『回顧七十年』 その14

last updated: 2013-01-23

演説、三時間二十分

昭和二年四月十七日、若槻内閣は辞職し、同月二十四日、田中内閣成立し、これより憲政会は在野党となった。

五月四日より五日間第五十三(臨時)議会が開かる。 私は劈頭一般内政に関する質問演説をなしたが、その一節の、政府は農村振興に関して如何なる対策を有するやとの質問に対し、田中首相は、農村振興とは肥料の公平なる分配なりと答えて、政界笑話の種を蒔いたのは滑稽であった。 臨時議会は無事に終了した。

六月一日憲政会と政友本党と合同し、上野公園の精養軒(注1)において新た立憲民政党の結党式を挙行し、浜口雄幸氏を総裁に推戴し、総務十名を選挙し、私もその一人に加えられた。

同年十二月二十四日、第五十四議会招集せられ、翌三年一月二十一日、本会開会せられ、実業同志会より議会解散奏請の決議案、民政党よりは内閣不信任案を提出し、首相、外相、および蔵相の演説を終るや、直ちに解散の詔勅下る。 二月二十日が選挙期日と定められた。

今回の選挙は初めて普選法のもとに行われ、従来の小選挙区は廃せられ、但馬五郡、丹波二郡を合して一選挙区となし、定員三名のところに五名の候補者が現われた。

私は二月一日但馬に帰り、同志と一般方略を協議したる後、五日よりいよいよ言論戦を開始し、選挙期日の前日まで昼夜を通じて各郡各町村に亘りて数十回の演説をなし、華々しく戦った。 当選は疑いなしと思わるれども、前回に比すれば選挙区が三倍となり、有権者は十二、三倍になっているから、得票数を予想することはすこぶる困難であったが、開票の結果は次のごとく、意外にも私は実に飛び離れたる最高点をもって当選した。

二三、三四八票 当選 斎藤隆夫(民政)
一四、六七九票 当選 田昌(民政)
一四、一二七票 当選 若宮貞夫(政友)
七、一八二票 落選 尾崎勇次郎(政友)

総選挙の結果は、政友会と民政党とはほとんど伯仲の間にあったから、四月二十日召集せられたる第五十五(特別)議会において、政府は再度まで停会を命じてその間に数名の民政党議員を買収し、ようやく危機を脱して無事に閉会を告ぐるに至った。

本会議において私は国務大臣の演説に対する質疑の先頭に起ちて、憲法政治の運用に関し約五十分に亘り弾劾的質問演説をなした。 政友会は盛んに妨害をなしたれども、難なくこれを切り抜けて無事に終了した。 さらに議会停会に関する政府の責任に関し緊急質問をなしたる他、別に記述すべきものはない。

同年八月一日、民政党内には時ならぬ動揺が起こった。 それは床次竹二郎氏の脱党である。 氏は浜口総裁に次ぐ民政党の領袖であって、党内においても衆望をにない、昨年六月一日政友本党を率いて憲政会と合同したる時は、その結党式において、私はこれから一書生となりて党のため国のために奮闘すると演説したくらいにて、爾来一年有余の間に、党の最高幹部として党の枢機に参画し、何一つ不平のあるべきはずはない。 したがって党員一同は言うにおよばず、常に氏の左右にある者も氏の脱党などは夢にも想像しなかったが、何を感じたか当時北海道の遊説より帰京するや、突如として脱党と新党樹立を声明した。 全く寝耳に水である。 党員も驚いたが世間も驚いた。 表面は対支政策につき意見を異にするというのであるが、真意は他にあったことは争われない。

憲政会系の党員は非常に憤慨し、本党系の党員は去就に迷うたが、結局氏と行動をともにする者は比較的に少なく、多数は大義名分を重んじて留党することに決めた。床次氏は大正十三年一月、政友会を脱して政友本党の人となり、昭和二年六月、本党を解党して民政党員となり、今回民政党を去ってしばらく新党倶楽部を組織していたが、昭和四年七月またもやこれを解党して政友会に合同し、さらに昭和九年七月、岡田内閣の逓信大臣となりて政友会より除名処分を受けた。 政治的地位の動揺する政治家として、おそらく氏の右に出づる者はなかろう。

九月に入りてから民政党内の不平組が蠢動しゅんどうを始めた。 裏面に政府の魔手が伸びていることは疑いなき事実である。 二、三の代議士が脱党し、小寺謙吉氏は除名処分を受けた。 小寺氏は私と同県の出身であって、私より一回早く代議士となり、多年同一政党に籍を置いて来たが、今回浜口総裁その他党幹部を悪罵する文書を公にしたるがために、党規紊乱の理由によりて除名処分を受くるに至りたるは、氏のためにはなはだ惜しむべきことである。 その後氏は政友会に入党したが、引き続いて二回の選挙に落選して、末路はなはだ振わない。 気の毒の至りである。

十一月十日より十七日に亘り、京都において今上天皇即位の大典が挙行せられ、私は同月八日妻を伴うて東京を出発し、九日京都に着し、丸太町御前通西入ル森山別邸に入り、十日間滞在の後に十九日帰京した。 この間に荘厳なる大典の儀式に参列し、京都、奈良その他付近の名所古跡を巡遊し、愉快なる日を過ごしたるは一生の思い出である。

私は大正四年十月、衆議院議員として大正天皇即位の大典に参列し、今回またもこの大典に参列するを得たるは、私の最も光栄とするところである。 当時その筋の調査したるところによれば、前記両回に亘り衆議院議員として大典に参列したる者、わずかに七十三名に過ぎないということである。

十二月二十四日、第五十六議会召集せられ、翌四年一月二十二日より本会議が開かれた。 本会議において私は党を代表して四度壇に起った。 その第一回は一月二十二日、国務大臣の施政方針の演説に対して一時間有余の質問演説をなし、第二回は政府提出地方制度改正案に対して質問演説をなし、第三回は三月二日、治安維持法改正緊急勅令事後承諾案に対して反対演説をなし、第四回は三月十一日、床次氏ら提出の選挙法改正小選挙区案に対して質問演説をなしたが、この第四回目の演説はなるべく議事を遷延せしめて、該法案を審議未了に終らしむるのが目的であったから、私は数多の資料を携えて登壇し、諄々と演説を始めたが、約三時間も過ぎたる頃になると、政友会も弱り果てて遂に民政党に交渉し、質問は明日も継続するから今日はこの程度にて止めてくれと言い出した。 民政党の院内総務から壇上の私にこの旨を通告したから、私は質問の要旨を結びて降壇したる時は午後九時四十分であって、私の演説時間はまさに三時間と二十分であった。

小選挙区案は衆議院を通過したれども、貴族院において握り潰された。 本議会において政府提出の重要法案は衆議院を通過したれども、貴族院においてことごとく審議未了の名によりて葬り去られ、政府は当然総辞職をなすべきにかかわらず、田中首相は議会閉会するや、断じて辞職せずと声明した。 しかるに七月一日に至り政府は対支関係につき進退両難に陥りて、遂に辞職を決行し、即日浜口総裁に大命降下し、ここに民政党内閣が成立した。

脚注

(1)
原文は、「静養軒」表記である。