『回顧七十年』 その39

last updated: 2013-01-23

補遺

五月六日(昭和二十二年)吉田首相以下閣僚一同辞表を提出す。 昨年五月二十二日内閣成立以来約一年である。

選挙が終ると、民主党内は総裁問題にて紛糾を極めた。前述せるごとく、民主党創立の際にはしばらく総裁を置かず、選挙後にこれを定むることになっていたから、選挙が終れば総裁問題が起こるのはやむを得ないが、党内の状勢を見れば、その機運が未だ熟せないから、私らはなおしばらくの間は現状維持で行きたいと思うていたが、一、二回当選した議員らは党内の事情に暗く、裏面の策動と一部野心家の煽動に乗ぜられて、喧々囂々と騒ぎ立て、至急総裁を定むべく大勢を作って、その候補者を七名の最高幹部において決定することになった。

幹部会を開いてみると、そのうち三名は幣原、三名は芦田を推さんとし、私一人は中立を堅持して動かない。 このままにて進めば、結局は党大会にて決選投票を行うことになって、その末は党の分裂を来す恐れがあるから、ここに一つの妥協が成立して、芦田を総裁に、幣原を名誉総裁に、私を最高顧問に推薦することに決し、大会においてこれを承認して一先ず問題は解決したが、これより党内には両派の感情がことごとに衝突して紛擾絶ゆるときなく、遂に党の分裂を惹起するに至った。 その原因は全くここにあるのである。

元来政党の総裁たる者は人格、識見、徳望、経歴等より見て、全党員一致の与望を荷い、自然の大勢に押されて浮び上るものでなくてはならぬ。 それを思わずして党内の機運未だ熟せざるに先だち、自ら起って名乗りを上げ、しかも識者の指弾すべき不公明なる手段方法をもって、かかる地位を争うに至っては、決して良心ある政治家の取るべき道ではない。

総選挙の結果、社会党が第一位を占めたる以上は、その首領を総理大臣に指名するのは当然の途であるから、両院一致して片山哲を指名するに至った。 しかし、社会党一党にて内閣を組織する勢力はないから、国論はこれに加えて自由、民主、国協の四党連合内閣を作るべく大勢は傾いて来た。 ここにおいて四党はおのおの代表者を選んで、まず政策協定をなさしむることになって、一応これが成立したが、自由党は別に考うるところであって連合を脱退し、野党となるべく宣言したから、私は残る三党にては基礎が薄弱であるから、民主党も野党となるべく主張したが大勢を動かすに至らず、片山首班のもとに三党連合内閣を組織することになり、私に入閣を懇請して来たなれども、もとよりさような考えは毛頭有せないから、断然これを拒絶したのは当然である。

しかるところが芦田、一松、木村らの入閣者は言うに及ばず、片山の代理として西尾も来り、しきりに入閣を懇請するのみならず、党内の同志もこの際私一人党に留るは万事不便であるから、曲げて入閣すべく熱心に勧告する。 また国論も、四党連立不可能ならば残る三党にて進むべく傾いて来た。 ここにおいて私も一考せざるを得ない。 もしこの場合にあくまでも自我を固守すれば、国論に背くのみならず、如何にも偏狭のそしりを免れないと思い、遂に入閣を承諾するに至った。

六月一日、片山内閣が成立した。 閣僚は左のごとし。

内閣総理大臣片山哲
外務大臣芦田均
内務大臣木村小左衛門
大蔵大臣矢野庄太郎
文部大臣森戸辰男
司法大臣鈴木義男
商工大臣水谷長三郎
農林大臣平野力三
運輸大臣苫米地義三
逓信大臣三木武夫
厚生大臣一松定吉
国務大臣斎藤隆夫
国務大臣西尾末広
国務大臣笹森純造
国務大臣林平馬
国務大臣米窪満亮
経本長官和田博雄

入閣した以上は責任があるから、一般政務運行については微力を傾ける覚悟であるが、何分にも敗戦国家の現状は極めて辛酷であって、財政、経済は言うに及ばず、国家のあらゆる方面は全く行き詰りの状態に陥って、これを打開することは容易のわざではない。

私は財政経済のことは専門でないから、大綱のみを握ってその内容には口を開くことを差し控えていた。 別に行政調査部総裁、中央行政観察委員長、栄典制度改正委員等の担任事務について相当に気を配ったつもりである。

十一月に入ってから平野農林大臣、林国務大臣の追放問題が起こって、世間の注目を惹いた。 事件の詳細は述べないが、結局両人とも任意辞職をがえんぜざるため、遂に片山首相は罷免権を発動し、続いて公職適否審査委員会において両人とも追放処分を受くるに至りたるは、まことに同情に堪えない次第である。

十一月五日愛子の結婚式を上野公園精養軒にて挙行し、近親を招きて披露の宴を催した。 私には四人の女子があったが、そのうち三人は夭折し、残るは彼女一人である。 双葉高等女学校、学習院高等科卒業後、直ちに結婚さするはずであったが、空襲にて家屋焼失して一年有余郷里に移住し、私も政治運動に暇なく、知らぬ間に少し婚期が後れたようであるが、今回友人故末松偕一郎の次男経正と結婚することになって一先ず安心した。

今期議会においてもっとも緊張した問題は、石炭国家管理であって、自由党は正面より反対し、民主党にも相当の反対者あって、党議を決定するに当って紛糾を極めたが、結局本会を通過したれども、民主党議員二十余名は党議に背き反対投票をなしたる故をもって離党を余儀なくせられ、民主党分裂の端を啓いた。 畢竟するに反芦田派の感情爆発である。

十一月二十六日、天皇陛下山陰行幸の途に上らる。 私は山陰出身の故をもって鳳輪に扈従こじゅうし、豊岡にてお別れを告げた。 感想を詩に託した。

  • 鳳輪粛粛破風煙
  • 一路山陰景物新
  • 沿道黎民奉迎涙
  • 凝為雨雪落寒天

十二月九日、第一国会閉会し、同日第二国会が召集せられた。

片山内閣は成立以来六か月を経過した。 成立当初は国民より相当の期待をもって迎えられたが、実際政局の衝に当ってみると、従来野党をして主張したる政策は容易に行えない。 七か月間の政治成績はむしろ不良であって、国民の期待は確かに裏切られたに相違なく、従って内閣の影も漸次に薄らぎつつあることは争えない。 その際に当って第二国会を迎えねばならぬことになった。 殊に片山内閣は社、民、国協の連合内閣であるが、これら三党の政策は必ずしも一致しない。 なかんずく社会党の政策と他二党との政策は根本において相容れざるものがある。 この状勢を控えて政府は如何なる方針をもって進むべきものであるかと言えば、その途はただ一つである。 即ち政府は与党三派の政策を参照するとともに、政府独自の政策を決定し、これを提げて国会に臨むべく、国会が賛成すればよし、もし反対することあれば、衆議院を解散して国論に問い、選挙の結果によって進退を決する、これが立憲的かつ合理的であってこれよりほかに取るべき途はなく、その方法は極めて簡単明瞭毫も左顧右眄して心配の要はない。 私はこの趣旨を新聞を通して世上に声明した。

よって政府はまず当面の事態に応ずるがために追加予算を編成し、閣議の決定を経てこれを衆議院予算委員会に提出したるに、社会党の左派がこぞって、これに反対したるがために委員会はこれを否決するに至り、これを本会に上程しても原案通過の望みはなくなった。 ここに至って直ちに衆議院を解散すべきにかかわらず、政府は所謂「彊弩きょうどの末魯縞ろこうを穿つ能わず」の諺のごとく、もはや意気消沈して解散を断行するの勇気なく、急に総辞職を決行すると同時に、片山内閣はここに終焉を告ぐるに至った。

次の政権は何党が担当すべきものなるか、片山内閣の与党は総辞職の責任があるからもとより次の政権を引受くべき筋合のものではない。残るものは在野第一党の自由党であるから、同党が政権の担当者となるべきは憲政の常道より見るも当然であるのみならず、この点について国論も完全に一致している。しかるに与党三派は所謂政権のたらい回しを策動して、民主党に政権を渡すべく一致の態勢を作り、民主党は芦田総裁を総理大臣に指名すべく必死の運動を始むるに至った。

これらの行動は私が多年の主張たる憲政常道論と根本的に相容れざるものであるから、私は最高幹部会続いて議員総会において私の意見を吐露して党員の反省を求めんとしたが、大勢を動かすに至らない。 時にたまたま私の意見が新聞に現わるると、党内はもとより世間一般にすくなからざる衝動を与え、私の進退が注目せらるるに至った。 しかし私は自ら決するところがある。 区々たる政策問題ならばいざ知らず、いやしくも憲政運用の根本義において意見を異にする以上は、党に留ることは良心ある政治家として取るべき途ではないから、党員らの切なる留党勧告にもかかわらず、三月三日断然離党すると同時に、左の声明を公にした。

離党声明

今回の政変に際し民主党首脳部の取りたる行動は、片山内閣崩壊の責任を塗抹し、不自然なる政権獲得のために、憲政の大義を蹂躙し、政界の秩序を撹乱し、国論の反対に毫も反省するところなく、殊に党本来の主張と根本的に相容れざる社会党の政策に苟合こうごうし、言辞を偽装して一時を糊塗し、もって国民を瞞着せんとするに至りては、国政を玩弄するの甚しきものにして、まさに立党の精神を没却し、公党の本領を逸脱する背信行為である。 余にしてこの状態を観過し、そのなすところに追随せんか、余が年来の主張は全く泥土に委せらるると同時に、余もまた政治的同罪の責を免れない。 ここにおいて余は自ら考うるところあり、断然民主党を去って、天下同憂の士とともに新たに一大公党を樹立し、これを基礎として国政の運用を図り、もって祖国再建の大業に向って微力を致さんことを決意す。 思うに多年一貫せる主義、伝統を堅持し来れる全国の同志諸君は、必ずや余の決意を諒とし、ともに手を携え力を協せて長く国家憲政のために尽瘁じんすいせらるることを確く信じて疑わない。

民主党は進歩党の変形であって、進歩党は私ら数名の同志が敗戦後新時代の要求に応ずるがために堅き決心をもって創立したるものであることはすでに前述せるところである。 しかるところがその進歩党が一たび解体して民主党に変形せし以来、立党の精神は没却せられ、打ち込まれたる魂は消え失せて、わずかに政権を追うて動揺する残骸を留むるのみである。 故に私は民主党を離脱したるにあらずして、その残骸を棄てたのみである。

二月二十一日、衆議院において総理大臣指名の投票が行われた。 芦田民主党総裁二百十六票、吉田自由党総裁百八十票、即ち三十六票の差をもって芦田総裁が指名せられ、超えて三月十日、芦田内閣が成立す。 依然として社、民、国協の連立内閣であって、結局片山の名を芦田の名に代えたに過ぎない。 その上片山内閣の政策に反対してこれを崩壊せしめたる左派の代表者を二名までも入閣せしむるに至っては、そのなすところ全く支離滅裂言うに足らないとともに、将来の運命も推して知るべきである。

二月二十六日、次男高義の結婚式を上野公園精養軒にて挙行し、近親を招きて披露の宴を催した。 私には四人の男子があったが、長男重夫は昭和十年、二十二歳にて夭折したから、彼は事実上の長男である。 前年、早稲田大学商科を卒業後、発送電会社に勤務中であるが、今回茨城県結城町、小篠雄二郎の長女陽子と結婚することになり、私ら家族もまず安心した。

政党界は小党分立であって一党にして議会の過半数を制するものはなく、勢い数党の連立内閣となるが、由来連立内閣は基礎薄弱であり、一貫せる政策は行えず、その上短命であることは、連立内閣に共通する弱点であるから、真の政党政治を行わんとするに当っては一党の内閣でなくてはならぬ。 この見地に立ちて私はさきに自進両党を解体して一大新党を作るべく提唱したが、時機未だ熟せずして実現するに至らなかった。 その後進歩党を変形して民主党を組織したれども、依然として小党の域を脱することはできない。 しかるところが今回自由党が解体し、これに民主党を離脱したる数十名の同志が加わって全然白紙の状態に立ち、新たに民主自由党を組織し、百五十余名の議員を包容して、院内第一党の地位を獲得するに至りたることは一歩私の理想に近づきたるものとして、いささか快心に堪えないものがあると同時に、私はしばらく総務会長として党の活動と発展に向って微力を傾けたいと思うている。

想うに小党分立の弱点は一般国民の前に曝露せられ、国民はその弊を痛感しているから、我国の政党も漸次に二大政党の対立に向って進むものと思わるるが、これが如何なる形となって現わるるかといえば、結局は保守と急進、資本主義と社会主義、この名称はいささか当らないものがあるが、大体この線に沿うて二分せられ、その中間の存在は自然に消滅するに相違ない。

この見地に立って見れば、あたかも英国の自由党が保守、労働の二大政党に挟まれて消滅したると同じく、今日の民主党その他小会派のごとき曖昧なる存在はこれまた自然消滅に落ることは必至の運命であるから、この種のものは深く論ずるの値はないが、ただ惜むべきは社会党である。 即ち社会党が英国労働党にならい、将来一党をもって政権担当の大任に当らんと志すならば、片山内閣失敗の跡を顧みて一大反省を要するものあるとともに、党の方針についても根本的に改むべき幾多の要点あることに気づくべきはずである。 しかるに何ごとぞ、相変らず民主党との腐れ縁を絶ち切る能わずして微々たる政権に恋着し、思いを将来の発展に向って注がない、党員多しといえども深謀遠慮の一人を欠く、社会党の前途また知るべきである。(昭和二十三年三月二十一日認む)