『回顧七十年』 その35

last updated: 2013-01-23

公職追放、政界を揺がす

十月二十六日、第八十九議会が召集せられた。 当時の院内勢力は次のごとくである。

日本進歩党二七四名
日本自由党四五名
社会党一五名
無所属倶楽部七二名
無所属二名

私は進歩党を代表して、劈頭第一政府の施政方針について質問演説をなすこととなった。 思えば昭和十五年三月七日に除名せられてより、私は再び議政壇上に立つの機会は到来せざるものと覚悟していたが、図らざりき、政界は一転し、私は院内における絶対多数党を代表して堂々と壇上の人となり、時局に対する所見を忌憚なく吐露することを得るに至ったのは、感慨無量に堪えないものがある。 私の演説は当時の速記録に譲りて、ここには記載しない。

久しぶりの私の演説は世間の注目を惹いた。 議場は極めて静粛にして、一言の弥次も起こらない。 幣原首相の答弁は議場の満足を得るに至らなかったが、下村陸軍大臣が私の質問に答え、過去における軍部の過誤に対し、涙を呑んで国民に陳謝したるときは、満場寂として声なき状況であった。

進歩党には総裁が欠けておる。 立党以来私を総裁に推す者があるが、私は思うところありてこれを避けて来た。 しかし当時政界を見渡しても、総裁として戴くべき適任者は見出せない。 宇垣大将と町田忠治氏が候補者として議せられていたが、両氏とも時代の大政党を率いて立つべき政治家でない。 しかしいつまでも欠員のままに放任することはできないから、議会会期の迫るにしたがって、総裁問題はいよいよ緊張した。

党内は宇垣派と町田派とに分れていたが、この間にあって町田派は陰に陽に種々の術作を弄し、町田氏も初めは固く辞退していたが、これは彼の老獪がしからしむるものであって、結局は心中喜んでこれを承諾したから、十二月十八日院内に常議員会を開き、二、三の反対者はあったが、結局多数をもって同氏を総裁と決定した。 しかしこれがために全国の党員は非常に失望し、進歩党に対する世間の人気が急落したことは争われない。

十二月十八日、衆議院解散せられ、翌年四月十日が総選挙の期日と定められた。 これから政治界は一層多忙である。

昭和二十一年は鎌倉の寓居(注1)において迎えた。 妻と愛子は郷里出石町に住居し、高義は皮膚病治療のため草津に滞在し、義政は水戸高等学校に在学し、義道と両人にて新年を迎えた。 無味乾燥とはこのことであろうが、書生時代のことを思えば何でもない。 ただ困ることは何分にも食糧不足で、ややもすれば栄養不良に陥りはしないかとの心配がある。 また一つは、日々出京するに至っては、約二十分間徒歩にて停車場に達すれども、鎌倉駅は全く超満員にて、私のごとき者はとても乗車はできず、やむを得ず下り列車にて田浦、逗子または横須賀までも赴き、その所より上り列車にて上京するの他はない。 帰途の新橋、東京駅も同様の混雑であるが、さりとて東京に移転するところもなく、これがためにどれだけ苦労するか分らない。

一月四日、マッカーサー司令部より一大追放令が発表せられて世上を驚かした。 それによれば個人と団体とを問わず、いやしくも軍国主義を支援したる者は、官界、政界、言論界、財界等から追放せられて、一切公職に着くことはできないことになる。 しかしその適用については、未だ明確のものはないから、それらの人々は疑心暗鬼の中に過していたが、二月十九日に至りいよいよその範囲が明らかとなるに及んで、前代議士の大多数は選挙無資格者となり、わが党二百七十四名の前代議土中、町田総裁をはじめとして二百五十四名は追放せられて、選挙場裡に立つことができず、十六名の総務委員中十四名は追放令に該当し、残るものは吉岡弥生女史の他は私一人あるのみである。

ここにおいて急に幹部会を開き、今後党のことは一切挙げて私一人に委託することに決定すると同時に、一同袖を連ねて退却するに至った。 事ここに至りては、私一人の行動が党の存亡を決することとなり、私の責任は極めて重大であるから、万難を排して党の再建に向って邁進すべく決心し、取り急ぎ残余の党員を集めて不完全ながら党の機関を構成し、これをもって総選挙に臨むべく準備に取りかかりたるが、たちまち難関に打ち当った。

その一つは候補者の擁立である。 前代議士のほとんど全部は候補者となるべく、すでに各自の選挙区においてそれぞれ準備をなしつつある際に追放せられることになったから、その後継者を補充することは実際容易なことではない。 のみならず、この隙に乗じて自由党、社会党は続々とわが党の地盤に食い込んで新候補者を擁立するに至ったから、わが党は立候補においてすでに他党に一籌を輸するの余儀なきに至った。

その二は運動資金であって、総選挙に当りてはいずれの党派も相当の運動費を用意せねば、活溌なる運動を展開することはできないが、わが党にはその資金はほとんど皆無であって、候補者の運動費を補助するがごとき余裕はない。 のみならず必要な党費を支弁することすら差支えを生ずる有様である。

その三は応援弁士がないことであって、全国各地の候補者より応援弁士派遣の要求が殺到すれども、追放者は表裏ともに全く政治運動を厳禁せられ、その他には適当な弁士を見出すことはすこぶる困難であるから、候補者は全く孤軍奮闘、独力をもって当落を争うのほかはない。

大体以上のごとき次第であって、わが党の選挙陣営は極めて弱体であるから、前途はなはだ危惧に堪えないものがあるが、さりとてこれを強化するの方法もなく、結局人事を尽して天命を俟つの覚悟をもって、一路邁進することに決心した。

選挙期日は近づきつつある。 党務も大切であるが、同志の応援も必要であるから、後のことは他の同僚に託して、私は三月十五日出発、京都、大阪、兵庫地方に赴き、四月八日まで二十四日間に三十余か所の演説会に臨み、いよいよ明日は選挙期日であるという前日出発し、鎌倉に帰宿した。 私の選挙区である兵庫県第三区は定員七名であるが、選挙の結果は次の通りである。

当選一二二、〇四九斎藤隆夫(進歩)
当選四八、四〇六小島徹三(自由)
当選四二、〇六三木下栄(協同)
当選三六、二九四八木佐太治(進歩)
当選三六、一二八小池新太郎(進歩)
当選三五、三六六堀川恭平(進歩)
当選三二、九二七小笹耕作(進歩)

全国選挙の結果は次の通りである。

自由党一四〇名
進歩党九四名
社会党九二名
協同党一四名
共産党五名
諸会派三八名
無所属八一名
欠員二名
四六六名

追放令がなければ進歩党は無論絶対多数党となるべきであったが、それがために、かくのごとき結果を見るに至りたるは、はなはだ遺憾であるがやむを得ない。

脚注

(1)
本文中の表記は「偶居」である。