『回顧七十年』 その10

last updated: 2013-01-23

関東大震災

翌十二年八月二十四日、加藤内閣は首相の逝去によりて辞職し、九月一日、第二次山本内閣が成立した。 これが関東大震災の当日である。

関東大震災は私の一生にとりても忘るべからざる災厄である。 私は家族とともに夏期中は鎌倉に避暑し、八月三十一日引揚げて、帰宅したるその二日目の出来事である。 昼食中突如の大震に驚きたる家族一同は、取る物も取りあえず近隣の空地に避難したるが、続いて起こる満都の猛塵猛煙天を蔽うて昼なお暗く、赤坂方面の火災は暴威を極め、破竹の勢いをもって蔓延するがごとくに見ゆるも、まさか霊南坂を越えて芝方面を襲うものとは想像しなかった。

しかるところが夕景に近づく頃に至り、かの方の空より急に火の粉(注1)が飛び乗るのが見ゆる。間もなく火焔はいよいよ近づきつつある。 直ちに逃げ支度に取り掛ったが、もとより家財道具類は、一物も携えることは出来ぬ。 義道(三歳)と愛子(二歳)を二人の女中に負わせ、貴重書類だけを小鞄に入れて書生に持たせ、私ら夫婦は重夫(十歳)、高義(八歳)の手を引きながら、着の身着のままにて、闇黒の間を群集とともにいく度か後を振り返りつつ、芝公園の高地に至ってひとまず足を止めた。

眺むれば市中は全く火の海と化し、絶え間なき爆音は天地を覆すばかり凄愴たるその光景は、とても筆紙に尽し得べきものではない。 公園内には一点の光明の認むべきものなく、全然黒閻の世界に避難の群集は往きつ戻りつ狼狽しつつ、無気味に雑踏を極めている。 家族らは互いにいましめてかりそめにも相離れざるように注意していたが、如何なる間違いか、急に愛子を背負うたる十六歳の子守が見えなくなった。 さては大変、私ら夫婦の驚きは一方ならず、直ちに妻は右へ、私は左へ群集の間を縫い歩いて捜せども捜せども遂に見当らない。

夜はほのぼのと明けたが、身を寄すべき所なく途方に暮れている際、幸いにして芝区神谷町仙石山に住居する同郷の友人野崎君の温情により、しはらく同家に落着くことになった。

巴町の住宅は紅蓮の焔に一舐めに舐められて影も形もない。 三十余年来孜々ししとして蓄積したる家財道具、書籍等一物も残さず灰となった。 それは仕方がないとするも、子守はどこにどうしているのであろうか、これが心配で堪えられない。 終日妻も書生も私も互いに手を分けて四方八方心当りを捜してみたが、全く取りつく島もない。 子守は愛子を背負うたまま行き倒れて死んだであろうか、または愛子を棄てて単身いずれへか避難したであろうか、二者いずれかに相違あるまい。 もはや両人ともに無事でいることは想像し得られない。

それでも妻は諦められずに、三日目の早朝、日比谷中学校内の警視庁に収容せる多数の幼児の中に、もしやわが子もいるのではないかと一縷の望みを抱いて行ってみたが、ここにも見当らない。 いよいよ絶望に沈んだその日の午後に、書生を青山六丁目の前田家へ遣わした。 同家は妻の姉が縁づいている親戚であって、同家は無事であるか否か、これを見舞わしたのである。

突然夕刻、書生は愛子を抱きつつ一息で帰って来た。 これを見るや否や、妻はいきなり幼児を受け取りて乳に当てた。 私らは夢かと思うたが夢ではない。 愛子は遂に無事であった。

その夜、子守は私らを見失うて一時途方に迷うたが、群集が明治神宮を指して雪崩れ行くその後を追うて青山の通りに出た。 青山六丁目に妻の親戚前田家のあるを耳にしたことを思い出し、訪ね訪ねて遂に同家を捜し当てた。同家では驚いて直ちに牛乳や重湯を飲ませて幼児を看護すると同時に、一生懸命に私らの避難所を捜したれども一向に分らない。 書生を見て初めて事の次第が明らかになった。 まず大安心、前古未曽有の関東大震災にはいく万の精霊が葬られた。 一家一族ことごとく火焔に包まれて悲惨なる最期を遂げたる者もある。 これを思えば私らはむしろ幸いである。

野崎家の厄介になってより十八日目に、品川御殿山のバラックに移転した。 爾来九月一日には当時を思い出して、万感止む時はない。

脚注

(1)
原文は「火の子」表記である。