『回顧七十年』 その9

last updated: 2013-01-23

利あらず落選

大正八年十二月二十四日、第四十三議会が召集せられ、翌九年一月二十二日より本会議開かれる。 本議会においては憲政会、国民党および無所属の三派連合して普通選挙法案を提出し、衆議院は解散せらる。 前議会において政府提出の改正選挙法案通過以来、普通選挙要求の運動は漸次に発展し、憲政会も遂に普選案提出に党議一決した。 本会において提案の理由は島田三郎氏これを述べ、委員会において私はもっぱら原案維持の衝に当って努力を払いたれども、衆寡敵する能わずして否決せられ、本会においても三十余名の少数をもって否決せらるることは、議会の大勢上如何とも動かすべからざる有様となった。

二月二十六日の本会において、委員長の報告後私は党を代表して壇上に起ち、約一時間にわたりて原案維持の演説をなし、次に政友会の小川平吉氏起って反対の演説をなせしが、その演説中大臣席に控えたる原首相が一紙片を大岡議長に渡したるに、このことは首相が議長に何か指図をなしたものと誤解せられ、議場は俄かに喧々囂々として収拾する能わず、一時休憩するのやむを得ざることになった。 その際大岡議長が、首相は議長に何らの指図をなしたるにあらず、発言の通告を求められたのであると言い放ったことが私の耳を打つと同時に、私は解散の詔勅下るべきを直感した。 なぜならば議題の普選案討議については、小川氏の後に続いて賛成、反対多数の通告があり、総理大臣の意見は討論終結後に述ぶるのが議会の慣例なるにかかわらず、討論終結前に総理大臣が演説をなすは、この際政府の意見を述べたる後に、直ちに解散の詔勅を降すがためであることは容易に推知すべきである。 しかるにこれを同僚に告ぐれば、一人として信ずる者はない。 なぜならば、普選案は三十余名の少数にて否決せられることは明らかであるから、解散せらるべき理由がないというのである。 しかしこれは一つの理屈であって、政治は理屈通りに動かないのみならず、野心政治家は如何ようにも理屈を構造する。 本会は再開した。

小川氏の演説が終るや否や、原首相は演壇に現われ、諄々じゅんじゅんとして述ぶるところは、議会解散の理由である。 即ち一言にしてこれを蔽えば、普通選挙のごとき大問題が議会に現れたる以上は、院内の多数少数のみによりてこれを決すべきにあらずして、一応国民の世論を問うのが至当であるというのであって、これも一つの理屈である。 首相が演説を終りて降壇する刹那に、解散の詔勅が下った。

大正九年五月十日が総選挙の期日に定められた。 今回の選挙は小選挙区のもとに行われ、但馬は南但三郡と北但二郡とに分割せられた。 私は南但の出身であるから南但に立候補するのが当然であるが、この選挙区には郡の豪農鎌田三郎兵衛氏が年来の希望がある。 故に私は自ら進んで北但に赴いた。

北但には円山川改修の地方問題があって、野党にとりては最大の不利である。 野党を当選せしめたならば河川の改修は中止すると思え、これが政府党の宣伝であって、この宣伝は地方人民の死活問題である。 それでも政友会は候補難に苦しみ、淡路より広岡宇一郎氏を輸入し立候補を宣言したが、急に断念して次には遠方の和歌山県より但馬には全然縁故なき松山常次郎氏を押し立てて私の向うを張らせた。 松山氏は朝鮮に土地会社を設立し、戦後の好景気に乗じたる金満家であった。

数十日間の悪戦苦闘も時に利あらず、私は遂に落選の憂目を見るに至った。 勝敗はいくさの常である。 他日捲土重来を期すれば諦めもつくが、諦められぬのは政戦中家庭に起こりたる不幸である。

前に述べたるがごとく、私は大正七年四月に長女静江(八歳)、次女光子(七歳)をほとんど同時に失い悲痛に暮れたるが、翌八年三月に三女文子を挙げてせめてもの楽しみとした。 しかるところが、議会解散の頃より彼女は百日咳に罹りて肺炎を併発し、鎌倉に転地せしめたれども病勢衰えず、漸次に危険の状態に陥り、私は選挙中二回までも鎌倉に赴き、愛児の手をとってみたが、天はわれらに幸いせずして、四月八日選挙たけなわなる時に当りて、彼女死去の悲電を受け取った。 ああ実に可哀相なことをした。 選挙終りて五月十五日帰京し、東京駅頭に迎えたる妻子を見たる時、私は言うところを知らなかった。

全国選挙の結果は政友会の圧倒的勝利である。 即ち政友会二百八十二人(改選前百六十二人)憲政会百八人(改選前百十八人)、その他国民党二十九人、庚申倶楽部二十五人、無所属十九人。 かくのごとくにして政友会は一党にして議会の過半数を制するに至った。 何と言っても原敬氏は、機会を捉うるに敏なる強力政治家であった。

今回の落選は私に取りては政治上の一蹉跌に相違ないが、これがために但馬全郡の青年を政治的に覚醒せしめ奮起せしめたる効果は、実に大なるものがある。 その後但馬各郡に青年党起こり、旧勢力に対抗して政治運動に新生面を開き、ことに私の選挙に当りては、各郡の青年党はほとんどこぞって私のために純真なる努力と応援を惜しまなかった。 ここにおいて私は、私の落選が決して徒労にあらざることを喜んでいる。

私は議席を失った、これよりしばらく院外者として辛抱せねばならぬ。 政治家として世に立つ以上は議席は絶対必要である。 議席なき政治家は木から落ちた猿のごときものである。 政治問題について有力なる発言権を認められない。 政党本部の会議に臨んで大いに議論したい問題起こるも、自ら省みてこれを控えることがいく度あったか知れない。 その度ごとに落選の悲哀を痛感せざるを得なかったが、しかし同時に自らむちうって禍を転じて幸いとなすべく奮発心を激励した。 これを思えば、落選もまた有益なる経験である。

大正十年三月三十日、三男義道が生れた。

原内閣は総選挙に大勝利を博して政府の基礎ここに確立し、政友会の勢力は天下を風靡して得意の絶頂に達したが、つればくる世の慣い、人間の警戒すべきは失意の時にあらずして得意の時にあり。 果然大正十年十一月五日、原首相は東京駅頭において一兇漢のため狙撃せられて、また起つ能わず、惜しむべし一代の英傑は大志を抱いて黄泉の客となり、政府および政友会の基礎もここに動揺の端を開いた。 同月十三日高橋内閣成立したが、翌十一年六月六日辞職し、同月十二日加藤友三郎内閣成立した。

同年十一月三十日、四女愛子が生れた。