『回顧七十年』 その33

last updated: 2013-01-23

故郷で敗戦を迎える

六月八日、第八十七臨時議会召集せらる。

六月十八日、罹災後二十日間、荷物輸送の準備に忙殺されたが、品川警察署の特別なる援助により、ようやく発送を終ることができた。 高義、義道、義政はいずれも応召中であるから、妻と愛子を連れて、東京駅より夜行に乗車し出発したが、途中空襲の不安に打たれつつ翌朝京都駅に着きたるときは、やや安堵の思いをなした。 午後二時過ぎ豊岡駅に下車し、竹井旅館に一泊し、翌日出石町に赴き、船屋旅館に止宿することになった。

出石はわが故郷であるから、帰れば明日にも住家はあるものと期待していた。 ところがなかなかさようにはいかない。 阪神その他各地からの疎開者、罹災者学童等が多数入り込んで貸家は一軒もない。 知人らがいろいろと親切に探してくれて、ようやく崇鏡寺の奥座敷八畳一室、六畳二室を借り受けることとなって、七月二日、家族一同はこの所に移転し、ひとまず落ち着くことができた。

当寺はその昔当町出身の名僧沢庵禅師が住職せられた由緒ある古刹であって、町外れを上ること約一町の山麓に位し、境内は広く、背後には松杉林立して天を蔽い、幽邃にして閑雅、時は夏の頃とあって、古池には朝夕蛙がコウコウと鳴き、蛍が飛び、真に仙境の思いがする。 空襲の不安はなく、夜も安眠を貪ることができた。 東京にいて、日夜空襲に脅やかされつつあったときのことを思えば、全く別天地であって、心の底から安堵の思いがする。 住職はただ一人にて、小僧も雇人も置かず、この寺に移ってから三十年来、全く自働自活にて、寺の基礎もますます強固となり、まことに良き住職を得たものである。

ただ意外に思うことは、東京はその頃食糧難にてずいぶん不自由を感じたが、田舎はそれほどでないと思っていた。 ところがこの狭い町にも、急に三千人ばかりの外来者が集まったので、食糧その他の物資はかえって東京よりも高値であって、闇売買は横行すれども警察は手を付けることもなさず、田舎の経済界も全く無政府状態であったのにはいささか驚いた。

しかしこの間にありても私ら家族一同は、町や村の人々が大変親切に世話をしてくれて、食糧薪炭その他一切の日用品に至るまで、あまり不自由を感ぜずに暮すことができたのは、終生忘れることができないことであると同時に、故郷の有難さを感銘した。

何十年来の俗塵を避けて、しばらくこの地に滞在することになったが、終日別になさねばならぬ用事もなく、毎朝仏前に坐し、三十分ばかり声を張り上げて読経することが一つの楽しみであった。 私は少年時代に一年ばかり京都の西本願寺付属学校に遊び、また田舎のある寺にて半年ばかり修業したことがあるから、少し経文を覚えておる。 その他は書を読み、文を草し、詩を作り、来客と世事を談ずるなど、少しも無聊を覚えることはない。

かくして日一日と過しておる間に戦局はいよいよ悪化し、敵はすでに沖縄を攻撃し、勢いに乗じて上陸作戦を強行しつつあることは蔽うことのできない事実であって、事ここに至りては、政府や軍部が何と宣伝するとも、戦局の前途はすでに決定的であって、このままに進んで行くならば、第二のドイツとなることは疑いない。

八月に入ってから、いよいよ危機に直面した。 ポツダム宣言が公表せられると同時に、俄然ソ連はわが国に向って宣戦を布告し、ソ満国境を突破して侵入を開始するに至った。

十五日午前、ある一人が来て、正午に重大なる放送があると告げた。 その何ごとなるかは略々気づいていたが、間もなく倉皇として再来し、終戦の詔勅が降りましたと告げた。 来るものが来たのである。 遅かりしといえども来らざるに勝る。 八年間の悪戦はいよいよ幕を閉じた。 これから日本はどうなるか。 大変な事が起こるぞ。 六年間の雌伏を破って政治界の表面に現われる時は、まさに到来したのである。

同月十七日。 鈴木内閣辞職して、東久邇内閣が成立した。

高義、義道、義政はいずれも除隊せられて、無事に帰還したことを喜ぶ。