『洋行之奇禍』 その6

last updated: 2013-01-23

其五

七月の初め僕は飄然として東京に帰りしが真に是れ一箇の天竺浪人、帰らんと欲して天下に家なし、是に於て俄に容易の化の皮を取り出して之を被り、東京上りの田舎者、村役場の村長にはあらずして其又手先に使わるる月給取の御役人、腰弁当の書記殿と化けて車声鱗々、威風堂々として江戸を見下す駿河台に巍峨として聳ゆる某高楼の門へと乗込めば、宿の夫婦は下女諸共に玄関の板の間に三本指をば突き立てて平身叩頭能くこそ御上京遊ばれたと慇懃に我を迎うる彼等の面には十枚の化の皮が貼り付けられたり、 扨は世の中は化物の寄り合、化物の化かし合かなと笑いつつ先立つ一人の下女に案内せられて二階の一間に入り込んで先ず一休息、大威張の空威張に何つしか化の皮は剥ぎ取られ、怪しき書記殿は消え失せて、残るは矢張り一箇の天竺浪人、ああ面白し面白し、 浪人生涯も亦面白いかな、顧みれば一週間の帰省、夏蝿かりし悲しかりしか夏蝿き役目も済ませたり、悲しき経験も終りたり、 最早思い置くこと更に無し、此よりは坐して十六日の出帆を待ち受け、眠りて太平洋を横ぎれば一朝夢覚むると共に身は已に米国に在り、文明開化の亜米利加州、自由の風吹く華盛頓は大和櫻の夫れならで解語の花の盛りとや、出でや此より一枝を折り帰りて大和櫻を愧じしめんは是れ亦浮世の一興ならんか、 ああ面白き浮世かな、気楽なる浮世かな、憫れなる都下百万の者共よ、気息奄々として東奔西走するは何の為めぞや、万丈の紅塵に汚されつつ泥中に潜入して採り取らんと欲するものは夫れ何物ぞや、

僕は気楽にてありしが、否よ、世に爆裂弾を背負て気楽なりと笑う者あらば彼は発狂者の一人である、僕は実に恐るべき爆裂弾を背負えり、 一たび破裂するときは身首処を異にせざれば蓋し幸なり、僕は之を投げ棄てんが為めに如何に力めたるか、 然れども遂に之を果すこと能わず、今や之を背負いながら万里の行程に上らねばならぬ、気楽か気楽にあらざるか、危険か危険はあらざるか、 二年も立たぬ其内に爆声一発耳を破りて援なき天涯の孤客を傷つけ、彼をして幾度か死生の淵に彷徨せしむるに至れり、傷痕尚お未だ除かず、永く五尺の身体と共に地中に滅せざるべし、人生恨事多し、 天は僕に与うるに鬼を凌ぐの強腕を以てせざると共に仙女を欺くの細腰をも以てせざりし、世には生れながらにして身に欠点を備え人力を以て救う能わず、憐れ人間の一生をこの悲哀の裡に葬る不幸者あり、彼には罪なくして天に罪あり、天に罪なければ何人が其罪を負う者なくんばあらず、 僕は幸にして此の如き不幸者と為りて此世に来らざりし、一生を悲哀の裡に送るが為めに天より此生を享けざりし、 僕は全き身体を有して生れ来れり、人間最上の快楽を得るが為めに此生を授かりしなり、図らざりき己れの遇に依て身を傷つけ完き物をして完からざる物と為し、 人生の快楽を減殺して人知らずの間に苦痛を受け、多年の計画をして殆んど水泡に帰せしむるに至らんとは、乞う其何事なるやを一言せよ、

山高く水清き渓川の辺に育てられたる田舎者は病の何物たるを知らず衛生の何事たるを弁えざるが故に、一たび都市の空気に触るる時は思も寄らざる病毒の為めに侵されて測らざる禍を被るは珍しからざることなるが僕は実に其一人である、 東京に来りし翌年フト風邪に懸りたるが因と為りて、左の肋部に些少の痛痒を感じたるが故に医士をして之を窺わしむれば軽少なる肋膜炎の発生せるものあり決して憂うべきことにはあらざれども暫く服薬せざるべからずと言う、 僕は生来初めて此病名を聞きたり、而して其如何なる性質のものなるやを解せざりしも彼が言に従て二三週間服薬すれば病は何れにか去りたるものの如し、 然れども其時に彼は全く去りたるにあらずして何れの処にか潜伏し機を見て衰勢を挽回せんとしつつありしことに気付かざりとは僕も亦一種の耄碌とや云わん、爾来十余年の間は変現出没極なく、有るものの如く無きものの如く、殆んど捕捉する処を知らざりしが、 今回此地を去るに当り或る国乎をして身体検査を為さしむれば彼は其病未だ根絶せざるを以て大に注意を加えざるべからず、 殊に之を負て外国に渡るは頗る危険なりと警告したれども僕が当時の事情は此警告に従うこと能わざりしを如何せん、 区々たる一病何事かあらん、十年の間蟄居閉息して僅に余喘を保てる一病魔、今に及んで我を害せんと欲して来らば来れ、 我に弾丸あれば弾薬あり、砲声一発立ろに汝を殲滅せんとは痩我慢の甚だしきものにして心窃かに此強敵を恐れたるも此時に当って如何とも施すの策なく、運を天に任せんと誓い、石橋の金槌主義を排斥して大概主義を採用したるは明か不明か是れ一の疑問なり、

斯る次第にてありしが故に出立の前日友人等相集り盛大なる送別会を開き呉れたる時、僕は身体上に憂うべき欠点あるが故に此が諸君と永久の訣別となるやも知れずと述ぶれば、毒舌に妙を得たる某氏は賺かさず起て次の如くに喋べり散らした、

「某君は死んで帰ると言ったが我輩は同君が死んで帰らるることをば切に希望するものである、 其には三つの理由がある、第一に同君は常に先輩を凌がんとするの傾があるが此は甚だ可くないことであるから、此点は是非共死んで帰らなくてはならぬ、 第二は同君は功名を急ぐの傾があるが功名は急いで得らるべきものにあらざれば此点も死んで帰らなくてはならぬ、 而して、第三には多くの洋行者は帰朝早々徒らに汰法螺を吹いて空威張をするが此は心得違の甚だしきものなるが故に此点も亦死んで帰らなくてはならない、 以上の三点に付て我輩は某君が潔く死んで帰らるることを望むのである、」

此は何たる毒舌であるか、実に蝮以上の毒舌である、併しながら僕に向ては全く理由なき論弁であった、 僕は苟も先輩者を凌がんとする如き傾向を現わしたることは更に無い、素より僕に先輩者を凌ぐだけの手腕あれば先輩者でも誰でも之を凌ぐに於て少しも遠慮するものあらざれども不幸にして僕は斯る手腕を有せず、却て後進者の為めに凌がれて居るのである、 又功名を急ぐなぞとは僕には全く想像の出来ないことである、何ぜなれば僕が眼中には功名と名の付くものは一つもない、僕は功名の何たるを解する能わざる動物である、 夫から洋行者が汰法螺を吹くと云うことは多くの者には効能ある良薬なれども僕自身は斯る薬を貰っても別に附ける処がないから其子自身に御用いなされと其儘返上せり、 僕は元来汰法螺なるものの吹き方を知らず、又之を学ばんと欲するものにもあらず、思うに某氏は喋べらざれば飲む能わず食う能わざるの奇病に苦むが故に此毒舌否な愛すべき快弁を振って僕に向て死んで帰れとの注文を為したれども運命なる邪魔者の為に妨げられて之に応ずること能わざりしは僕に取ては寧ろ不幸である、

出発期日は迫り来れり、僕は住み慣れし郷国を去て遠く北米に至り、エール大学に遊ぶこと二年にして英国に渡りケンブリッジ大学に居ること一年、夫れより欧州大陸を漫遊して四ヶ年の後に帰朝せんが為めに明日此地を出立せんと欲す、