書評 『西田幾多郎全集別巻(講義録)』、村松晋著『近代日本のキリスト者』、植木雅俊著『法華経とは何か』
このテキストについて
平山氏より書評掲載の依頼がありましたので、アップロードします。なお、文中にある「本誌」とは比較思想学会『比較思想研究』のことです。
本文
『西田幾多郎全集』別巻「倫理学講義ノート」「宗教学講義ノート」
本書の「解題」(浅見洋・石川県西田幾多郎記念哲学館館長)によれば、所収の「倫理学講義ノート」は、西田が京都帝国大学に赴任して間もない時期に行った講義(1910年9月から3年間)のノート4冊と別のノートに書かれ、すでに新版全集第15巻(1989年刊)に収録されている結論部を合わせて翻刻したもの、また、「宗教学講義ノート」は、1913年9月開講の「宗教学普通講義」に向けて用意されたノートを翻刻したものである。宗教学については、西田本人の手になるノートの公開は今回が初めてであるが、その講義に出席していた久松真一による受講ノートが旧版『全集』「別巻四」(1952年刊)に収録されている。
西田の初めての著書『善の研究』の刊行は1911年2月であるから、本書によって『善の研究』前後の西田の講義に列席できることになったわけである。その目次を示すならば、まず「倫理学講義ノート」は、倫理学1 ⑴道徳的判断 ⑵人格と個人性/倫理学2 ⑶自由意志 ⑷善/倫理学3 ⑸善の形式 ⑹道徳的洞察/倫理学4 ⑺善の内容 ⑻個人倫理 ⑼家族 ⑽国家 ⑾人類/倫理学5 ⑿結論、ついで「宗教学講義ノート」は、宗教1 ⑴序論 ⑵宗教研究(宗教哲学)の様々な方向/宗教2 ⑶宗教的要求/宗教3 ⑷宗教の様々な形態/宗教4 ⑸神 ⑹神と人間、という構成である(表記一部修正)。
もともと公刊を目的として書かれた原稿ではないから、そのまま翻刻しても、日本語・英語・ドイツ語・フランス語が混在する、文章になっていたり、メモ書きだったり、不完全な引用だったりするものを、元のノートの表現をなるべく残しつつ、カッコで補ったり、詳細な註を加えたりすることで何とかひとまとまりの講義録として読めるようにしている。
そこまでにいたる苦労話は浅見館長による「解題」と「後記」に詳しく、これが抜群に面白い。そもそも本書収録のノートは2015年10月に西田家から哲学館に寄託された50冊の未公開ノート資料の一部であるという。その保存状態は良好とはいいがたく、水分を含んでページをはがすのも一苦労であったようだ。それを国立奈良文化財研究所の協力により真空凍結乾燥処理技術を用いて展開し、写真撮影して画像データ化した。ここまでが翻刻以前の作業で、その後は同館の中嶋優太専門員が中心となった地道な作業によりようやく完成にこぎつけたのである。
そうして出来上がった2つの講義ノートの翻刻を通読して感じたことは、西田はよく勉強していたのだな、という平凡ではあるが重要な印象である。ノートがなされて1世紀を経た今日の大学でもこの講義なら十分通用するのではなかろうか、と僭越を自覚しつつ思う。また、本書は今でも広く読まれている『善の研究』の読解のための参考書としても活用が可能である。すなわち、『善の研究』で挙げられている人名を本書の索引でたどるならば、西田がその思想家をどのように位置づけていたかがたちどころに分かるのである。
村松晋著『近代日本のキリスト者―その歴史的位相』(2020年・聖学院大学出版会)
本書は「近代日本におけるキリスト者とその信仰・思想を、時代社会をふまえて内在的に解き明かし、その具体的な相貌を積み重ねていくことで、近代日本という歴史的な場に根ざしたキリスト者の実態を明らかにすること」(「はじめに」1頁)を目的にしている。
その目次を示すならば、はじめに/第一部 天皇と日本をめぐる精神史/第1章 近代日本のキリスト者と<自由>の位相―柏木義円と「天皇の赤子」論/第2章 住谷天来の<抵抗>とその志/第3章 南原繁の精神史的考察―その国民的使命観をめぐって/第二部 「地の塩」の群像/第4章 川西実三の視座―新渡戸・内村門下の「社会派官僚」をめぐる一考察/第5章 二瓶要蔵の信仰と思想/第6章 晩年の住谷天来―その志を支えた世界をめぐる一考察/第7章 深津文雄の思想と行動―「いと小さく貧しき者に」/第三部 「日本的基督教」という磁場/第8章 南原繁の「日本的キリスト教」構想/第9章 関根正雄における「日本的基督教」とその射程/第10章 戦後無教会キリスト教と西田哲学―量義治と「日本的基督教」/結びにかえて、という構成になっている。
評者は今から35年前に日本のキリスト教徒としては第1世代に属する大西祝を対象とすることで研究の道を歩むことになったこともあって、日本プロテスタント史についてはそれなりの知識を有していると自負していたのだが、住谷天来・川西実三・二瓶要蔵・深津文雄の4人については初めてその名を知った。柏木義円・南原繁・関根正雄・量義治の4人のうち前2人は自分でも調べたことのある研究対象、さらに残り2人は学統はともかくも、日本倫理学会や日本カント協会でお世話になったこともあるいわば師匠筋である。自分にとっての歴史上の人物と知人とが並べて論じられているのを見て、不思議の感をもよおした。
既知の4人の記述については、調査は綿密で、分析と評価についても妥当という判定をくだすことができる。そうなると未知の4人の記述についてもそうであろうと推測ができる。それはよいのだが、前4人に対して一般への知名度も劣っている(と評者には思われる)後4人がいかにして選ばれたのかがよくわからない。
例えば川西が内務官僚として活動した静岡県駿東郡は評者にとっても縁の深い場所であり、今から1世紀前に川西が何をしたか実感をもって理解できるのだが、その活動は要するに役人としてのそれで、とくにキリスト者としてどうこうというものではないように感じられる。結局のところ川西が名を留めた理由は、後の東大総長である矢内原忠雄を信仰の道に導いたこと、ただそれだけにあるのではなかろうか。
既知の有名な4人の記述については研究として評価できるので、無名の4人について、思想家としての「これは」感が弱く感じられたのが残念である。
植木雅俊著『法華経とは何か―その思想と背景』(2020年・中公新書)
評者が著者本の書評を担当するのは、『仏教、本当の教え』(2011年・中公新書)〔本誌第40号所収〕・『人間主義者、ブッダに学ぶ』(2016年・学芸みらい社)・『テーリー・ガーター』(2017年・角川選書)〔いずれも本誌第45号所収〕に続いて4冊目である。
いつものことながらがっしりした文体と記述に感銘を受けた。法華経の解説本は数多あるが、主として現在の宗門の立場からの解説であることから、現状に即した、結果として宗門への帰依を強めるものが多い。そればかりではなく既存の漢訳をもとに解釈しているため、1500年前の中国人の考えを追認するものともなっている。
本書はサンスクリット原典の現代語翻訳により毎日出版文化賞(2008年)を受賞した著者の手になる作品であるから、当然に、釈迦本人の考えから原始仏教、いわゆる小乗仏教、さらには大乗仏教へといたる思索の流れと、中心となる法華経の内容紹介を原語に立ち返って解説している。
その目次の大概は以下のとおりである。はしがき/Ⅰ『法華経』の基礎知識―インドで生まれ、中国から各地に伝えられた経典/Ⅱ『法華経』前夜の仏教―原始仏教から小乗、そして大乗の興起へ/Ⅲ『法華経』各章の思想―「諸経の王」の全体像/Ⅳ『法華経』の人間主義―“偉大な人間”とは誰のことか/あとがき/参考文献
この目次の詳細には工夫がこらされていて、小目をたどるだけで全体の構造が理解できるようになっているのだが、紙幅の都合によりそこはやむを得ず省いて先に進めるなら、著者が主張する法華経の真に重要なところはⅣ「『法華経』の人間主義」に明確に示されている。すなわち法華経は、「人間の平等と、あらゆる人間が成仏できる尊い存在であることを主張する経典」(299頁)である。そんなことは知っている、と多くの読者は言うだろうが、本書の眼目は、そればかりか、その主張こそが釈迦本人の考えであったことを示すところにある。
大乗仏教は釈迦入滅後500年も経過して興起しているのだから、釈迦に由来する信仰ではないとはしばしば言われることである。けれども、本書によれば、釈迦から離れているのは小乗のほうで、法華経の思想は釈迦により近い原始仏教を再興したものといえるという。前三著作を読んだ身とすれば、それは説得力のある主張であるように思われる。
こうした構造は仏教ばかりでなく、キリスト教にも見られる。原始キリスト教の平等思想は、ローマ・カトリックによって権威化されて、三位一体のうちの聖霊とはローマ法王の心であるという解釈がとられていた。だからこそ教会は贖宥状(免罪符)を発給しえたのである。ところがルターはラテン語訳聖書ではなくギリシャ語原典を用いることで、聖霊とは一般信徒の心を意味するとした。つまり三位一体の真意は、絶対神とイエスと一般信徒の精神はやがて一致する、ということであり、それこそが原始キリスト教の立場だったというのである。
このルターの再解釈は宗教改革をもたらしただけでなく、庶民の心こそが神意であるとして市民革命の遠因ともなった。本書の、法華経の思想は釈迦の考えにより近い、という主張もまた、同様の再解釈として仏教界を内から動かす力となるのではなかろうか。