『回顧七十年』 その21
長男重夫の死
八月に入りてからわが家にはまたもや悲しむべき不幸が降りかかった。 それは長男重夫の死去である。
顧みれば三年前昭和七年、夏季中は毎年の例によりて家族一同は鎌倉に避暑したが、帰ると間もなく彼には肋膜炎の徴候が現われたから、早速九月二日赤十字病院に入院せしめたが、一か月有余にして退院し、医師の勧めにより十月十七日、鎌倉に転地療養せしめた。 しかるところが同地において風邪が因となってまたもや肋膜炎を再発したから、十一月十日帰宅、翌十一日再び同病院に入院せしめたが、これまた全治して十二月十九日退院するに至った。 しかして翌八年中は大体健康にて早稲田大学高等予科に通学していたが、その年の暮頃学校の門前において自動車に打ち当てられて腰部を痛め、これがために翌九年一月八日、三度同病院に入院した。 同月二十日退院し、二月十八日には坐骨神経痛にて四度同病院に入院したれども、別に施すべき術もないから、同月二十四日退院して他の専門医師にかかりてその方の痛みは大体治ったようであった。
しかるところが全治したと思うていた肋膜炎は未だ根本的に全治しておらなかったのみならず、これが漸次に亢進して
九月に入ってから学校も始まるから病気の方はどうなっているか分らないが、本人もぶらぶら遊んでいるのもいやになり、
しかし私の目には彼の病気は根治しているものとは見えないのみならず、時々軽き咳をなし身体の細り行く容態を見ればなかなか安心が出来るものではなく、人知れず彼の前途を気遣い、不安の念は一日も胸を離れたことはなかった。
九年の暮から十年の正月には弟高義とともに伊豆の大島に旅行し、徒歩にて三原山を登り降りして少しの疲れた様子もなく、元気よく帰って来たくらいであるから、不安のうちにもまた一縷の望みを抱かないわけでもなかった。
三月に入り学年が終って休暇となったが、神経痛にて腰の骨が痛んで堪えられない。
転地治療がよろしかろうというから同月二十日、伊豆の修善寺へ転地させたが、宿屋住いがいやになって四月十七日に帰って来た。 一か月の間に身体はますます瘠せ、顔色は蒼白となった。 全く死相が現われているように見えた。 これは大変と思い、早速十九日鎌倉の額田病院に入院させたが、設備も待遇も思わしくないというので、三十日に小坪の湘南サナトリュームヘ転院することにした。 同所は空気も清く、環境も静かにしてこの種類の病人がゆるゆると療養するに適当の所であるから、ひとまず安心はしたものの、病勢はすでに深く胸部に蔓延し、到底全治の見込みが立たない。
七月に入ってから家族一同鎌倉に避暑することになった。 妻も私も彼の容体を気遣いながらしばしば見舞に行くごとに、今日は少しは快方に向っているかと思うとなかなか快方に向うどころではない。 日一日と衰弱は加わり、病勢はますます悪化して危機はまさに旦夕に迫って来ている。 それでも何とかして一日でも長くこの世の人としておきたいがためにあらゆる手段を尽してみたが、天命は如何ともすることはできず、到頭最後に彼と別れねばならぬ日が到来した。
八月十六日朝、妻は例のごとく彼を見舞わんがために、新鮮なるメロンを携えて家を出たかと思うと急に引き返し、ただ今門出の魚屋へ病院より電話がかかりました。 重夫の呼吸が困難となって危険であるから、至急に来られたいとのことでありますと。 驚きながら早速高義を連れて、三人自動車に乗って病院に駆けつけて見れば、彼は病床に坐し、前の小卓に寄り掛かりながら苦痛をうったえている。 ああ実に可哀想だ。 私の胸は裂けんばかりであったが、如何とも施すべき術はなく、重夫重夫、しっかりせよと呼びながら、ただただ茫然と見守っているばかりである。 医師、看護婦が付添うて手当を加えているが、呼吸は刻一刻と迫った。 遂に午前十時二十分、二十二歳を一生として永き眠りに落ちた。 万事休す。 同夜彼の遺骸は、彼が住み慣れたわが家に運ばれた。
十九日はいよいよ愛児重夫を葬るの日である。
昨夜来今日の天気如何と懸念していたが、幸いにして朝から雲は
ああ重夫は永久に逝いた。 われらは再び彼に逢うことは出来ぬ。