「支那事変より大東亜戦争に対する直筆」

last updated: 2010-11-14

このテキストについて

『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』193ページから208ページに掲載されている、「支那事変より大東亜戦争に対する直筆」(1943-09執筆)を文字に起こしました。

本文

第1段落

戦争は愈々深刻となり苛烈になって来た。 人間の脳漿を絞り出して次から次に発明せらるる新鋭の武器を振翳し て多量の殺人が行はれる。 真に生きるか死ぬるか。 食うか食われるか。 地獄の修羅場其の儘である。 天上の高きより戦場を眺めたならば浅ましき人間の野獣性が最も露骨に暴け出されて見るも忌わしく、一体何の為に戦争をやるのか。 何の為に人殺しをやるのかさっぱり訳が分らない。 戦争の挑発者等は己れの野心を隠蔽して責任を逃れんが為に口を開けば国家や人道の名を道具に使うて世間の愚人を煽動し欺瞞し、尊き人間の生命は全く糞土に委せられ、百千万の壮丁は嫌々ながら、それでも国の為とか何の為とか表面は勇ましく戦場に狩り出されて遠き異境に白骨を曝す(注1)か、然らざれば終生回復すべからざる不具者と化し、国内の生産機関は挙げて殺人器の製造に集中せられ、国民の自由も財産も生活も一切挙げて戦争の犠牲に供せらる。 事理に暗き衆愚は訳も分らず熱に浮かされて踊って居る者もあれば時局を達観する識者は、実に馬鹿のことをやったものであると思えども一言半句の不平を洩らすことも出来ず、前途に一点の光明をも認めることが出来ずして、中心不安の念に襲われつつ黙々の間に其の日を過して 居るのが今日大東亜戦争下に於ける偽りなき我が国民の実情である。

第2段落

一体大東亜戦争は何から起ったのであるか。 言うまでもなく支那事変の継続である。 七年以前、北支の一角盧溝橋に於て日本の軍隊が演習中に支那の軍隊が発砲したとかせないとかが事の起りであるが、此のことは先年柳条溝に於ける支那側の鉄道破壊を口実として満洲事件を起したと全く其の軌を一にするものであって、事実の真相は吾吾門外漢には分らないが、何れ例に依って日本側から仕掛けたものに相違ない。 何れにするも斯かる一地方の末梢事件から大事件に発展したのは如何にも不思議のようであるが、併し考えて見れば不思議でも何でもない。 当時近衛内閣が事件の現地解決と不拡大方針とを声明したのは表面より見れば如何にも尤もらしき態度であるが、裏面に隠れたる戦争挑発者等は之を見て舌を出して嗤って居たに相違ない。 果せる哉其の後事変は拡大に拡大を重ねて底止する所を知らず、到頭収拾することが出来ないことになった。 是は彼等に取りても実は意外であったであろう。 なぜなれば彼等は盧溝橋事件を楯に取りて蒋政権に一撃を食わすれば、北支一帯は日本の勢力圏内に入り、此の地に第二の満洲国を建設することが出来ると考えて居たに相違ないが、此の陰謀(注2)は彼蒋介石の反抗に遭うて見事に挫折した。 初め彼等は蒋介石を易く見積って居た。 日本軍隊の一撃を食わしたならば彼等は立ち所に頭を下げるものと思って居たのが全く彼等の認識不足であって、今日の蒋介石は彼等が考えて居たようなる弱虫ではないのみならず、却ってより以上に強い。 同時に彼も亦今回こそは日本軍を反撃して目に物を見せてやることが出来ると考えて居たようであるが、是も彼の認識不足であって、畢竟するに双方の認護不足が本となって今回の事変が起ったことは独り余の想像であるばかりではなく、既に当時軍部の要人が是と同様の意見を公表して居るから間違いはない。 斯くの如くにして事変は次から次へと発展した。 北支から中支、中支から南支、上海から南京から武漢三鎮に至るまで、言語に絶する多大の犠牲を払って攻略し、今日では日本全土の二倍半の領土を占領せりと称すれども、絶えず重慶軍に反撃攪乱せられて治安の維持すら困難である。 之をどう始末するか。 始末のしように困って居ると云うのが今日の現状である。

第3段落

曩に近衛声明は無賠償と不割譲を声明した。 是は疑いもなく一種の偽善政策である。 如何程戦争に勝っても一寸の領土も一銭の賠償をも求めない。 支那事変に付て日本は何等の野心は有せない。 日本の目的は日支提携と親善にあるのであるから、之に反抗する蒋介石を撃滅するのが目的であって、支那四億の民衆には何等の敵意を有せないなどと宣伝したが、斯かる浅薄な宣伝に依りて支那の民衆心理を把握して蒋介石に裏切り日本に味方せしめんとするが如きは全く児戯に等しき虚言である。 一銭の賠償をも要求せずと言うのは、之を要求すればとて支那には之に応ずる財力なきが故である。 一寸の領土を要求せずと言いながら今日は香港も海南島も事実全く日本の領土として経営し、永久之を返還するの意図なきは疑を容るべき余地はない。 曾て英国が阿片戦争に依りて香港を強奪したることを許すべからざる罪悪なりとして口悪く之を攻撃しながら、今度は日本が之を強奪する。 而も一寸の領土をも要求をせずと宣言したる其の舌根の未だ乾かざるに当りて之を強奪する。 英国が強奪するのは悪いが日本が強奪するのは構わないとは言えまい。 英国が強奪するのが罪悪であって日本が強奪するは罪悪でないとは言えない。 支那側より見れば英国に強奪せらるるも日本に強奪せらるるも強奪に異なる所はない。 殊に英国は兎に角戦争に勝ち、勝者の権利として条約に依りて適法に之を獲得したのであるが、日本の占領は条約に依りたるものではなく、全く無断の占領である。 それのみならず英国は香港占領以来百年の間に多額の費用を投じて土地を開発し凡ゆる文明の施設を施して自国民を利すると共に支那人をも利したのであるが、日本は同島を占領して是から何をなさんとする のであるか。 軍事上の設備を外にして英国がやっただけのことが出来るかどうか。 迚も出来る訳はない。 それでありながら今回の支那事変は侵略戦でなくして全く道義戦であると吹聴するから世間を嗤わせるのである。

第4段落

蒋介石は頑強に抵抗する。 決して屈服せない。 飽くまで長期抗戦を継続しつつある。 事変以来今日に至るまで日本国内に於ける政府側や軍部側の報道を見れば、毎度我は速戦連勝、彼は連敗連戦。 之には大体間違いはないようであるが、更に進んで蒋介石は愈々弱って来た。 財政は窮乏し、民心は離反し重慶政権は今にも崩壊すると、此の種の宣伝が新聞其の他の言論機関を通じて毎日毎日どれ程撒き散らされたか分らない。 それのみならず或る支那派遣軍総指揮官の如きは帰還第一声に於て、重慶軍の撃滅はもう一押しとまで公言せられたことを記憶して居るが、其の後数年の間に一押し所ではなく幾百押しも繰返されたが、重慶軍は今以て撃滅されないのはどう云う訳であるか。 之を聞きたいのである。

第5段落

蒋介石に対する人身攻撃も亦中々盛んに繰返されて居る。 彼は東洋平和の撹乱者である。 自己の権勢を張り、野心を遂げんが為に支那四億の民衆を戦争の渦中に投じて塗炭の苦しみに陥れて顧みないなどと悪口雑言を聞かされることは珍しくないが、併し退いて考えれば一体東洋平和の攪乱者は彼であるか我であるかが問題である。 戦争は彼より起したるものではなくして我より起したるものであるから、我が戦争を止むれば彼は喜んで之を止むるに相違ない。 併し我は何としても戦争を止むることは出来ない。 我が戦争を起して彼を攻撃せんとするのは彼が我の言うことを聴き容れないからであると言えば彼は言うであろう。 日本の言うことを聴き容れて居れば結局支那は日本に併呑せられて滅亡してしまうのである。 支那の滅亡を防がんが為に巳むを得ず抗戦を継続するのであると。 日本は言うであろう。 それは汝の邪推である。 我が日本は決して支那を併呑せんとするが如き野心は毛頭抱いて居ない。 日本の目的は飽くまで日支親善、日支提携であるが、彼が我の真意を理解せないから今回の戦争が始まったのであると。 蒋介石は言うであろう。 然らば是まで日本が支那に対する侵略行為を悉く放棄して、日清戦争以前の状態に還元せよ。 台湾も返せ。 満洲も返せ。 其の他の利権も一切返せ。 日本は是が出来るか。 出来ないならば日支親善、日支提携は全く口頭禅に過ぎず、随て平和の撹乱者は我にあらずして日本であると。 斯かる問答は全く無用であって、共に我を聖なりと言う。 誰か鳥の雌雄を知らんやである。 又戦争の為に支那四億の民衆が塗炭の苦しみに陥って居ることは事実であるが、支那民衆は之を蒋介石の罪に帰せしめて居るか、日本の罪に帰せしめて居るか。 之を支那民衆に問うて見たならば、立ち所に氷解するであろう。

第6段落

蒋介石は頑張る。 迚も日本の思うようにならない。 近衛声明は、蒋介石を撃滅するまでは断じて戈を収めないと声明して居るものの、此の声明も何等の威力を発揮せない。 それから次は蒋介石を相手にせずと声明したが、戦争の相手にはするが談判の相手にはせないと云う意味であろうが、蒋介石をして言わしむるならば、相手にするもせないもお前の勝手である。 此の方は相手にして呉れと頼んだことはないと囁いて居るであろう。 斯くの如くにして支那事変の収拾は益々困難となって、前途の見込みも立たず、国民の前に弁明の途もなくなった。 そこで最後の窮策として彼の汪精衛を引張り出して新政府を作らせ、之を以て事変を収拾せんとして居るのである。 是も考えて見れば支那事変の失敗を糊塗し、国民を欺瞞せんとする愚策に過ぎない。 汪精衛とはどんな人間であるかは分らないが、是まで彼のやったことから推測すると、彼は唯(注3)文章口舌の徒であって、決して強力なる政治家ではない。 日本から攻撃せられて居る祖国から裏切りして敵と手を握るが如き者に碌な政治家のある訳はない。 然るに彼を大変なる傑物の如くに囃し立て、大政治家に祭り上げて日本の三文記者をして先生先生と呼ばしむるに至りたるは全く其 の筋の指図に出でたるものとは言うものの、実に意気地なき次第である。 果せる哉彼が新政権を樹立してから三年有余になるが、其の間に於て彼の新政府が事変解決にどれだけの貢献をなしたか。 日華共同宣言とか基本条約とか其の他千遍一律の声明を幾度繰返し公表したか分らないが、是等は何れも紙上の空文に過ぎずして、実際上事変解決には何の役にも立たないのみならず、彼の新政府を維持するが為に是まで日本は物質上だけでもどれだけの犠牲を払って来たか。 若し仮に其の内容を赤裸々に公表したならば、国民は実に驚き呆然として言う所を知らないであろう。 彼れ汪精衛は日本の弱点を掴んで居る。 日本は行掛り上何としても新政府を維持せねばならぬ。 之を維持するには巨額の経費を要する。 新政府には財力もない。 日本に向って財政上の援助を要求する。 日本は之を拒絶することは出来ぬ。 是まで幾億万円の金を強請り取られたが、今後も此の強請は限りなく続いて来るに相違ない。 丁度富豪が悪漢の為に何か弱点を抑えられて、絶えず強請られるのと同様である。 尚お其の上今今回の戦争に依りて獲得したる無数の分捕品と言うか利権と言うか名は何でも構わないが、兎に角日本が差押えたものの大部分も返還する。 治外法権も撤廃する。 租借地も返還する。 斯くの如くにして支那に対する是の利益は片端しから投出して、之を以て今回の戦争は決して利益目的とするものではなくして、利益を度外に置きたる仁義の戦争と称し、之に向って蒋介石が抗戦を継続するのは意義をなさない。 重慶抗戦の目的は全く消滅したと宣伝せしめて、蒋介石の抗日意識を奪い去らんとするの策略に出でたるものとも噂させられて居るが、若し輿して斯かる動機から来たものとすれば其の愚や及ぶべからず、蒋介石は、日本愈々窮して来たと嗤って居るであろう。 汪精衛は我が事成れりと手を打って喜んで居るであろう。 日本は汪精衛を援助し、汪は日本と協調して大東亜戦争に勝ち抜くなどと宣言して居るものの、彼は固より支那人であって日本人ではないから、肚の底はどこまでも支那人根性であって日本人根性ではない。 彼のなすことは徹頭徹尾支那本位であって日本本位ではない。 日本が戦争に当りて苦境に立って居る其の機に乗じて、日本を強要して支那の利益を獲得すると同時に自己の利益を図る。 是が彼の真意であることは彼としては当然のことであって、毫も怪しむに足らない。 斯くの如くにして事変以来七箇年の間に幾十万壮丁の骨を支那大陸の戦場に埋め、幾百億の国帑を費し、国民を搾り上げて其の上何を得たかと言うならば、戦争挑発者等は何と答えるであろうか。 実に馬鹿気た戦争をやったものである。

第7段落

蒋介石が米英の傀儡となって日本に抗戦するのは怪しからぬと言う。 彼は一面より見れば米英の傀儡ともなり、又一面より見れば彼自身固有の立場から抗戦せざるを得ない。 何れも当然の抗戦であって、怪しからぬことでも何でもない。 即ち彼自身の立場より見れば日本の支那侵略は支那の主権者たる彼に取りては看過することの出来ぬ暴挙であるから抗戦するのは当然のことであって、抗戦せざれば支那は滅亡して彼は売国奴とならねばならぬ。 米英の立場より見れば日本の支那侵略は当然支那に於ける自国の勢力を駆逐するものであるから蒋介石をして抗戦せしめて自国の利益を擁護せんとする。 是れ亦当然のことであって、之を怪しからぬと言う者が間違って居る。 日本は頻りに米英が支那を搾取すると言うて攻撃するが、固より是まで米英は支那に対して相当無理なることも押付けた に相違なかろうが、併し彼等は全く無償で支那より搾取したものではない。 何事に付ても多額の資金と人力を提供して支那を開発し、之に依りて自国を利すると共にどれだけ支那を利したか分らない。 今日まで支那の開発が米英に負う所頗る大なるものがあることは否めない。 然るに日本は是まで支那に対して何の利益を与えたか。 日清戦争以来五十年の間に台湾から関東洲から、次から次に支那の領土を強奪し、支那に対して侵略を加え、尚お引続き侵略に向って進みつつあるの外には日本が支那の開発を援けたる事跡を見出すことは出来ない。 それ故に支那側より 見れば米英の敵よりか日本の敵が幾倍も恐ろしく且つ憎むべきものであるに相違ない。 之を考えずして日本は隣国である。 米英は遠国である。 隣国を疎外して遠国に親近するのは不都合であると言うた所で夫れは通らない。 国家を背負うて立つ所の政治家は徹頭徹尾自国の利害を標準として凡ゆる対外方針を決定する。 米英と手を握ることが自国の利益ならば是と手を握り、日本と手を分つことが自国の利益ならば是と手を分つ。 当然のことであって、此の間に東西遠近の差別が起る訳はない。 之を考えざる対支政策は悉く失敗に終ることは必然である。

第8段落

蒋介石は米英の傀儡となって日本と抗戦する。 米英は凡ゆる方法を以て彼を援助する。 日本から見れば蒋介石は無論のこと、米英も亦同一の敵であるから日本が米英を攻撃するのは日本の立場より見れば当然のことであり、同時に米英は如何に日本から攻撃せらるるとも援助の手を止めないのも是れ亦当然のことである。 斯かる状態となっては両者の関係が無事に収まる訳はない。 日に月に険悪に向って進みつつあったが、俄然米英は通商条約の廃棄を手始めとして資金凍結令、経済断交、ABCDの包囲網から最後に日米交渉の破裂となって愈々大東亜戦争の幕が切って落された。 勢いの趨く所避くべからざる成行きである。

第9段落

開戦の当初に当りて日本は空前の大戦果を獲得した。 半歳経たない間に東亜に於ける米英の根拠地を奪い取りて彼等を徹底的に東亜の天地より駆逐したのは実に言語に絶する痛快事である。 同時に米英の間抜けさ加減が思いやられる。 彼等は包囲陣などを形成して日本を威し付けて見たものの、日本より見れば全く張子の虎に過ぎない。 彼は自己の認識不足を後悔して居るであろうが、過ぎたることは最早迫い付かない。 併し今日に至りては彼等も目を覚ました。 立ち直って来た。 立ち直ったからには迚も油断のならぬ大敵である。 何分にも無限の物質と無限の製造力を有して居る。 此の点日本とは桁が違うようである。 此の物質力を総動員して攻勢に転じて来た。 今日の戦況を見れば大体に於て日本は守勢にして彼は攻勢である。 軍略家をして言わしむれば、守る者は必ず敗れ攻むる者は必ず勝つと言うのであるが、必ずしも左様とは限られないであろうが、何れにするも米英が日本を攻略することが至難なると同時に、日本は米英を攻略して近頃戦争煽動家等が公言するが如くワシントンやロンドンに於て城下の盟をなさしむることも夢想することは出来ない。 長期戦を覚悟せよと言う。 五十年でも百年でも戦うべしと云う者もあるが、現実を無視する無責任の囈言に過ぎない。 平和産業は一切停止せられ、戦争の道具は作っても作っても悉く消粍する。 国民は凡ゆる方面に亙りて法外の税金を課せられる上に食糧其の他物資の欠乏に耐えずして益々疲弊困憊に陥る。 国の借金は年々山の如くに高まって迚も償還の見込などは立たない。 如何にして長期戦に耐え得るか。 五十年、百年は愚か、今後三年、五年の戦争に耐え得るかが現下の問題である。 そこで大所高所に立って此の戦争を達観する。 一体何の為に此の戦争をやって居るのか。 戦争をやってあれだけの人を殺し物を費し金を費し国民を苦しめるのは何の目的があってやって居るのであるか。 唯戦争を始めたから、今更之を中止することは出来ぬからやって行くのであると言えばそれは仕方がないが、之を外にして此の戦争は全く道義に基づくものであるとか己むに已まれぬ大目的であるなどと言うのは悉く国民を欺瞞する口実に過ぎない。 若し之を疑うならば其の欺瞞であると云う理由を一々指摘して見ようではないか。

第10段落

先ず第一に此の戦争の挑発者は何者であるか。 此の戦争は支那事変から起ったものであることは既に前述せる通りであるが、支那事変は蒋介石が始めたものではなく、全く日本から始めたものである。 日本が始めねば蒋介石も抗戦する理由はない。 今日でも日本が戦争を止むれば彼は抗戦を止むるに相違ないのである。 戦争の挑発者は疑いもなく日本であって蒋介石ではなく、大東亜戦争も亦其の通りである。 日本が蒋介石を討伐するから米英は彼を援 助するのである。 日本が蒋介石討伐を止むれば米英も彼を援助する理由はない。 随て日本に対する経済断交も包囲陣の形成も最後の日米交渉も開始せらるることもなく、仮令日米交渉が開始せらるるも其の大本は支那事変であるから、日本が支那事変を止むれば日米交渉は容易に解決するのである。 然るに其の大本である支那事変を止めず、是から起って来る所の諸般の事件に向って一々苦情を述べ立て、蒋介石やルーズベルトを以て戦争挑発者である。 責任者であると攻撃した所で全く事理顛倒であるから、斯かる攻撃は日本内地の理窟を知らない分らず屋には通用するか知らないが、一人の識者を承服せしめることは出来ない。

第11段落

第二に日本は今回戦争の目的は東亜の天地より米英の勢力を駆逐して十億の東亜民族を解放するにありと唱えて居るが、是は大東亜戦争開始後に作り出した理窟であって、それ以前には想像もしなかったことである。 大東亜戦争が始まって米英を相手に大規模の戦争をやらねばならぬことになったから、此の戦争を理窟付けるが為に考え出したる口実である。 併し是が果して正当の理窟になるであろうか。 米英の勢力が東亜に侵入して居ることは事実であるが、何故に日本は国力を賭して此の勢力を駆逐せねばならぬか。 米英の勢力が日本に侵入して、日本の利益を害するならば日本は国家自衛の立場から之を撃退せねはならぬ。 或は又米英の東亜侵入が日本の東亜発展を妨ぐるから是と抗争せねばならぬと言うならば、それは国家間に於ける覇権の争いであるから全く道理上の理由にはならない。 更に又十億の東亜民族を米英の桎梏から解放すると言うが此の理窟が分らない。 十億の東亜民族が米英の桎梏に苦しんで居るか居らないかは問題であるが、仮令苦しんで居るとするも何故に日本が之を救わねばならぬか。 国家は慈善団体ではない。 他民族の窮迫を救わん為に国を挙げて戦争の渦中に投ずるが如きは国家の何ものたるかを解せざる乱暴者の所業であって、斯かることに国家が乗出して行くことになれば其の止まる所は際限なく、遂には力尽きて国家は滅亡するのである。 況んや日本は東亜民族が米英の桎梏に苦しんで居ると言うが、彼等民族はそれは余計な心配である。 我々は日本に向って別に救助を求めたことはないと言うに相違ない。 元来是まで米英支配下に属する東亜民族は何れも野蛮未開の状態であって、独立国家を組織する能力のない民族であるが、斯かる民族が先進文明国に征服せられ、其の統治に服することは世界発達の過程に於て免れざる運命であり同時に彼等民族に取りては不幸であるよりも寧ろ幸福である。 なぜならば彼等は先進国の支配に依りて漸次に文明の域に進みつつ、遂には独立国家を組織するに至ることもあれば、然らざる場合に於ても先進国との交通に依りて民族生活を改善し其の幸福を増進することは疑うべからざる事実である。 之を今日日本の占領地域に属する諸民族の現実に徴するも、彼等は従来米英に依存し、原料を輸出して製品を輸入し、有無共通の貿易関係に依って日常生活を改善し、傍ら文明の空気をも呼吸し来ったのであるが、日本の占領後に至りては此の状態が一変して米英との貿易関係は一切杜絶して、之に代りて日本との貿易関係を増進することは出来ず、是が為に彼等の生活状態は窮迫に窮迫を告げて居ることは争い難き事実であるから、今回の戦争に依りて日本の占領地域に移りたることは彼等に取りて非常なる災厄であって、決して幸福ではない。 然るに争われない此の現実を隠蔽し、日本の力に依りて東亜民族を米英の桎梏より解放したから、是等の民族は挙って日本の新来を歓迎して居るなぞと言うのは全く国民を欺瞞する宣伝に過ぎない。

第12段落

第三に東亜共栄圏の確立と云うことが戦争目的の根本主義であると唱えられて居るが、一体斯かる理想が実現し得べきものであるかと言うに、断じて実現し得べきものではない。 東亜民族が資源も製造力も豊富なる米英を始めとして其の他世界各国との間に有無共通の自由貿易を開始してこそ相互共栄の実を挙げることを望まれるのである が、此の世界共通の貿易関係を断絶して東亜の天地にブロックを形成し、資源の貧弱なる日本を中心として共栄の実を挙げることが出来るか。 出来る訳はない。 それ故に共栄と言うは仮装の標語であって、全く日本の独栄を本として割出すならば意義がある。 即ち日本の資源は貧弱であるから、之を資源豊富なる占領地に求め、其の資源を開発して日本独自の繁栄を図る。 是が真の目的であるから、此の目的を達するに当りては自然の勢いとして占領地民族を搾取せねはならぬ。 日本は従来米英が東亜民族を搾取したと言うて攻撃して来たのであるが、今度は日本が米英に代りて而もより以上に苛酷なる搾取を行うから、野蛮未開の民族はいつまで経っても浮ぶ瀬はない。 併し考えて見れば仕方がない。 優勝劣敗の天則は世界何れの所にも現われて来る。 優者が劣者を押え付けるは天が定めたる法則であるから、之を避くることは出来ない。 斯くの如くにして東亜共栄圏は東亜民族共通の繁栄にはあらずして日本単独の繁栄を図るが為に日本が東亜に覇権を確立して、東亜民族を日本の配下に置かんとする行動であると言うのが偽りなき事実の真相であって、是が為に従来米英が強奪せる占領地を今度は日本が米英より強奪して占領した。 事実は正に斯くの如くである。 固より是が悪いと言うのではない。 日本は日本独自の発展を図るが為に国力の許す限りを尽して他民族を征服する。 是は国家として進むべき当然の途であるから茲に国家的の理窟が存するのである。 然るに此の理屈を隠蔽して日本のなすことは悉く道義に基づく行動であるなどと宣伝に努めて居るのが世界を欺く偽善であると言うのである。

第13段落

支那事変より大東亜戦争に至る経路は大体以上述べたる通りであって、此の間に於て戦争を道理付けるが為に政府や軍部が世界に向って宣伝したる所のものは余の考えよりすれば悉く虚偽である。 斯くの如き虚偽の宣伝は国内の衆愚を欺瞞することは出来ようが、識者を首肯せしむることは出来ぬ。 況んや日本を外にして世界各国を欺くことの出来ないのは無論である。 元来戦争は何れの場合に於ても悉く侵略戦争であって、侵略ならざる戦争のあるべき訳はない。 即ち一方は侵略せんとし他方は之を防がんとする。 茲に戦争が起るのであって、其の結果は優勝劣敗、弱肉強食即ち強者が勝ち弱者が負ける。 弱者の肉は強者の餌食となる。 此の間に正義とか道義とかの介在する余地はない。 今回の戦争も固より其の通りであって、而も支那事変は最も露骨なる侵略戦争である。 然るにそれを隠蔽して聖戦とか道義戦とか自分勝手の名称を着け、日本の戦争だけが正義の戦争であって他国の戦争は不義の戦争で あると吼え立てる者も馬鹿なれば、之を聴かされて真らしく思うて居る者は一層の馬鹿である。 併し侵略戦争が悪いと言うのではない。 侵略戦争でも何でも之をやり遂げて日本国家及び国民の繁栄を来すことが出来れば之に越したることはないが、今回の侵略戦争は果して政府や軍部の宣伝するが如く勝って勝って勝ち抜いて米英を撃滅し、最後の勝利を確定して日本国家及び国民の繁栄と東亜永遠の平和を実現することが出来るであろうか。 是が問題である。

第14段落

余は大胆率直に断言する。 今回の侵略戦は失敗である。 結局に於て日本が勝ち抜くことが出来ないのみならず、却って大敗を招き、国家の基礎は動揺して収拾すべからざる惨状を惹き起すに相違ない。 戦争の現階段に於ては日本は大戦果を挙げて居る。 米英の油断に乗じて機先を制したことが成功の原因である。 東亜より西南太平洋に跨りて米英の属領を悉く占領して此の地域より米英の勢力を一掃したが、此の現状を最後まで確保して首尾よく戦局を結ぶことが出来るかと言うに、迚も左様には考えられない。 今日の現状を達観すれば戦局は確かに変って来た。 即ち大体に於て是まで攻勢を取って居た日本は守勢に転じ、守勢を取って居た米英は攻勢に転じて彼等の攻防戦は日に月に深刻苛烈を極め、日本は一歩一歩と退却しつつあることが事実である。 而して此の状態はヨーロッパに於て も同様であって、殊にヨーロッパに於ける独伊側の現状は東亜に於ける日本の現状よりも更に甚だしきものがある。 即ち開戦当初に当りてはドイツは確かに破竹の勢いを示した。 ポーランドからフランスから其の他弱小国は所謂電撃戦法を以ちて片端しから蹂躙し、ソ聯にまで不意討ちを食わして深く其の領土内に侵入し、ヒトラーの鼻息は実に物凄く、内は国民に対し外は世界に向ってどんな元気の良い放送をしたかは何人も忘れては居るまい。 然るに其の後の有様はどうであるか。 開戦後数箇月内には必ず英国上陸を敢行すると断言したが、其の断言はどうなったか。 開戦後二、三箇月内にはモスクワを攻撃してソ聯に白旗を立てしめると公言した其の公言はどうなったか。 それのみならず東部戦線(注4)に於ける昨年の冬季攻勢は全く失敗に終り、本年の夏季攻戦も遅々として進まないのみならず、却って押され気味の兆候が見ゆる。 更に一方米英の聯合軍はイタリアのシチリヤに上陸して総攻撃を開始して居るが、是も同島の陥落は全く時の問題である。 此の悪状態を控えながら突如として同盟国イタリーには政変以上の革命が起ってファシスト政権は根底から崩壊し、ヒトラーと意気投合、兄弟も啻ならざるムソリーニ巨頭を始めとして其の他党員等は片端しから捕縛せられたと云う有様で、想うにイタリー国内は大混乱に陥つて居るに相違ない。 仮令新首相バドリオ元帥が戦争継続を声明するも国内状態が斯くなりたる以上は迚も真剣の戦争が遂行せらるる訳はなく、今後雑多の紆余曲折はあろうが、結局イタリーは同盟戦線より脱落してドイツ一国が孤軍奮闘を余儀なくせらるべく、茲に至りてはドイツの運命も推して知るべきである。 而して若し今後此の状態が益々発展してドイツの敗戦裡に戦争が一段落を告ぐるが如きことが起ったならばどうであるか。 それこそ大変である。 米英は時こそ来れと陸に海に空に総力を提げて日本攻撃に向うことは火を睹るよりも明かであると同時に日本の運命亦言うに忍びないものであろう。

第15段落

今日我が国内の状態を見るに、政府は戦力増強と食糧増産の為に国民の総力を集中して居る。 戦争を遂行するが為に已むを得ないことである。 併し戦力増強にも限りがある。 あるだけの物資と人力を使うて軍需品を製造すればそれ以上のことは出来ない。 軍需産業の為に平和産業は全く停止せられ、国民は日常の必需品欠乏に困惑して居る有様は世間周知の通りである。 食糧問題に至りては殊に甚だしきものがある。 日本は瑞穂の国である。 如何に戦争起るとも食糧には心配なしと安心して居たものの、近時の食糧欠乏は日本開闢以来我々の祖先が曾て体験したことのない苦痛を背負わされて居る。 然るに国民の経済状態はどうであるかと見れば是れ亦言語に絶するものがある。 一方には戦争経済の波に乗って莫大なる(注5)暴利を獲得して財産の増加に自ら驚く者あるかと見れば他方には其の故に押し潰されて先祖伝来の職業を失い、転業、廃業を余儀なくせられ、一家一族の離散する者もどれだけあるか分らない。 実に今日国民経済の不公平なることは全く滅茶苦茶である。 其の他のことは一々枚挙するの遑もないが、此の国内情勢を前に置きながら政府は如何なる宣伝をなして居るかと見れば、何も彼も一切挙げて戦争に勝ち抜く為である。 不平不満を抱く者は非国民である。 日本の戦争は他国の戦争とは全く訳が違う。 曰く肇国の理想たる八紘一宇を実現せんが為である。 曰く皇道を世界に宣布せんが為である。 曰く道義に基づく世界秩序を建設せんが為である。 曰く東亜十億の民族を解放して東亜共栄圏を確立せんが為である。 曰く何、曰く何。 而して此の戦争に勝ち抜く為には一切己れの利益を打ち棄て公益優先せよ。 職域奉公せよ。 大政翼賛せよ。 臣道実践せよ。 貯金報国とか一億敢闘とか次から次に最上級の標語を濫発して国民を煽動し国民を踊らせんとして居るのが今日の現状である。 其の上ビルマは独立させた。 フィリピンも近く独立させよう。 印度の独立も援けてやる。 占領地はどしどし開発して物資を増産する。 米英撃滅に猛進せよ。 最後の勝利は我にありと、斯かる宣伝のみを聴いて居れば日本は是から どれだけ豪らい国になるか知れない。 東亜の盟主どころか世界の盟主ともなることが出来るようにも考えられるが、併し国民は斯かる夢を語るようなる空念仏に迷わされることなく、一歩退いて静かに日本今日の実情を洞察するが宜い。 今日の日本は実に恐るべき方向に向いつつある。 国民は今日苦しめば明日は楽になる。 今年苦しめば明年は楽になる。 尚お進んで、我々現代人が苦しめば我々の子孫は繁栄すると考えて居たら大変なる間違いである。 戦争には勝てない。 断じて勝てない。 結局に於て日本は負ける。 大敗を招く。 米英は無条件降伏を強要する。 軍備は撤廃せられ、国内は収拾することが出来ない大混乱の状態に落ちて、戦勝の結果は悉く奪い取られるのみならず、尚お進んでは明治以来七十余年の間に日清・日露の戦役に依りて獲得したる領土も悉く巻き上げられて、日本は明治以前の三等国に蹴落されるに相違ない。 其の上国内の資源は悉く消耗し、戦費に基づく国債は山の如くに高まって迚も償還の出来る訳はなく、国家は破産し国民生活は愈々窮乏を来し、国家の復興は永久に望まれない羽目に陥ることは今日より予言して決して誤りはないと思われる。 而して是は一体何者の責任であるか。 一切挙げて戦争挑発者たる軍部と之に迎合する時局便乗者の責任である。 併し今日斯くの如き議論を吐いても無論彼等の耳には入らない。 彼等は戦争に熱中し国民を煽動し欺瞞しつつ最後の勝利を夢見て居る。 或は其の中には戦争の前途に稍々気付いたものもあろうが今更之を口にすることもどうすることも出来ず、中心危惧の念を抱きつつ勢いに押されて自らの立場を守るに過ぎない。 今より何年か後には余の観測は必ず的中する。 それは何であるか。 曰く日本の大敗― 其の時に打ち当らねば彼等の夢は覚めない。 而して彼等の夢の覚めたる時は日本は没落して彼等は国民から葬むられる時である。 日本の没落は悲しむべきことであるが、彼等が葬むられることはせめてもの幸福である。

脚注

(1)
原文では「暴す」と表記されている。
(2)
原文では「隠謀」と表記されている。
(3)
原文では「誰」と表記されている。
(4)
原文では「本部戦線」と表記されている。
(5)
原文では「漠大なる」と表記されている。