『回顧七十年』 その27

last updated: 2013-01-23

阿部内閣の退陣を迫る

熱海において昭和十四年を迎えた。本年は急速度に健康を回復して活動を始めめねばならぬ。

昭和十四年一月四日、突然近衛内閣が辞職した。近衛内閣は成立以来盛んに革新政策を高調して来たが、実行せられたものはただの一つもない。このまま議会に臨むことは出来ないから、辞職は当然である。 大命平沼男爵に降り、翌五日、平沼内閣が成立した。

一月二十九日夜、実家の相続人隆之助戦死の電報を受け取りて非常に驚いた。 彼は昨年出征し陸軍中尉とし大陸各地に転戦し、戦地より両三回手紙を送りたことがある。 最近の手紙はこの月の二十日頃届いたから幸いに無事であることを喜び、当方よりも直ちに手紙を差し出したるが、その手紙が先方に届く前に戦死したようである。 君国のためとは申しながら人間の花盛り、これから実を結ばんとする二十六歳を限りとして一生を終えたことは、まことに可哀相で断腸の念禁じ難きものがある。

一月二十一日より議会が開かれた。 私は腰の工合がなお悪く院内において杖にりながらも登院を怠らなかった。 別に議論すべき大問題もなく、ことに健康も許さないから、今期議会には一切口を開かないことに決めた。 世の中には毎議会に私の演説を期待するものもあるとみえて、各方面から何故に沈黙するかとの問合せが来た。 ことに選挙区の人々には新聞紙上に私の名が出ないのみならず、ある日の地方新聞には私が重患であるとの記事が掲載せられたから大変心配してくれたものもあったが、数日ならずして全く誤報であることが判明した。 事変中であるから議会は極めて平穏で政府案はことごとく通過して、三月二十五日終了した。

八月二十三日、独ソ不可侵条約が発表せられて世界を驚かした。 わが国にとりても全く寝耳に水である。 わが国は昭和十一年十一月、ドイツとの間に防共協定を締結し、その後イタリアも加盟し、これをもって外交の枢軸と唱えて来たのである。 防共協定は共産主義の侵入を防止するのが目的であるとはいうものの、その実わが国としては全くソ連を対象としているものであることは疑うべき余地なく、ドイツももとより同様である。しかるところが最近ドイツのポーランドに対するダンチヒおよび回廊地方要求問題が原因となりて、ヨーロッパの国際関係が緊張し、英仏はソ連と提携してドイツに対する包囲政策を協議中、突如としてこの不可侵条約が発表せられたのである。

防共協定を強化して軍事同盟までに漕ぎつけんとして交渉を重ねつつあった平沼内閣としては、その責任上辞職は当然であるから、二十八日総辞職を決行し、即日大命が阿部大将に降り、越えて三十日阿部内閣が成立した。

阿部内閣は相変らず官僚中心の内閣であって、民政党よりは、永井氏が阿部大将と私的会談の結果、入閣することになった。 翌日幹部会において町田総裁は満面不平の色を包みながら、その経緯を報告して承認を求めた。 政党の無気力かくのごとし、官僚に馬鹿にせらるるのも当然である。

ヨーロッパにおけるドイツの侵略行動はいよいよ止むことなく、九月初めにはポーランドに向って進撃を開始した。これがもととなりて英国は遂にドイツに向って宣戦を布告し、フランスもこれに加わって、ここに英仏対ドイツ間の大戦争の幕が切り落とされた。 この戦争の将来は如何になるべきか何人も予測することはできない。

九月末より約二か月有余の間、光線治療院に至り、腰部に光線を発射す。 効能あるがごとし。 昨年七月以来腰部の悩みはおいおいと快方におもむき、もはや活動には大なる支障なきものと思わるれども、未だもって元の健康体には回復しない。

おいおいと政治季節に近づけども、何分にも軍部の万能と政党の無気力のため、施すベき術はない。 時々幹部会において政党の不甲斐なきことを論じて党員を激励すれば、多数は共鳴すれどもこれを実行に移すこともできず、町田総裁をはじめとして、彼を取巻く面々はいずれも浅ましき一身の栄達に没頭して、政治家たるの気力と見識を有する者は一人も見当らない。 痛嘆すべき限りである。

数年前より、政民両党の有志が時々会合して国事を論議する常盤会なるものがあるが、会員中の富田幸次郎、浜田国松、東武三氏の追悼会を十一月二十二日、丸の内会館にて開いた。 集まる者政民両党の会員百数十名に達し、意外の盛会であったが、各派の代表演説の後、私もまた起って、現下の政情より軍部官僚の跋扈と政党の意気地なきことを痛論し、政党の奮起を絶叫した。 この会は改めて月曜会と命名し、政治運動を継続することとなした。

阿部内閣は、成立当初支那事変処理に向って邁進すべく声明したれども、未だその片鱗をも国民の前に示す能わざるに、早すでに内政上の失敗よりして国民的支持を失い、小会派の時局同志会は公然内閣不信任を決議し、月曜会もまた内閣に向って輔弼ほひつの責任上進退を考慮すべき決議をなして、これを阿部首相に突きつけるに至った。

かかる情勢のもとに十二月二十四日、第七十五議会が召集せられ、二十六日開院式の直後、院内予算委員会において有志代議士会が開かれたが、集まる者二百数十名に達し、私は推されて座長席に就き、満場一致阿部内閣に対して進退善処の決議をなすに至った。

かくして阿部内閣の運命は日一日と迫りつつある間に、本年もまさに暮れんとし、私は例年のごとく二十九日、熱海に赴き、ここに新年を迎うることとなった。