「粛軍演説の前後―自由主義者斎藤隆夫の横顔」について

2010-11-14

この論説について

「自由党中央機関紙」である『再建』の昭和28年1月号に、衆議院議員かつ斎藤隆夫の元秘書である甲斐中文治郎により、「粛軍演説の前後―自由主義者斎藤隆夫の横顔」と題した論説が掲載されました。

甲斐中は、5ページにわたるこの論説を、以下の三つに分けて語っています。

  • 一、粛軍演説
  • 二、除名演説
  • 三、立憲政治の崩壊

これらを、順に従って見てみます。

一、粛軍演説

甲斐中は、「粛軍に関する質問演説」を引き、そこではこのように評しています。

私は国会開設以来多くの先輩の所謂名演説と云われる議会の速記録は大抵眼を通したが、未だ斎藤氏の粛軍演説ほど名演説であると共に名文章であるものを知らない。

二、粛軍演説

甲斐中は、「国務大臣の演説に対する斎藤君の質疑」の内容よりも、「第七十五議会に於ける斎藤問題の真相」のように、粛軍演説による影響に力点を置いて説明をしています。

そこでは、甲斐中が、斎藤隆夫の除名に関してどのように考え、行動したのかが語られています(15頁)。

…政府軍部は斎藤氏の除名強行に焦慮していたが、肝心の懲罰委員会が此の状態では如何とも為し難く、之を円満に解決する方法は斎藤氏をして自発的に議員を辞職せしめるの一途あるのみであった。 かくて政府や軍部の意を体した各方面の人物が手をかえ品をかえて頻りに斎藤氏に辞職勧告をしたので流石の斎藤氏も心秘かに辞職を決意せられたのでは無いかとの気配を私は看取した。

此の状態とは、斎藤隆夫が、懲罰委員会で反論を行ったために懲罰委員会がうまく機能しなかったことを指しています(五、懲罰委員会の経過及び結果を参照)。 その結果、『回顧七十年』「議員を除名される」で説明されているように、斎藤隆夫に対して、辞職の勧告がなされるようになりました。

故に私は直ちに選挙区の同志に打電して上京を促したのであるが、全但馬五群の血盟の同志は怒気を満面に現わして続々上京し二十四時間後の翌日正午には斎藤邸に同志が充満し『辞職絶対反対』の決議をして意義天に冲するの勢いであった。 蓋し我々は憲政を蹂躙せんとする軍部の横暴を普く国民に知らしめる為には、斎藤氏が辞職するよりも寧ろ除名の血祭に挙げられる方が効果的であるのみならず辞職は演説の正しからざる事を自ら認め軍部に屈服する事であり、除名される事こそ名誉の戦死であると考えたのであった。 我々同志の決議を受けた斎藤氏は会心の笑を漏らしてこれを快諾せられたので、軍部の取る可き途は最早除名強行以外に無くなったのである。

この説明は、『回顧七十年』「議員を除名される」では明らかにされていなかった、但馬の人々と斎藤隆夫の元秘書たる甲斐中からの、除名される事こそ名誉の戦死との斎藤隆夫に対するメッセージを明らかにしています。

その後に、甲斐中は、陸軍省政府委員室に引き入れられて脅迫されていた民政党の総裁である町田忠治が、その委員室から真っ青な顔をして出てきた様を目撃した、と語っています。 なぜ真っ青な顔をしているかというと、甲斐中によれば、町田忠治が、斎藤隆夫を除名しないならば民政党本部を襲撃し、代議士もろども機銃掃射すると強迫されたために震え上がったのだということです(16頁)。

三、立憲政治の崩壊

除名後の1942年の総選挙で、斎藤隆夫が非推薦候補として立候補し、最高点で当選したことにつき、 除名された…斎藤氏も偉らかったが斎藤氏を最高点で当選せしめた但馬の選挙民も亦、実に偉らかったと云わねばならぬ…と評価しています(16頁)。

なお、甲斐中は、除名された斎藤氏は翌年の総選挙に…と記述しています。しかし、議員を除名されたのは昭和15年、総選挙が行われたのは昭和17年ですので、「翌年」の記述は誤りで、「翌々年」が正しい記述でしょう。