『帝国憲法論』 その1

last updated: 2013-01-23

前書きなど

巻首に一言す

伯爵大隈重信君、余が為めに序文を寄贈せらるることに相成居候処、偶々信越地方を漫遊せらるるの際に当り、而して一方に本書出版を急ぐの已むを得ざる事情ありたるが為めに、之を掲載するを得ざりしは、余の甚だ遺憾とする所なり。 茲に之を表して読者に告ぐ。

明治三十四年六月 斎藤隆夫

帝国憲法論序

夫れ憲法は建国の大法にして、万般の法令皆な之より出づ。 殊に治者被治者の分限を明らかにして違いに相犯さしめず、官人の職分を定め、国民の権利を保する者、一に此大法の賜ものなり。 国に此法ありて、人民始めて泰山の安きにあり。 国に此法徴せば(注1)、人民の性命と財産と名誉と幸福とは実に風前の燈火の如し。 憲法の徳真に大なり。 我輩生れて此盛世に逢い、憲法治下の臣民となることを得たるは、其幸福何ぞ加えん。

然りと雖、憲法なる者、亦人を須ちて行わるる者、若し不忠無道の政府ありて、之を蹂躙することあらば、憲法あれども猶お無きが如きなり。 故に国民たる者は宜しく此大法擁護の任を怠るべからず、已に之を擁護せんと欲せば、先ず憲法とは如何なるものたるやを解せざる可からず、而かも善く之を知る者は世間果して幾くかある。 英国の学者「バヂホット」(注2)云えるあり、「若し英国の臣民に向うて、汝は「ヴイクトリヤ」女皇の治下に棲息するやと問わば、皆な然りと答えざるなし、然るに今ま此人々に向い、汝は英国憲法の下に棲居するやと問わば、然りと答うる者、十中三四に止まる可し」と。 夫の憲法の元祖たる英国猶お然り、何ぞ況んや我が今日の日本に於ては、その何物たるやを解せざる者多き、怪しむに足るなし。 則ち怪むに足るなしと雖臣民たる者、実に之を知らざる可からず。 彼れ之を知らざるに於ては、之を擁護する能わじ。 彼れ之を擁護するにあらずんば、彼れ不忠無道の政府の為めに蹂躙せられて、あれともなきが如きの有様に陥いるなきを保せず。

斎藤隆夫(注3)氏は、其本職、弁護士なりと雖、世の齷齪たる弁護士と同じからず、その本職に尽瘁するの傍をら、広く意を経済政治の方面に馳す、殊に憲法思想の本邦に振わざるを憂うるや久さし。 今や邦人の、此大法を解せざる者少なからざるに乗じ、曲学の徒輩、ややもすれば(注4)阿世阿官の妄論を吐露するあり。 是れ識者の常に歎息に堪えざる所、而して氏の、此著ある、蓋し亦此妄論邪説を排せんとするにあるが如し。 我輩甚だ是を喜ぶ。 若し夫れその内容に至りては、行文平易簡明にして立論公平精確なり。 之を読んで益する者豈に独り初学者のみに止まらんや、之を序となす。

東洋経済新報社に於て 明治三十四年五月七日
天野為之

帝国憲法論の序

往時露西亜に於てはコンスチチユーション即ち憲法なる語を聞き、其何の意たるを解するを能わずして大公爵コンスタンチンの妃の名なるべしと思惟し、手を拍て歓呼したる者ありと云えり。 政治的理想の発達遅々として常に西欧諸国の風潮を趁い難く、古今一貫専制主義の支配の下にある露西亜にして這般の事ありしは深く怪しむに足らず、我帝国は幸にも維新以降無比の進歩を遂げ、憲法既に発布せられ議会既に開設せられ、外国にありては血を流し屍を積んで、而して後ち始めて得たる所のものも、我国に於ては和気藹々談笑の間に之を得、百度刷新全く当日の観を留めざるに至れり。 乃ち啻に露西亜帝国と日を同うして語るべからずのみならず、西欧に於ける二、三先進国に対しても亦、大に誇耀すべきものあるなり。 然れども憲法はもと人に依りて行われ、決して其物自身に於て活動すべきにあらざれば、憲法の規定如何に善美を尽くすとも之を解釈し運用する者にして、若し其正鵠を誤るが如きことあれば、憲法は忽ち変じて一片の死文と化すべきのみ。 我国憲法を実施してより今日に至るまで、固より未だ甚だしき失態あらずと雖も、違憲問題は尚お時々発生せざるにあらず。 去れば実際、局に当りて之が運用に任ずる者、将来益々慎重の注意を以て事に従い、能く憲政有終の美菓を収むる途を講せざるべからざるは勿論、熱誠摯実の学者が孜々として之が真理の閘明に鞅掌し、以て世人をして率由する所を知らしむるも亦た寔に喫緊の事に属すべし。 抑も夫の憲法の何物たるを知らずして之を以て大公爵の妃の名と誤りたる露西亜人の如きは其蒙や実に笑うべしと雖も、而かも彼等は当時真個に之を知らざりし者にて寧ろ甚だ憫むべき輩たるに過ぎず、然るに今若し曲学阿世の徒ありて略ぼ憲法の原理に通暁しながら、一種陋劣の心を以て敢て私議妄説を挟むことあれば、其悪むべきもの果して如何ぞや。 謹厳硬直の学者ありて秋霜烈日も啻ならざる筆を揮い、以て其間に努力するにあらざるよりは、憲法の前途未だ必らずしも寒心すべきものなきを保せざるなり。 斎藤隆夫氏は、東京専門学校に於て年来斯学を研究し業成りて、後ち弁護士となり業務に鞅掌しつつある傍ら今回又帝国憲法論を著わし、其同好の士に頒たる。 思うに亦た此に意ある者なるべし。 即ち序を請わるるに及び、之を書して巻首に弁せじと云爾。

明治辛丑春暁
高田早苗

帝国憲法論に序す

学世綽々(注5)として隋弱に流れ、青年の意気銷沈するや久し。 此時に当り、毅然として濁流に反抗し、奮然として猛進する者、斎藤隆夫君に於て初めて之を見る。 君は余が断金の友なり。 曾而東京専門学校に在り、蛍雪の苦学は忽ちにして数百の同輩をして後に瞠若(注6)たらしめ、一たび出て、法曹の間に馳駆するや、幾多の先輩は為めに顔色を失うに至る。 鶏群の一鶴、泥中の蓮、君を称する敢て過言にあらざるなり。

君は弁護士として已に有望の地位を占む、今や之を抛ち更に飛で欧米の天地に飛翔せんとす。 何ぞ其志の遠大にして而かも其行の勇断なるや、君が前途をとせんとする是れ無用の業のみ。 唯知らず、君が帰朝の暁、万丈の気焔は何れの所に向て吐かんとするや。

本著帝国憲法論は、君が十年以前、東都の一隅、早稲田の里に於て、研学の余暇を以て録せられたるものなり。 簡にして明、正にして確、読者を益するや蓋し鮮少にあらざるなり。 然れども是れ啻に君が大海の一滴を注ぎたるもののみ、此一冊子君に於て何かあらん。 之を以て君を軽重せんとするもの抑も君を知るものにあらざるなり。 序して読者に告ぐこと然り。

明治三十四年六月
小林豊太郎

自序

現今世界に於て国を建つるもの六十有余、而して立憲政治を行うもの四十有余、立憲政体の勢力亦大なる哉。 想うに国の本は民に在り、民と共に之を治むるは天地自然の道理にして立憲政治の本義実に茲に在り、立憲政体が世界文明国に歓迎せらるる蓋し怪むに足らざるなり。 然り而して立憲政治の基礎は一に憲法の規定に存するを知らば苟も此治下の国民たる者は能く之を研磨考窮して其運用を誤らざることを期すべし、之を少数者に一任し袖手傍観するは立憲国民の常道に非らざるなり。

余、襄年東京専門学校に在り、法学を研究す、特に憲法に於て意を注ぐ処あり。 録せるもの積て小帙(注7)を為す、素より之を公にするの意にあらざるを以て空しく框柢に蔵すること殆んど十年、此頃聊か感ずる所があり、則ち命じて一千部を限り印刷に付せしめ、以て在郷有志諸士に頒たんと欲す。 俗事多端、校訂に暇あらずと雖も其要に至ては蓋し正鵠を誤らざることを信ず。

惟うに帝国憲法は万古不磨の大典なり、理義明確、其徳や日月の如し。 然れども法は元来死物なり、人に依て活動せらる。 其人を得れば悪法も亦法の目的を達し、其人を得ざれば善法も亦其功果を収むる能わず。 帝国憲法行わる已に十余年、其運用は誤られざりしと云うを得べき乎、閣臣の責任は如何、帝国議会の行動は如何。 過去の事蹟、現在の情態、天下万衆の認むるものあり、余復何をか云わん。

余や七月中旬を卜し欧米漫遊の途に上らんとす、倫敦の花に戯れ、巴里の月に酔わんが為めにあらず。 憲章の美果(注8)、自由の空気、聊か余を補益する所あらんを期すればなり。 今や俗務交々襲来して余を忙殺せんとす、諸士と相見るの暇なきを憾む。 三年の後、帰朝の暁、共に膝を交えて相語るの時を俟つ。

明治三十四年夏 東京に於て
斎藤隆夫

脚注

(1)
原文では「微つせば」と表記されている。
(2)
ウォルター・バジョット - Wikipedia
(3)
原文では「唯夫」と表記されている。
(4)
原文では「轍もすれば」と表記されている。
(5)
しゃくしゃく【綽綽】の意味 国語辞典 - goo辞書。原文では「淖々」と表記されている。
(6)
どうじゃく【瞠若】の意味 国語辞典 - goo辞書。原文では「瞠睰」と表記されている。
(7)
帙 とは - コトバンク。原文では「怏」と表記されている。
(8)
美果 とは - コトバンク。原文では「美菓」と表記されている。