『洋行之奇禍』 その23

last updated: 2013-01-23

其二十二

ちょっと切れば済む、少しも懸念することはない、二週間の内に全治退院は確かである、凡そ此等の言は三人の医者が異口同音に僕并に僕が友人に向って明言したる語である、 而かも差し迫って必要なき治療を勧めるが為めに明言したる保証である、僕が外人なることを知り、又学生なることを知りつつ、世にも名高き文明国の医者が世にも珍しからざる平凡なる病に関して明言したる意見である、 僕が一心に此意見に信頼して去就を決したるは僕の過であるか、 若し僕の過であるなれば其過より生ずる結果は何事に拘わらず僕自身に於て引受けねばならぬ、所謂自業自得であるから誰に向ても少しも不平を訴えることは出来ない、 去りながら僕の過でなかったなれば何うであろうか、僕が受けたる結果に付ては世間何れの処にか其責に任ずる者が無くてはならぬ道理である、此は所謂社会の公理と称するものである、而して其責に任ずる者は誰であるか、言わずして病院である、

彼等は軽率であるか、怠慢であるか、無智であるか、無経験であるか、何れにせよ医者として許すべからざる大過失を為して僕に向て終生回復すべからざる大害を加えた、 僕は之が為めに身体及精神の上に於て如何程の損害を受けねばならぬか迚も測り知ることは出来ない、又僕は之が為めに目的の上に何程の妨害を受けたか、 僕が多年の経営は全く彼が一刀の下に両断せられた、其他彼の大過失より生ずる損害は数えんと欲するも数うることは出来ない、然るに何んぞや彼等は自己の過失に付て毫も悔悟するの色なきのみならず一言の謝辞をも述べたことはない、啻に夫れのみではない、 彼等は五ヶ月の長き間病院として尽すべき注意を尽さなかった、夫れでも僕は何んとかして此病から脱れたいとの一念が凝って幾多の苦痛に堪え幾多の不平を殺して忍耐に忍耐を重ねて今日に至ったのである、 又其間彼等は幾度となく病は直に全治すると確言したから一心に其言に信頼して其日の到来するを俟ちつつ遂に今日に至った、 然るに今日に至ては種々の虚言を吐き仮言を設けて己れの過を蔽い益々僕を瞞着せんとし、運動も自由ならざる此病者に向て汝の病気は何つ全治するか分らぬから或る物を払て退院せよと放言するに至る、 此が文明国の病院である、此が基督教徒の仕業である、今黙して此場を過ぎ去るは僕に取りては尤も容易なる事である、去りながら此儘に黙して止むか人間として殊に日本人としての僕の本分であるが、法律家として僕の本分であるか、道徳は僕に向て何を要求するか、社会は僕に向て何を要求するか、沈思熟考を要するの時は来った、

日本人としての立脚点から考えたなれば何うであろうか、僕が此国に来て何より先きに感じたことは人種上の関係であった、又平常何より不快に感ずることは白人が黄人をば眼下に見下して居ることである、 尚お一層不快に感じ憤慨に堪えないことは我が同胞学生の中に頗る卑屈なる者が多きことである、 彼等の態は一体何んであるか、白人と見るときは貧乏下宿屋の鬼婆でも有り難たがって居るではないか、新聞売の乞食小僧にでも諂を呈するではないか、 彼等は白人の前には猫の前の鼠である、小さき者が益々小さく為って居る、主人の前の奴隷である、如何なる侮辱を加えられても一言の返報を為すことは出来ない、同胞の或る者等が下宿せる宿屋の乞食婆が日本人は泥豕であると悪口を吐いたことがあるが夫れでも彼等は何に一つ言うことは出来ずして戦々兢々として陋室の一隅に縮み込んで居るではないか、 まだ夫ればかりではない、彼等の多数は亜米利加乞食である、十年居る十五年居ると言て威張って居るが一体何をして居るかと云えば乞食同様の事を為して此処彼処に漂い廻わって居るではないか、 銭が無ければ乞食と為るも致し方はない、乞食と為りても学問を為そうと云うなれば感心である、褒めてやっても可いが彼等には毛の頭ほども褒めてやる処はない、 三日乞食をすれば一生忘れられないと云うが丁度其通り、彼等は乞食の味を覚えて慢性乞食と為って居る、 口や手のみの乞食でなくして心の底までも乞食と為って居るから彼等の乞食根性と云ったら聞くも嘔吐を催すばかり、彼等が平常口にするは銭である、銭より外には何も言うことを知らない、 銭の前には心もない道理もない学問も何もない、斯んな奴等が学問を為すなぞとは以て外のことである、斯んな奴等が少しばかりの横文字を囓ったからとて夫れが実際に何の役に立つか、 学問は道理を研究して人格を高むる為めに務むるものではないか、乞食根性と学問とは何れの処に於ても寸分も相容るべき余地はない、 斯る奴等は日本に更に用は無い、用は無いのみならず却て甚だしき害毒を流すものであるから断然日本の団結を脱したる上にて一生の乞食と為って死んでしまうが可いであろう、 畢竟するに斯る卑屈なる奴や乞食の徒が至る処に蔓延するから彼等白人の輩が我々を見下すようになり延いて我輩自身にまでも禍を及ぼすこととなる、 我輩が今日の禍を受けたのも畢竟するに彼等白人が我輩を見下げたる結果である、日本人なぞを欺くことは頗る容易である、 如何なる事を為すとも迚も反抗する様な気遣はなしと思うたから我輩に対して言うべからざる不都合なる処置を為したのである、 去れば我輩の禍は直接には病院の奴等が加えたものなれども間接には卑屈なる同胞乞食が加えたるものと云っても決して過言ではない、 彼等は啻に夫れのみではない、彼等でも日本に帰れば洋行帰りなぞと吹聴し、殊に十年二十年と長く居たことを以て手柄の如くに思うて威張らんとする、其実何を為して居たかと云えば下女奉公にあらざれば乞食道楽を為して下等社会も尤も甚だしき下等社会の群に加わりて尤も賤むべき亜米利加鼠のみを覚えて貴ぶべき所は少しも覚えない、吹けば飛ぶ如き「ハイカラ」と為り箸にも棒にも掛らない大馬鹿者と為る、 此が延いて他の真面目なる洋行者に大影響を及ぼす、社会は盲目を以て充たされてあるから洋行帰りと云えば誰も彼も一つに見る、 所謂玉石混合である、何は兎もあれ我輩は斯る卑屈なる乞食の真似を為すことは出来ない、道理の前には白人も黄人も誰れ彼れの区別はない、 我輩の信ずる道理に向て動くは人間として我輩の本分なるのみならず日本人として我輩の責任である、彼等をして日本人の欺くべからざることを知らしむるは従来を戒むるが為めに必要である、我輩は幸にして此機会に遭遇したのであるから決して之を遁がしてはならない、

法律の上より論ずれば僕は病院に対して何物をも払う義務を負わざるのみならず却て多額の損害賠償を要求する権利を有す、之は僕が種々の点より研究したる結論なるが其理由に至ては困難なる法理論に亘るが故に此所に述ぶるの必要はない、 併しながら若し此結論に誤謬ありと争う者あらば世間何人と雖ども苟も法律論を解する脳力を有する者なれば僕は相手に取ることを敢て辞せない、然らば此場合に於て僕は一の法律家として如何なる態度を取るが至当であるか、法律家たる者は自己の確信する法律上の議論を行うが為めには尤も適当なる手段を取らねばならぬ、 之が為めには世の情実を顧慮すべきものではない、如何なる障害をも排除しなくてはならぬ、俗輩の毀誉褒貶の為めに意見を曲ぐべきものではない、法律論の実行に向て左視右顧せずして勇往邁進するは法律家の本領であると共に重き責任である、而して僕が取るべき事は口にて言えば頗る単純である、 先方の請求を排斥して僕が請求を貫徹するだけのことである、併しながら此は実際に於ては頗る困難である、先方の請求を排斥するは此方か受方の地位に立つのであるから割合に容易であるが此方の請求を貫徹するは働方の地位に立たねばならぬから仲々容易の事ではない、 のみならず今日僕の病態に於ては全く実行不能の事であるから此は先ず時機の来るを俟つの外は無い、言うまでもなく他人に代りて権利義務の争を解決するは洋行前及洋行後に於ける僕の本職である、 然るに如何に病態と雖ども自分一己の権利問題を処分することの出来ない様なことにて何くんぞ他人の為めに其職務を尽すことが出来るか、 可し如何なる困難来るとも此問題は僕自身に引受けて処分しなければならない、事小なりと雖ども此は法律家として僕の責任である、

道徳は此場合に於て僕に向て何を要求するであろうか、彼等病院の奴等は道徳上の罪人である、彼等は僕が外人なることを知る、或る目的の為めに此地に来れる者なる事を知る、已に之を知る以上は彼等は若し誤を為したるときは僕が身上には非常なる影響を及ぼすことも亦知らねばならぬ訳であるから、注意の上にも注意を加えて手を下すは当然の事である、 然るに彼等は之を為さずして大なる過を為し夢にも思わざる災害を僕に与えた、啻に夫れのみならず虚言を吐き偽計を設けて僕をば全く死地に落らしめんと企てた、 之れしも道徳上の罪人と云わずして天下何れの処にか罪人あらんや、已に彼等は道徳上の罪人であると決した以上は其罪を罰せずして暗々の裡(注1)に葬るが道徳の意思であるか、僕は左様には考えない、 道徳は各人に向て道徳上の法則を遵法せよと要求すると共に他人の罪をば仮釈する勿れと命令するものである、 何ぜなれば他人の罪を仮釈するときは其罪をして益々増長せしめて遂には社会を攪乱し之を破壊するからである、 罪には必ず制裁が伴うことは独り法律上の事のみではない道徳上の事も同じである、唯法律上の制裁は国家が之を施し道徳上の制裁は社会が之を施すと云う差違のみである、 法律上の罪人を罰する能わざる国家は滅亡するなれば道徳上の罪人を罰する能わざる社会も亦滅亡せざるを得ない、 法律上の罪人を罰するが国家の責任なれば道徳上の罪人を罰するは社会の責任である、而して僕も亦社会の一分子であるからには其責任の一部を分たねばならぬ、況んや一般の社会は此事件に於ける彼等の罪をば知らない、 知らない者に向ては如何に道徳と雖ども何等の要求を為すことは出来ないから一般の社会は此件に付ては全く無責任である、 独り責任ある者は僕のみである、此事件を知る者は僕一人であるのみならず僕は事件の関係者である、唯一人の相手人である、又直接の被害者であるから彼等の罪に向て制裁を加える者は僕より外には無い、 此点に於て僕は一切の責任を負わねばならぬ、道徳は僕に向て彼等の罪を罰せよと要求して居る、此要求に応ぜなければ僕自身も亦道徳上の罪人である、悪を見て咎めざるが如きは陳腐の道徳である、之を咎めざる者は陳腐の聖人君子にあらざれば尤も狡猾にして責任を無視する卑劣の徒である、 斯様なる奴等の仲間入を為すことが嫌なれば僕は今に於て決心せねばならぬ、

社会と云う見地の上より観察すれば何うであろうか、病院なるものは世の中に於て尤も憐むべき不幸者をば収容して救護する場所ではないか、其場所に於て斯る悪事が行われたときには社会に流す害毒は恐れても尚お足らざることである、此病院には常に数百人の病者が居るが彼等の中には僕と同様なる禍を受けたる者も数多あることは容易に想像し得ることである、 現に時々病者の不平が耳に入ったこともある位であるから其実情を表面に現わしたときには何れ程の怪事が隠れて居るかも知れない、 此は所謂羊頭を掲げて狗肉を売ると云うものである、文明国の中に又基督教国の中に斯る病院が在って白昼公然悪事を働くとは実に驚くべき現象ではないか、社会の上より考えても僕は此儘に捨て置くことは出来ない、

斯く決心した上は何ずれ此の病院とは喧嘩を始めねばなるまい、何に高か知れたる彼等である、相手に取って何程の事かある、此位な事に気を痛めたる様なことにて広き社会の大喧嘩が出来るものかい、 此位な事は別に苦にするには足らないが兎に角斯くなった上は最早一時も此処に居ることは出来ない、速に立ち去らねばならぬ、如何なる豪傑と雖も敵の陣中に擒にせられて居ながら戦争が出来る訳はない、 何も蚊も退院後の事であるが、扨一つ困るは何処に立退かんかである、一たび激すれば生命をも奪い取る此恐ろしき病を負うて運働の自由は全く拘束せられたる此身である、自ら出でて行先を捜すことは出来ない、 去りとて僕が為めに奔走の労を取て呉れる者は一人もない、アア此時につい後月帰った親友の一人でも居れば大に相談相手に為るであろう、僕の為めに尽して呉れるであろうが今は言うても及ばぬこと、アア如何にせば可ならんか、 進退惟谷まるとは実に此場合の事である、何に此位な事にて屈するようなことでは役に立たない、一つ自ら出かけてやろう、斃れたら斃れた時のことである、行てボールドイン博士を訪うて医科大学教授に紹介を求め彼の意見を聴きたる後に於て所決せん、

斯く決心した時に小使が昼飯を運んで来たから之を済ませ直に洋服支度に取り掛りたるが其面倒(注2)実に言わん方なし、左手は全く遊んで居るから右手のみにて一時の弥縫策を施し、急ぎ戸外に出で歩むこと数十歩にして電車を捉うれば十分程の間にグリン公園の角に止まった、其処にて下車し群衆の間を切り抜けて更に歩むこと約二丁にして博士の事務所に至れば幸にして博士は内に居られた。

脚注

(1)
あんあんり【暗暗裏/暗暗裡】の意味 国語辞典 - goo辞書。旧字で表記するならば「黯々裡」となる。原文では「點々の裡」と表記されている。
(2)
原文では「免到」と表記されている。