『洋行之奇禍』 その24

last updated: 2013-01-23

其二十三

ボールドイン博士は当州大審院の判事にして法科大学の教頭である、教鞭を取ること四十余年、白髪頭を蔽うて年已に七十に達すれども其矍鑠たることは壮者も及ばず、其熱心と勤勉に至ては恐くは何人と雖ども匹敵することは出来ない、僕は幸にして博士の知遇を受け、博士に就て大に得る所あり、又博士は数回僕を病院に見舞われたことがあった、

博士は入り来る僕を見て大に驚いた、僕が述ぶる事を聞て大に嘆いた、僕が依頼を聞き喜んで之を諾し、直に二通の紹介状を認めて之を渡し、次の如くに言い聞かせた、

「此一通を以て先ず甲博士を訪えよ、同博士は或は旅行中にて不在なるやも知れず、然るときは此一通を以て乙博士を訪えよ、汝は両者何れかに面会するを得ん、而して能く其人の意見を聴きたる上に於て将来の方針を定められよ、」

僕は辞し去って直に甲博士の宅に至れば幸にして旅行中にあらざりしも外出中にて不在なりし、家人に其帰期を問えば大概四時頃には帰るから差支なくば上って待たれよ、又明日は早朝旅行に出て三週間は帰らずと告げ知らせたから、今日会わねば再び会うの時はなし、 待つに如かずと思うて茫然手を拱して一室に控えしが待つ程憂辛きことはなし、待てども待てども彼は仲々帰り来らず、家は石造の建物なるが故に室内は三伏の此暑中に於ても冷気膚を透すばかりにて身体は時ならず粟を生ずるに至れり、五時過に至り彼は漸く帰り来れるが故に直に面会して逐一病歴を語り之に対する彼が意見を述むれば彼は何と答えたであろうか、

彼が答えは実に意想外にてありし、彼は僕が陳述を聞き終るや否や開口一番先ず僕に向て問うた、

「君は一体何が故にグレース病院に入ったのであるか、君はエール大学生であるからには此市内には大学に附属する立派なる病院の在ることを知て居るに相違ない、然らば何が故に大学病院に入らずして彼の病院に入ったのであるか、」

「其批難を加えらるるは一応尤もの事でありますが実は昨年の暮にも斯々斯々の次第にて彼の病院に於て一週間を費したことがありますから夫れが縁故と為りて今回も入院した訳であります、又其初めは別に気遣う事も無かったのでありますが退院せんとする際に当て手術を施されたるが為めに遂に今日の有様と為ったのであります」

「然らば君は何が故に五ヶ月の長き間彼の病院に居たのであるか、左様なる不都合を加えたる病院をば何ぜに早く退院せなかったのであるか」

「退院せんと欲するも私が病態は之を許さなかったのであります、又此文明国に於て不都合なる病院のあることは我々外人の想像する能わざる事でありますから、常に彼等の処置に付て甚だ疑を抱いて居りましたなれども、何分にも病気の為めに運動は自由ならず、又何んとかして此病より脱れたいとの一念と、又一つには文明国の病院と云う名に信頼しつつ遂に今日まで滞在して居たのであります、貴下は彼の病院をば悪い病院と思召さるるのでありますか、一体文明国の中に悪い病院があるのでありますか」

「自分は今日自分の有する地位に於て彼の病院の善悪をば批評することは一切避けねばならぬ、又君が彼の病院に居る間は君に向て何等の忠告を与えることは出来ない、併しながら(彼は語勢を強めた)唯君の為めに一言することがある、君は速に彼の病院を去れ、彼の病院を去て直に大学病院に入れよ」

僕は礼を述べて辞し去ったが戸外に出でて暫し茫然たる有様であった、直に本心に立ち戻り不意に天を眺むれば薄暮已に市街を包み小鳥の一群が何れの処にか向て飛び去ることに気付きしが、此と同時に長き間の心の暗は立ろに霽れて青天快濶一点の曇を残さぬ思が起った、 嗚呼僕は迷うて居た、長き間迷うて居たのである、僕は常に宗教信者の迷を笑うが之を笑う僕自身も亦大なる迷に沈んで居た、五ヶ月の長き間彼等の言に信頼して此病より脱れ得るものと信じて居たは是れぞ大なる誤であった、 文明国の中に悪い病院は無いと信じて居たのは最も大なる誤であった、此等の迷は彼の博士の一言に依て忽ちにして霽れた、長き間の夢は彼の博士の一言に依て忽ちに覚めた、然り迷が霽れ夢が覚めたなれば直に動かねばならぬ、 好し此より直に大学病院に行て入院の手続を為さんと、三たび電車を捉えて大学病院に行き明朝入院すべきことを約して帰途に就きしが、其時已に非常なる不快を感ぜり、願くば大事に至らざらんことを心に祈りしは水の泡帰るや否や直に病床に横わった、

嗚呼僕は果然恐るべきマラリヤ熱に掴まれた、病魔は更に病魔の友を加え勁敵は更に勁敵の加勢を得た、僕は如何にして之を拒ぐことを得るや、蒸すが如き大暑の時に当て、瓶中の如き一室に横わりて、焼くが如き此発熱、彼等は遂に我を焼き殺すならん、 殺さんと欲せば殺すべし、生かさんと欲せば生かすべし、眇たる五尺の身、生死我に於て何かあらん、死よ来らんと欲せば来るべし、我は汝を迎うるものにはあらざれども亦汝を拒ぐ能わざるを如何せん、三日、五日、七日、十日は過ぎた、然れども何故か彼は来らざりしも此儘に放任するときは彼は遂に来るやも知れず、 死の来らぬ其内に早く此場を立ち去るに如かずと、稍々熱の退きたるの時を窺い鉛筆を取り出して二通の端書を認め小使を読んで投函を命じた、 此は近頃日本より来れる二名の新学生に宛て明朝転院するから馬車を雇うて迎に来て呉れよとの依頼状であった、此と同時に副監督者に向て退院の通告を為した、其時は彼の毒舌を残して立ち去りたる監督者は旅行に出て不在であった、

翌朝に至り新来生太田、神代の両君は一輌の馬車を雇うて来り僕が所持品を取り纏めて呉れた、僕は寝衣の儘両君と共に馬車に乗り大学病院に向えり、時は是れ八月の十日、炎熱焼くが如く人畜は為めに倒れ草木は為めに枯死せんとするの時であった。