『回顧七十年』 その24

last updated: 2013-01-23

政党、軍部と衝突

この演説以来その筋においては私の身辺を護衛するの必要を認めたものと見えて、その翌日から二名の私服警官が拙宅に詰めきることになった。 私はさようなることは必要がない、お断りすると申したれども、しばらく辛抱してもらいたいというて、とうとう八月の初め家族一同とともに避暑地に出かけるまで続いた。 避暑地においても土地の警官が時々見舞に来てくれた。

十二月二十四日、第七十議会が召集せられ、翌十二年一月二十一日より開会せられた。 国務大臣の施政方針演説に対する質問において、政友会の浜田国松氏の演説が軍部攻撃に亘ったから、寺内陸軍大臣は非常に激昂し、閣内において議会の解散を主張したれども、海軍大臣がこれに反対したるがために、広田首相は閣内の不統一を理由に、二十三日突如として辞職を決行した。 実に意外の出来事である。

翌二十四日、宇垣大将に組閣の大命が降下した。 大将は長岡温泉地の別荘より上京して組閣に着手し、国論はこぞってこれを歓迎した。 しかるところが、大将に対しては年来陸軍部内において深刻なる反対ありて容易に解けない。 しかし近来はその反対もやや薄らいで来たとの噂もあり、ことに大命を拝受せられたことであるから、まさか陸軍部内が反対して組閣の邪魔をなすがごときことは何人も予想せざるところであったが、意外千万にも大命降下するや、陸軍首脳部は直ちに結束してこれに反対し、宇垣内閣に対しては絶対に陸軍大臣を送らざることに決定したからたまらない。 それでも大将は隠忍自重して局面打開に数日を費やされたれども、万策尽きて遂に二十九日参内して大命を拝辞せらるるのやむなきに至った。

かしこくも天皇陛下におかせられては、深く今日の時局を御軫念しんねん遊ばされ、この時局を担当するには大将をもってもっとも適任と思召されて大命を降し賜いたるにかかわらず、この大命が陸軍部内の反対によりて行われざるに至りては、私は実に言うところを知らない。 国民は非常なる悲憤に打たれたに相違ないが、一人起ってこれを論難する者もない。 もって当時如何に非立憲なる勢力が国内を圧迫していたかを推知するに足るべく、同時に陸軍はこの一事によりて確かに国民の怨府となったに相違ない。

宇垣大将が大命を拝辞せられたるその日、新たに林大将に組閣の大命が降下せられた。 全く陸軍の発意であって、陸軍万能の時代である。 これに加うるに林大将は軍部方面の空気に押されたでもあろうが、一切政党員を排斥して二、三閣僚欠員のまま組閣を完成し、二月二日(昭和十二年)親任式を挙行し、議会は十四日まで停会せられ、十五日より開会せらるることになった。

一体政党を排斥して国民的基礎を有せざる内閣に対しては、政党は直ちに起って反対すべきはずであるにもかかわらず、政民両党は一には非常時とか挙国一致とかいう政府側の掛け声に圧せられ、また一には、両党自体に戦闘意識と勇気を欠くがために、正面よりこれに反対することも出来ず、さりとて無条件かつ盲目的にこれに追随することも出来ず、大体政府の提案を認めつつ枝葉問題について議論するくらいなことにて、三月二十五日の議会終了期日に到達したが、政府案はまだなかなか全部議了しない。

三十一日まで会期が延長せられて、最終日にはほとんど全部の政府案は両院を通過する見込みはついていた。 もとより政党と連絡なき政府であるから議事の渋滞するのはやむを得ないことであって、政府自ら招くの禍いである。 この時に当りて政府は何と考えたか知らないが、その日の新聞には、議会解散の記事が現われて何となく不安の空気が漂うた。 しかし如何に政界および党界の事情に暗き政府といえども、さようなる暴挙はなさないであろうと思うていたが、登院すれば午前十一時頃、突如として解散の詔勅が降った。 実に乱暴極まる処置、議員一同はいずれも唖然たる有様であったがやむを得ない、またもや選挙を争わねばならぬ。

選挙期日は四月三十日と定められた。 六日出発神戸に赴き、立候補届をなして一旦帰京し、改めて準備を整えて十二日出発帰県し、それより各地の同志を応援し、二十一日より但馬に入り、日夜各町村の演説会に臨み、二十八日但馬の日程を終り、二十九日丹波に趣き、植村候補のため最後の応援演説をなし、選挙運動はここに終了す。

翌三十日神戸に赴き、オリエンタル・ホテルに投じひとまず休息す。 明くれば五月一日、終日ホテルにありて県下各地の情報を待つ。 夕刻に至り大体判明す。 わが党十一名の候補者中、中亥歳男、柏木清治、植村嘉三郎、中村俊夫の四氏は落選し、民政七名、政友七名、社大三名、国同一名、無所属一名の当選となり、私は相変らず最高点をもって当選した。 得票は左のごとくである。

二三、〇六九票 当選 斎藤隆夫 (民政)
一七、○八二票 当選 若宮貞夫 (政友)
一三、七九七票 当選 山川頼三郎 (政友)
一○、九九三票 落選 植村嘉三郎 (民政)

全国当選数は民政百七十九名、政友百七十五名、社大三十七名、昭和会十九名、国民同盟十一名、東方会十一名、其他諸派中立を合せて三十六名、合計四百六十六名にして、民政党は辛うじて第一党の地位を維持することが出来た。