『洋行之奇禍』 その16

last updated: 2013-01-23

其十五

英雄の鉄腹も美人一滴の紅涙に依て融けて無くなるとは真なるや否や、曾て美人の紅涙なるものを見ず、英雄を擬せんと欲して能わざる某に於ては此間の消息は得て解する能わざる処なりと雖も、由来女性なる者が有する自然の魔力は天地を和合し万物を融化せしめずんば止まず、 見よや春と名づくる女性は如何に天地万物を悦ばしむるや、春の見舞う処は天も笑えば地も笑う、鳥も歌えば蝶も舞う、無情無心の草木すらも錦を飾って笑い出すにあらずや、 をを女性、春子嬢!汝は一の女神である、而かも最も慈愛深き女神である、天地は汝の恵に依て満たされ、万物は汝の恵に依て湿わざる、若し夫れ天地間に於て汝の恵を享くる能わざるものあらば是れぞ世の不幸者である、

一月は過ぎ二月も亦将に去んとし、今やニューヘブンの天地は春子嬢の見舞を受くるの時と為った、鳥未だ啼かず花未だ開かずと雖も陽春の気は已に天地を蔽い軟風万物を払うて万物為めに眼を覚まし、昨冬より降りては積り、積りては凝り、凝りては解けざりし白雪も今は漸くに消え失せて、道路は再び自転車を滑らすの時節と為った、 時しも二月の廿七日、数日来の曇天は朝来徹雨を斎らし煙霧市街を蔽うて市街は為めに暗く暖気一時に加わりて湿気室内に満つ、 時ならぬ入梅の候は来れり、病者は為めに床中に呻き、無病者と雖も頭痛を悩まざる者はなし、アア何んたる不愉快なる気候なるか、 僕は朝来一室に閉じ籠りて机に向いつつありしが心意常如くならず、午後に至ては一層の不快を感じて何んとも室内に居るに堪えざりしを以て書を抛て戸外の散歩を試みたるも是れ亦欝気を散するに足らずして直に引き返した、晩景力めて食堂に趣きしも一匙を口に添ゆること能わず急ぎ帰りて床中に横われり、 是より先き同胞学生間に於て米国研究会なるものを組織し、各々自己の得意とする事を述べて相互に智識を交換せしが、丁度其夜此会を開きて、僕は米国の政治機関に就て一場の談話を為すこととなれり、 然る処が僕は其役目を果す能わざるのみならず欠席の通知をも為すことが出来ない、一方に於ては会員は集まり、待てども待てども僕の来らざりしかば何か故障か起りしならん、 夫れにしても断りもなく欠席するは不都合なるが故に帰り途に立ち寄りて模様に依ては不都合の段々をば責めて呉れんと、夜中実山、柴田の両友入り来りしが、彼等は床中の病者を見るや一驚を喫せり、 何も食べなくては実に困る、果物なれば食べそうなものであると言いつつ柴田君は立ち出でて沢山なる果物を買い来りしが、僕は平常大好なる其れすらも口にすることが出来ず、みすみす両君に平らげられた、

翌日に至ても病状は更に変ぜざりしを以て僕は直に入院することに決した、米国に客たる者は病に遇えば直に之を病院に避くるは策の上なるものである、 米国の宿屋は或る点に於ては日本の宿屋よりも遙かに便利なれども病の時に当りては其不便言うべからず、 食せんと欲せば外出せざるべからず、外出せんと欲せば免到臭き洋服を着用せざるべからず、 顔を洗わざるべからず、髭を削らざるべからず、鏡に向て紙を梳らざるべからず、帽子を被らざるべからず、履を穿かざるべからず、其他一事を為し一物を取るに於ても妄りに人を使用することを得ず、何くんぞ日本的横着者の堪ゆる処ならんや、 其上外医の来診を乞うときは非常に不経済なるのみならず、医薬分業の法則に依て薬を得るが為めに薬舗に走らざるべからず、 此等の不便を避け不経済を拒ぐには病院に遁がるるに如かずとは前回の経験に依て知り得たることなりしが、好ましからざる経験は再び迎いに来れり、

三月の一日早朝、同宿の西池氏は僕の為めにグレース病院に至り入院の旨を伝え一輌の馬車を雇うて帰れり、僕は日本服を纏い日本足袋と日本雪駄を穿きたる儘階段を降りて氏と共に馬車に入らんとせしとき、 宿の主婦は出て来り「何卒早く帰て下さいよ、私は一日も早く貴方の病気が治ることをば毎日神様に祈ります」と言って堅く手を握った、 僕は「有難う何に別に心配する程のことはない一週間過ぎたら必ず帰て呉る」と言って彼に報いた、 此家の一人娘、五六歳の無邪気盛りの頑是なき其娘は僕が常に尤も愛せし幼児である、彼は金髪を振りつつ走り出で転らぬ口にて「斎藤さん何処に行くの」と言ったから「僕は一寸病院に行く」と答うれば「お母さん私も共に行こうか」と言て窃に母の顔を覗けば主婦は「斎藤さんは直に帰って来られるからお前は内に待ってお居で」と言て頭を撫でられ彼は稍不平なる色を現して黙した、 馬車の戸扉は閉じられた、御者は車前に上れり、「ゲット」の掛声と共に馬は動けり嗚呼僕は一週間の後に此家に帰り得たるか、否なよ、僕は今地獄に落ちつつある、 進み行く馬蹄の音と共に地獄の釜に近づきつつある、僕が運命は已に目前に迫った