『洋行之奇禍』 その26

last updated: 2013-01-23

其二十五

一日僕は杖に縋って庭園に出て樹下の椅子に腰掛けた、時は十月の小春、暑からず、寒からず、天気引き続て空気頗る乾燥、庭内の樹木は黄葉を以て蔽われ、咲き乱れたる草花は何れも色を失うて終命の近づけるを悲むものの如し、 ああ彼等の生命は実に短いもの、パッと開いてやれ奇麗と群がる子女の賞賛を受けたのはつい此間であったが早や此通り、ははあ憫れむべき奴である、 之が此世の暇乞か、来年生れて来るものは同じ形や同じ色でも同じ物ではない、併し之が花の値ある点であろう之が花の賞美せらるる点であろう、如何に奇麗でも年が年中変化なく咲き続けて居ては誰も愛するものはない、 生命が短いゆえに人が愛する、早く死ぬるから人が惜む、去れば命の長短は余り万物の値を定むる標準にはならない、長命は穴勝ち希望することにあらず、 短命必ずしも嘆くに足らず、世の中には生命より外に尚お大切なるものがある、夫れはそうと(注1)、花の事なれば彼処に櫻の樹がある、僕が入院した日に窓外を眺めたら彼の樹には珊瑚珠の如き実が鈴の如くに結んで居たが今は早や葉もない枯木同様である、 左様其櫻のことだ、数年前に丁度上野の櫻花が満開の時に梅川楼にて国の懇親会を催した、 其時に僕が幹事で和田垣博士に何か演説してくれと頼んだら彼は直に立て大和櫻の攻撃を始めた、 可哀想にも爛漫たる櫻花を目前に見ながら容赦なく之を罵倒した、彼は何んと言ったか、西洋の櫻は花ばかりでなくして多くの実を結ぶ、而かも其実は味佳くして何人も之を賞味するが之に反して日本の櫻は花ばかりである、実は無い、而かも其花たるや三日見ぬ間の櫻かなで開いたと思う間もなく直に散てしまう、 斯んな櫻は役に立たない、斯んな花を愛する者は無智文盲の婦女子である、士君子は決して斯る花をば愛せないと言った、彼は尚お進んで日本人を罵倒した、東西両国の櫻は東西両国の人間の性質を代表す、 日本の櫻は丁度日本人の欠点を代表す、日本人は虚名を貴ぶ人間である、虚名の為めに苦労する人間であるが其虚名は則ち空虚にして実を結ばないから何の役にも立たない、櫻の花と同じことであると言った、何に彼は非常に誤って居る、 彼は少しハイカラたるを免れない、彼の議論は浅薄である、僕は彼の議論には全然反対である、何ぜなれば彼は第一に自然の法則なる者を知らない、西洋の櫻は実を結んで日本の櫻は実を結ばないのは自然の法則が然からしむるのであるから、如何なる力と雖ども之に抵抗することは出来ない、 大和櫻に罪もなければ咎もない、彼は自然の法則を其儘に遵奉して居るから此点に於て別に賞する訳にも行かないが決して之を批難する理由はない、 之を批難する者は日本人に向て西洋人の如くに色を白くせよ髪を赤くせよと命じ、其命に従わざる者を批難すると同じことである、 自然の法則に違背せよと命ずるものである、不能の事を命ずるものである、罪なきものを批難するのである、罪なき者を批難するは天地間の道理に背く、天地間の道理に背く者は道理上の罪人なれば博士自身は罪人でなくてはならぬ、 ハハア此所で和田垣博士に対して罪人の宣告をなしてやるも面白かろう、夫れから第二に彼は万物の目的なるものを解せない、 宇宙間の森羅万象は如何なる物も目的を有せざるものなしとは哲学者の口にすることなるが一種の空論である、 併し此空論も場合に依ては役に立つこともある、櫻は何が目的であろうか、西洋の櫻は実が目的であれば日本の櫻は花が目的である、花が目的なれば立派に花を開いたときは即ち其目的を達したるときではないか、 十分に目的を達したるときは即ち十分に櫻たるの責任を尽したるときではないか、此より外に何事かを為せよと命ずるは不当の命令である、如何に無情無心の櫻と雖ども斯る不当命令に服従するの義務を負わない、 夫れから第三には彼は少しも人生の目的と云うことに気が付かない、従て之に伴う美と称する視念が更に無い、人生の目的は何んであるか、 是れも哲学者と名の付く者等が暇に任かせて種々なる小理屈を捏ねて居るなれども多くは取るに足らざる夢である、 其他宗教家や教育家と称する輩が、頭を痛めて彼や是やと工夫を考うれども迚も善き工夫が出る訳はない、 人間の根性は初めから決まって居る、而して人生の目的は此定まる根性から自然に湧き出るのであって帰する処は「快楽」の二文字である、 唯此文字を如何に解釈するかに付て少しく免到が起るだけのことである、 而して人間の快楽は一の口からのみ得らるべきものではない、目からも耳からも鼻からも其他種々の方面から快楽が入り込むから口ばかりが快楽の入り口と思ったら大変な間違である、 然るに彼れ博士は斯様に心得て居るから目から入る快楽即ち美と云うことをば全く忘却して居る、 口から入る快楽は限がある、目から入る快楽は限がない、此限なき快楽を助くる美と云う観念(注2)を度外に置て、独り口より入る快楽を土台として愛すべき大和櫻を批難するは以ての外のことである、 眇たる西洋櫻の実何かあらん、或は鳥の餌食と為り或は子女の徒食と為るに過ぎない、彼は大和櫻は無智文盲なる婦女子の目を喜ばすに過ぎずして士君子は之を顧みないと言ったが、 此は西洋櫻のことである、無暗に口を動かす賤坊の真似を為すは婦女子の常である、士君子は決して之を為さない、士君子は西洋櫻を賤み大和櫻を愛するに相違ない、 思うに彼は経済学者であるから何も蚊も実利主義から割り出して論ずるであろう、実利主義可なり、然れども之に偏するときは人間の品性を野卑ならしめ人間の精神を破壊するは則ち社会の精神、国家の精神を破壊する所以である、 彼の論法を以て云えば音楽も歌も演劇も舞踏も花も美人も凡て世の中には不用である、 クレオパトラも楊貴妃も、小野の小町も照手の姫も彼の前には三文の値はない、 昔漢の詩人が牡丹の花を笑て詩を作った、其趣旨は棗の花は小なりと雖ども能く実を結ぶ、桑の葉は柔かなりと雖ども蚕を養うことを得べし、独り笑うべきは牡丹の花である、 大なるが能にて何事をも為さずと云うことであったが、彼れ博士の論は之と同じ趣旨である、或は此詩を見て感動し取て大和櫻の攻撃に応用したかも知れない、 蛮国に於ける詩人の寝言なれば別に咎むべき値はないが彼が言としては大なる間違である、

夫れから彼は日本人は虚名を貪って実利を得ることが下手であると言ったが此点は僕は同意である、実に日本人は虚名を有り難がる人間である、而かも区々たる虚名の為めに狂奔する輩が数多居るは見るも厭うべきことである、 何んだ彼等小人物等の有様は国会議員にでも為れば豪い者に為った積で居る、 横文字の新聞も読めない奴等が外交の事を口にする、憲法の意義も解せない連中が立憲政治を論ずる、邪魔にこそなれ役にも立たない演説や質問を為して速記録や新聞に其名が現わるれば狂喜して居る、彼等が常に頭を悩ますは如何にせば完全に自己の責任を尽し得るやにあらずして如何せば虚名を以て社会を瞞着することを得べきやである、 斯る輩が千人ありとも万人ありとも、日本の立憲政治を完美するなど(注3)とは思も寄らざることである、 実に日本人は虚名を貪ることに汲々として実利を収むることに下手なる人間である、故に此点は全然同意であるが、此欠点が大和櫻に依て代表せられて居ると云うに至ては大和櫻の性質を誤解せる者と云わざるを得ない、 大和櫻は決して虚名を貪るものではない、彼は虚名を貪らざるのみならず尤も有益なる実利を収めつつある、素より実利とは子女の食う果実なりと解するときは彼は斯様なる食物を生み出さないから実利なき無用の長物なりと云われても致し方がないであろうが、 世の中には食物ばかりが実利ではない、食物以外に沢山なる実利がある、人間も国家も食物のみにては生きて居れない、食物以外の実利があるから、生長もする発達もする、幸福も得らるるのである、 如かのみならず、西洋櫻の実利は瞬間の実利である、喉を通り越すと同時に消滅する実利である、人間にも国家にも決して必要なる実利ではない、 此れなくとも人間も国家も少しも痛痒を感ぜない、然るに大和櫻は全く反対である、大和櫻の実利は瞬間の実利ではなくして永久の実利である、 花と共に散りて無くなる実利ではない、花は散りても葉は落ちても木は枯れても決して消え失せない実利である、而して此実利は日本人にも日本の国家にも絶対に必要である、 若し此実利を失うときは仮令食物ありと雖ども日本民族は死せざるを得ない、日本国家は亡びざるを得ない、 日本には此実利あるが為めに今日まで国が続いた、然もなくばあの小島国が今時独立の対面を保て居る訳がない、 蒙古の軍勢を微塵に打ち砕いた(注4)も、支那大国を降参さしたも此実利があるからである、此から露西亜の奴原をば酷い目に遇わしてやるも此実利より外に頼むものはない、 三日見ぬ間に散て無くなる大和櫻が何れだけ日本人を感化したか「敷島の大和心を人問わば旭に香う山櫻かな」此句が何れだけ日本男子の心胆を練り鍛えたか、 斯る事は到底富や労力を論ずる経済学者輩の解する所ではない、 然るに之を解せずして時もあろうに櫻花爛漫の節所もあろうに、名に負う櫻公園の真中に立て、而かも我に媚ぶる大和嬢をば眼下に見下して悪口雑言、痛刺罵倒を極むるのみならず、 西洋娘、何んだ、女の分際をも構わず櫻樹に攀じ上り実を取て食いつつ道行く賤しき彼のお転婆娘をば称揚して垂涎三千丈を流すに至ては言語道断沙汰の限りでない、 あの時に僕は直ちに立て大に大和櫻の弁護を為してやろうと思ったが、併し自分が頼んで演説を為さしめて其演説に向て直ちに反対演説を為すが如きは人を誘うて阱に陥らしむるものであるから此れだけは止めなくてはならぬと思て其儘に為って居るが、数年後の今日に於て、 此土地に於て、又此病院に於て、而かも此病気を以て、彼の枯木の如き一本の櫻樹を見て其記憶を呼び起すとは実に不思議と云わざるを得ない、

ああ夫れにしてもとうとう復もや秋と為った、昨年の此頃は自転車に乗て愉快に此景色を眺めて黄葉の隧道(注5)なぞと呼んで居たが今日此の有様は何んであるか、九死の間に漸くに一生を得たものの身体は此の通りである、 一寸市中に出たくとも夫れすら出来ない、明けても暮れても病院住居か、実に面白くもないなあ、国の骨肉等が此有様を見たら何と思うであろう、母は昨年死んで却て仕合であった、僕が病気の事をば耳にしたら彼は何れだけ心配したか分らない、 ああああ人生行路難か、僕が行路は難中の難だ、何んでも蚊でも仕方がない、運命の怪物が勝手に玩弄するわい、為したい程に為せたら遂に止めるであろう、併し一体病は何うなるであろう、 手術を為してから最早二ヶ月余も経たが更に治る模様は見えない、此で治らないとすれば此から先何うなるか分からない、何としても前病院の奴等は不都合極まる、何も蚊も総ての事は彼等が其因を作ったのである、

斯様な事を考えつつ僕は独り楡の下の椅子に腰掛けて稍々傾く日光に向いつつ茫然たりしが、不図眼を放てば二丁許り向から三名の日本人が此方を指して歩み来るを見た、 誰かの狂句に「チャン書生五丁先から能く分かる」と書てあったが米人なれば「日本書生一哩先から能く分かる」とでも言うであろう彼等は僕の訪問者であったが此と共に珍事の発起人であった。

脚注

(1)
原文では「然うと」と表記されている。
(2)
原文では「歓念」と表記されている。
(3)
原文では「な」と表記されている。
(4)
原文では「砕いだ」と表記されている。
(5)
原文では「墜道」と表記されている。