『回顧七十年』 その13

last updated: 2013-01-23

政友会議員の乱暴狼籍

第五十議会閉会後間もなく四月上旬、高橋是清氏は政友会総裁を辞して、田中義一氏を後任に推すと同時に大臣の職をも辞し、五月上旬に入りて革新倶楽部は解散して、その三分の二は政友会へ走るとともに、犬養氏は政界隠退を声明してこれまた大臣の職を辞し、さらに七月に入りては、政友会出身の閣僚らは内より内閣破壊の陰謀を企て、これがため加藤内閣は一度辞職をなしたるも、八月一日大命再降下によりて、ここに憲政会一党の内閣が成立した。

翌十五年一月二十日のわが党大会において、私は総務に選挙せられた。 同二十八日第五十議会開会中、加藤首相は発病後わずか一週間にして逝去せられ、憲政会は翌日若槻氏を総裁に推戴し、即日新総裁に大命降下して、若槻内閣が成立し、この内閣のもとに議会は無事に終了した。

同年十二月二十五日、大正天皇崩御あらせられ、世は昭和時代に入った。

十二月二十四日、第五十二会議は召集せられ、翌昭和二年一月十八日から本会議開かる。 私は院内総務として活動したが、この議会においては政友会および政友本党が在野党であって、両党連合すれば議会に過半数の勢力を有するから、政府はすこぶる苦境に立ち、解散か総辞職か、いずれかの事態が発生するやも知れずと予想せしが、開会の初めに当り、政府と政友本党との間に一種の妥協が成立し、政友本党は準与党となりて憲政会と提携したるがために、無事に閉会を告ぐるに至った。 しかしただ一事ここに記述しておきたいことがある。

議会開会前において、政友会は政友本党と連合して議会開会中に内閣を倒壊せんと策動していたが、中途にして政友本党は政友会を振り棄て、かえって憲政会と提携して政府援助の態度をとるに至ったがために、政友会はますます激昂して議場においては絶えず議事妨害をなし、しばしば騒擾を繰り返したるが、そのたびごとに私は、粕谷議長が断乎として議長の職権を行使して、これを鎮圧するの気力なきことをはなはだ歯痺く思うていた。

しかるところがいよいよ明日をもって会期終了せんとする三月二十四日、衆議院に決算委員会の報告が上程せられ、委員長の報告に続いて清瀬一郎氏が登壇した。当時政界の喧しき問題となれる政友会総裁田中大将と陸軍機密費との関係を暴露し、論難を始め出したからたまらない。 政友会の議席はたちまち沸騰して、われもわれもと演壇を目がけて殺到し、乱闘また乱闘、議席は全く修羅場と化したれども、議長は相変らずこれを制止するの能力なく、喧々囂々のうちに休憩を宣告して議長席を退いた時は、まさに午後三時二十一分であった。

私は院内総務として二、三の同僚とともに直ちに議長室に赴き、即時再開を迫ったけれども、議長は竣巡としてこれに応じない。 それより四時間有余の後、午後八時六分に至りようやく再開したるが、清瀬氏が引き続いて登壇するや、政友会の連中はまたもや演壇に殺到し、これを制止せんとする多数の守衛との間に押しつ押されつ大乱闘を重ねて、議長の命令は耳に入らない。 議長もよほど忍耐したれども遂に収拾する能わず、散会を宣告して退場した。

議員の激昂は一通りでなく、憲政会、政友本党は直ちに院内代議士会を開き、議場を整理する能わざる議長の無能を論難し、両党とも期せずして議長不信任の決議をなし、その辞職を迫るべく院内総務に要求するに至ったから、私は同僚高木益太郎君とともに議長応接室に赴き、面会を求めた。

一体議場の有様は何ごとでありますか。 政友会議員の乱暴狼籍は実に言語道断の次第であって、議場の神聖は全然蹂躙せられている。 議長は議場の整理すべく法規によりて強大なる権能を付与せられているにかかわらず、これを行使する能わず、かくのごとき失態を惹起したるは、全く議長無能の致すところである。 われわれは今日までしばしば繰り返されたる議場の騒擾を傍観しながら忍耐に忍耐を重ねて来たが、もはやこれ以上の忍耐を続けることは出来ぬ。 代議士会が議長の不信任を決議したる以上は、われわれはこの決議を執行する責任がある。 議長も自ら省みて、その責任の重大なることを悟りて、即時潔く辞表を提出せられたい、今日議長として執らるる途は他にないと思うがどうか。

事ここに至りて私は毫も躊躇するところはないから、思いきって議長の前に九寸五分を突き付けて自決を迫った。 議長もすでに覚悟していたものとみえて、しばらくお待ち下さいと言いながら議長室へ引き返し、小泉副議長と鳩首熟議の末、両議長ともいよいよ辞表を提出することに決めた。 私は直ちに安達逓相を電話に呼び出してこのことを報告すると、氏は事の意外なるに驚き、それは困る、たとえ代議士会の決議であろうが、議会は明日限りで、政府案も残っているこの際、議長の辞職は是非とも思い留めねばならぬ、吾輩わがはいは断じて反対する、と大分語気が強かったが、私は一歩も譲らない。 たとえ誰が何を言おうと、院内総務としては代議士会の決議を行わねばならぬから、単にこれを報告の程度に止めて電話を切った。

その夜帝国ホテルにおいて、政友本党の床次総裁が憲政会の閣僚および党の幹部を招待しておったが、議会紛擾のため出席を遅延して十時過ぎに食堂が開いた。

私は前述せる院内の仕事を了えて、十一時過ぎホテルに赴き、食卓につく時もなく、まず若槻首相に事の次第を報告すると首相は驚いた。 それはまことに困ったことが起こった。 議会の会期は明日終了する。 政府案がことごとく終了してあれば構わないが、貴族院修正の追加予算案が明日衆議院に回付せられるから、これは是非とも議了せねばならぬ。 もしこれが未議了に終れば、政府の進退にも関する責任問題が起こる。 しかるに正副議長とも辞職せば明日の議事を進めることは出来ぬ。 何とか辞表を撤回させねばならぬ。 これから協議をしたいが、もはや時刻が遅いから明朝九時、院内大臣室において協議することにしよう。

私は十二時過ぎ帰宅した。 翌二十五日九時、院内大臣室に至れば、政党出身の大臣はすでに集っている。 若槻首相は、ただ今正副議長の辞表は届いたが、このまま申達すれば後が面倒であるから辞表を撤回せしめるように尽力せられたい、と言われたれども、私はそれはすこぶる困難である。 まず代議士会にはからねばならぬが、代議士会は前議を翻さないことは明らかである。 またたとえわが党代議士会が承知するとも、友党たる政友本党の代議士会が承知せざれば駄目であるから、まず床次政友本党総裁に相談せられたいと言った。 ここにおいて首相は床次総裁を呼んで相談せられたから、同総裁は直ちに政友本党の代議士会に諮られたが、予想のごとく代議士会は断じて前議を取り消さない。 事ここに至りてはもはや施すべき術はなく、政府はそのまま両議長の辞表を申達し、辞職は直ちに聴き許せらるることとなった。

三月二十五日、議会最終日の衆議院においては正副議長とも欠員となったから、議院法第十四条により仮議長を選挙せねばならぬ。 しかして仮議長を選挙する場合において、議長の職務を行う者は衆議院規則第二十六条により出席議員中の年長者をもってこれに充てることとなっているから、加藤政之助君が議長席につき、仮議長選挙を行いたる結果、憲政会の森田茂君が当選した。 ここにおいて森田君は仮議長席につき、当日の議事日程に移った。

政友会はまたもや議事妨害を始めるかと思うていたところが、今朝の新聞紙は挙って昨日の議場における政友会の暴状を攻撃したから、彼らは意気鎖沈してこの上妨害を継続するの元気もなく、議事は予想外にすらすらと進行して、議事日程を終り、最後に正副議長の選挙を行いたるに、森田君議長に、政友本党の松浦五兵衛君副議長に当選し、午後十一時四十一分散会し、ここに紛擾多き第五十に議会は閉会するに至った。

案ずるより生むが早いとはこのことである。 政友会は議事妨害をなして結局その目的を達する能わざるのみならず、かえって政友会出身の議長を失うに至った。 また私は自ら体験した。 およそ事を行うに当っては、正しき道を追うて一直線に進むべし、左顧右眄して逡巡躊躇するは事を誤るのもとである。