稲荷様が憑拠くとか何んとか云って頻りに私の家に来て法螺を吹いて居る。 夫れから其時に私は十五、六の時だと思う「ソリャ面白い。 遣って貰おう。 乃公が其御幣を持とう。 持って居る御幣が動き出すと云うのは面白い。 サア持たして呉れ」と云うと、其がつくづくと私を見て「坊さんはイケマヘン」と云うから、私は承知しない。 「今誰にでもと云たぢゃないか。 サア遣って見せろ」と酷く其の女を弱らして面白がった事がある。

第3段落

実に面白いではないか。 福翁の面目が躍如として居るように見える。 迷信は是れ位なものではない。 稲荷さんや成田さんや毘沙門さんや不動さんや其の他幾百千の何や彼やが善男善女に依りて繁昌するのは何れも迷信の賜ものであるが、さりとて何人も迷信を排斥してはならぬ。 固より迷信には有害なものもあるから、それ等は飽くまで排斥せねはならぬが、然らざるものは其の儘に見逃すべく、迷信も人間の生涯に取りて極めて必要なるものであって、迷信がどれだけ人心を和らげ、善道に導いて来たか分らない。 此の世の中に迷信がなかったならば人間社会は成立たないかも知れない。

第4段落

以上は宗教界の迷信に付て唯一言したのであるが、迷信は此の位なものではない。 宗教界を離れて他の方面を見渡すと、此所にも虚偽と迷信は盛んに活動して居る。 近頃最も流行する虚偽と迷信は戦争に関することである。 今日戦争は東亜にも西洋にも始まって居て、我が日本も支那事変の為に国を挙げて戦って居るのであるから、此の際日本に関することは一切論評することが出来ないのみならず、日本のなすことは徹頭徹尾真理であり正義であると言うて置くが、翻ってヨーロッパ戦争の有様を見ると、彼の国々の軍事家や政治家の言う所は悉く虚偽と迷信の固まりであるように思われる。 最も目に付くのはヨーロッパの新秩序建設と世界平和と云うことであって、凡そ是れ程の大嘘はなく、此の大嘘を信じて踊って居る国民ほど迷信者はない。 一体新秩序の建設とはどう云うことであるか。 其の意味自体が明かでない。 旧であろうが新であろうが苟くも秩序と云う以上は其の中には少くとも合理的と云う意味が含まれて居らねばならぬ。 道義に基づく新秩序建設などと言ふ者もあるが、其の言う所の道義と云うことも詰り合理と云うことでなければ意味をなさない。 即ち従来の各国家は合理的に存在して居ないから、此の不合理なる旧秩序を打破して、国際間を合理的に立て直す。 是が即ち新秩序の建設と云うことであらねばならぬが、偖て然らば之を実際問題として如何に具体化せんとするのであるか。 英国の金権主義を打破するとか、ソ聯の共産主義を撲滅するとか、左様なることは新秩序の建設でもあるまい。 若し是が新秩序の建設であるならばドイツのナチスやイタリアのファシストを打破することも是れ亦新秩序の建設であって、全く水掛論である。 或は世界に於けるアングロサクソン民族の跋扈を叩き付けるのが旧秩序の破壊であって、之に代つてゲルマン民族が跋扈するのが新秩序の建設であるとも言えまい。 或はヴエルサイユ条約を廃棄してヨーロッパを第一次戦争前の状態に引戻すのが新秩序の建設であるならば、是は唯復讐戦争を意味するの外何ものでもない。 或は今日ヨーロッパ各国民民族が有する領土や資源は其の人口に比例して甚だ不公平であって、是が各国不安の原因であるから、此の現状を打破して領土や資源を公平に分配する。 是が新秩序の建設と云うのであるならば、左様なることは実際に出来得べきことではない。 各民族は文化も能力も特性も其の他凡ゆる要素が異って居る。 それを唯人口に比例して領土、資源を公平に分配するなどと云うが如き箱細工のようなることが出来るものではなく、仮令出来た所で直ちに壊れて仕舞うことは疑いなく、之を唱うる軍事家も政治家も、左様なることを考えて居る者は一人もないであろう。 是に於て新秩序なるものの意義は実際分らないが、強いて言えば分って居ることが唯一つある。 それは手当り次第弱体国を征服し侵略して自国の領土と資源を拡大する。 是が彼等の唱うる新秩序の真の意義であって、之を唱え出したドイツの軍事行動が最も如実に此の事実を物語って居る。 ドイツは戦争開始以来此の目的に向って驀らに進軍して居るが、之を決して悪いと云うのではない。 是がドイツ民族の豪らい所であって、ドイツとしては力の続く限り他国を侵略してドイツ国家及びドイツ民族の発展を図るのは当然のことであるから、之を非難する者があるならば非難する者が間違って居るのである。 それ故にドイツの行動を非難するのではないが、唯非難すべきは此の侵略行動を正義化し道義化せんとして、世界の新秩序建設などと云う大嘘を放送すること、是が悪い。 又之を真面目に受取りて居る人々の心が分らないと云うだけのことである。

第5段落

彼等の唱うる世界の平和と云うことも同様である。 世界永遠の平和などは全く痴人の夢であって、左様なることは決して望まるべきものでないことは別に論述する所があるが、今日のドイツが世界の平和を唱うるに至りては凡そ此の世に是れ程滑稽なる大嘘はない。 今回の戦争に当りてもポーランドを手初めとしてデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー其の他バルカン一帯に至るまで罪なき弱小国を片端しから征服し侵略して、我が日本の国是とする所の、万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵二安ンゼシムル精神とは千里万里も懸け離れたる行動を取って、各国民から最も深刻なる怨みを買い、自ら世界の平和を撹乱して居ながら口の上では世界の平和を唱えるなど、矛盾撞着を通り越して全く狂気の沙汰であって、盗蹠が仁義を説く位なものではない。 尤も世界平和を唱うるものは決してドイツばかりではなく、其の他何れの国々も平和主義を鼓吹するが、彼等の取れる行動が世界平和の貢献であるとは思われない。 斯くの如くにして今日欧米諸国の歴史家及び政治家の唱うる新秩序の建設とか世界平和の確立とか民族主義とか自由主義とか、凡そ軍事、政治に関する放送の多くは虚偽の大なるものであって、此の虚偽を鵜呑みにして居る国民はやはり一種の迷信者に過ぎない。 併し余は決して是等の虚偽や迷信が悪いと言うのではない。 所謂世の中は盲目千人目明き一人であるから、団を率いる為政家は是等千人の盲目をして成べく鵜呑み出来るようなる宣伝方法を発明すべく、同時に千人の盲目は彼等の宣伝を無条件に受容れて各々国家の為に職域奉公をなすべく、又一人の目明きは虚偽は虚偽として笑って之を捨て置き、自ら信ずる国家観念に基づきて各々国家の為に貢献すべく、唯残る所の半識階級の人々は虚偽を其の儘鵜呑みにすることも出来ず、さりとて之を看破して全く別な見地に立って己れの覚悟を決めることも出来ず、半信半疑の間に低迷しながら為政家のなす所に反対することも出来ないと同時に一生懸命に之を援助して国に尽さんとする考えも起らず、唯ぼんやりと其の日を 過して居る者も少くないように見える。 是が今日偽りなき世界の実情であるが、之を称して文明とか何とか、自画自讃するのは実に嗤うべきではないか。 強いて文明なる言葉が使いたいならば、其の文明は真の文明ではなくして全く虚偽と迷信の文明である。