『洋行之奇禍』 その32

last updated: 2013-01-23

其三十一

翌朝例の監督者は来れり、思えばグレース病院の病室に於て僕と激論の末彼が一片の毒言を残して去りたる後相見ざること茲に七ヶ月、彼は相変らぬ顔を為して居る、 此が彼と最後の面会である、一度此地を去れば終生彼と相会うことは出来ない、彼は素より愛すべき者にはあらざれども、去りとて(注1)大に悪むべき者でもない、彼の仕業は畢竟するに女の浅知恵より出でたることなれば、寧ろ憐むべき者である、 況んや罪の本人は彼にあらずして医者である、罪人と同居したるが彼の不幸、彼は彼自身の責任を尽さんと欲して少しく誤を為したに過ぎない、 而して彼をして其誤を為さしめたる因を尋ぬれば矢張り医者である、最初医者が誤を為さなかったなれば後に至て彼も亦誤を為さなかったのである、 去れば彼は今日非常に憐むべき地位に居る、潔く彼を咎むるは人情ではない(注2)、併しながら此は一己人として彼を見た話である、 今日彼は一己人として来たのではない、病院の代人と為って病院を背負て来たのである、 而して病院は此事件に付て僕の敵なれば、彼は敵の代人であるから敵を以て取扱わなくてはならぬ、仮令自分の兄弟と雖ども敵に与みせば敵として遇せざるを得ない、 然るに区々たる人情に絡まれて此区別を混同すれば社会の事は凡て滅茶滅茶である、 小は己人間の事より大は国家の事に至るまで一として処分することの出来ない様になる、 之が即ち学問の必要なる所である、此道理を知らんが為めに吾々は学問を為すではないか、此道理を応用しなければ初めから学問は無用である、人情の為めに道理を無視するは無智文盲の徒にあらざれば薄志弱行の輩である、 又一時の為めに道理を無視するは永久に之を無視する因である、彼は彼れ、病院は病院、今日は彼と争うにあらずして病院と争うのであるから彼なる者を眼中に置ては可けない、争うものは道理にして人情ではない、人情の為めに道理を曲げることは出来ない

僕は一応の挨拶を終りたる後ポケットより一包の或る物を取り出して之を机の上に置き然る後に退て長椅子に凭れるや彼は口に開いた、

「日本に帰らるると云うことでありますが病気は全く治りましたか」

「否な少しも治らないのみならず、何つ治るか少しも当途がないから已むを得ず帰ることに決めました、 就ては貴方と面会するは之が最后であるから相互に誤解の生ぜない様に為して置きたい、又一つには病院に対して聊か要求すべき廉があるから其事を話したいが為めに今日御足労を願った次第であります、而して貴方に於て何にか話すことがあれば先ず其を聞かして貰いましょう」

「病気が治らぬとすれば甚だ御気の毒な事ですなあ、夫れは嘸御困りでしょう、私の方では別に話すことはありませんが唯或る物を貰て帰れば可いのであります」

「左様ですか、夫れは実に易いことです、其机の上に在りまするから、何時にてもお持帰りになって可いですが、其前に一寸条件を充たして貰いたいのです」

「条件とは」

「貴方が御記臆になって居る条件です」

「私は何んな事か忘れました」

「貴方の病院が私に為した約束です」

「何んな約束を為しましたか」

「私の病気をば二週間内に治すと云う約束です、即ち昨年の三月十三日から二週間内に治すと云う確かなる条件を付けて私に手術を為されたのでありまするから其条件を充たして貰えば其と同時に其物の所有権は僕が手から貴方の手に移るのです、左すれば貴方も幸、僕も亦大なる幸であります、」

彼は驚いて目を円くした、

「今に至て左様な事が出来る訳は無いではありませんか、昨年の三月十三日から二週間は遠くに過ぎてしまったに左様な無理な事は神様でも出来る訳はありません、左様な人を嘲弄する様な理屈は聞くには及びません、」

「無理でも何んでも此が世の中の道理です、其条件を充す事が出来なければ其物の所有権は貴方には移りません、」

彼は少しく怒り始めた、

「貴方は私の処の医者が貴方の病をば二週間に治すと保証したと言われますが、私の処の医者は決して左様なる保証を為したことはありません、夫れは貴方の聞違でありましょう」

「決して間違ではありません、貴方は其場に居ませなんだから御存知ないでしょうが僕の外に僕の友人も居ましたから、彼等は能く知って居ります、而かも三名の医者が異口同音に左様に明言しましたから、其明言に基いて僕は手術に同意を与えたのです、 其明言がなかったなれば僕は決して同意を与えなかった、従て今日の境遇には落ちなかったのであります、若し確かに貴方の医者が左様なる明言を為したと仮定すれば之に付て貴方は何んと為さりますか」

「仮令左様なる明言を為したとするも夫れは医者の為したことでありまするから医者に向て御咎めなされば可いでしょう私の関する処ではありません」

「左様ですか、医者の為した事に付ては病院は何等の責任を負わないと云うので有ますか、病院は病院、医者は医者、其間に何等の関係は無いと云うので有ますか、」

彼は瞬間黙したる後に

「病院は責任を負わないと云うのではありませんが、医者は何こまでも決して左様なる明言は為しません、如かのみならず貴方は屡々一命が危なかったではありませんか、貴方の生命が助かったのは全く病院のお蔭であります」

「然らば試に貴方に問いましょう、茲に一人の強盗が貴方に向て生命に関する大傷を負わせ其結果貴方をして屡々生死の苦を受けしめたるも漸くにして一命を繋ぎ得たと仮定して御覧なさい、 此場合に於て其強盗が貴方に向て恩を被せたときには貴方は喜んで之を受けますか、貴方の生命を助けられたる大恩人として其強盗に謝しますか、 又一人の窃盗が貴方の品物を盗んだが後に至て其物を貴方に返したと仮定して御覧なさい、貴方は其窃盗に向て有り難うと礼を述べて其物を受取りますか、之に付ての貴方の御答を聞きましょう」

「私は左様なる疑問に対して答えるには及びません、貴方は貴方の心に問えば直にお分りになるでしょう、又左様なる例は此事件に付ては何等の関係は無いのです」

「大に関係があります、考えて御覧なさい、一体僕に向て回復すべからざる大傷を負わせたる者は誰でありますか、僕が一命を危くしたる者は誰でありますか、僕をして五ヶ月の間否な一ヶ年の長き間、堪え難き苦痛を受けしめたる者は誰でありますか、 僕は世界に向て貴方の病院の医者、否な病院夫れ自身であると公言するに於て少しも憚らないのであります、 已往に於て受けたる禍及び将来に於て受けざるを得ざる禍、何れも其源を尋ぬれば貴方の医者の誤ったる一言と、誤ったる一刀に帰するものであります、 然るに貴方は今日に於ては此等の事をば一切捨て置いて僕が生命を助けたる者は病院であると言って僕に向て恩を被せなさるではありませんか、 僕が挙げたる例は此関係を説明せんが為めであります、貴方は強盗や窃盗に向て恩を謝しなさるかは知りませんが僕は貴方の病院に向て恩を謝することは出来ないのであります、」

「夫れは貴方が大変に間違を為して居らるるのであります、病院は貴方の生命を危くしたのではありません、貴方の生命を助けたのであります、貴方はあの時に手術を受けなかったなければ二週間の内に死んだのであります、 病院に於て手術を為したから貴方の生命が助かったではありませんか、然らば病院は貴方の生命の親であります」

「其断言の全く根拠なき虚妄なることに付ては已に七ヶ月依然に於て貴方に向て十分に述べてあるから貴方は其言を忘れて居らるる筈はない、然るに今日重ねて左様なる言を繰り返さるるは貴方は逆上して居らるるか又は何か為めにせんとする所があるとよりか思われません、苟も真の淑女を以て自ら任ぜらるるなれば左様なる妄言は吐かれない方が可いでしょう、」

「決して妄言ではありません、夫れは病院の医者が述べたる真実の意見であります」

「其言は重ねて聞く耳は持ちません、併し貴方が左様なる事を言うなれば僕は此病体を以て甚だ好まぬことではありますが、此が最後の面会でありましょうから、病を押して少しく理を説いて聞かして上げましょう、 仮りに一歩を譲りて貴方の言の如くあの時に手術を受けざれば僕は二週間内に死んだものと仮定した処で医者が僕が身体に刀を加えたるは法律の眼から見れば不法たるを免れないのであります、 僕の身体は僕の自由に処分し得べきものであります、生きるも自由、死するも自由、病を治すも治さないも凡て僕の自由であります、世の中に於て医者であろうが誰であろうが、何人と雖ども僕の承認を得ずして僕の身体に手を加えることは出来ないのであります、 之を加えたる者は法律の眼から見れば即ち罪人でありまするから其罪を償わなくてはなりません、然るに貴方の医者は私に対して其罪を犯したのであります、 尤も僕は一応の承諾を与えました、併しながら其は真の承諾ではありません、貴方の医者が僕を欺いて取った承諾であります、即ち二週間内に必ず治ると断言して僕を欺き僕をして其言に信を置かしめて而して後に奪い取りたる承諾でありまするから虚偽の承諾であります、虚偽の承諾は無承諾と同じことであります、 己に僕の承諾を得ずして僕の身体に手を加えたとすれば其より生ずる悪き結果に付ては手を加えたる者に於て其責任を負うは当然の事であります、 然るに貴方の病院は其責任を負わないと言うのでありますか」

「貴方の言わるる事は甚だ六ッ敷して私には能く解りませんが結局病院が其責任を負うとすれば病院は何を為すのでありますか」

「病院は速に其責任を果すだけのことであります」

「如何にして其責任を果すのでありますか」

「夫れは今日僕が病院の代人たる貴方に対して要求せんとする事であります、病院が果すべき責任は三つあります、 第一は法律上の責任であります、法律の上より云えば病院は其過に依て僕に被らしめたる一切の損害を償わなくてはなりません、 而して其損害は銭を以て償うが今日世界文明国の法律の定むる所でありますが僕は貴方の病院から一厘の銭を受取ろうと思いませんから、此点は僕の考を以て総て抛棄します、唯病院は僕に向て夫れだけの責任を負うことを認めさえすれば可いのであります、 夫れから第二は道徳上の責任であります、病院は法律上の過を為したると共に道徳上の過を為したることは貴方に於て御一考なされば直にお解りになるでしょう、此過に付ては病院の責任者は僕に向て深く謝せねばなりません、 而して第三には社会上の責任であります、僕は社会の一員でありまするから病院が僕に対して為したる過は即ち社会に対して為したる過であります、僕は此点に付ては病院に対して深く将来を戒むることを警告する権利を有して居りまするから病院の責任者は此警告を諒諾することを誓わねばなりません、 而して此内第一の要求は僕は一の法律家として之を提出いたします、第二の要求は世界人類の一人として之を提出致します、而して第三の要求は社会の一員として之を提出致します、 尚お最後に一言附加して置きまする事は以上三個の要求は僕自身が好んで之を為すのではありません、世界文明国の法律が僕をして要求せしむるのであります、 世界文明国の道徳及び社会が僕をして言わしむるのであります、決して一場の空言と思われて可けません」

彼は呆れて暫く茫然たり、

「貴方は大変な事を言い出しますが、私の病院では此迄左様なる要求を受けた事は一度もありません、病院として左様なる事が出来るものでありますか考えて御覧なさい、私は断じて応ずることは出来ません」

「然らば病院は責任を負いつつ夫れを果さないのでありますか」

「病院は少しも貴方に対して責任を負わないと思います、併しながら私は今日初めて左様なる言を聞きましたから私一人にて取扱うことは出来ませんから一度帰って相談して返事を致しましょう」

「左様ですか、夫れは御無理もないことでありますから能く御相談の上にて御返事を願いたい、而して僕は今一応貴方の御記憶(注3)を喚起して置きます、僕は来月の一日早朝此地を出立致しまするから夫れ迄に是非共御返事を願いたいのであります」

「宜しゅう御座ります」

彼は椅子を離れた、僕も起った、互に握手を為した、彼は一言した、

「夫れではもう一度お目に懸りましょう」

「是非共お目に懸ります」

翌日、翌々日、待てども待てども何故か彼は来らず、一通の手紙も来なかったから已むを得ず僕は此儘にて出立せねばならぬ。

脚注

(1)
原文では「去りとき」と表記されている。
(2)
原文では「でのない」と表記されている。
(3)
原文では「記臆」と表記されている。