「懐旧談」

last updated: 2013-08-05

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早稲田大学創立50周年を記念し、1933-05-10に「法科回顧録」として、早稲田法学会が公開した冊子があります。 その冊子には、「II.回想談(REMINISCENCES OF PROMINENT WASEDA MEN)」と題された章があり、そこには斎藤隆夫の「懐旧談」と題した談話筆記が、75ページ以下に掲載されています。

この「懐旧談」を、http://hdl.handle.net/2065/1509にて公開されているpdfを底本として、文字に起こしてみました。

書き起こしに関しては、斎藤隆夫関係の論説等の書き起こしについてをご覧ください。

第1段落

自分が早稲田に居った頃(明治二十四年――同二十七年)は学校の前の茗荷畑に蛙が鳴いていたものであった。

当時の学校は甚だ微々たるもので自分と同期の卒業生にしたところで邦語行政科が十六名(内四人死亡)邦語法律科が七名(内二人死亡)合計二十三名の少数であった。 同期生の中で今記憶に在るのは松井郡治(弁護士)、永富貞平(長崎地方裁判所長)、生津和太郎(大分地方裁判所長)の諸君位なものである、法律科に笠原實太郎と云う人が居って高文の行政科の試験を通り相当の所迄行ったが惜しい哉早世した。

学校の設備も亦貧弱なもので震災前迄あった煉瓦造の大講堂の外は全部木造であった。 先生としては原亀太郎(嘉道)〔商法〕、水野錬太郎〔証拠法〕、松室致〔刑事訴訟法〕、田中隆三〔民法〕、高根義人〔手形法〕、奥田義人、干田譲衛等の方々が見えられたが、此等は何れも專任ではなく、大抵役所勤めの傍で教えて居られた。

それで役所が忙しいからとて休むと云った風で、奥田先生は真面目の方であったが、講義が終り迄完全に済むことは殆んど無かった。

田中隆三氏の如きは休み勝ちな為め学生中辞職勧告書を送った者があった。 すると田中氏は講義を終ると同時に立ち上って「自分は平素休み勝ちで諸君に対し申訳がない。 ところが幸い辞職勧告書を送って呉れた者があるから、此機会に辞職する」と云うようなことを陳べて行って仕舞ったので、今度は学生の方が驚いて謝罪に行ったなどと云う喜劇もあった位である。

憲法は高田先生の受持であったが、先生の憲法は英吉利流で政治的に憲法を講義され解り易く講義も終り迄済んでよかった。 憲法が法理的に講釈されたのは後の事である。 こんな訳で入学当時の期待に反すること甚しく大いに憤慨したことであったが、それからは先生を宛にせず、当時制定を見た民法の註釈書等を相手に自学自習に努めた。

自分の考えでは大学にもなれば教師と云うも万事に精通して居る訳ではなく又学生の力も相当にあるのだから先生のみに頼らず自力を恃むべきだと思う。 又当時の私立学校は自由解放的な点に特色はあるが、学校に頼る訳に行かなかった。 從って独学であった。

其結果卒業生の粒が官立の様に揃わず出来る者と出来ない者との差が格段であった。 近来は運動が盛んで運動家がもてるが、運動家は一体に勉強しないもので、自分の同輩で在学中社交や運動の方にのみ力を注いでいた者で社会的に成功した者は殆んど居ない。

第2段落

自分は在学中を通じて寄宿舎に居ったが其の舎費が一ケ月三円二十銭で、それに月謝の一円八十銭を加えると丁度五円であったから、物価の安かった当時(蕎麦一杯八厘又は一銭)月に七・八円あれば十分であった。

寄宿舎生活の思い出を語れば、先ず賄征伐であろう。 それは食堂で食事中何処からか茶碗を投げ始めるのを切掛けに皿、お鉢に至る迄一切を破壊して待遇の悪い賄方をいじめたものであった。

寄宿舎の生活は質素なもので、六畳に二人置かれたが、勉強が仕難いので狭い処に特に一人置いて貰ったことがある。 又冬布団一枚で寒いので蚊帳を着たところが環の音がするので、隣室の者に聞きつけられ、「君は蚊帳を着ているのか」と笑われたこともある。

金持の学生は寄宿舎に居らず下宿で贅沢していたが、そんな者で余りえらくなった者はないようだ。

第3段落

当時の学生の思想は純真で今日の様な学生の思想問題などは起らなかった。

又学生の娯みと云っても向島の百草園迄歩いて行って運動会をするとか、夜神楽坂へ散歩に行くとか或いは戸山ヶ原へ運動に行く位なことであった。

それから法律科で時々討論会や演説会があったけれども大して盛んではなかった。

仍お自分の在学中は何うした訳か大隈侯は一度も学校に見えられず、從って自分が大隈侯を初めて見たのは卒業式の日であった。 当時は板垣の自由党、大隈の改進党が藩閥に反抗した時代で神田の錦輝館で政談演説が行われたが、学生は集会政社法の為めに聞くことが出来なかった。 それで学生の中には朝退学届を出して演説を聞きに行き晩に又届書を返して貰う者もあった。

自分が政治に足を突込んだのも結局早稲田に居たからであろうと思う。

第4段落

顧れば三十七年の昔。 早稲田も大きくなった。 併し政府部内に於て見るに私立の勢力は甚だ微々たるもので、官立派の勢力は容易に抜き難いものがある。 されば私立の卒業生は官界に入るよりも、もっと自由の天地に其の翼を伸ばした方がよいと思う。

仍お最近学生の思想問題が憂慮されているが、人生の経験浅く思慮未だ定まらざる学生が或は伊のムッソリーニ、或は独のヒットラー、又極端な者は露のレーニン・スタリーンの直訳的思想にかぶれて其の前途を謬るのは寒心の至りである。

他校はさて措き、早稲田だけはそんな事が無いようにしたいものである(談話筆記)。