『回顧七十年』 その2

last updated: 2013-01-23

上京し、弁護士となる

私は明治三年八月十八日、兵庫県但馬国出石郡室埴村字中村、斎藤八郎右衛門の次男として、父が四十五歳、母が四十一歳の時に生れた。 一人の兄と四人の姉があって、私は六番日の末子である。 父は家の一人息子であって、母は一里ばかり隔りたる小坂村福井の宮谷家から嫁入って来たものである。 家は代々百姓で、祖父時代のことは聞いたことがあるが、その以前のことは知らない。 資産は田畑が自作には少し余るので、余る部分を小作人に貸付け、少しばかりの小作料を取ることが出来るくらいのものであったが、それでも中村五十三戸の中で三番日の身代と言われていた。

八歳の時に福住小学校に入学したが、まだ卒業せざる十二、三歳と覚ゆる頃、京都西六条東中筋花屋町上ル弘教校に入学することになった。 同校は西本願寺の付属学校であって、その創立者は但馬浜坂の仏教熱心家松田甚左衛門なる人であった。 私の家は禅宗であって、真宗ではないから、真宗の付属学校に入るのは方角違いであるが、松田氏の勧めによって村の学友が一人その学校へ行くことになったから、私も行きたくなってとうとう許されて、三十里の外なる京都に行くことになったが、入学してみれば思ったほどの学校ではなく、生徒は朝夕肩衣を掛けて仏前にお経を読み、学課としては「国史略」「文章軌範」「四書」などを教わるくらいなもので、それもはなはだ不規則なる授業のやり方であったから、私は失望と憤慨に堪えなかった。

そのうち、家の都合で父が迎えに来たから、一年も経たないうちに国へ帰った。 それからは再び学校に入ることも出来ず、さりとてただ遊んでいることも出来ないから、合橋村相田の安国寺に私の従兄が僧侶になっているのを頼りに、その寺に寄食して漢籍を教えてもらうことになったが、これも半年経つか経たないうちに廃めて、再び家に帰った。

最早十五歳になったからそろそろ百姓の手助けをせねばならぬ。 初めは牛飼いをやって、だんだんと田圃に出ることになり、その傍ら、家より十町ばかり隔りたる出石町の漢学著太田老先生の門に通って漢学を教えてもらっていたが、元来百姓は嫌いであるから、何とかして百姓をせずに身を立てて行きたい心は寸時も胸を離れたことはなく、その心がだんだんに高まって、遂に十六歳の春、父母兄姉らにも相談せず無断に家出をして、再び京都に赴いた。

前に京都に来た時には学資を送られて学校生活をしたが、今度は学資がないからいずれへか奉公せねばならぬ。 雇人口入屋の世話で、ある時は仕出屋に雇われて巡査交番所の弁当配達をなし、ある時は駄菓子屋に雇われて菓子製造の手助けなどをしていたが、事志と違うて、とても前途の望みはない。 さりとて他に学問をさせてくれるような所も見付からないから、はなはだ不本意ではあるが、再び国へ帰ることに決めた。

旅費がないから、京都で貧乏している従兄から一文銭と二文銭合せて三十銭ばかり借受け、徒歩にて大阪に出で、夜船に乗って翌朝神戸に上陸した。 朝飯に大福餅を買ったら無一文となった。 それから三十余里の道程を無銭旅行せねばならぬ。 行当りばったりに歩き出した。

舞子辺りで前を行く書生風の一旅人に声を掛けて道連れになった。 その人は岡山県備中国阿哲郡新見村の人で、やはり私と同じく志を懐いて京阪地方に流浪していたが、思わしきこともないので郷里へ帰る途中であった。 互いに心事を語りつつ加古川に着いたら日暮れになった。 その人は少しばかりの旅費の持合せがあるとみえて、路傍の木賃宿に投じたが、私は宿賃がないから警察署に頼み込んで一夜を明かさせてもらうつもりで別れた。 別るるに当ってその人は、もし警察署で泊めてくれないようなことがあったら、この宿に戻り給え、宿賃は僕が出すからと言ってくれた。 それから私は警察署へ行き、事情を述べて、どこでもよいから今夜だけ泊めて下さいと頼んでみたが、警部が出て来て荒々しい語気にて、警察署は旅人を泊める所ではないから相成らぬと言って叱り飛ばされ、如何とも取付く島はない。 やむなく木賃宿へ引返して泊めてもらうことになった。

翌朝はまた二人連れで歩き出した。 姫路にて右と左に別れねばならぬ。 その人は山陽道を直行し、私は右に折れて但馬路に向う。 別れを惜しむの情実に切なるものがあったけれども仕方がない。 他日志を得ることがあれば再びお目にかかろうと言いながら、涙を呑んで手を別った。

日暮れになったから村の百姓家へ行って一夜の宿を乞うたが、聞き入れてくれない。 さらに歩を転じて路傍のある家に頼み込んでようやく聞き入れられて安心した。

翌日は十二、三里ばかり行けば家に帰れるから、急ぎ足にて歩き出した。 夜の十時過ぎと覚ゆる頃にようやく村の入口に着いた。 誰か村の人に出会いはしないかとびくびくしたが、天地は暗くして人影も見えない。 進んで家の入口に立ち静かにうちの様子を窺ったら、まだ灯火の明りが見ゆる。 寝てはおらない。

しかしちょっと戸を開けるのに躊躇した。 三か月前に無断で家を出てから一回の文通もしないから、どう思うているか分らない。 さりとてぐずぐずしていることもできない から、思い切って戸を開けて、帰りました、と叫んだ。 炉を囲んで仕事をしていた母も姉も嫂も驚いて立上った。 怒っているかと思うたら、怒るどころではなく大喜びである。 お前はどこにいたのか、死んだのか生きているのか、さっばり消息はなく、家ではどれだけ心配したか分らない。 まあ帰って来てよかった、これで安心じゃ、寝ていた父も兄も起きて来て、一同大変に喜んでくれた。

かくのごとくにして私の家出は失敗に終った。 しかし将来のために好い経験を得た。

家に帰ってから再び百姓の仕事を始めた。 おいおい年を取って来るから、一人前の仕事をせねはならぬ。 仕方がない、しばらく辛棒して働こう。 しかし何としても百姓は嫌いである。一生百姓で暮らすなどはとても堪えられない。 このまま百姓を続けて行けば麦飯や大根飯を食って、行く行くは薪や肥桶を担いで町に出て、学校友達に笑われる。

そうして百姓家の養子かまたは聟になって、一生頭は上らない。 何としても左様なことは出来ない。 百姓でなければ何でも構わない。 商売人であろうが何であろうが、とにかく米の飯を食って暮らせるものならば何でもよいと思うた。 けれども田舎で百姓をしていて都会には一人の知己もなく、金もないので手も足も出しようがない。

そのうちに二年は過ぎ三年は経ち、とうとう二十歳の春を迎えることになった。 今年はいよいよ糞桶を担がされるに相違ない。 最早この上は堪えられないから再び家出をしよう。 今度こそ死んでも帰らない。 そうして京阪地方は私の志をなすべき所ではないから、思い切って東京へ行こう。 東京には小学校友達がただ一人いることを聞いているが、その他には誰も知人はない。 もちろん奉公するつもりならば、いずれにか口はあろう。 まさか死ぬこともなかろう。 死んだところが仕方がない。 私は固く決心したから、最早父兄もこれを留めることも出来ず、私の家出を承諾することになった。

明治二十二一月末頃と思うが、私は極めて僅少の旅費をふところにしていよいよ東京へ向って旅立ちすることになった。 その当時は今日のごとく交通が便利でなかったから、京都、大阪へ行くことすら大変なことのように思われた。 いわんや東京へ行くなどは私の田舎ではほとんど想像もつかぬことであった。 けれども私は行きたいが一念であったから、他のことは考えられなかった。

人力車や馬車や東海道の汽車も切れ切れに通じていた。 また神戸からは汽船もあるから、これらの交通機関を捉えたならば、五、六日にて東京に着くことは出来たであろうが、一文でも余計な金を使うまいと思い、乗物は一切止めて、日に八里ないし十里くらい徒歩旅行を続けた。 宿料は一泊が十二銭くらいで翌日の弁当までもこしらえてくれた。 それでも時々木賃宿に宿った。 木賃宿は五、六銭にて一切賄ってくれた。 東海道五十三次を股に掛けるなどということは、今ならば金をくれても出来ないことであるが、その当時は別に難儀なこととも思わなかった。 三島辺から一人の旅人と連れになって箱根を越え、小田原に一泊し、翌日は国を出てから十八日目に横浜に着いた。 宿屋に手荷物を置き、海岸の居留地を見物に出かけて宿へ帰ったら、荷物は失せて旅人はおらない。 これがいわゆる胡麻の蝿と称するものであったであろう。

横浜に頼るべき人はない。 金もなくなったから汽車に乗ることも出来ず、徒歩にて東京へ向った。 川崎付近の六郷川に架けてある橋を渡るに橋銭がなかったから、番人にわけを話して頼んだら、君が出世をした時に払えと言って許してくれたのは今も忘れずに覚えている。 品川で交番巡査に呼び止められたけれども、別に怪しい者ではないから何ごとも起こらなかった。

日暮れに東京に着いた。 ただ一人の小学校友達の川上武若君が麻布の下宿屋にいるから、この人を頼りに思い、幾度か道筋を聞いてようやく探し当てたところが、運悪く不在で会うことができず、どれだけ失望落胆したか分らない。 雨はびしょびしょと降り、洋傘からは雨が漏り出す。 夜はだんだんと更け渡り、往来は淋しくなり、泊る所はない。 どこともなく歩いていたらある寺の門前に出て来た。 後に至ってこの寺は、芝の天徳寺であることが分った。 今夜はこの門の下で明かさんとしばらく立って見たが、雨が降り込んでとてもいられない。 また歩き出したが、どこへ行くにも当てはない。 その時ふと思い出したのは、先年加古川の警察署に舞い込んだことがあるから、今夜もまた警察署へ行って頼んでみよう。 それから訪ね訪ねてやっと芝の警察署に達し、今夜一晩を明かさせて下さいと頼んでみたが、やはり泊めてくれない。 この隣りに区役所があるから、そこへ行って頼んでみよと言われたから、教えられるままに直ちに区役所へ赴いた。

夜は全く深更になった。 区役所に行って小使部屋の戸を叩いたら、小使が出て来たからわけを話したが、なかなかうんと言ってくれない。 しかしもう他に行く所はないから背水の陣を張って動かない。 そうすると、とにかく宿直がいるから話してみょうと言うて奥へ行った。 宿直の人が出て来た。 その人の名は内田竹次郎と言うて、今でも忘れない。 全く救いの神様である。 十五、六円ばかり月給をもらっている雇員であるが、私が国許を立って以来の話を聴いて非常に同情を寄せてくれた。 朝から一食をも摂らずして全く空腹であったから、早速小使に命じて粥を煮させてくれた。 そうしてここに泊めることは出来ないが、何でも芝橋の辺に木賃宿があるから、これからそこへ行って泊り、翌朝はその前の一膳飯屋へ行って朝飯を済ませ、再びここに来いと言うて、一文銭で五、六銭の金を渡された。

私は大変に有難く思うて直ちにそこを出て木賃宿を尋ねたが、夜は深く人通りはなく、なかなか見つからない。 雨の中を行きつ帰りつうろうろと迷うて、とうとう見当った時は、ほとんど夜明けに近かった。 翌朝再び区役所に赴き、この人の世話で芝ロのある薬屋兼洋酒屋に奉公することになり、ここにて一まず生活の安定を得てほっと安心した。

奉公人のする仕事は大概決っている。 朝早くから夜遅くまでずいぶん働かされたけれども、国で百姓をしたことを思えは別に苦しいことはない。 主人も大変に信用して、長く使ってくれるつもりであったらしいが、私は到底かような所に安んじているわけにはいかぬ。 いろいろと考えた末、当時内務省の地理局長であった同郷の先輩桜井勉先生に頼み込んで、その家の書生に置いてもらうことになった。 主人にわけを話して快く暇をもらうのが当然であるが、二か月余も世話になり、かつ信用してくれる主人に暇乞いをするのは何となく言い出し兼ねた。 さりとてぐずぐずしていることも出来ないから、まことに済まぬこととは思いながら思い切って無断で飛び出して、桜井家に移ることにした。

桜井家は巣鴨の庚申塚にあったが、別に通学することもできず、家事の手助けをするかたわら独学するくらいなことであった。 ところがその年の暮に先生は徳島県知事に転任せられ、家族一同引越さるることになった。 私は折角東京に来て、一年も経たないうちに東京を離るることははなはだ不本意であるが、さりとて他に世話をしてくれる者もないから、やむなく先生に随って徳島に赴き、知事官舎の玄関番をしていた。 その翌明治二十三年にはわが国に初めて衆議院議員の選挙が行われ、徳島県にても非常に競争が激しかった。

翌二十四年の夏の頃と思うが、先生は突然非職を命ぜられて、郷里に引っ込まれることになったから、私は再び東京に出て、国の先輩を訪ね回って学資を頼み、ようやくにして六、七人から月に一円宛出してもらうことになったから、その年の九月に早稲田専門学校(現在の早稲田大学の前身)行政科に入学した。 寄宿料が三円二十銭、月謝が一円八十銭、残二円が雑費、合計七円にて大体やって行ける。 しかしどうしても足らぬ際は、時々国許から二、三円送金してもらったこともある。

学校に行ってからは一生懸命に勉強した。 学資を出してくれる先輩に酬ゆるために、また学問によりて身を立てるより他に途がないから、人一倍に勉強せねばならぬことを痛感した。 日曜日には学生達は思い思いの所に出かけるけれども、私は各出資者の家を回って、一円宛の金をもらわねばならぬ。 本郷、京橋、日本橋、芝、麻布方面までてくてく歩いて、金をもらいに行ったが、時々不在にてもらうことが出来ず、失望したことが幾度あったか分らない。

しかし幸いにして三年の間身体も健康にて無事に首席優等の成績をもって、二十七年七月に卒業することが出来た。 その年の判検事試験に応じたが、何分にも志願者は多く、採用せらるる者は極めて稀少であったから、遂にその選に当ることが出来ず、さらに一年間勉強して次の時機を待たねばならぬ。

翌二十八年に今度は弁護士試験を受けた。 受験者一千五百余人の中で及第者はわずかに三十三名に過ぎなかったが、幸いにして及第した。 及第はしたが独立して弁護士を開業することは出来ないから、その時の校長であった鳩山和夫博士の事務所の食客弁護士となって事務見習いをすることになった。

三十一年に大隈内閣が成立し、博士は外務次官となり弁護士を廃業されたから、私は神田西小川町に事務所を設け、初めて独立して弁護士を開業することになった。

その頃から私は考え出した。 これから弁護士を続けて行って将来どうなるであろうか、私立学校出身者が弁護士を開業してもなかなか金は儲らない。 ようやく生活して行くに過ぎないことは数多の先輩者が示している実例である。 私ももとよりこれらの人々の上に出ることはできぬ。 一生裁判所通いをして少しばかりの金を得てようやく生活をして行くに過ぎない。 米屋が米を売り、酒屋が酒を売って暮して行くと同じことである。 まことに情ない次第である。 私立学校卒業だけでは学問も足らない。 さりとてこれから日本の大学に入ることも出来ないから、この上はヨーロッパかアメリカに渡りて三、四年の間かの地の大学生活をなし、学問の立直しをするより他に発展の途はない。 かように考えた末、いよいよ洋行することに決心して、これから大急ぎでその準備に取りかかった。

準備とは英語の勉強と学資の調達である。 英語ははなはだ未熟であったから熱心に勉強したが、その後二年余の間に大分上達して、政治方面に関する書物ならば大抵理解することが出来るくらいになった。 学資も十分ではないが、倹約をすれば三年くらいは凌げるだけのものが出来たから、いよいよ三十四年六月に家を畳んで元の書生に立返り、アメリカに渡ってエール大学に入学することに決めた。