『回顧七十年』 その17

last updated: 2013-01-23

安達内相、暗躍する

帰京してみれば政界は風雲を孕み、内閣は動揺の徴候が現われている。 九月十八日満州事件突発以来、かの地の形勢は日一日と進展して停止するところを知らず、これがために政府部内にありては、対満方針につき軍部大臣と他の閣僚の間に意見の一致せざるものあり、この際十一月事件なるものが起こった。 事件の真相は今日に至るまで世上に発表されないが、青年軍人の不穏計画であったことは蔽うべからざる事実である。

かくのごとくにして世の中には何となく不安の空気が薄い、民政党内も一部の者らが陰謀的の策動をなして、ややもすれば結束が乱れんとしている。 ことに安達内相が協力内閣論を唱え出してから、政界の動揺に一段の拍車をかけた。

内相の協力内閣論なるものは、要するに今日の難局を切り抜けるためには、一党一派の内閣をやめて、挙国一致内閣を作って国事に当るべし、その方法としては若槻内閣は一旦総辞職をなし、大命が反対党の犬養政友会総裁に下らば、犬養首相のもとに政民両党の連合内閣を作るべしとの趣旨であるが、かくのごときは当時の事情に照して決して行わるべき議論ではない。 しかし党内には内相腹心の者も大分ありて、これらの人々が互いに呼応して種々の策動をなしたから、党内の不安はますます募るばかり。 一大英断をもってこの禍根を一掃するにあらざれば、内閣の崩壊は免れ難き情勢となった。

私は帰京するやこの情勢を見たから、直ちに党出身の閣僚を歴訪して勇気と決心を促し、若槻首相には、いやしくも大命を奉じて国政燮理(注1)の大任に当る一国の首相たる者が、この重大時局に直面し、閣僚中に異端者を出して、これを抑制する能わずして内閣の不統一を暴露し政界を不安に陥れて、これを芟除さんじょするの途を執らざるがごときは、上御一人に対し奉り輔弼ほひつの責を尽し、下国民の期待にうの所以ゆえんではないから、進むならば進むべし、退くならば退くべし、進退いずれなりとも速やかに決断せらるべき旨を進言するに至った。

十二月十日、私は民政党の顧問富田幸次郎氏を訪問した。 氏は安達内相と意を通じて協力内閣のために策動する一人である。 私は協力内閣の不可能なる所以を説き、かかる策動は断然中止すべき旨を談じたるに、氏はすでに政友会幹事長久原氏と協力内閣の申合書を取り交して、その日午後、若槻首相に面会してこれを提示し、その実行を進言する考えであることを語ったから、私はその不可なる所以を力説し自重を要望して別れ、首相にこれを報告するとともに、富田氏の進言は即座に拒絶せらるべしとの意見を述べた。

しかるところが、その夜深更私は眠りについていると、首相秘書官桝山儀重君より電話がかかった。 本日午後富田氏が首相に面会し、久原氏との申合書を提出してその実行を進言せしより、にわかに党出身閣僚の非常招集となり、官邸は党員、新聞記者その他多数の人々が集って大混雑をきたしているから、至急来邸せられたい。 私は直ちに官邸へ赴いた。 門を入れば広き構内には自動車が充満し、邸内は混雑し、会議室には党出身の閣僚が集っている。

同日午後、首相は富田氏と会見後、この問題を根本的に解決すべく党出身閣僚を招集し忌憚なき意見を求められたるに、閣僚はもとより首相の方針に従い、協力内閣などに耳を藉す者はない。 ただ一人安達内相は初めて閣僚の前にこれを言い出したれども、誰一人賛成する者はない。 さて首相は内相に対して協力内閣の不可なる所以ゆえんを説くとともに断然その主張を抛棄すべく、もしこれをなす能わざれば、直ちに辞表を提出すべく勧告せられたれども、内相はこれに応ぜず、さりとて多数の閣僚と議論を上下することも出来ないから、その場を外すがために、一応考えた上にて後刻返答すると言い残して自宅へ帰りたるまま再び来邸せず、自宅には郎党を集めて謀議をこらしている。 私はこれを見て不快の感に打たれた。

翌朝の新聞は協力内閣論から急転して、内閣総辞職の記事を掲載した。 党員らはこれを見て驚くとともに安達氏の行動を怒らざる者なく、彼らの多数は氏の門を叩いて単独辞職を迫り、二、三の閣僚もまたわざわざ氏を訪問してこれを勧告したれども、氏は頑としてこれに応ぜず。 かくのごとき場合に当りて内閣は如何なる途を執るべきものであるかというに、純理上より見れは他に方法もあらんが、従来の慣例によれば、内閣不統一の理由をもって総辞職をなすことに決っているから、他の途をとることを許されない。

ここにおいて若槻首相は閣僚全部の辞表を携えて参内し、これを闕下けっかに奉呈した。

かくのごとくにして若槻内閣は安達内相の抱合い心中によりて終焉を告げ、同時に私も法制局長官を退くことになった。

翌日政友会の犬養総裁に大命降下し、予想のごとく協力内閣論は一蹴せられて、政友会一党の単独内閣が成立した。 これを見るや民政党員はますます憤激して安達氏の除名は当然の勢いとなったから、氏はこの形勢に余儀なくせられて遂に脱党届を提出するに至った。

思えば大正二年故桂公が立憲同志会を組織せらるるに当り、中央倶楽部より入り来りて党員となり、憲政会より民政党に移り、前後二十余年の間一意専心党務に尽瘁し、党内にありては総裁をも凌ぐ勢力を扶植しながら、一時の錯覚より政変を捲き起こして自党の内閣を倒壊せしめ、多数党員に見棄てられて党籍を去らねばならぬことは、氏にとりては残念この上なきことであろうが、一つには自己の勢力を過信し、また一つには周囲の郎党に誤られて事ここに至りたるものであって、他を咎めることは出来ぬ。

私自身は立憲同志会以来終始一貫同一政党にありて党務に鞅掌おうしょうし、特に内務大臣たる氏のもとに一年と十か月政務次官の職にありて、他の党員に比すれば一層深き政治上の親交あれども、氏のとりたる行動に至りては、これを政党政治家の見地に照し、これを国務大臣の責任に考えて徹頭徹尾賛成することは出来ないから、しばしは忌憚なき苦言を呈し、私としては尽すべきことは十分に尽したから、この上なすべきことはない。 世間の一部には私が安達氏と進退をともにせんかと疑いたる者もあったようであるが、かくのごときは思いもよらぬことであって、道理なきところに公人の進退あるべきわけはない。

その後党において氏の復党を策動する者もあったが、到底実現するに至らずして、議会の召集が近づいた。

十二月二十三日、第六十議会召集せられ、翌七年一月二十二日、本会議開かる。 例によりて首相、外相、蔵相の施政方針の演説終るや、直ちに解散の詔勅が下り、二月二十日が総選挙の期日と定められた。

脚注

(1)
民生書院版では「變理」、中公文庫版では「変理」と表記していますが、両方とも誤字だろう。