『回顧七十年』 その36

last updated: 2013-01-23

第一次吉田内閣に入閣

幣原内閣は総選挙直後に辞職すべきは当然であって、世間も固くこれを期待していたにかかわらず、総選挙の結果は、一党にして過半数を得たるものがないから、たとえ第一党に大命降下するも、他党との連立が成立しない限りは政局の安定を欠くとの理由をもって、急に辞職するの色は見えないのみならず、楢橋書記官長が主役となって、密かに居坐り工作を企図した。 それがためにまず進歩党を中心となし、これに無所属その他の議員を糾合して政府与党を作り、これをもって総選挙後の特別議会に臨み、幣原内閣のもとに新憲法を成立せしむることが彼らの目的であって、すでに進歩党の幹部は彼らと通謀して、この旨を了解していたようである。

ただ一人、総務会長たる私一人をこの計画に引きつけるがために大分苦心したものと見えて、四月十五日楢橋氏が私に面会を求めて来たから面会をすると、彼はぜひ幣原首相に面会してくれと頼むから、超えて十七日、同氏宅にて首相に面会をすると、憲法改正は陛下に対し奉り、またマッカーサー元帥に対して、自分の責任であるから、これだけはぜひとも自分の内閣によって成立せしめたい。 しかるに現内閣には一の与党もないから、この際進歩党を中心として政府与党を作り、これを基礎として特別議会に臨みたい。ついては自分は進歩党に入党したいから、よろしく頼むとの趣旨であった。

ここにおいて私は直ちに本部に帰り、最高幹部の一松定吉、犬養健、長井源の三氏にこの旨を伝えると、彼らはすでに予期したることとて即座に同意したから、幣原氏の入党はここに決定的となった。 このことが外部に伝わると、さなきだに評判わるき、幣原内閣と進歩党との野合なりとして、言論機関は一斉にこれを攻撃し始めたが、出来たことは取り返しがつかず、行くところまで行くのほか道はない。 幣原氏を入党せしめたる上は、氏を総裁に推さねばならぬが、総理大臣の肩書を負いながら総裁に推すことも宜しくないから、二十二日、断然内閣を総辞職せしめ、翌二十三日、総会に代るべき常議員会を開いて、いよいよ氏を総裁に推戴し、ここに一応問題が解決した。

幣原内閣は辞職したが、後継内閣は容易に決定に至らない。 自由、社会両党の連立協定は決裂し、自由党総裁鳩山一郎氏は追放せられて失脚し、その他種々の紆余曲折に時日を空費し、最後に吉田茂氏が自由党総裁に就任したるがため、五月十六日組閣の大命を拝し、ようやく二十二日に至り、自由、進歩両党の連立内閣が成立した。 総選挙以来四十四日、幣原内閣辞職以来三十一日にして、ようやく新内閣の成立を見るに至った。その閣僚は次のごとし。

内閣総理大臣兼外務大臣 吉田茂 内務大臣 大村清一 司法大臣 木村篤太郎 農林大臣 和田博雄 厚生大臣 河合良成 商工大臣 星島二郎 運輸大臣 平塚常次郎 大蔵大臣 石橋湛山 文部大臣 田中耕太郎 国務大臣 幣原喜重郎 同 斎藤隆夫 同 植原悦二郎 同 一松定吉

その後逓信院が逓信省に昇格して、一松国務大臣は逓信大臣に就任し、金森徳次郎氏、新たに国務大臣となる。

私は大正元年初めて衆議院議員に当選して以来三十五年、その間十二回の選挙に一回落選したるも十一回当選し、今日は衆議院議員中、尾崎行雄氏を除きては、年齢および当選回数において、私の上に出づる者は一人もない。 三十五年間の政治生涯は長きがごとく、短きがごとく、この間先輩同志の世を去りたる者は数知れず、後輩の大臣となりたる者は指を屈するに暇ないばかりであるから、私が今回初めての就任は自ら顧みて心中忸怩たるものあるが、しかし人間の本分は各自割当てられたる職責に向って、最善の努力を提供するにあるを思えば、深く意に介するに足らないと観念している。

大臣になったが、東京に住宅がないから、相変らず鎌倉より通勤せねばならぬ。 その不便は言うにおよばない。 幸いにして新代議士鈴木明良氏の好意により、六月十三日、小石川大塚坂下町の同氏宅に移転し、しばらく仮寓することとなって安心した。 続いて七月に入ってから、本郷区弥生町三番地のある高等住宅を借り受けて官舎となし、国元より家族を呼び寄せ、同月十八日、ここに移転し、十か月目に家族と同居することとなって、ひとまず安定することを得た。

五月十六日、第九十議会が召集せられたれども、新内閣未だ成立せざるがため議事開く能わず、六月二十日に至り吉田内閣によって、ようやく開院式が挙行せらるるに至った。 当議会においては新憲法の制定をはじめとして、その他数多の重要法案が提出せられたれども、私は事務大臣にあらざるがために、行政上の問題について答弁の任に当るの要はないが、さりとて一日たりとも登院を欠くことはできず、毎日貴衆両院の本会および委員会に出席して、憲法または政治問題に関し、稀に口を開くに過ぎなかった。 議会は三たび延長せられて、十月十二日、閉院式が挙行せられるに至った。

十月四日出発。 神戸に赴き、翌日、進歩党支部会に臨みて挨拶をなし、市役所における支部主催の憲法祝賀会および歓迎会に出席し、次に兵庫県民主政治会発起会に臨む。 私を会長となし、副会長に友田一郎、六島誠之助の両氏、幹事長に森崎了三氏を選定す。 七日出発、但馬に赴き、豊岡、出石において時局講演会を開く。 十一日出発、姫路を経て大阪に赴き、近畿大会に臨み、十三日帰京す。

十月二十八日、行政調査部総裁に任ぜられた。 行政調査部は行政機構、公務員制度および行政運営の改革に関する調査立案を掌るものであって、その任務は相当重大である。

十一月二十五日、第九十一議会が召集せられ、十二月二十六日、閉院式が挙行せられ、翌二十七日、第九十二譲会が召集せられ、これによって本年は終りを告げた。