『回顧七十年』 その20

last updated: 2013-01-23

普通選拳法成立

議会開会後の政界は平穏にして特に記すべき事件も起こらず、私の役人生活にも何の変化もない。 毎日午前は役所にあり、正午には日本倶楽部において午餐を摂り、碁を囲み、民政党本部にも顔を出す。 諸種の委員会その他の会合にも出席し、時々地方へ出張する。 また兵庫県民政党支部長としての働きもする。夏季は家族一同とともに鎌倉に避暑する。 その他の日常生活は極めて呑気である。 ただこの間において土木事業視察のため東海道の自動車旅行をなし、四国へ赴き、二週間の旅行を終えて帰京したるは一生の思い出である。

指折り数うればもはや足掛け四十五年の昔となるが、明治二十二年私が志を抱いて初めて東京に上りたる時は、東海道の汽車は未だ全通せず、その上旅銀不足のため毎日徒歩旅行をなして、国を出てより十八日目に横浜に着いた。 その後汽車は全通し私の境遇も漸次に変化し、ことに議員生活に入りて以来、一等寝台に安眠を貪りつ、一夜にして神戸に達し、一夜にして東京に帰る。 私はしはしばこの間を往来するごとに当時を追想して、徒歩旅行は出来ないが、せめては自動車旋行でもなして昔日を偲びたいと思うこともあった。 しかるところが、今春唐沢土木局長が、道路視察の用務を帯びて東海道の自動車旅行より帰り、私にこれを勧めたから私の心は動いた。

五月十八日、一名の属官を従えて東京を出発し、小田原に下車し、迎えたる神奈川県庁の自動車に乗り、箱根を越えて芦ノ湖畔に出で、沼津に達し、それより次から次へと各県庁の自動車に乗り替え、県吏の案内と説明によりて途中の道路、河川、橋梁、港湾等を視察しながら静岡と岐阜に一泊し、三日目に神戸に到着した。 東海道の旧態は一変したれども、なお昔を偲ぶに足るべき名所、古跡の残れるもの少なくない。 これらは、水久に保存したいものである。

二日間神戸に滞在し、この間に神明国道開通式に臨みたるが、この道路もまた私が十六歳の時無断家出して京阪に流浪し、志を得ずして悄々しょうしょうと故郷へ帰る時、疲れ果てたる両脚を運びたる道筋である。今回巨費を投じたる幅広の舗装道路完成し、車上の人となれば、須磨、舞子の風光を眺めつつ矢のごとく疾走する。 実に日本一の道路である。

二十三日高松に着し、翌日徳島に着いたが、ここも思い出の地である。

私は明治二十三年より約一年有半、同郷の先輩桜井徳島県知事の書生となりて官邸の玄関番をなしていた。 当時新築の官邸が四十有余年の今日如何になりておるだろうかと思い、徳島に着くやまず第一に落合知事とともに官邸に赴いた。 見れば官邸は木造西洋館のペンキ色が変っているのみで、他は依然として旧のごとくである。 ただ新築と同時に官邸の周囲に植付けたる苗木が、天を衝くばかりに生長し繁茂しているのは、歳月の争われぬ証拠である。

それより愛媛県下を巡視して三十日に帰京したが、実に愉快なる旅行であった。

十二月二十三日、第六十五議会召集せられ、翌九年一月二十三日より本会議が開かれた。 この議会においてはいよいよ数年来の懸案たる選挙法改正案が成立すべき機運に到達した。 第五十議会を通過して成立したる普選法改正の議は浜口内閣に起こり、若槻、犬養両内閣を経て斎藤内閣に持ち越された。 これを法制審議会に諮問して大綱を決定し、内務省において原案を作成し、枢密院の議を経て議会に提出し、両院を通過するまでには私も相当の努力を払った。

私と選挙法はずいぶん深い関係がある。 しかるところが衆議院委員会において政民両党協定し、本会議においてもほとんど満場一致をもって通過したる修正案のある部分に対して、政府は貴族院において反対を表明したるのみならず、貴族院もまた直ちに修正を加えたるがために、ここに両院協議会が開かれ、一時は案の運命危殆に瀕したるが、議会最終日たる三月二十五日に至りてようやく妥協成立し、衆議院は午後十一時、貴族院は十一時四十分いずれも本会を通過してめでたく閉会を告ぐるに至った。

かくのごとくに選挙法改正は常に困難なる問題であるが、今回の改正は私が在職中に残したる唯一の記念物であると思うている。

斎藤内閣は昭和七年五月いわゆる五・一五事件の直後、人心不安、政界動揺の最高調時に成立し、爾来通常臨時合せて四回の議会を無事に終了し、まさに二年の歳月を経過した。 人心すでに倦みて内閣の更迭を望むに至れりといえども、複雑せる政界の事情は容易に適当なる後継者を見出し能わざるがために、首相はじめ各閣僚はなお将来もその職に留りて、国政燮理(注1)の任に当る考えであったことは事実である。

しかるところが議会終了後間もなく、台湾銀行所持の帝国人絹株売買に関する涜職事件起こり、五月十五日、黒田大蔵次官他二課長が起訴収容せられ、なおその他前、現大臣にも波及せんとするの徴候ありて、国論着々として内閣の責任を論ずるに至った。 元来裁判上のことは判決確定せざれば事実明瞭ならざれども、政治上の責任はその時を待つを許さざる情勢となったから、斎藤首相は意を決して七月三日内閣総辞職を断行し、翌日海軍大将岡田啓介氏に大命降下し、ここに岡田内閣が成立し、私も二年と二か月の後官職を去ることとなった。

岡田大将は斎藤内閣と同じく政友会より三名、民政党より二名の閣僚を入れて、内閣を組織する考えにて政友会の鈴木総裁を訪問し、次に民政党の若槻総裁を訪問して協力を依頼したるが、若槻総裁はこれを快諾したれども、鈴木総裁はこれに応じなかった。ここにおいて政友会より床次、山崎、内田の三氏を引き抜き、これに民政党の町田、松田の両氏を加え、他に軍部および官僚の代表者を集めてようやく組閣を完了するに至ったが、政友会は右三氏を党議に違反したるものとして除名処分を加えた。

多年の政友を振り捨て、あまつさえ除名処分を受けてもなお大臣になりたがる者がある。 政党人が軽蔑せらるるのは当然である。 かくのごとくにして岡田内閣は挙国一致をとらんとしてここに蹉跌を来し、一種の出来損いの内閣となった。 ことに政友会の多数を野に放って、円満に政治を進めて行くことの出来るわけはない。

本年は春より地方各地に雪害、早害、冷害等の天災が続発し、九月には関西一帯未曾有の大風雨にてその惨状は名状すべからざる有様であったから、政府はこれらの救済方法を審議するがために十一月二十七日、第六十六(臨時)議会を召集した。 予算委員会において、政友会の一委員より救済金額に関し、いわゆる爆弾動議を提出したるがために、政局は急に緊張して一時は議会解散の空気が起こったが、この動議も遂に竜頭蛇尾に終り、十二月十日無事に閉会を告ぐるに至った。

同年十二月二十四日、第六十七議会が召集せられ、翌十年一月二十二日より本会議が開かれた。 二十四日、私は国務大臣の施政方針演説に対し、一時間十五分の質問演説をなした。 その大要は国民生活、国民の自由および戦争に対する三大脅威を骨子としたるものであって、軍部に対しても相当痛撃を加えた。 演説の効果は如何なるものであるかと心密かに疑っていたが、降壇するや否や同志は言うにおよばず、政友会の議員に至るまで大成功なりと激賞し、翌日の新聞はいずれも筆を揃えて私の演説を掲載し、見ず知らずの人々より数多の感謝状まで贈られるに至ったのは実に意想外であった。

三月二十五日、議会は無事に終了したけれども、予算案を除くの他政府の重要法案はことごとく不成立となった。 責任内閣であるならば当然辞職すべきはずなるにかかわらず、岡田首相にはさらにその考えはない。

脚注

(1)
民生書院版では「變理」、中公文庫版では「変理」と表記していますが、どちらも誤字でしょう。