『回顧七十年』 その28

last updated: 2013-01-23

国家総動員法案、質問演説

翌十五年一月十四日、阿部内閣は遂に総辞職を決行し、即日組閣の大命が米内海軍大将に降り、十六日、米内新内閣が成立した。 これがため議会は休会して、二月一日より開会することとなった。 当日の議場においては、新内閣の米内首相、有田外相、桜内蔵相、畑陸相、吉田海相の演説に続いて、民政党の小川郷太郎氏が第一陣の質問演説をなしたれども、相変らず原稿朗読演説であって、気魄に乏しく、論旨もまた傾聴すべき何ものもなかった。

越えて翌二日、政友会中島派の東郷実氏がこれまた原稿に眼を離さず、終始政府および軍部に遠慮がちなる不得要領の演説をなして満場の嗤笑ししょうを買うた。

次にいよいよ私は壇上に立ち、支那事変処理を中心として一時間半の質問演説をなして降壇したが、この演説が院の内外に一大波紋を捲き起こし、ひいて私自身政治生涯の一大事変となるとは夢にも想像しなかったことである。

支那事変は建国以来の大事件であって、この事件の処理は実に帝国興廃のわかるるところである。 のみならず世界列国もまた大いにこの成行きを注目している。 したがって今日わが国の内外政治はことごとく事変を中心として動いていることは争われない。 しかして事変以来二年有半を経過したが、今後いつまで続くものか、また如何に処理せらるるものか、政府も軍部も確かなる見込みは立っていないようである、国民に判るわけがない。 故に議会においてはこの大問題について政府と議員との間に徹底的に質問応答が重ねられねばならぬはずであるにかかわらず、いずれの議員も軍部の圧力に辟易してこの重大問題に触れんとする者のないのは、国民代表の議員として如何にも意気地なき臆病千万の次第である。

ここにおいて私は、昨年十一月頃からこの問題について質問すべく相当の準備に取りかかり、議会召集後この旨を院内主任総務に通告した。 町田総裁は私の演説することを好まず、これを止めしめんとする意図あることが察せられたれども、私はこれに頓着するところなく敢然として質問すべく決心した。 このことが伝わるや、軍部方面においては相当に重大視したものとみえて、三好政務次官が来宅して質問の内容を知らせてくれと懇請したから、私は腹蔵なくこれを明示し、政府に向って答弁の用意を示唆しておいた。

質問の第一は、近衛声明なるものは事変処理の最善を尽したるものであるかどうか、第二は、いわゆる東亜新秩序建設の内容は如何なるものであるか、第三は、世界における戦争の歴史に徴し、東洋の平和よりいて世界の平和が得らるべきものであるか、第四は、近く現われんとする支那新政権に対する数種の疑問、第五は、事変以来政府の責任を論じて現内閣に対する警告等であって、私の演説を終りたる時は五時十分前であった。

しかして演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった。 しかし、議場には何となく不安の空気が漂うているように感ぜられた。

総理大臣が起って簡単なる答弁をなしたが、もとより不充分である。 陸軍大臣は黙して答えない、大蔵大臣が的外れの答弁をなした。 興亜院総裁が起ったが、嘲笑のうちに葬られた。 この間わずかに十数分に過ぎずして、議長は散会を宣告した。

散会後、私は速記課に赴き、速記を調べていると、議長室より呼びに来たから行ってみると、議長室には小山議長の他に小泉、俵、小川等の民政党幹部が集まり、演説の影響について心配顔をしている。 時局同志会や社民党から私の演説は聖戦の目的を冒涜するものであるという意味の声明を発するようである。 幹部連は速記録をそのまま新聞に掲載せらるることを恐れて、内務大臣に差止めを交渉しているが、内務省側では速記録に全部掲載せらるれば、これを新聞に掲載禁止を命ずることはできぬというている。

私は速記録を調べて見たが、訂正せねばならぬ点はないと思う。 しかし君らから見て何か差しさわりがあると思うならば、その部分のみに限り議長において削除しても差支えはない。 この一言を残して直ちに帰宅したが、何となく形勢が不穏に感じられた。

夜半、小泉、俵の両氏が来宅すべき電話があったれども、固く断った。 翌朝八時頃両氏が来宅し、昨夜総裁邸において最高幹部会を開いて協議したる結果、この際事態を収拾する必要よりして私に離党を勧告したから、私は私の演説が党に累を及ぼすというならば、離党を辞せずというて直ちにこれを承諾した。 ただし正午登院の上、意思表示をなすべく言明して別れた。 よって同時刻に登院してまず幹部会において、次に議員総会において、離党の挨拶をなして別室に退いた。 数名の同僚が私に自発的辞職を勧告した。 総裁の意を受けているに相違ない。 もとよりこれを一蹴した。

院内においては私に対する懲罰問題が高調せられている。 政友会中島派、時局同志会、社民党は懲罰賛成に結束し、政友会久原派の多数は反対にみえる。 民政党は秘密代議士会を開いて討議しているが、大多数は反対に傾き、幹部攻撃に激論沸騰して容易に収拾すべくみえない。 これらのために午後一時開会の本会は定刻に開くことができず、各派交渉会その他種々複雑なる紆余曲折の後、ようやく九時頃開会して、議長より私を懲罰に付する旨を宣告した。 よって私はいよいよ懲罰委員会の裁定を待つことになったが、これは全く軍部の干渉圧迫から来るものであって、各党各派はいずれも軍部の鼻息を窺ってそれに反対するの気力はないから、大勢は除名に決定するものとみえた。

ついでに言っておくが、昨夜議長室より私が退出したる後、如何なる事情が起こったか知らないが、議長は私の演説の三分の二以上を速記録より抹消した。 実に不都合千万なる処置であって、これがために国民大衆は私の演説の内容を知らずして怪訝けげんの念を抱き、これに乗じて、種々の悪宣伝をなして世間を迷わし、ある方面の歓心を得て自らためにせんとする、低劣政治家その他群小記者らの続出したることは、実に痛嘆すべきことである。

翌日より懲罰委員会が開かれた。 議長の出席を求めて懲罰の理由を質したが、議長はただ自己の信念に基づくと答うるの他には一切その根拠を明示することができなかった。 外務省情報部長の出席を求めて私の演説が外国に及ぼしたる影響を質したが、これまた有力なる資料となすべきものはない。

かくのごとく諸般の手統きを尽したる後、ようやく二月二十四日に至り、私は求められて委員会に出席し、午後一時開会、劈頭私は起って質問演説をなすに至りたる経過とその内容の一般を述べ、さらに進んで政友会中島派より提出したる七ヵ条の懲罰理由を逐一粉砕し、かつ逆襲的反問を投じたるに、提出者は全く辟易して一言これに答うること能わず。 他の数名の委員より質問をなしたるも取るに足るべきものは一つもない。 委員室に溢れたる傍聴議員は挙って私に加担して、喧々囂々殺気立つの光景を演ずるに至り、委員会は全く私の大勝に帰し、三時前に散会した。 翌日の新聞紙上には、裁く者と裁かれる者が全く地位を顛倒し、私が凱旋将軍の態度をもって引き上げたと記載したほどである。