『洋行之奇禍』 その9

last updated: 2013-01-23

其八

一年は瞬く間に過ぎ去れり、此より三箇月間は我がものなり、何れに行かんか、市内に止まらんか、是れ最上の愚策なり、海岸に出でんか、大西洋の海岸は長しと雖ども須磨や明石や大磯や鎌倉の白砂青松に比すべきもなきを如何せん、 出でや此れより山中に遁れて暫く林間の風月を楽まんと、学友実山君と共に二百哩の外なるマサチューセッツ州のノースンヒールドと称する片田舎に向て旅立せり、四面山を以て囲まれ名に負うコンネクチカット河は流るるが如く流れざるが如く洋々として其中央を貫き、両岸一帯の広野は生え繁る緑の芝生を以て蔽わるる処、 点々として数多の煉瓦屋を見る、是れぞ宗教界に其名高きムーデー氏の宗教学校なり、彼は数年前に死去したれども彼が遺物たる此学校は彼が芳名と共に千歳の下に伝わるべし、 此処は毎年夏期三箇月中は宗教家の巣窟と為り、之を初めにしては東部百数十の大学学生の宗教大会あり、之に次では女子大学生、其次に来る者は一般の信者、 其が終れば世界各地よりの基督教徒の代表者、或は聖書の研究と云い或は讃美歌の稽古と云い終日善男善女の有り難き泣声を以て天地は為めに震動するばかり、 僕は元来基督教徒にあらざるが故に特に此所を目指して来りしは善男善女の列に加わり神の御声に随喜の涙を流さんが為めにあらず、 一つには大学生会の本部より招待を受けたるが故に之を拒むは礼にあらざるを思い、 二つには種々の人と交際するは見聞を広くするの所以なるを思い、 三つには此地は避暑地として甚だ適当なる場所なるを聞き、彼や是やの理由の為めに此処に来て二ヶ月有余を費した、

東部百三十有余の大学生の代表者として此処に集まれる健児は二千名許り、其他特に招待を受けて集り来れる同胞は僕を合せて都合十五名、多数の学生は此処彼処に散在せる天幕の内に起臥するに拘わらず我々の一連は遠来の珍客と云う訳かは知らざれども別に大なる建物中の広き一間を供せられ十五人の面々は共に集って十日の間此内に同居することとなりしが、 見れば何れも基督教の心酔家、前後夢中の有難家ばかり、其番外に位せる者は実山氏と僕あるのみ、実山氏は同志社及び東京文科大学に於て修業せられたる人なるが故に系統より云えば有難家連の列に加わるべき人なれども氏は亦一の見識を有し、唯に基督教を奉ぜざるのみならず其当の敵たる仏教熱心家にして基督教徒よりは謀叛人を以て目せらるる一人である、 僕自身は元から無宗教家の一人、少くとも仏教や基督教や其他印度、埃及、希臘、羅馬の太古より今日迄の間に現われたる種々雑多の宗教は到底僕の奉ずる能わざる処である、 素より宗教なる文字を広き意味に、寧ろ適当なる意味に解するときは僕も亦確かに宗教信者の一人なれども、 今日最大多数が想像する如く宗教と云えば仏教や基督教の如き歴史的宗教のみを意味するものとせば僕は宗教以外の人間なるが故に、此等の者に向ては無宗教者なりと宣言するの外はない然れども僕は食わず嫌いの感情家にあらず、 辛い甘いの分かるまでは口を着けた積である免倒臭いバイブルも之を読んだ、幾度か抛って幾度か拾い上げ、遂に之を読み平げた、 基督教家の説法も屡々耳にした、碌々たる一山百文の乞食伝道師の寝言のみにはあらずして堂々たる基督教国に於て俗事一切を抛げ棄てて一生を之が為めに委ぬる真の宗教家、真の哲学者と幾度か議論を闘した、 又釈迦の経文も少しは目を通した、仏教に関する数多の著書も大体は覗うた、仏教家の説法も耳にした、 愚夫愚婦を騙かす田舎の阿呆坊主の夢物語のみにはあらずして天下に名を得し名僧智識の腹の中をも採りて見た、 哲学や社会学に関する諸大家の著書も力の及ぶ限りは参照した、 而して此等の結果僕は到底歴史的宗教の奉ずるに足らざるを自覚したのである、然らば僕は全く宗教心は持たずして一生餓鬼道の巷に立て苦悶憤死するやと云えば夫れ程の馬鹿でもない、 僕は僕の考にて所謂安心立命の基礎を定めて居る、僕は僕自身の宗教を奉して居るのである、

僕は人間世界に宗教の必要なることを知る、昔から人間の居る処には如何なる場所にも形こそ異なれ必ず宗教と名の付く一種の怪物が現われて人間を支配せることを知る、 又此怪物が獰悪なる人間の心を知らけ社会の改良に偉大なる効力を与えたることを知る、 人間社会を成立たしむるに付ては法律の必要なるが如く政治の必要なるが如く宗教の必要なることは百も千も知れるが故に徒らに宗教の攻撃を企つるものにあらざれば宗教家を罵倒せんと欲するものにもあらず、 又彼等を迷信者なりと笑うものにもあらず、世の中の事は煎じ詰れば皆是れ一種の迷信である、滔々たる世俗は悉く迷信者、斯く言う我輩自身も亦迷信者の一人、豈に当に宗教家のみならんや、 迷信可なり、迷信決して不可ならず、迷信でも何んでも人間は一の確信を有するものほど強きものはなし、確信を有せざれば蛍の光を見ても肝を潰すのである、 夫れ故に穴守稲荷でも成田不動でも蓮門教でも帝釈天でも信じ得べき者はドシドシと信ずべし、 之を笑い之を冷かすが如きは未だ人間世界の真想を知らざる乳臭き輩である、 併しながら又飜て考うるときは信仰なる者は利益あると同時に驚くべき弊害の伴うものである、此弊害は小にしては人間一人なれども大にしては社会、国家、尚大にしては全世界に影響を及ぼすものなるがゆえに苟も経世の志ある者は常に注意を怠るべからざることである、 僕は今此等の弊害を挙げんと欲せば過去に於ても現世に於ても枚挙すべからざる程の適例を有すれども斯る事をば書き立つるは此書の目的にあらざれば一切之を省かねばならぬが、 省くべかねばならぬが、省くべからざるは日本の基督教徒である、僕の見る処に依れば彼等の最大多数に実に忌むべき厭うべき弊害に墜れり、 彼等は自ら之を悟るや否やは知らざれども若し之を悟らざれば此より大に悟るべし、若し之を悟らば之より大に戒むる所なかるべからず、

僕は日本の基督教徒を目して偏狭の弊害に墜れりと云う、一たび彼等と交際せし者は何人も直に気付くなるべし、 彼等は彼等自身の間に於て一種の別社会を造りて始終其社会内の空気のみに感染せるが故にいっこうに他の社会の事情を知らない、 従て自分の社会のみを以て最も完全なる社会なりと心得て他の社会は悉く憫れなる不完全のものと誤解して居る、 此誤解が因と為りて更に他の誤解を出す、即ち彼等の社会に属する者は彼等の眼中には賢者にして善人の如くに映ずるも他の社会に属する者は愚者にして悪人の如くに見ゆる、 更に之が因と為りて他の社会員をば悪み之を疎んじ且つ之を排斥せんと企て、恰も政党員の為す処を為さんと欲す、 宗教は政党ではない、名利の奴隷たる俗輩を以て組み立てられたる政党とは全く訳が違うから宗教家が政党員の真似をするに至ては最早沙汰の限りではない、 唯に夫れのみならずマダマダ不都合なることがある、彼等は聖書を丸呑にし坊主の寝言を本当に受けて居るから、苟も聖書の文句を論難し坊主の説教を批評し、又は基督教の教理に向て攻撃の矢を放つが如き者を見るときは彼等は躍起となって腹を立てる、 去れども苟も宗教家たる者が己れの奉ずる宗教を攻撃せられたりとて直に腹を立てるが如き度胸の狭いことにて何くんぞ凡夫を済度することが出来得るか、 聖書の文句を論難する者あらば之に応じて論難を闘わすべし、坊主の説教を批評せんと欲する者あらば彼と共に批評すべし、基督教の教理に向て矢を放つ者あれば其矢を受け返すべし、 然る処が彼等には情けない哉夫れが出来ない、出来ない筈である、一体聖書なるものは今日進歩したる学理上より見れば論にも句にも掛らない程に馬鹿げた話や馬鹿げた理屈を以て充たされてある、 其をば彼等は丸呑に呑み込んで居るから議論を吹き掛けらるると雖も之に応ずる能わざるは当然の事である、 而して彼等は徒らに腹を立てて遂には人を嘲り人を悪むに至ては賤しき婦女子の根性よりも尚お賤むべしと評せざるを得ない、 宗教家たる者は他人より如何なる事を吹き掛けらるるとも決して腹を立つべからず、諄々として法を説き信仰を語り、彼等を済度するは宗教家の任務にあらずや、 其を為す能わざる者は宗教家たるの資格はない、パンの為めに法を説く乞食牧師にあらざれば利の為めに信仰を口にする卑劣教徒である、

次に来るべき彼等の弊害は因循である、彼等は常に神と称する仮定の目的物を想像して人事一切を神の所業に帰せり、 而して一方には罪と名づくるものを仮定して人間に落ち来る一切の悪事災難は皆是れ罪の結果である、 我が犯したる罪に対する罰として神の下し玉うものなるが故に此悪事災難より逃れんと欲せば神の援を受くるより外に途なしと、斯様なる忘想を抱くが故に、 貧乏するも己れの精力を尽して其苦境より逃れんとするの念慮は甚だ乏し、災難に遇うも自ら進んで之を追い払うの勇気がない、 安閑として為す処なく「天に居ます我等の神よ授け玉え」を百たび千たび繰り回すと雖ども自ら援けざる者を救けず、 彼等口遂に泣言を吐き怨言を漏らして果ては神を恨むに至る、僕が知人にして幼少の時より基督教に志し、京都の同志社に入りて多年神学を学び、出でては基督教の牧師と為り、更に遊んで米国某神学校に於て神学の蘊奥を究めつつある際、不幸にも愛児死亡の訃音を手にせり、 彼は驚き且つ悲み、失望落胆の極泣て訴えて曰く、余は此迄夫婦相睦まじく暮し別に世の中に於て悪事を働き罪を犯したることなし、 然るに何が故に神は余が愛児を奪いたるや、又余は未来永久此愛児に遭遇することを得ざるや、若し遭遇することを得るとせば何れの処に於て彼を見ることを得るやと、 彼は実に之が為めに迷い此問題を決せんが為めに日夜苦悶するも遂に之を決する能わず、精神錯乱して憐れむべし彼は発狂の有様に落れり、学識ある彼にして已に此の如し、滔々たる教徒の為す所は言うに足らざるなり、

彼等は又善事を口にし博愛を説くと雖ども、彼等が偶々実際に施さんとする慈善博愛は実に浅薄である、 徒らに其名を得んが為めにする皮相(注1)上の慈善博愛に過ぎず、加かのみならず彼等は頗る世界の事情に迂遠である、人間の真価を知らざるがゆえに何処までも慈善博愛が行わるる如くに心得て居るなれども今日の世界は斯様なる世界ではない、 慈善博愛の行わるる区域は実に狭い、広き世界に立て活動するには斯様なる文字のみに拘泥して居ることは出来ない、 此点に至ては欧米人は実に活眼を有せり、彼等は基督教国の人民なるにも拘わらず彼等が活動するに当ては斯る小事を眼中に置かず、 彼等は或る物を得んが為めには斯る小事を打ち捨てて勇往邁進するのである、見よや彼等が外交政略を見よ、彼等が外交政略には苟も慈善博愛と称する分子が含まるるか、 世界に於て尤も慈善博愛に反する外交政略を取る者は欧米基督教国の人民にあらずや、燃ゆるが如き人間の欲望と激烈なる世界の競争場裡には慈善博愛を容るるの余地は甚だ狭し、 然るに日本の基督教徒等は此事情を知らず、慈善博愛の臆病風に吹かれて活動力を失い、死人の如くに眠って居るのである、

章を代えて更に一言せしよ、

脚注

(1)
原文では「皮想」と表記されている。