「逐風捉影の愚」

last updated: 2013-08-05

昭和版『続福沢全集』第 5 巻所収の石河幹明執筆社説「逐風捉影の愚」(747頁)を公開しています。

詳細は、昭和版『続福沢全集』「附記」をご覧下さい。 体裁等については、昭和版『続福沢全集』第 5 巻からの書き起こしについてをご覧下さい。

本文

腕力を以て来るものは腕力を以て之に当るべし

人民果して政府の敵にして腕力以て政府城を襲わんとするものならば警察力を利用して之を鎮圧するも防御法に已むを得ざるの手段なりと雖も本来政府が籠城割拠と覚悟したるは多年来不心得の結果、天下の人心を失い事態紛雑、施政意の如くならざるより自から疑心暗鬼を生じ探偵を試みれば果して皆敵なりとの報告に人を見れば都て敵と思い自から守るに決したることにして時としては風声鶴唳、政客放逐の騒動まで演じたるも其実四面皆敵とは当局者が転々反側寝る能わず渓窓半夜誤て水声を認めて雨声と為したるのみ

人民固より政府の味方に非ずと雖も然れども亦腕力を以て政府城に迫らんとするものに非ず

唯当局者の為めに微妙なる感情を犯され蹂躙侮辱せられたる(注1)其人心不平の反映放射が自から政府の方面に集注し施政上に種々の困難を感ぜしめたるものにして即ち腕力の働に非ずして人心の運動に外ならず

之に対する警察力を以てするが如きは大間違の沙汰にしてますます人心に反感を起さしむるのみなるは云うも愚か実際に何等の効力あるべからず

如何となれば警察の力は有形にして人民の力は無形なり

無形の心を制するに有形の力を以てす

所謂風を逐い影を捉うるの徒労を演ずるに過ざればなり

当局者果して自家の不心得よりして天下の人心を失いたるに心付かば先ず自から城門を撤し探偵政略を止めて人心緩和の道を講ずべきは無論、時勢次第に変遷して種々の主義思想行わるるに従い中には危険分子の混入をも見るに至るべきは之を海外諸国の実績に徹して我国独り之を免るるを得べからず

其成行は千里眼ならざるも少しく常識あるものの透視するに難からざる処にして若し政治上の原因より社会の人心に不平の鬱積するものあり

政府に向って此不平光線の放射さるるに対し政府は威力を以て之を鎮圧せんとし益々人心の混乱しつつある其最中に外より危険思想の入り来ることあらば如何、体質の健康なるものは抵抗力盛にして外来の病毒必ずしも恐るるに足らずと雖も仮令い健康の人にても平生不養生の結果、身体何れの辺にか欠陥を存するときは忽ち之に感染せざるを得ず

経世国手の診察を以てすれば我社会人心の情態は甚だ面白からずして若しも危険なる病毒に接するときは感染の間隙あるものと認めざるを得ず

識者の杞憂を存したる所にして我時事新報の如きは此点に就き平素より筆を労して繰返し繰返し幾回となく注意警告する所ありたれども前後の当局者いずれも之に耳を傾けず遂に今日の事態を見るに至りしは返す返すも遺憾に思う所なり

抑も主義思想の流行は無形なる人心の運動にして之を制するには亦自から無形の力を以てせざる可らずと云う中にも自由なる今日の時代に政府が或種の主義思想を奨励して他を圧服せんと試みたるが如きは断じて不可なり

人心は本来公平なるものなれば其運動を自由にするときは自から正当なる帰著点を得べし

政府当局者の務むべき所は自から其身を正うすると同時に間接に健全著実なる主義思想の発達を助成するに在るのみ

其実証は之を他の文明国に求むるまでもなく現に我徳川政府の如き人の称して専制政府と為す所なれども其宗教学問無形の主義思想に対しては亦この筆法を用いたるに非ずや

徳川氏が外教を禁絶し其信徒を罰するに極刑を以てしたるは時の立国上の根本政策より出でたるものなれば之を別問題とし国内に於ては仏教各宗の対立を自由にし高僧善智識に対しては大に敬意を払いたるが如き又学問に就ては政府自から朱子学を尊重したれども其他の学派を唱うるものあるも敢て之を問わず

例えば水戸学の如き孰れかと云えば政府存在の理由に不利の影響を来すものも尚お且つ之を不問に付したるは当時の専制政府と雖も主義思想に処するの筆法を解したるを見るべし

明治政府の当局者に半点の経世的眼孔を存し社会の安寧秩序を維持する為め人心を健全ならしむるの必要を認めんには国中に宗教の信仰を盛ならしむる工風の如き最先に著目すべき点なるに彼等は曾て此点に注意せずして寧ろ信仰心を破壊するの処置を敢てしたり

殊に一世に徳望ある学者の如きは自から社会人心の中心点たるものなれば大に之を尊敬し或は其栄誉を高くして自から人心感化の効力を収むるの工風もあるべきに当局者は独り自から栄誉の地位に立ちて学者の如きは之を軽蔑したるのみならず甚だしきは異論邪説として其著書を排斥したることさえなきに非ず

又文学小説の如きも人民の思想に影響を及ぼすこと案外に大なるものあるの常なれば相当の学問あり穏健なる説を持する文芸家の如きは学者として之を優遇し一種の栄誉を与えて以て経世上の用に供するも亦自から智者の事なるに反し安寧秩序を妨害したる法名の下に名も知れぬ小説などに発売禁止を命じて却て其名を成さしめ其結果類似の著書の流行を致したるが如き政府の当局者には些かも経世上の考えなく単に警察一偏の取締法を以て主義思想を支配せんと試みますます社会の人心を荒くして危険なる思想の感染を容易ならしむるの情態に至らしめたるは無智の最も甚だしきものと云うべし

今や眼前に此事実を目撃しながら尚お悟る所なきや否や

(明治四十四年一月二十八日)

脚注

(1)
原文では、この直前に「無形上に」と表記されている。