「近衛文麿公を論ず」

last updated: 2010-11-14

このテキストについて

『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』147ページから156ページに掲載されている、「近衛文麿公を論ず」(1941-10執筆)を文字に起こしました。

本文

第1段落

頼山陽の日本外史に藤原氏を論じて次の文句がある。

藤原氏之於王家也不用寸兵尺鉄而簒其国於衽席之上何其易也

第2段落

即ち藤原氏は一寸一尺の兵器を持ちたることはない。 一度たりとも戦場に出で、千軍万馬の間を馳駆したることもなくして敷物の上に安座しながら天下の政権を奪ったと云うのであるが、近衝公が我が国の政権を掌握したと言うては語弊があるか知れないが、兎に角大帝国の宰相として国政燮理の大任に当ったのは前記藤原氏のなした所と相似たるものがある。 即ち明治十八年我が国に内閣制度が創設せられてから第一次近衛内閣に至るまで、総理大臣となりたる人々の氏名を列挙すれば次の通りである。

  • 伊藤博文
  • 黒田清隆
  • 山県有朋
  • 松方正義
  • 大隈重信
  • 桂太郎
  • 西園寺公望
  • 山本権兵衛
  • 寺内正毅
  • 原敬
  • 高橋是清
  • 加藤友三郎
  • 清補奎吾
  • 加藤高明
  • 岩槻礼次郎
  • 田中義一
  • 浜口雄幸
  • 犬養毅
  • 斎藤実
  • 岡田圭介
  • 広田弘毅
  • 林銑十郎
  • 近衛文麿

第3段落

是等の人々の中伊藤、山県、大隈の如き維新の元勲は言うに及ばず、其の他何れを見るも多年政府部内に在りて文官又は武官の最上級に上り、然らざれば政党政治家として殊に大政党の総裁となり、身を挺して国家憲政に貢献したる人々のみであるから、是等の人々が大命を拝して首相の印綬を帯ぶるのは何人も不思議とは思わない。 所が独り近衛公のみは曾て貴族院議長の職に居られたことはあるが、其の他に於ては文官としても武官としても亦無論政党人としても国政に何等の貢献も経験も有せない人である。 然るに其の近衛公が昭和十二年六月林内閣総辞職の後を承けて新内閣を組織することになったから、是まで国事に関し何等の苦労も嘗めずして国家の政権に当るのは藤原氏が衽席の上に座して政権を握ったのと同様に見られても仕方がない。 然る所が公に大命が降ると世人は之を怪しまないのみならず、寧ろ之を歓迎した。 而も普通一遍の歓迎振りではなくして大歓迎をなした。 何が故であるか。 言うまでもなく是は時代の力である。 即ち公は我が国に於ける最高の名門出身であるが、名門を尊重するは古来我が国の因襲であるのみならず、前述の如く従来我が国の総理大臣は経歴上には申分がないが、最近には其の年齢は六、七十歳より八十歳近くの人もありて、国家の大任を担うに当りては何となく其の精力に足らざる所があるようにも思える。 又それ等の人々の中には随分頭も旧くして、黴でも生えて居るではないかと疑われ、議会に於ける答弁を聴いても是で総理大臣が勤まるならば総理大臣は実に楽なものであると思わるる人々もないではない。 然るに独り近衛公のみは年齢はまだ五十歳になるかならないかの壮年であり、学問もある。 頭脳も良し、聡明叡智であり、人格も上品にして温厚である。 其の上最も時代が要求する革新気分が横溢して居るように見えたから、公が出たならばどしどしと革新政策は断行せられて、政界も明朗化するに相違ないと思うて国民は公の出馬を歓迎し、近衛公に向って多大の期待を有して居たことは疑われない。 然る所が愈々新内閣が成立して見れば、国民は先ず第 一に失望の念に打たれた。 それは閣僚中の少くとも数人は世間何人の眼より見るも到底大臣の地位に就くべき資格ある人ではない。 全く公の私的関係即ち情実因縁よりして其の器にあらざる者を挙げて国家の重職を与えたからである。 当時世間では近衛内閣は全く公の私的内閣であると言うたが、全部が私的ではないにしても一部は確かに私的であったに相違ない。 果せる哉其の後国務を進めて行く中、閣僚の無能と不適任に触れて、内閣存続中一年有半の間に屡々閣僚を更迭せしめた。 凡そ我が国歴代の内閣に於て近衛内閣ほど自由勝手に閣僚を更迭したる内閣はないが、而も是等の更迭が何の支障もなく容易に行わるる所に私的内閣の特性が見える。 茲に至りて又もや頼山陽の日本外史を引用せざるを得ない。 外史氏は藤原氏の専横を論じて次の如くに述べて居る。

自相門之専権也、后皆其女、天子皆其女所生、而卿相皆其子弟親属、苟非其族類、鋤而去之、雖皇族 不能免焉、甚則易置其主、猶視奕基

第4段落

即ち藤原氏が政権を専らにしてからは皇后は大概藤原氏の娘であり、天子も亦藤原氏出の女の産みたる御方が多かった。 而して公卿宰相の位は親子兄弟の間か血族の間でなけれは与えられず、苟くも其の親族にあらざる以上は縦し(注1)其の位に居るとも全く土を鋤き返して草を刈る如く、直ちに之を排斥して顧みない。 皇族と雖も其の禍から免るることは出来ず、甚だしきに至りては恐れ多くも皇祚までも動かし奉り、勝手に天子を取り代え奉りて―之を視ること恰も碁石を取り代えるが如くに思うて居たと云うのであって、苟くも日本臣民にして此の論説を読む者は何人と雖も藤原氏の専横を怒らざるものはなかろう。 固より近衛内閣閣僚更迭は是とは比すべきものではないが、併し自由勝手に閣僚を取り代えることは全く碁石を置き代える如くにしか思って居なかったように見ゆる。 普通一般の属僚を更迭するならば兎も角、苟くも憲法上に於て天皇輔弼の重責を荷う国務大臣として総理大臣の奏請に依りて任命せられたる者を無能である、不適任であるとして碁石の如く置き代えるに至りては、総理大臣として又国務大臣として自己の不明、奏上に対する責任はどうなるものであるか。 之を公に質して見たいものである。

第5段落

次に全国民が近衛公に対して最も失望したことは、公に政治上の実力が欠けて居ることである。 言うまでもなく国民が公に多大の期待を懸けて居たのは革新政策の実行であって、国民が公を歓迎したのも是が為である。 又公が身を挺して責任の衝に当ったのも是が為であったに相違ない。 それであったから第一次近衛内閣が成立すると、公は各所に於て革新意見を発表して居られた。 尤も近年我が国内には革新気分が横溢して誰も彼も革新を口にせない者はなく、革新を唱えない者は政治家や経済家の仲間入りが出来ないように言われて居るが、偖て然らば一体如何なる方面に向って如何なる革新を行わんとするのであるかと問わば、殆ど空漠として捕捉することが出来ないものばかりであり、偶々其の内容を聴いて見れば、それは別に革新と名の付くものではなく、尋常一様の平凡事に過ぎないものであるから、近衛公の抱懐せられた革新意見も其の範疇を出でないもののように思われた。 即ち組閣早々新聞紙を通じて世上に発表せられた所を見ると、対外的には国際正義に基づく真の平和を確立し、対内的には社会主義に基づく施設をなすが為に全国民と手を握って革新を行いたいと云う位のものであって、是では何のことかさっばり分らない。 それより日を重ねて稍々具体的に現われたるものの中には議会制度の改革がある。 貴族院及び衆議院の改革もある。 内閣制度の根本的改革から学制制度や官吏制度の改革其の他種々の改革意見が発表せられたが、其の中に支那事変が突発した。 現地解決、事件不拡大の方針も立所に裏切られて事件は拡大に拡大を重ねて停止する所を知らない。 蒋介石を相手とせず、東亜の新秩序を建設する、其の他の近衛声明に付ては茲に言及せないが、此の事変が革新政策の遂行を不可能ならしむる性質のものであるかと言えば、断じて左様なものではないに拘らず、一体最初に標榜したる革新政策はどうなったのであるか。 一年有半の内閣存続中に於て革新政策の片鱗だにも(注2)行われない。 而して昭和十三年の十二月に至り第七十四議会を召集しながら此の議会に臨まんともせず、翌年一月早々総 辞職をして逃げ出してしまう。 議会が開けたならば革新政策はどうなったのかと質問が出るに相違ないからまさか之を避ける為でもなかろうが、何としても我が儘でないとは言えまい。 公は是にて責任解除と思わるるかも知れないが、馬鹿を見たのは国民である。 公の出馬を歓迎し、政治革新に多大の期待を懸けて(注3)居た国民は全く狐につままれた如くに唯々唖然たると同時に、名門の公爵と云う人々は斯様なものかと初めて気が付いたかも知らない。

第6段落

所が近衛公の為す所は此の位なことにては中々止まない。 是から段々と発展して行くから面白い。 即ち第一次近衛内閣が辞職して、当時の枢密院議長平沼男爵が出でて新内閣の首班になると、公は直ちに其の後を逐うて枢密院議長の重職に就かれたが、公に取りては相府の如き気楽なる場所に立ち籠り、老人の間に伍して国家の現状を黙視するには余りにも壮年であり又余りにも血気が旺んであるから到底長く辛抱の出来る訳はない。 果せる哉一年有半の後、更に方向を転じて国民を驚かし、人気を巻き起したのが彼の新体制運動である。 公が枢密院議長の職を抛ち、野に出でて一度新体制を唱えらるると天下は響きの如く之に応じて、再び公の存在は富士山の如く現われて出た。 想うに国民は現状に飽き足らない。 各方面へ向って何となく新しき或るものを望んで居るから、第一次近衛内閣当時に於ける革新政策と同じく新体制なるものに国民が胸を躍らしたに相違ない。 所が面白いことには国民は新体制なる言葉に酔うて踊って居るものの、一体新体制とは如何なるものであるかさっぱり分らない。 是は唯国民が分らないのみならず、之を発明した所の公自身に於ても新体制とは言うて見たものの、新体制の内容は何を含まして宜いのかまだ決って居ないものと見えて、態々軽井沢の別荘に出掛けて静かに構想を練られたようであるが、それでも中々決まらない。 所が更に面白いことには此の新体制の景気に驚倒させられたのか或は他に何か事情が起ったのかは知らないが、突如として米内内閣は総辞職をなして、組閣の大命が再び近衛公に降下した。 公も中々多忙である。 そこで第一次近衛内閣に於ける経験に鑑み、組閣前に当りて未来の外務大臣及び陸海軍大臣との間に国策の根本に付て数日間協議を遂げたる後、第二次近衛内閣は成立したが、閣僚の一部は相変らず私的出の者(注4)であるから長く其の椅子が保てる訳はなく、幾月かの後には例に依りて碁石の如く置き代えられてしまった。 それは先ず別として、愈々新体制運動が始まり、創立総会を開くと云うので各方面から代表者を網羅して幾度か会合を重ね、練りに練って作りたるものが彼の大政翼賛会なるものである。 大政翼賛会のことに付いては別に詮ずる所があるから此処に評論することは避けるが、出来上ったものを見れば一つの組織体としては不完全極まる穴だらけのものであるから、斯かる組織を掲げて国民的大運動を巻き起さんとするが如きは実に嗤うべき未熟者の考えである。 殊に看過すべからざることは、此の私的団体に要する一切の経費を挙げて国庫の負担に帰することである。 国家財政を監督するには議会の設けがある。 此の議会には予め何の相談もなく、自分勝手に斯かる私設団体を作って置きながら、後に至りて其の費用の全部を国庫から支出する。 既に議会が開かれるまでに百万円近くの予備金を支出する。 議会が開けると一箇年八百万円の支出を要求する。 議会は之を承諾する。 茲に至りて最早言う所を知らない。 之を公の道楽仕事として見る訳には行くまい。

第7段落

九月に入ってから日独伊三国同盟が締結せられた。 之に付ても別に論ずる所がある。

第8段落

第七十六議会が開けんとするや又もや選挙法改正問題が起った。 選挙法の改正も長い間繰返され捻り廻されながら一向に実現せない。 然るに今日此の頃、此の大時局を現前に控え事変遂行上幾多の緊要国策を審議せねばならぬ秋に当り、何の必要あって選挙法改正を企てるのであるか、それが分らない。 若し現行選挙法の下に選ばれたる議員が粗悪にして、時局の克服、国策の遂行を妨害でもするならは、其の時には議会を解散し又は選挙法も改正せねばならぬが、今日の議員ほど柔順にして猫の如く政府に盲従する議員はない。 殊に政党解消後に至りては此の傾向が益々甚だしくなって居る。 それで国策が行えない。 時局の克服が出来ないとするならば、其の罪は議会にあらずして政府や軍部にあるから、政府、軍部が渾然一体となりて内外国策を確立し、敢然として之を断行するならば議会は無条件之に賛成するではないか。 然るに時流を逐うて趨る所の薄っぺらなる革新論や或は理屈も何も分らない一部の反動家に促されて此の多忙裡に選挙法の改正を企てる。 而も改正の内容なるものを見れば、驚くべし。 多数の選挙権を剥奪して戸主選挙権にするとか議員の定員を減少するとか候補者を官選にするとか其の他何と言い彼と言い全く立憲政治を滅茶滅茶にしようとする計画が歴々として現われて居るにも拘らず、議員の多数は何ものかに威しつけられたでもあるまいが、此の暴案に向って敢然反対を表明することも出来ず、動もすれば之にも屈従せんとする傾向が見える。 殊に怪しむべきことは、第二次近衛内閣の当初に当り、選挙法改正に関する公の意見の中には、戸主選挙の如き時代に逆行するものは絶対に採用せないと明言せられて居るに拘らず、今回は右翼の巨頭と目せられる二、三の人々が公に面会して戸主選挙権を提言したとの新聞記事が現われたる翌日には、公の意見として戸主選挙権が唱えられ、是が直ちに改正要綱に加えられる有様であるから何のことかさっぱり分ったものではない。

第9段落

憲法附属の法律であり同時に憲法運用の基本法を改正するに当りて斯くの如き軽挙盲動は黙視すべきものではないから、余は政府の最高当局者に対して、選挙法改正を断然中止すべく進言したのであるが、固より余の進言に依りて初めて気付いた訳でもあるまいが、其の後間もなく政府は従来の態度を一変し、選挙法改正中止を発表したのは偶々以て余の意見と符合することを喜ぶと同時に、将来選挙法改正を企てんとする者は深く戒むべきである。

第10段落

斯くして選挙法改正を中止して誤ちを未然に防いだことは宜いが、茲に第二次近衛内閣に於て許すべからざることは議員の任期延長である。 元来議員の任期は憲法上の規定ではないが、憲法と同時に制定せられ、憲法運用の基本法たる衆議院議員選挙法に明定せられ、爾来五十年の間に於て選挙法は幾度か改正せられたるも、議員の任期に付ては一言の論及したるものもなければ一指の染められたるものもない。 是は固より当然のことであって、憲法起草者が之を四年と定めたるは憲法政治の運用に考え、余り長期に亙る時は其間に起る国情及び政情の変化に伴う民意の反映に支障を来すから、深き研究の末之を定めたるは言を俟たず、故に議員の任期は憲法とは全く不可分の関係を有するものであって、其の実質は憲法其のものの規定である。 故に我が国に於ては之を選挙法に規定するも、欧米立憲国に於ては之を憲法に規定することを見ても此の関係を理解するに足るべきものがある。 故に議員の任期を変更することは憲法を変更すると同一なる重大意義が存するものであるから、天災地変其の他避くべからざる不可抗力に依り、一地方の選挙を短期間延長することあるも、全国に亙りて総選挙を延期するが如きことは憲法起草者の全く想像せざる所である。 殊に之を今日の時局に付て考うるも前回の総選挙以来支那事変の突発に依りて我が国情及び政情は著しく変化して、此の間に幾度か内閣の更迭を見るが如き次第であるから、苟くも国民を率いる政治家であるならば議員の任期満了を待つまでもなく、一度議会を解散して総選挙を行い、人心を一新して以て時局に当るだけの覚悟がなくてはならぬ。

第11段落

事変以来政府は国民に向って頻りに時局の認識を迫って居るようであるが、其の効力の如何は別として余の見る所に依れば全国民に時局の認識を透徹せしむるには総選挙より有効なるものなく、空疎なる翼賛運動の如きは言うに足らない。 況んや今日我が国民は言論の抑圧に遭うて政治的に萎縮し欝結して隠忍耐ゆべからざるものがある。 之を打開して民心を明朗化するにあらざれは精神的挙国一致は断じて望まれない。 然るに第二次近衛内閣は故に気付かず、第七十三議会に臨むに当り名を時局に藉りて議員の質問を封鎖し、何等正当の理由なくして濫りに議員の任期を延長し、憲法政治を歪曲し、議員の情勢を助長し、国民の失望と不満を招き、政治関心を冷却せしめ、我が国の憲法歴史に拭うべからざる一大汚点を残したる政治上の罪悪は断じて許すベからざるものであって、其の全責任は近衛公が之を負わねばならぬ。 公が将釆幾度か宰相の地位に上りて如何なる善政を施そうとも、日本に憲法政治が続く限り、憲法蹂躙の汚名は永久に拭うことは出来ない。

第12段落

近衛内閣が閣僚を更迭することは碁石を置き代える如くに自由自在であるが、第二次近衛内閣一年の後には此の自由が利かない事情が起ったと見えて、突如として総辞職を申出られたが、予期の如く大命再降下し、第三次近衛内閣が生れた。 新内閣は前内閣の閣僚が四、五名馘られて、其の他は旧の如くであるが、さすれば公が総辞職申出は何等の政治上の理由に出でるものではなく、唯閣僚更迭が目的であったらしい。 総理大臣たる者が閣僚を取り替えるが為に総辞職を申出で、大命再降下を仰ぐに至りては何としても恐れ多きことのように思われるが、之を平気でやられる所に公の特色があるのである。

第13段落

第三次近衛内閣が成立すると間もなく対米交渉が始まった。 如何なる交渉であるか、其の内容は極秘に附せられ て外聞の知る所ではないが、枢軸国が反枢軸国に対し、而も反枢軸国の中心であり其の上援蒋政策の巨魁として我が国民より不倶戴天の敵と目せられる米国に対して我が方より交渉を申出ずるが如きは如何にも意気地なきことであるが、是も已むに已まれぬ事情があるならば仕方もない。 仕方はないが、其の交渉が漸く幕を開けたばかりで、 是から真剣談判に取掛ろうとする際に当り、又しても突然総辞職―第三次近衛内閣成立後僅かに三箇月。 其の理由は、国策を遂行するに当り閣僚の意見が一致を欠くと云うのであるが、我々国民にはさっぱり分らない。 それも暫く別として、想い起せば今春の第七十六議会に於て、公は時局の収拾に付て悲壮なる覚悟を定められたようである。 所謂支那事変に付ては自分が全部の責任を負うべきものである。 是が為に 上御一人の聖慮を煩わし奉ったことは洵に恐懼に堪えないことであるから、自分の生命のあらん限り御奉公申上げる覚悟であると言明し、之を聴きたる議員中には目に涙を浮べた者もあるようであるが、此の言明と此の覚悟はどうなったのであるか。 余りにも国民を愚弄したやり方ではないか。

第14段落

之を要するに第一次近衛内閣より第三次近衛内閣の総辞職に至るまで、議会に対して公の遺した事蹟として国民の承服に値するものは一として見出すことは出来ない。 其の中最も大なるものは言うまでもなく支那事変である。 事変の当初に当りて近衛内閣が声明したる現地解決、事件不拡大、此の方針が強行せられたならば事変は今日の如く国を賭する大事件とはならなかったのであるが、裏面に如何なる事情があったとするも、畢竟するに公の薄志弱行が其の声明を裏切りて今日の事変を惹き起したのである。 支那事変の今日までの経過は世上の知る通りであって、今後此の事変が如何に成行くかは分らないが、如何に成行くとも之に依りて国家、国民が被る無限の打撃に対する其の責任の大本は公の一身に降り懸ることを覚るべきである。

第15段落

次は大政翼賛会である。 浅薄なる革新論から出発して、理論も実際も全く辻褄の合わざる翼賛会を設立し、軍事多端なる此の時代に多額の国費を投じて無職の浪人を収容し、国家の実際には何等の実益なき空宣伝をなして国民を瞞着して居るのが今日の翼賛会であるが、之を設立したる発起人は疑いもなく近衛公である。 其の他のことは言うに忍びないが、元来皇室に次ぐべき門閥に生れ、世の中の苦労を嘗めた経験を有せない貴公子が自己の能力を顧みず、一部の野心家等に取巻かれて国政燮理の大任に当るなど、実に思わざるの甚だしきものである。 是が為に国を誤り害毒を胎す。 其の罪は極めて大なるものがある。

第16段落

是が今日近衛公に対する余の所見である。

脚注

(1)
縦し の英訳・英語訳 - 和英辞典 Weblio辞書
(2)
原文では「だも」と表記されている。
(3)
原文では「懸けた」と表記されている。
(4)
原文ママ。