『回顧七十年』 その3

last updated: 2013-01-23

アメリカに留学

暇乞いに国へ帰って見れば、前年兄が亡くなって幼年の甥が相続しているが、身代不相応の借金が残っている。 これをそのままに放任しておけば先祖伝来の田地は半ば債権者に取られるに相違ない。 これは大変、捨てておくことはできないから、学資の一部を割いて債権者に内払いをなし、残額は帰朝まで延期させて留学中に担保物を処分しないように頼んでおいた。 それから父は七十六歳でもまだまだ丈夫であるから、私が帰朝するまで無事であろうが、母は七十二歳で余程弱っていてほとんど足腰が立たない。 私の帰朝まで保たないことは本人にも私にもよく分っていたから、この母を残して海外に旅立ちすることはまことに忍びないが、これも仕方がないと考え、涙を呑んで別れを告げた。

七月末に東洋汽船会社の汽船に乗り込んで横浜を出発し、ハワイに立寄り、サンフランシスコに上陸し、アメリカ大陸を横断してエール大学の所在地ニューヘブン市に着いた。 学校は休暇中であったが、数人の日本人学生が滞在していたから、その人々の世話になって法科大学院に入学することになった。 九月中旬から授業が始ってアメリカ大学学生生活の第一歩を踏み出すことになった。 これから一生懸命に勉強せねばならぬ。 日本で熱心に英語を勉強して、もとより十分ではないが、大抵課業を追って行けるであろうと思うていたが、教場に出てみると講義はさっばり分らない。 困ったが仕方がないから書物勉強を始めた。 初めからアメリカの法律などを研究する考えはないから、主として公法や政治学に関する書物を読破することに心力を注いだ。

大学生活については書きたいこともたくさんあれども、これを書くと非常に長くなるから一切省くことにするが、一年は無事に過ぎ、二年目、即ち明治三十六年の三月一日、病いのために市内の病院(グレース・ホスピタル)に入院したことが非運の始りである。 早稲田大学時代に左肋膜炎を病んだことがあって、時々医師の診察を受けて服薬していたが、慢性的のものであって、別に休学するほどのものでもなかった。 卒業後も時々医者の手に掛ったが、これがために休業したことはなかった。 今回渡米するに当って医者の意見を聞いてみると、肋膜炎がまだ全治しておらないから、この病いを抱いて洋行することは危険であるという者があれば、最早全治しているから大丈夫だという者もあった。 いずれにするも思い立った洋行を中止することは出来ないから、心中いくらか危懼の念を懐きながら渡米することになったが、肋膜炎はやはり全治しておらなかった。 渡米後においても時々発熱して学校を休んだこともあるが、最後にとうとう入院せねばならぬほどの重態となった。

入院後両三日経つと熱も下ったから、退院しようと思っていると、医者が釆て、肋膜炎を根治しないとまた入院せねばならぬから、この際思い切って治療するがよいと言うた。 どうするのかと尋ねると、局部を手術するのであると答えた。 何日くらい経てば退院出来るかと尋ねると、二週間くらいでよろしかろうと答えた。 どうしようかと考えた。 これまで日本ではいろいろの医者に診せたが、外科手術をしてこの病気を治そうという者は一人もなかったが、さすがは文明国の医者である。 手術をして年来厄介なこの病気を根治することが出来るならば、これに越すことはないから断然やるべきものと思い、二、三の学友とも相談の末、遂にやってもらうことに決めた。

三月十一日に手術されることに決まり、その日は友人も立会ってくれた。 手術室に連れて行かれ、治療台に乗せられて臭い麻薬を鼻に当てられてから後のことは一切分らないが、目が醒めると恐ろしい苦痛が押し寄せた。 とても耐えられないがどうすることも出来ない。 しかし医者は二週間経てば退院できると言うたから、ただただそのことを頼りに時の経つのを待つばかりであったが、病気はますます悪化して二週間はおろか、一か月二か月を過ぎてもなかなか治る模様はみえぬ。 私もしばしば死を覚悟し、友人らもこの病気が治って帰朝するなどは到底出来ないことと思うて、死後の用意までしてくれた。 三か月四か月経つ間に身体の元気だけは大分回復したが、手術された局部は依然として治らない。 病院のやり方にも感心できない。 医者のいうことにも信を置けないこともあるから、他の病院に移ってはどうかと思い、大学の老先生に相談した末、八月十日大学病院に入院することになった。

入院の翌日第二回の手術を受け、これで治るものと期待していたが、これでも治らない。 続いて十一月三日に第三回の手術を受けた。 これがいよいよ最後の手術であるかと思うていたところが、依然として治らない。 それまでは何とかして病いを治して再び大学に帰りたいが一念で、辛抱に辛抱を重ねていたが、かくなる上は最早望みは絶えた。 はなはだ遺憾千万ではあるが、病いを負うて帰朝し、日本第一の医者の手に掛って治療をしてもらうより他に途はない。 かく決心していよいよ帰朝することに決めた。 医者も看護婦も、友人らもこの病いを負うて長途の旅行に上ることはとても出来ないと言うたけれども、私は運を天に任せて、ちょうど前年の入院以来一年日の三月一日に出発して帰朝の途に着いた。

七昼夜の汽車中には自ら傷口の手当をなして、三月八日にシヤトルに着し、郵船会社の伊予丸に乗船してやっと安心した。 ところが船医は傷口を見て、この傷をもってしてはとても乗船して帰れないから、しばらくこの地の病院に入って十分安全な見込みが付いた時に帰られるがよろしいと、熱心に勧告してくれたけれども、私は相当に自信があったから強いて乗船したが、幸いにして航海中無事にて帰朝することができた。

しばらく鎌倉に静養の後上京して順天堂病院に入り、佐藤博士の手にて第四回目の手術を受け、二か月ばかり病院にいたが、まだ治らない。 さらに第五回目の手術を受けねばならぬが、何分にも毎回とも肋骨切除の大手術であって身体が非常に弱っているから、一旦退院して田舎へ赴き、静養して血と肉を補い、元気を回復せねば手術に取り掛ることが出来ない。 そこで那須温泉や銚子海岸にて二か月ばかり保養して再び順天堂病院へ帰ろうと思ったが、当時は日露戦争中にて佐藤院長は広島の野戦病院へ出張されて不在であったから、転じて大学病院に入り、近藤次繁博士から第五回目の手術を受けたが、相変らず治らない。

今度は伊豆伊東温泉へ赴いて保養し、再び大学病院に入りて第六回目の手術を受けた。 今度こそは治るであろうと思っていてもまだ治らない、ずいぶん頑強な病いである。 それから鎌倉に保養して病院へ帰った時には、近藤博士は洋行されて不在であったから、塩田博士に第七回目の手術を受けて二か月ばかりの後湯河原へ赴き、次いで鎌倉海岸にて保養している間に、ようやく傷口が癒えて、最初の手術以来約二か年半の後いよいよ病いは全治することになった。

在米中の大学生活から病中の感想等は、帰朝後『洋行の奇禍』と題する著書を出版してそのなかに詳記しておいた。 二年有半幾度か生死の端まで追いやられ、七回までも遺言状をしたためた病気が全治して健康体に回復したのは、自分ながら不思議である。