『帝国憲法論』 その2

last updated: 2013-01-23

第一編 総論

第一章 帝国憲法の由来

第1段落

明治元年三月十四日、今上天皇親しく紫宸殿に臨み、公卿諸侯を率いて天津地祗を祭り大に国是を定め、以て天下の人民に誓わせ給う。 世に之を五事の御誓文と謂う。 前古未曾有の新生体を創立し、天下の民衆と共に治を為すの大本蓋し此時に成る。 是れ実に帝国憲法の濫觴なり。 御誓文に曰く、

  • 広く会議を興し万機公論に決すべし
  • 上下心を一にして盛に経綸を行うべし
  • 官民一途庶民に至るまで各々其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
  • 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
  • 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

我が国未曾有の変革を為さんとし朕躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い大にこの国是を定め万民保全の道を立んとす衆亦此趣旨に基き協心努力せよ

戊辰三月 御諱

史を案ずるに、往古皇室の権一たび外威に移り、藤原氏跋扈を極めし以来、平氏之に代り亦専横を逞くし、朝権の振わざること既に久しかりしが源氏興りて平氏に代るに及び、右大将頼朝奏し請うて覇を鎌倉に定め、諸国に守護を置き荘園に地頭を設け、自家の臣僚を全国に封じて(注1)自ら之を統制せしより、天下の政権は全く皇室を離れて武門(注2)に帰するに至れり。 源氏斃れて北条氏之に代り、陪臣を以て国命を執り、王権益々振わず。 後鳥羽上皇武臣の専横を憤り、一たび興復を謀りて成らず。 遂に承久の流竄(注3)と為り、後醍醐帝復た幕府を倒して政権を収めんと欲す。 幸に新田、楠、北畠等の忠臣出でて参謀画措し、中興の大業一旦成りたるも、治道方を得ずして其業忽ち破れ、足利氏亦政権を奪うて世々之を私し、朝綱弥々弛廃す。 応仁、文亀の頃ろに至りては群雄割拠海内鼎沸し、足利氏も亦制する能わず。 皇室の式微此に至て極まれり。 たまたま(注4)織田氏出て漸く禍乱を戡定し、首として京師に朝して宮室を造営し、始めて朝廷の重んずべきを知らしめ、豊臣氏之に代って亦皇室を敬い、遂に海内を平定して統一に帰せしむと雖も、政権は未だ皇室に帰らず。 ついで(注5)徳川氏天下を統一し、祖宗家康干戈を元和に偃せしより、覇府を江戸に定めて諸侯を制御し、泰平続くこと二百七十年、教化大に行われ、制度漸く整い、海内悦服す。 往古王朝の盛時以後、国運の隆盛なる、此時に勝るは無し。 然れども其皇室に対するや、陽に之を敬して陰に之を抑え、天子は虚器を擁して京都に蟄居し給い、治国の実権は江戸幕府世々之を収め、諸侯士庶人に論なく縦ままに朝廷の公卿と会見することを得さしむ。 此の如くにして上皇室を抑え、下諸侯を制し、以て国内の治平を謀ること、実に徳川幕府の祖宗が子孫に遺したる政策なりき。 故に其盛なるに当てや、天下の志士は王権の振わざるを慨し、国体を王朝の古に復せんことを望む者なきにあらずと雖も、一たび之を筆舌に顕わすときは、厳責忽ち下り身首其処を異にするを以て、憂国の志士も其為す所を知らず、怨を抱て空く屏息するに至る。 後鳥羽後醍醐の英主再び顕るるあるも、誰か其大業を期するものあらんや。然るに図らざりき、時運一変して慶應三年十月十四日大将軍徳川慶喜自ら表を上り、覇業を廃して政権を奉還し、ついで(注6)十二月九日に至り、前古未曾有の大改革を挙行し、王政を古に復し、万機の政務を親裁し給うの大号令を発するに至る。 此に於てか中古以来武臣の為めに蔽われたる天日は、耀々として再び其光輝を発し、大号に照臨するの盛運を拝するに至れり。

第2段落

徳川幕府倒れ、政権皇室に帰し、明治一統の新政府は其形体已に成れりと雖も其精神は未だ備わらず。 何となれば全国統制の実験は未だ朝廷に帰せざればなり此に於てか更に此を収めて、名実共に全き新政府を確立せざるべからず。 然れども当時新政府には兵力なく、又歳入なく、加うるに勤王諸藩其功を負うて権威を振わんとし、統御其方を誤らば一徳川氏を倒して再び数多の徳川氏を生ぜんとす。 若し又専ら有功の浪士をして国政を執らしめんか、門地賤しく声望足らず、為めに全国の諸侯を制すること難し。 此に於てか非常の英断を以て公議輿論に従い、智識を世界に求め万機を公論に決せんとするの国是を定むるに至る。 是れ五事の誓文を発せられたる所以にして、当時の国情亦已むを得ざるなり。 五事の誓文は、規模宏大、勢威赫々、秋霜烈日の如く、何人も得て抗すべからず。 公議輿論の勢力は向う所先なく、新政府は之によりて確立せられ、版籍奉還も廃藩置県も之によりて行われ、以て能く全国に割拠したる諸藩の勢力を奪うて之を中央政府に収め、維新の功業は此に於て其完成を告げたり。

第3段落

諺に曰く、狡兎死して走狗煮られ、飛鳥尽きて良弓蔵くると。 実に明治新政府は、公議輿論の名を借りて其基礎を固めたりと雖も、已に廃藩置県を実行し、封建の遺制を破壊し、地方の権力を収めて之を中央政府に集むるや、公議輿論は棄てて之を顧みず、有司専制の端を生じ、戦勝者は政権を振るの道理を応用し、維新革命の際徳川氏の兵に勝ち佐幕諸藩の軍を破りたる西国の諸藩は、遂に政府の実験を専有し、茲に藩閥政治を現出するに至れり。 当時の有司中には惟らく、鎖国攘夷の声は徳川幕府を倒すの口実として之を用いたるのみ、故に一たび倒幕の目的を達すれば遺棄して顧みざるも世人之を怪まず、公議輿論の声も亦新政府の基礎を固めんが為めに之を用いたるのみ、今既に其目的を達す、之を遺棄するに於て何かあらんと。 然れども鎖国攘夷と公議輿論とは其趣旨全く相反し、前者は極端の保守説にして後者は急劇なる進歩説なり。 大に旧制を変革して新たに政体を定むるに当り、進歩主義は火の燃ゆるが如く急なるも可なり。 此際保守説を以て世運の大勢に抵抗せんとするも、世界の風潮は之を許さざるなり。 故に鎖国攘夷の気焔は幕府の倒るると共に消滅して亦余燼を止めずと雖も、公議輿論は新政府の確立を以て声を収めず、将さに機会を得て大に振わんとす。 唯だ中央集権の政略頻りに行われて政府の威勢日に加わり、官民共に新事物を採用するに急にして、亦公議輿論の力を展ばすに暇なく、天下屏息して暫らく政府の為す所を傍観するに至れり。

第4段落

たまたま(注7)明治六年征韓の議政府の内に合わず、要路の参議多く職を辞して野に下るや、政務の改良を行うには更に公議輿論の力を仮ることの必要を悟り、民選議員設立の建議を上りて大に民権拡張の思想を喚起せり。 是に於て一旦萎微したる公議輿論は、俄然活気を生じて一大勢力となり、以て朝野を震動したり。 而して当時の輿論は、実に明治元年五事の誓文に基き、万機を公論に決せんとするに在れば、政府も得て拒む能わず、天下翕然として之に靡き、唯だ直に代議制を行うと、之を漸次に行うとの二途に別るるのみ。 乃ち民権論者は急進説を持し、政府党は漸進論を唱え論難攻撃盛に行われ、国民の政治思想は漸くに発達し、政府は其急激なる議を增みて痛く言論の自由を検束したれば、在野党は為に大に不満を懐き、官民の軋轢此時に至て其端を発し、益々其度を高むるに至れり。

第5段落

当時井上馨は職を辞して野に在り、商業に従いしが、朝野軋轢の状を見て大に憂うる所あり 。 二三の有志と謀り、朝野の功臣調和の策を立てんと欲し、両者の間に斡旋し、明治八年二月大久保木戸以下の功臣其他朝野の名士を大坂に会し、政体改革の方法に就て議する所あり。 其後四月十四日詔して大に政体を変革し、先ず元老院を設けて立法権の上局に擬し、地方官会議を以て其下局に充て、別に大審院を置きて司法権の基礎を定め、行政部と対峙して相侵すこと無からしめ、漸を以て立憲の政体を設くべき旨を諭させ給う。 実に此詔勅は、我国立憲政体の基礎、国民参政権を得るの階級を確立せられたるものなり。 其詔勅に曰く、

朕即位の初首として群臣を会し五事を以て神明に誓い国是を定め万民保全の道を求む幸に祖宗の霊と群臣の力とに頼り以て今日の小康を得たり顧に中興日浅く内治の事更に振作更張すべき者少しとせず朕今誓文の意を拡充し茲に元老院を設け以て立法の源を広め大審院を置き以て審判の権を鞏くし又地方官を召集し以て民情を通し公益を図り漸次に国家立憲の政体を立て汝衆庶と倶に其慶に頼らんと欲す汝衆庶或は旧に泥し故に慣るること莫く又或は進むに軽く爲すに急なること莫く其れ能く朕が旨を体して翼賛する所あれ

爾来熊本、山口、広島等の内乱踵を接して起り、国内多事又政務の改良を行うに暇なく、一旦勃興したる民権論も再び萎微して振わざること数年なりしか、此等内乱の平定するや、民権論は再び勃興し、其勢洪水の如く綽々(注8)として天下到る処に漲溢し、新聞紙は頻りに之を諭じ、政談演説は都鄙の各地に開かれ、国会開設の請願となり、建白となり、全国囂々として物情甚だ穏かならず、為めに政府は集会条例を発布し、厳に政治に関する事項を講談論議する為めに公衆を集会するものを検束せり、然るに俄然北海道官有物の払下は痛く輿論攻撃する所となり、之を取消し国会を開設せられば亦決して止まざらんとす。 明治十四十月十一日、主上東北より還幸あらせ給うや、即夜御前会議を開かせ給い、翌十日日官有物払下は之を取消し、之と同時に明治二十三年を期して国会を開くべきことを天下に告げさせ給う。 乃ち其詔に曰く、

朕祖宗二千五百有余年の鴻緒を嗣き中古紐を解くの乾綱を振張し大政の統一を総覧し又夙に立憲の政体を建て後世子孫継くべきの業を為さんことを期す嚮きに明治八年に元老院を設け十一年に府県会を開かしむ此れ皆漸次基を創め序に循て歩を進むるの道に由るに非ざるは莫し爾来衆亦朕が心を諒せん

顧みるに立国の体各宜きを殊にす非常の事業実に軽挙に便ならず我祖我宗照臨して上に在り将に明治二十三年を期し議員を召し国会を開き以て朕が初志を成さんとす今在廷臣僚に命じ仮すに時日を以てし経画の責に当らしむ其組織権限に至ては朕親ら衷を裁し時に及で公布する所あらんとす 朕惟うに人心進むに偏して時会速なるを競う浮言相動かし竟に大計を遺る是れ宜しく今に及で謨訓を明徴し以て朝野臣民に公示すべし若し仍お故らに躁急を争い事変を煽し国安を害する者あらば処するに国典を以てすべし特に茲に言明し爾有衆に諭す

惟うに明治元年二月五事の御誓文、八年四月の大詔、皆漸く立憲代議の制度を建てさせ給うの聖旨に非ざるはなし。 然れども未だ明かに何れの日を以て代議制度を定めさせ給うやを知るを得ずして。 之を望むこと大旱の雲霓(注9)啻ならざりしか、此に至りて広大天の如き聖徳は、輿論の望みを納れさせ給い、先ず官有物の払下を取消し、且国会開設の期を示し給う。 此に於て、今まで激したりし政海の波浪は忽ち収り、更に国会の準備を講ずるの風潮となれり。 ついで(注10)十五年三月、伊藤博文は憲法制度取調の為め海外に渡航し、十六年八月其用を終えて帰朝す。 爾来身を以て憲法制定の任に当りたり。

第6段落

神武天皇即位紀元二千五百四十九年、即ち明治二十二年二月十一日紀元節の大祭祝日は、正に是れ叡聖文武たる我天皇陛下、即位以来先帝の遺志を継ぎ、天地神明に誓わせ給い、二十有二年の間大御心に懸けさせらせ、万民の待ちに待ちたる大日本帝国憲法発布の日なり。 遠き過去の祖宗以来承継し給える君主独裁の政体より、未来遙かに天地と共に悠久なる、立憲政体の国体に移させ給うの過渡なり。 斯る過渡は之を外国の事例に徴すれば、常に兵革禍乱の間に来る。 若し夫れ君民和協上下驩呼の間に、此空前絶後の大典を挙ぐるに至りては、之を古今東西の史乗に求めて一も其例を見ざるなり。

第7段落

憲法発布と同時に、皇室典範、議員法、衆議院議員選挙法、会計法、貴族院令を公布し、国家立法の府を帝国会議と名付け、其中皇族、華族、国家の有功者、学者及び各府県の多額納税者より成るを貴族院と呼び、人民公選の代議士より成るを衆議院と称す。 凡法律は皆此両院の協賛を経べく、歳出入の予算も亦其議定を経ざる可からざるものとし、国家の組織権力の分配、臣民の権利義務は、尽く憲法及び之れに伴う法律勅令を以て規定せられたり。 其細密に至ては、各論に於て之を論述する所あるべし。

第二章 憲法の前文

憲法の前文とは、憲法の序文の謂なり。 憲法発布の当時に於ては、前文の外に天皇陛下が皇祖皇宗の神聖に向て、此度御遺訓に基き皇室典範及び憲法を制定し給いつる旨を告げさせられ、併せて憲法を履行して誤り給わざらんことを誓われし、告文なるものあり、又憲法発布式に於て発せられたる憲法発布の勅語なるものあれども、此等は憲法の本体に関係なきを以て、茲に説明するの要なし、反之憲法の前文は憲法の精神を現わしたるものなるを以て、軽々に観過すべからず。 欧米各国の憲法を見るに、或は前文を備うるものあり、又備えざるものありと雖ども、苟も之を備うるの憲法に於ては、憲法解釈家は其前文の趣旨に着眼することを怠らず。 何となれば、之に依て其憲法の性質を知るの便あればなり。

帝国憲法の前文は、分て六節を成す。

第一節

朕祖宗の遺烈を承け万世一系の帝位を践み朕が親愛する所の臣民は即ち朕が祖宗の恵撫慈養したまいし所の臣民なるを念い其の康福を増進し其の懿徳良能を発達せしめむことを願い又其の翼賛に依り与に倶に国家の進運を扶持せむことを望み乃ち明治十四年十月十二日の詔命を履践し茲に大憲を制定し朕が率由する所を示し朕が後嗣及臣民及臣民の子孫たる者をして永遠に循行する所を知らしむ

本節は帝権の由来を示し、且此憲法は明治天皇陛下より出づるものにして所謂欽定憲法なる所以を明にし、且憲法制定の理由を示されたるものなり。 其理由とは即ち、

(一)
朕が親愛する所の臣民は即ち朕が祖宗の恵撫慈養したまいし所の臣民なるを念い
(二)
其の康福を増進し其の懿徳良能を発達せしめむことを願い
(三)
其の翼賛に依り与に倶に国家の進運を扶持せむことを望み

等の句あるに依て明かなり。 熟ら右三箇の聖旨を考うるに、祖宗の遺烈を承けて日本の国家を保持し給うは、素より天皇の特権なりと雖も、之を保持するには二様の方法ありて、天皇は正しく其一を取りたまえることを明にするものなり。 二様の方法とは、第一専制主義に依り事々皆上の政令を以て之を処し、臣民をして唯々服従せしむること、第二立憲愛民の主義に従い、君民協力以て国家を維持する事、是なり。 而して日本の臣民は、天皇の祖宗の恵撫し給いし所なれば、天皇も亦之を愛育したもうは、祖宗に対する孝道の命ずる所なるのみならず、臣民康福の増進及懿徳良能の発達は、上の政令に服従するより起らずして、下をして上と共に発動せしむるに起るものなれば、専制の主義を捨てて愛民の主義を取りたまいしは、論を俟たざるなり。 就中国家近時の進運に於て列国と対峙し、民力を以て国本とせる世界列国と交際して国威を損せざるの一点に於ては、臣民をして国家の一部として発動せしむるの必要あり。 是れ実に維新以来日本帝国の国是とする所にして、曩に明治十四年十月十二日の詔明あり、次て此大憲を制定したまいし所以のものは、全く外ならざるなり。 即ち曰く「明治十四年十月十二日の詔明を以て履践し茲に大憲を制定し朕が率由する所を示し朕が後嗣及臣民及臣民の子孫たるものをして永遠に循行する所を知らしむ」と。 是れ即ち臣民に対して天皇及び天皇の後嗣は、必ず此憲法の規定に従い、愛民の主義に基き、其統治権を行わんことを約したまえるものなり。

第二節

国家統治の大権は朕が之を祖宗に承けて之を子孫に伝うる所なり朕及朕が子孫は将来此の憲法の条章に循い之を行うことを愆らざるべし

本節は日本国家を統治したもう大権は、天皇が皇祖皇宗より承け継ぎたまいたるものなれば、今後と雖も天皇及天皇の子孫に属すること勿論なること、并に今後は必ず憲法の箇条に従い此大権を行わるべく、擅に行い玉うまじき旨を載せたるものなり。 換言せば本節に依て国家統治権は皇室の世襲に属すること、及之を行うは憲法の箇条に従うことを明定せるなり。

第三節

朕は我が臣民の権利及財産の安全を貴重し及之を保護し此の憲法及法律の範囲内に於て其の享有を完全ならしむべきことを宣言す

本節は立憲愛民の主義を事実に現わしたるものにして、臣民の権利及財産と雖も、国家を保全し其目的を達するに必要なるにあらずんば、之を減殺することなく、止を得ずして之を減殺するときと雖も、憲法及び法律の範囲内に於て為すとなきものなることを約したるものなり。

第四節

帝国議会は明治二十三年を以て之を召集し議会開会の時を以て此の憲法をして有効ならしむるの期とすべし

本節は憲法有効の時期を定めたるものなり。 即ち憲法は已に制定せられたりと雖も、法律に至ては已に制定したるものの外尚将来に於て制定すべきもの必ず多かるべし。 而して此等の法律は天皇及政府の意見を以て擅に之れを制定するは、所謂臣民の翼賛に依り倶に国家の進運を扶持するの主義に戻るを以て、明治二十三年を以て此憲法を有効ならしむると同時に、帝国議会を召集し、之より以後は帝国議会の協賛を経るにあらざれば法律を制定せざる旨を示したるまえるものなり。

第五節

将来若此の憲法の或る条章を改定するの必要なる時宜を見るに至らば朕及朕が継統の子孫は発議の権を執り之を議会に付し議会は此の憲法に定めたる要件に依り之を議決するの外朕が子孫及臣民は敢て之が紛更を試みることを得ざるべし

本節は憲法改正の手続を定めたるものにして、尤も大切なる事項を包含す。本節に依て見れば、天皇及天皇の後嗣及臣民は妄りに憲法を変更するを得ず。 之を変更するには左の五件の必要なること明なり。

(一)
或る条章を改訂するも憲法全体を変更すべからざる事
(二)
必要なる時期を見ずして改定すべからざる事
(三)
改定案を提出するの権は当代天皇の特権に在る事
(四)
改定は帝国議会の決議に依る事
(五)
議会に於る憲法改定の決議は此憲法に定めたる要件に依るべき事

想うに憲法に関する条項中其改定に付ての手続きを定めたるものは、尤も大切なるものなり。 何となれば憲法元来神定にあらず。 故に将来之を改定するの必要に遭遇するは免れざる所なり。 然れども之を他の法律と同様なる手続を以て改せしむるは、軽率の嫌あり。 其方法厳重に過ぐるときは、遂に国乱を生ずるの恐あり。 故に寬厳其宜しきを得ざるべからず。 要するに前文の此節に於て特に改定の事を載せたるは、其事の極めて緊要なるが為めなり。

第六節

朕が在廷の大臣は朕が為に此の憲法を施行するの責に任ずべく朕が現在及将来の臣民は此の憲法に対し永遠に従順の義務を負うべし

本節は国務大臣は此憲法を円滑に施行するの責任あること、並に吾人臣民は如何なる事情あるも、永遠に此憲法に服従するの義務を脱する能わざることを喩したまえるものなり。 想うに大臣に憲法施行の責あるは勿論なりと雖も、若し之に遵して施政することを欲せざるときは、其職を辞するの自由あるものと云うべし。 然り而して大臣若し其施政上に於て憲法に遵せざるが如きことあらんが、欧州大陸諸国の如き、大臣責任法なるものありて相当の罰を之に当つることありと雖も、我国に於ては其法なきが故に、違憲の制裁は単に辞職に止ると云うべし。 尚大臣責任の事に関しては、第二編第六章に於て詳述する所あるべし。 之を要するに帝国憲法の前文は憲法の正条中に載する所の事項中に於て特に大切なるものを布延し、併て憲法大体の趣旨を表示せられたるものなるを以て、其無用の文字にあらざるや論を俟たざるなり。

脚注

(1)
封ずる とは - コトバンク
(2)
武門 とは - コトバンク
(3)
流竄 とは - コトバンク
(4)
会には「たまたま」という訓読みがある(藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社、54ページ⑥)。原文では「曾ま」と表記されている。
(5)
原文では「尋で」と表記されている。
(6)
原文では「尋で」と表記されている。
(7)
会には「たまたま」という訓読みがある(藤堂明保編『学研漢和大字典』学習研究社、54ページ⑥)。原文では「會たま」と表記されている。
(8)
しゃくしゃく【綽綽】の意味 国語辞典 - goo辞書。原文では「淖々」と表記されている。
(9)
大旱の雲霓 とは - コトバンク。原文では「沛旱の雲霓」と表記されている。
(10)
原文では「尋で」と表記されている。