「中国社会主義核心価値観の源流は福沢諭吉にある」

last updated: 2019-08-16

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平山氏より依頼がありましたので、論説「中国社会主義核心価値観の源流 は福沢諭吉にある」をアップロードします。

本文

近代化モデルとしての日本

現在のアジア諸国の近代化政策が明治維新(1868)以降の日本を参考にしていることは、もはや常識といってよい。しっかりと統制のとれた政府のもとで公私の学校を創設して人材を育成し、可能なかぎり諸産業を成長させることで貿易上の利益を生み出し、その余力をもって産業を農業から軽工業、さらには重工業へと高度化させるというプログラムは、早くも19世紀末に始まるタイのチャクリー改革に影響を与えている。

その後の不幸な歴史的経緯はさておき、日本の近代化政策がアジア諸国に与えた影響は大きい。そしてその政策を考案した一人が福沢諭吉(1835~1901)なのである。本論説は福沢が著書『西洋事情』(1866)で提示した文明政治の6条件が、めぐりめぐって現代中国の社会主義核心価値観へと引き継がれたことを明らかにする。

福沢の西洋体験

そこでまずは福沢の西洋体験について説明したい。福沢は1835年に豊前国中津藩大阪蔵屋敷に勤める下級士族の次男として大阪に生まれた。幼少時に帰郷し、中津で儒学教育を受けた。1854年、長崎に遊学して蘭学の初歩を修め、翌年蘭方医緒方洪庵が主宰する大阪の適塾に入って蘭学をより深く学んだ。

1858年江戸に移り藩の蘭学校(後の慶應義塾)の教師となった。同時に英語の修得を試み、1860年に幕府咸臨丸で米国サンフランシスコを訪問、帰国後外国奉行翻訳方(外務省翻訳局に相当)へと所属替えとなる。1862年には英仏蘭独露など欧州各国を視察し、1866年にそこで得た知見をもとに諸国の政治や経済の仕組みを解説した『西洋事情』を刊行、さらに1867年に再度渡米してワシントンDCやニューヨークを訪問した。

文明政治の6条件

こうした西洋体験の結果、福沢が目指したのは『西洋事情』初編冒頭にある文明政治の6条件を、日本に、そしてアジア諸国に広めることだった。すなわちその条件とは、①個人の自由を尊重して法律は国民を束縛しないようにすること、 ②信教の自由を保証すること、③科学技術の発展を促進すること、④学校教育を充実させること、⑤適正な法律による安定した政治によって産業を育成すること、⑥国民の福祉向上につねに心がけること、の6つである。

これらの 6 条件は『西洋事情』初編(1866)で初めて提示されたのち、『学問のすすめ』諸編(1872~76)と『文明論之概略』(1875)で詳しく論じられている。 また、その後の単行本もこれらの条件とまったく無関係のものはほとんどなく、多くの場合それぞれの条件をより掘り下げた内容を含んでいる。 たとえば、①については『通俗民権論』(1878)や『時事小言』(1881)、以下②『福翁百話』(1897)、③『民情一新』(1879)、④『学問之独立』(1883)、⑤『通俗国権論』(1878)、『実業論』(1893)、⑥『分権論』(1877)といった具合である。

著名な『学問のすすめ』初編(1872)の主題は、「身も独立し、家も独立し、天下国家も独立」するために、誰もが「人間普通日用に近き実学」を学ぶべきであるということにあるが、そればかりでなく、しっかりと学問を身につけた人々によって創られる文明社会が、いかに価値のあるものであるかを強く訴えかける内容となっている。そしてここでも、教育の必要はもとより、自由の尊重・科学技術の導入・政府による国民の保護といった文明政治の諸条件は重要視されていて、結果としてこの文章は福沢の思想全体の要約になっている。

『西洋事情』が明治維新に与えた影響

一般には『学問のすすめ』の福沢として名高いが、実際には6年前の『西洋事情』の段階で福沢の名は日本の思想界にとどろいていた。幕末維新期の政策提言で、『西洋事情』の影響を受けていないものはないといってよいほどである。

信州の軍事学者赤松小三郎が政治改革に携わっていた有力大名(政治家)に提出した「口上書」(1867)の内容は、『西洋事情』で紹介されていた米国憲法を日本向けにアレンジしたものである。薩摩の軍事学者嵯峨根良吉が同藩上層部に提出した「時勢改正」(1867)の中身は赤松の「口上書」と同じで『西洋事情』の影響下にあった。また、土佐の改革家坂本龍馬が書いた「新政府綱領八策」(1867)は事実上『西洋事情』の抜粋である。

そして何より明治改元後の政治に大きな影響を与えたのは、明治天皇が誓いの言葉として公表した「五箇条の誓文」(1868)が『西洋事情』の文明政治の諸条件の換骨奪胎だったことである。この「五箇条の誓文」の解説文として出された太政官(明治政府)による「政体書」(1868)は事実上最初の憲法草案であるが、それも『西洋事情』中の米国憲法の翻訳を下敷きにしていた。また会津(福島県)の軍事学者である山本覚馬が書いた「管見」(1868)は『西洋事情』の内容を項目化したもので、西洋文明を日本に移入するための手引きとなった。

福沢と同じ考えだった厳復

このように日本では、開国(1854)からわずか12年後に刊行された『西洋事情』によって早くも近代化のプログラムがしっかりと定められ、以後ぶれることはなかった。それに対して西洋諸国への開国が日本より10年早かった中国(清国)では、西洋はあくまで技術文明としてのみ扱われて、軍の近代化こそ西洋に則って行われたが、思想の分野の西洋化は遅々として進まなかった。いわゆる「中体西用」論である。

その理由として考えられるのは、中国(そして朝鮮)には官吏登用試験としての科挙があったのに対して、日本にはそれがなく、儒学に基づかない政治改革案が比較的容易に採用されたことがあげられる。西洋文明を受容しようとした政権担当者(維新前までは幕府、後は明治政府の要人)にとっては、近代化が安定的に実施されればそれでよく、その基礎に儒学があるかどうかは問題とされなかったのである。

日本においては儒学のクビキはないといってよかったが、中国(清国)においてはそうではなかった。科挙に受からなければ昇進できないという状況下にあって、断念組としてやむなく西洋軍事学の専門家として道を開こうとしていた厳復(1854~1921)が福沢と同じ考えにいたったのは、やはり彼の西洋体験においてであった。1877年から79年にかけて英国のポーツマス軍事大学に留学していた厳復は「中体西用」論の限界を知る。

帰国後李鴻章配下で中国海軍の育成に携わった厳復であったが、彼の精神の西洋化論は受け入れられることはなく、その考えが省みられるきっかけとなったのは、皮肉なことに日清戦争(1894,95)において彼が練成した清国海軍が日本海軍に敗北したことによってであった。

福沢の愛弟子犬養毅は孫文の盟友

孫文(1866~1925)の号中山とは、明治天皇の実母中山慶子の苗字に由来している。孫文がその号を選んだのは偶然であったが、明治天皇が中山慶子の息子である事実がゆるがせにできないように、孫文が明治維新の後継者を自認していたこともまた、明確な事実である。

1895年から1899年までの一度目の日本亡命の後、1913年の二度目の亡命時には、「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を盟友の犬養毅へ贈っている。この言葉は日本への亡命によってとりあえずの安穏を得たことによるリップサービスではなく、1895年の興中会宣言以来一貫したものだった。興中会宣言の内容は、その中華民族主義の部分を除くなら文明政治の6条件とほとんど同じである。

福沢に影響された梁啓超

福沢が孫文に与えた影響は犬養を介したいわば間接的なものに留まったが、梁啓超(1873~1929)についてはより直接的な影響関係が認められる。師匠である康有為(1858~1927)とともに戊戌の変法に参加していた梁が清国政治改革運動に挫折して日本に亡命してきたのは1898年のことであった。以後梁は辛亥革命(1911)の成功により帰国するまでの14年間を日本で過ごすことになる。

驚異的な進度で日本語を習得した梁は、ちょうどその時期に『時事新報』に連載されていた『福翁自伝』『福翁百余話』『新女大学』などを紙面で読んだに違いない。また孫文のときと同様に康や梁の世話人となった犬養から福沢の人となりを聞いたでもあろう。主著ともいうべき『自由書』や『新民説』には福沢の思想、とりわけ『文明論之概略』からの強い影響がうかがわれる。これらの書には胡適や毛沢東も感銘を受けたというが、その内実はといえば福沢の思想だったのである。

『自由書』や『新民説』ほどには有名ではないにせよ、重要な論説に「政府と人民の権限を論ず」(『新民叢報』3号、1902)がある。従来の研究では主として文中に明示されているJSミルの『自由論』との関係で論じられてきたものだが、その中心的部分は合群論と呼ばれるミルからは逸脱している議論である。すなわち、人は群でなければ内界(国内経済)を発達させることはできず、外界(国際社会)と競争できない、ゆえに一面で「独立自営の個人」となり、一面で「通力合作の群体」となると述べていて、おそらくは亡国の危機意識によって個人と国家を強く結びつける論調になっている。

この合群論について、私の知る限り福沢の思想と関連付けている先行研究はない。しかし合群論の内実は「一身独立して一国独立する」ということであり、「政府と人民の権限を論ず」そのものが、『学問のすすめ』の初編から3編までの翻案ともいうべきものである。梁が日本に亡命した1898年は福沢自身が編纂した明治版『福沢全集』が発売された年であった。福沢の旧作が一気に読めるようになったわけで、梁はその全集を熟読したのであろう。

梁の後継者陳独秀

梁の『新民叢報』の活動を引き継いだのが陳独秀(1879~1942)の雑誌『新青年』であったといえる。日本留学組として梁と同じ20世紀初頭の東京の空気を吸った陳の問題意識もほぼ同じとはいえ、関心はもっぱら西洋文明と科学主義の礼賛へ向かった。陳は後に中国共産党初代総書記に就任するが、ほかにも李大釗、彭湃といった人物が早稲田大学に留学していた。彼らは帰国後、近代中国の歴史に大きな影響を与えた。

いったんは辛亥革命に参画したものの、袁世凱に実権を奪われた陳らは1913年に再び日本の地を踏んだ。福沢没後10年を経て、梁の時とは異なり表立った福沢からの影響は影を潜めている。ところがその時期の論説を読んでみて感じるのは、陳の背景にいる福沢の姿である。たとえば1914年に発表された「愛国心と自覚心」の内容は、『福翁百話』の第93話「政府は国民の公心を代表するものなり」にそっくりである。「敬んで青年に告ぐ」(1915)は新中国の青年の行動規範を6項目に要約したものだが、中身は文明政治の6条件とほとんど同じである。

福沢自身の手になる明治版『福沢全集』(1898)には昭和版『続福沢全集』(1933,34)で増補されたアジア蔑視や侵略主義を志向する論説は含まれていない。そのため20世紀初頭の中国人が福沢の著作に親しんだとしても、その思想を疑うことはなかった。陳についても、彼の独立自尊のモットーともいうべきものは福沢だけに由来するのではないのかもしれないが、日本に来て福沢に似た主張をしたとなると、その影響関係は明らかである。1910年代の亡命中国人にとって、福沢は依然として必読文献だったと思われる。

陳の後継者周恩来

中華人民共和国成立の立役者の一人である周恩来(1898~1976)を、初代の中国共産党総書記とはいえ、後には党を除名されてさびしく世を去った陳の後継者とするのには異議があるかもしれない。ここで後継者というのは、雑誌『新青年』の精神を引き継いだという意味で、政治的な後継者ということではない。

梁啓超の日本留学の勧めを受けた周の滞日は1917年から翌年にかけてで、欧州での大戦終結とその後の変動を彼は東京で体験した。明治大学と法政大学に学んだ周は高名な社会主義研究者河上肇のいる京都大学に移ろうとしていたところ、中国で5・4運動が起こりつつあるのを知って1919年になって急遽帰国した。

その後の周は1920年にパリに留学、その過程で共産党に加わることになる。第一次国共合作が成立した1924年に帰国して、孫文が創立した黄埔軍官学校の政治部副主任となった。ちなみに校長は蒋介石で、3人とも日本留学亡命組である。周が名を上げたのは1936年の西安事件以降のことだが、以後毛沢東の補佐役として死去するまで中国の政権の中央にあった。

政治家としての周の特徴は、何事についても無理はしない、ということである。1949年の中華人民共和国の建国によって国務総理に就任した周が果たした役割は、早急に結果を求めようとする毛をなだめつつ、安定的に国家を発展させることだった。彼の提案によるのがいわゆる「四つの近代化」論である。

四つの近代化から社会主義核心価値観へ

大陸中国を掌握した中華人民共和国ではあったが、急進改革と漸進主義の間で路線をめぐる対立が続いた。「四つの近代化」とは「工業、農業、国防、科学技術」という4部門での近代化を意味する。すでに劉少奇が1956年の中共第8回全国大会での「政府活動報告」において提唱していた。しかし、この劉の提案は、急進改革派による大躍進政策(1958~1960)の前に実現することはなかった。大躍進政策の失敗の後、1964年には、周恩来が第3期全人代第1回会議での「政府活動報告」において、これらの4部門の近代化を提起している。

この「政府活動報告」と福沢諭吉の著作とを比較するなら、福沢には農業改革についての提言はないものの、あとは多くの部分に類似点を指摘することができる。何もかも国の主導によって計画的に改革を実施するのではなく、国民の自発性を尊重して近代化を推進するというのだから、結局は明治維新以後の日本の近代化を踏襲することになるのは当然である。報告の中で周は「大慶の経験をひろめ、比べ、学びつつ追いつき、助ける競争をひろくくりひろげ、新しい技術を取り入れることにつとめ、仕事を専門化し、協力しあい、弱い環を強め、生産能力と技術水準を一段と高める必要があります」と述べている。

この「四つの近代化」路線は、1965年から1975年までの文化大革命期の中断を経て、周恩来の最晩年になって復活し、鄧小平の路線へと引き継がれた。さらにその延長上にあるのが現在の社会主義核心価値観である。すなわち2012年の中国共産党第18回全国代表大会における胡錦濤総書記による活動報告の中で、社会主義核心価値観が24字(富強、民主、文明、和諧、自由、平等、公正、法治、愛国、敬業、誠信、友善)で明確に定義づけられた。その後習近平が中国共産党中央委員会総書記に就任して以来、社会主義核心価値観は繰り返し言及され、また広く宣伝されている。

この社会主義核心価値観と文明政治の6条件を比較すると、その用語の大部分が重複していることが分かる。また、福沢の『学問のすすめ』と『文明論之概略』を考慮の対象に加えるなら、社会主義核心価値観と福沢の思想は完全に一致するといってよい。

もちろん現代中国の指導者たちが福沢を直接参考にして社会主義核心価値観を創出したなどと言いたいのではない。そうではなく、梁啓超の『新民叢報』や陳独秀の『新青年』の読者であった革命の第一世代により、知らず知らずのうちに受け入れられた福沢の思想が、今なお称揚するべき価値観として受け継がれているということなのである。(本文終)

参考文献(刊行順)

  • 周恩来「中華人民共和国第3期全国人民代表大会第1回会議における政府活動報告」日本共産党編『世界政治資料』第207集(1965)日本共産党中央機関紙経営局刊
  • 狭間直樹(編著)『共同研究 梁啓超‐西洋近代思想受容と明治日本‐』 (1999)みすず書房刊
  • 平山洋『福沢諭吉の真実』(2004)文藝春秋社刊
  • 李暁東『近代中国の立憲構想‐厳復・楊度・梁啓超と明治啓蒙思想‐』(2005)法政大学出版局刊
  • 平山洋『福沢諭吉-文明の政治には六つの要訣あり‐』(2008)ミネルヴァ書房刊
  • 區建英『自由と国民‐厳復の模索‐』(2009)東京大学出版会刊
  • 平山洋『アジア独立論者福沢諭吉‐脱亜論・朝鮮滅亡論・尊王論をめぐって‐』(2012)ミネルヴァ書房刊
  • 梁啓超『新民説』(2014)平凡社刊
  • 陳独秀『陳独秀文集Ⅰ』(2016)平凡社刊
  • 平山洋『「福沢諭吉」とは誰か‐先祖攻から社説真偽判定まで‐』(2017)ミネルヴァ書房刊