論文版「福沢諭吉における国家と個人」
このテキストについて
以下は、2011年9月発行の静岡県立大学国際関係学部紀要『国際関係・比較文化研究』第10巻第1号(後177~186頁)に掲載の論考「福沢諭吉における国家と個人」の全文です。
なお本論考は、2010年10月9日(土)・10日(日)に慶応大学で開催された日本倫理学会の主題別討議「明治の思想における国家と個人」での発表「福沢諭吉における国家と個人」を、論文形式に書き改めたものです。引用される場合は、発表要旨からではなく、こちらから引用してください。
福沢諭吉における国家と個人
平山 洋(静岡県立大学)
1.教育勅語は大層なものなのか?
大層なものだと人が言うから、そうかもしれないと漠然と信じつつ、でもやっぱりどこが大層なの? という印象しか残らない文章がある。教育勅語はそうした凡庸文の最たるものである。そのものを読む限り、それは明治天皇が国民に向けて発した、ありきたりな徳目実践の勧めにすぎない。輔弼者の副署がないため、法令の要件を満たすことはなく、強制力はない。もとより天皇の言葉を軽んずることは社会慣習上許されなかったから、奉読される場合には、ははっ、と頭を垂れていればそれで終わりである。
内村鑑三不敬事件はどうなのか、御真影と勅語謄本を校舎の火災から救うために殉職した小学校の校長の話はどうなるのか、と人はあるいは問うかもしれない。この両件についての後世への伝承は、思うに大仰すぎる。
前者は、明治二十四(一八九一)年、第一高等中学校の非常勤講師だった内村が、教育勅語奉戴式の席上、勅語謄本に最敬礼しなかったことをもって指弾され、ついには退職に追い込まれた事件であるが、不敬事件と通称されるものの、刑法犯罪としてのいわゆる不敬罪とは無関係である。内村を糾弾したのは生徒と一部教師であり、敬礼は宗教儀礼でないと確認のうえ再実施した内村を学校当局は懲戒することはできず、退職は依願によるとされているが、退職届けの署名が果たして本人なのかどうかも怪しい。要するに、内村不敬事件の実態は、よくある学校内部の勢力争いにすぎないのである(注1)。
後者は、大正十(一九二一)年、偶然発生した校舎火災の際に重要書類を持ち出そうとした校長が殉職した事件が発端となっている。その不幸な事件を、新聞が、御真影・勅語謄本を救い出そうとして殉職した、と美談調で報道したため、以後殉職する校長が続出した。その対応策として建設されたのが、御真影と勅語謄本を収める耐火収納庫奉安殿の建設である。小学校では年五回の式日(紀元節・天長節・元始祭・神嘗祭・新嘗祭)に教育勅語の奉読が義務づけられていたが、奉安殿建築後は、そこから御真影と勅語謄本を取り出して式場(講堂)に据えるところまでが新たに儀式化された。つまり、御真影を運ぶ校長が、天皇の代役を務めたのである。この儀式化は、明治時代の記憶も薄れてきた大正の末頃に始まった(注2)。
毎年五回、奉安殿から恭しく取り出されて、職員・生徒の前で奉読される、というのがいわゆる教育勅語体制の全てであって、それ以上でも以下でもない。教育勅語が大層なものとなったのは、むしろ第二次世界大戦後のことである。その一番大きな原因は、教育学者海後宗臣の保身と、戦前の教育をことさらに悪いものと記述したがる言論界の風潮だったと思われる(注3)。
水戸出身の海後宗臣は、桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した犯人グループのうち、ただ一人生き延びた海後磋磯之介の直孫だった。昭和二十(一九四五)年までの価値観からいえば宗臣は英雄の孫であって、彼もまた周囲の期待に応えるかのように、若き日は国民精神文化研究所員として、後は東京帝国大学文学部教育学科の助教授として、国民精神総動員運動に邁進していた。GHQのパージを受けずにすんだのは、終戦の時点では小物だったからだ。昭和二十二年に教授に昇進、二年後に新設された東大教育学部の事実上初代の学部長となった。このようにして海後は戦後民主主義教育の旗手の一人となったわけだが、彼は自分の戦前の活動を、抗しきれない巨大な力によって、やむなくそのようにした、と弁明したのである。同時に彼は、近代教育史の権威として教育勅語の詳細な成立史を刊行し、弟子たちも師に倣えということで、多数の研究を発表したのだった(注4)。
それだけなら、教育勅語に関する印象は、教育学界に留まったことだろう。実際のところ、教育勅語が一般社会においても過大に評価されることになった理由としては、東大教育学部3M(スリーエム)教授らの活動によるところが大きいと考えられる。勝田守一・宗像誠也・宮原誠一ら3M教授は、日本教職員組合(日教組)の指導者として、教育勅語が天皇の言葉であることを唯一の根拠にそれを全否定し、そのメッセージを広く一般社会に発信した。実は当の3M教授たちも若き日は戦争に協力していたのだが、宗像だけはいくらか自己批判したものの、他の二人は沈黙を守った。もちろん保守派からは時折戦前・戦中の言動との矛盾を突かれることもあったが、彼らはその乖離が大きければ大きいほど、彼ら自身が作り上げた教育勅語教育の呪縛に、その原因を帰した。教育勅語が戦前の教育界を覆うリバイアサンとされるようになったのは、戦後も時を経てのことだったのである(注5)。
2.教育勅語に言及しなかった福沢諭吉
教育勅語は発表当初はべつに大層なものではなかったから、福沢諭吉が現行版全集全二十一巻において、一度も勅語に言及していないのは特段奇異なことではない。内村不敬事件をきっかけにして、帝大教授井上哲次郎とキリスト教徒との間に、いわゆる「教育と宗教の衝突」論争が起こったが、福沢率いる時事新報は反儒教・非キリスト教の立場だったため、いずれにも与しなかった。
教育勅語についての福沢の考えを間接的に知ることができる手がかりとして、全集未収録の社説「教育に関する勅語」(明治二十三年十一月・(注6))がある。その内容は、要するに、明治天皇が国民の風紀の乱れを憂慮して普遍的徳目を奨励したことは評価できる、政府当局者は従来までの朝令暮改を反省して、風紀の向上に務めてもらいたい、というものである。大正版と昭和版の正続全集の編纂者である石河幹明はこの社説を採録していないので、一般には福沢の論説とは見なされてはいない。とはいえ、書簡等から推測して、この時期には時事新報に強く関与していたことがうかがわれるので、表現はどうであれ、勅語で提唱されている個々の徳目には同意していたと推測できる。
教育勅語の内容に賛同しているなら、それをもっと賞揚してもよいはずであるが、福沢がそうしなかったのは、彼がその実際の起草者である井上毅に強い嫌悪感を抱いていたからだ、と私は思う。井上は明治六(一八七三)年頃から大久保利通の懐刀となり、大隈重信と福沢諭吉が目指していた英米を日本の近代化のモデルとする方針の邪魔をしていた。明治十一年に大久保が暗殺されると、彼の路線を引き継いだ伊藤博文の知恵袋となって、どのようにすれば日本をドイツ帝国流の中央集権国家にできるかについて腐心してもいた。それが最も顕著に現れたのが明治十四(一八八一)年政変なのであるが、そのことは後で触れる(注7)。
福沢が気にくわなかったのは、教育勅語の内容よりもむしろ、それが天皇の名において出されたという形式的側面であったと考えられる。もちろんそれを表だって言うことはできない。けれども直接には教育勅語に触れないようにしつつ、実質的にそこで奨励されている徳目を広める方法を、福沢は模索していたように受け取れる。具体的には、次節で述べることであるが、福翁百話・百余話・修業立志編(注8)における徳育小論とでもいうべき作品群がそれにあたる。そこでは教育勅語で掲げられている徳目が同様に奨励されているものの、その奨励のありかたは、井上哲次郎を初めとする勅語解説本執筆者たちのそれとは大分異なっている。
さらに最晩年になって、慶應義塾では修身要領という塾生の徳性を涵養するための綱領が編纂された。そこには、第一条、「人は人たるの品位を進め智徳を研ぎ、ますますその光輝を発揚するを以て本分となさざるべからず。吾党の男女は独立自尊の主義を以て修身処世の要領と爲し、之を服膺して人たるの本分を全うす可きものなり」、第二条、「心身の独立を全うし自からその身を尊重して人たるの品位を辱めざるもの、之を独立自尊の人と云う」を初めとして、個人・家族・国民・国家の独立自尊が二十九条にわたって述べられている。修身要領が編纂されたのは福沢が重い脳卒中の発作に見舞われた明治三十一年九月より後のことであるから、その編纂に福沢がどの程度関わったかははっきりしない。とはいえ、実子・直弟子が額を寄せ合って作っただけあって、その内容は、福翁百話等の徳育論のエッセンスになっている。明治三十二年二月の完成後、弟子たちはこの修身要領を手に、その考えを塾内ばかりでなく広く世間に宣布するための運動を開始した。また、時事新報紙上でも、同年二月から八月にかけて修身要領の宣伝キャンペーンが打たれたが、この運動への反発もまた大きかった。井上哲次郎は、「(福沢)翁が修身要領中に忠孝の事を言わずして単に独立自尊を説く処、分明に教育勅語と相背馳せり」(『哲学雑誌』第十五巻第百六十号、明治三十三年六月刊)と批判している(注9)。
福沢存命中に教育勅語が慶應義塾内で奉読されたかについては、中等・高等教育機関である普通部・大学部では実施されなかったのはもちろん、当初は初等教育機関である幼稚舎においても行われなかったようである。というのも、幼稚舎が小学校令に基づく小学校と同等とされるようになったのは、明治三十一年五月の学制改革以降のことで、それまでは小学校ではなかったからである。
福沢没後においても慶應義塾は、永らく御真影と教育勅語謄本の下賜を願い出ることはなかった。その両者が塾監局(事務局)に設けられた奉安室に安置されたのは昭和十三(一九三八)年二月になってからで、慶應義塾にはそれまで学祖福沢諭吉の肖像画はあっても、天皇の肖像が飾られたことはなかったのである(注10)。
3.教育勅語への応答としての福翁百話・百余話・修業立志編
教育勅語では十二の徳目が奨励されている。大日本帝国憲法下では勅語を明治天皇じきじきのお言葉とみなす、というのが暗黙の了解だったため、井上哲次郎を初め多くの人々が、畏れながら、とこの教育勅語の解説本を書いている。明治二十三(一八九〇)年から昭和十四(一九三九)年まで、その数は三百六に及ぶ(注11)。とはいえ解説本の作者たちは、そこで明治天皇の真意なるものを明らかにしようとしたわけではなく、要するに自分自身の道徳観を、天皇の口を借りて広めようとしただけである。十二の徳目自体は、神道・儒教・仏教・キリスト教いずれの立場からも是認できるもので、政府はどの立場からの解説本であってもその刊行を許した。そうであるとすると、福沢自身が勅語の解説本を書いてもよかったわけだが、そうはしなかったのは、思うに、玉座の陰に隠れつつ論敵を追い落とす井上哲次郎のような真似はしたくなかったからである。
とはいえ、福沢は福沢なりに、十二徳目の解釈を、その後の著作で展開している。要するに福沢は、公言することなく教育勅語の解説本を書いていたわけだ。すなわち、孝行(徳目一)とは、「子は親よりも賢く、親は又其祖父母より利口」(立志編二十八)というように、前世代を乗り越えて次世代が進歩することである。兄弟の友愛(徳目二)は、「家族団欒の至楽」(百話二十二)のうちに親が子を平等に扱うことで実現できる。夫婦の和(徳目三)のためには、「親愛の他に敬意なかる可らず」(百話二十四)。朋友の信(徳目四)は、「人の信用こそ商売上の利源なれば」(百話四十九)社会生活上の基礎といえる。謙遜(徳目五)は卑屈とは違って内に矜持を秘めていて、そのあり方は、「小心翼々苦労を厭はずして活発に立ち働」(立志九)くことである。博愛(徳目六)の人とは、「我身独りの独立自由を以て足れりとせず、他人を助けて独立自由の両分に入らしめんことを勉る者」(立志編三)のことで、その活動は文明社会実現のための必須の条件である。
修業習学(徳目七)には、まず「実学を勉め、西洋文明の学問を主として」(立志編十一)、個人が独立し一国が独立するための基礎をつくる必要がある。知能啓発(徳目八)は、まず「英字英語英文を教へ、物理学の普通より数学、地理、歴史、簿記法、商法、経済学等に終」(立志編十一)るものである。徳器成就(徳目九)については、「子弟の目に其手本を示すより大切なるはある可らず」(立志編二十四)。そして、「外国人の眼より其国の品格を見るには、先づ其国民の人品に注目する」(立志編二十三)ことも忘れてはならない。公益世務(徳目十)とは、「常にその見る所を広くして社会公共の利害に注意し、等しく事業を営むにも間接に世を利するものを選ぶ」(百話十八)ことである。遵法(徳目十一)として法律を遵守しなければならないのは、それが「民の公心を代表し社会全般の私を制して安寧を得せしむるが故なり」(百話九十三)。義勇(徳目十二)により公に奉ずるとは、国民が国家に忠を尽くすことではなく、「其国人に忠を尽すの謂ひにして、再言すれば、人々自から己れの為めに忠を尽す」(立志編二十八)ことと捉えるべきだ(注12)。
こうした徳目の解釈は、従来までの儒学による理解とは甚だしく異なっている。一言で言うなら少々バタくさい。福沢は徳目の再解釈をおこなうにあたって、徳目をいったん英語に訳し、ついでその意味を日本語に移し替えて記述しているように思われる。
4.交詢社憲法草案への応答としての大日本帝国憲法
福沢にとって、大日本帝国憲法や教育勅語を作った伊藤博文(長州)や井上毅(肥後)は、郷里豊前中津近くの似たり寄ったりの境遇のもとに生まれ育った年少者にすぎなかった。明治八(一八七五)年の演説「政府と人民」はあまり知られていないが、当時の福沢が明治の元勲をどのように評価していたかがうかがわれて興味深い。曰く、「今参議だとか大輔だとか勅任になって居るのは、足利の木像を斬ったり、東禅寺へ打入ったり、御殿山へ火を付けたりして、徳川から追手を向けられ、縁の下へ隠れたりして、始末に困った無頼もので有った。それだから参議が話をするにも、おいらが御殿山へ火を付ける時分には、かうで有ったと話すのは、元わるい心でしたのでないから、恥ぢることもないのだ。此浪人は徳川の暴政がいやだから、ぶっ潰してしまったのだ」(注13)。
この中で、福沢によって縁の下を逃げ回っていた無頼者呼ばわりされているのは維新前の伊藤博文である。もとは大隈重信(肥前)の部下だった伊藤が台頭したのは、明治六年の征韓論争のときに、薩摩の大久保利通に味方したのがきっかけである。以後は内務省(警察)に自分の勢力を広げ、明治十一年に大久保が暗殺されると、維新当時は長州出身者の最後尾だった伊藤の序列は、いつしか長州第一位になっていた。上には筆頭参議の大隈がいるだけである(注14)。
そんなときに起こった明治十四年の政変の本質は、大隈と福沢の弟子たちが知恵を絞って作った交詢社憲法草案の採択を伊藤らが阻止した、というところにある。交詢社は今でこそ銀座の社交倶楽部ということになっているが、元々は来るべき立憲体制に備えて、憲法草案を作るために設立されたと考えられる。その正式な発足日は明治十四年政変の一年九ヶ月前の明治十三年一月二十五日で、幹事には元佐賀藩主鍋島直大、参議員(役員)として元外国奉行栗本鋤雲(旧幕臣)、五箇条の誓文の起草者の一人である由利公正(越前)、大隈の弟子である小野梓(土佐)、三菱の岩崎小二郎(土佐)が加わっていた。
憲法草案を実際に練ったのは、小幡篤次郎・矢野文雄・小泉信吉・馬場辰猪ら福沢門下生で、その内容(注15)は以下の通りである。すなわち、天皇は神聖不可侵とされる一方で、政務全般については首相が全責任を負う議院内閣制度が採られている(第二条)。首相ほか大臣は元老院(貴族院)か国会院(衆議院)の議員でなければならない(第十三条)。国会院議員は成人男子の制限選挙によって選出される(第四十三条)。天皇は「衆庶の望みに依て」首相を選任するとあり(第十二条)、結局のところ国会院の多数派の指導者が首相となることが明文化されているわけである。統帥権は天皇にあるが、それも首相を通してしか行使することはできない(第六条・第十一条)。軍人には面白くないであろうこれらの条文の代わりにか、現役軍人にも選挙権は与えられていた(第四十三条)。現行日本国憲法下の自衛官と同じ扱いである。政治的意見を表明するすることを禁じられていた軍人にも、個人的な政治参加を許しているこの規定により、不満が反乱へと暴発する危険性は軽減されたはずである。完全な議院内閣制度が採用されている実質的なその中身は、日本国憲法から第九条を省いたものといってよいほどである。
郵便報知新聞と交詢雑誌に掲載された交詢社案の内容に不安を抱いた伊藤らは、北海道開拓使官有物払い下げ反対運動を大隈と福沢の勢力が扇動しているとして大隈参議を解任、官僚になっている福沢門下生を政府内部から排除した。そうして交詢社案の政府案への格上げを阻止した伊藤は、翌明治十五年からドイツに憲法調査のため留学しているが、それは要するに、立憲体制に移行するのをなるだけ遅らせるということを目的としていた。そうして出来上がった大日本帝国憲法は、交詢社案では不可分離とされていた内閣と議会を分けて、とくに内閣の力を強化したものであるが、個別の条文は交詢社案の換骨奪胎といってよい。立憲体制に移行するのに、七年もの時間をかける必要はなかったのである。
交詢社案から大日本帝国憲法への書き替えにあたっては井上毅が深く関係していた。井上は、肥後実学党(改革派・維新前から福沢らと協働)と対立していた肥後学校党(保守派)の流れを汲む者として、前近代に行われていた権威主義的統治方法を支持していた。彼の行動は、福沢や大隈の自由主義思想は政府の力を弱体化させ政権の運営を不安定にする、という信念に基づいていた。
5.朝鮮独立の支援者としての福沢諭吉
福沢のモットー「一身独立して一国独立す」は、万人万国に適用される。彼は朝鮮国の独立と近代化を強く支持し、慶應義塾に朝鮮人留学生を多く迎え入れ、また朝鮮独立党の指導者金玉均らの活動を後援した。修業立志編中の論説「須く他人を助けて独立せしむべし」(立志編三)は、日本人塾生相互の助け合いを勧めているが、同様のことは、朝鮮人に対しても、また朝鮮国そのものに対しても等しく奨励されたのである。
明治十七(一八八四)年十二月四日に漢城(現ソウル)で起こった朝鮮独立党によるクーデタ甲申政変に敗れた金玉均らは、親清国派である事大党政権の追及から逃れるため、日本に亡命した。清国および朝鮮国との関係悪化を恐れた日本政府は亡命者たちを積極的に庇護しようとしなかったのに対し、滞在中の彼らを暖かくもてなしたのは福沢門下生を中心とする在野の日本人だった。亡命一年半後の明治十九年八月、事大党政権下の朝鮮からの金玉均の引渡し要求に辟易した日本政府は、彼を小笠原諸島に追放してしまう。時事新報は、社説「金玉均氏」「小笠原島の金玉均氏」によって日本政府のそうした措置を批判し、金の身柄を日本内地に戻してその安全を図るように働きかけた。その運動は奏功し、明治二十一年六月、政府は金を札幌に移送、さらに二年後には東京滞在を許したのだった。ところがそうやって命を永らえた金も、亡命九年を経た明治二十七年三月に事大党によって上海におびき出され、そこで暗殺されてしまう。福沢は朝鮮独立の士金玉均の死を悼んで、丁重な追善供養を執り行った。
それから七年を経た明治三十四年二月に福沢は没したが、その時期はすでに日清戦争の結果朝鮮国(大韓帝国)から清国の影響力が排除された後であったため、韓国人留学生の間で福沢の金玉均支援について再評価が進んでいたようである。後年高名な憲法学者となる金祥演は、東京専門学校(早稲田大学)政治科在学中に福沢の死を知り、韓国留学生帝国青年会総代として弔辞を読んだが、その中に、「先生精霊昭如日星化作金玉卓然不朽後垂之名」(先生の精神は日や星の光のように辺りを照らし出して、金玉の財宝を作り出し、ひときわ抜きんでて朽ちることのないその名を後世に示している)という一節がある(注16)。この部分は普通に読めばかっこ内のような日本語訳になると思われるが、化作以下は、「卓然不朽の名を後世に残している金玉を化作した」とも読むことができる。つまり福沢の精神が変容して金玉均となった、という意味を含ませたわけだ。
このような次第で、福沢がアジアへの侵略を提唱していた、という見解は、存命時はもとより、没後三十年まではまったく存在していなかった。それというのも、今日では侵略論者としての福沢像を根拠づけるとされている明治十八(一八八五)年の「脱亜論」など、無署名の時事新報社説が昭和版続全集に収められたのは、満州事変後の昭和八(一九三三)年以降だからである。さらにそこでの主張が侵略論であると批判されるようになるのは、十数年を経た第二次世界大戦終結後のことである。
朝鮮の独立提唱者から侵略論者への福沢像の転換には、拙著『福沢諭吉の真実』(二〇〇四年八月・文藝春秋刊)に書いたように、明治二十九年に時事新報論説主幹に就任した弟子の石河幹明が関係している。簡潔に述べるならば、石河は、日本が大陸への進出を積極的に推進していた一九三〇年代初頭に、その時局に適合的な、多くは石河本人が執筆した時事新報社説を千二百編以上も続福沢全集に採録し、満州事変当時は先見の明ありと賞賛されるような福沢像を造ろうとしたのである。そうした人物像は、当然のことながら、戦後のいわゆる進歩派から批判を受けることになった。
その石河によって続全集に採録されなかった福沢自筆草稿残存の社説に、明治二十七(一八九四)年の日清戦争直前に掲載された「土地は併呑すべからず国事は改革すべし」(注17)がある。その中で福沢は、「朝鮮の国土は之を併呑して事実に益なく、却って東洋全体の安寧を害するの恐あるが故に、故さらに会釈して之を取らざるのみ」とその頃日本の一部から出始めていた朝鮮併合論に反対の意を表明していた。石河は、この、結局は実現されなかった予言である福沢の朝鮮併合反対論を、満州事変直後に編纂された続全集の読者に読ませたくなかったのである。
脚注
- (1)
- この段落の内村鑑三不敬事件に関する記述は、新田均著『「現人神」「国家神道」という幻想』(二〇〇三年二月・PHP研究所刊)に拠っている。
- (2)
- この段落の御真影に関する記述は、岩本努著『「御真影」に殉じた教師たち』(一九八九年四月・大月書店刊)に拠っている。
- (3)
- 教育勅語を過大視する傾向が、二十一世紀の今日まで続いているのは、驚くべきことである。それは同時に、教育勅語と大日本帝国憲法の起草者の一人である井上毅への過大視でもある。その一例として八木公生は、「『勅語』は、井上毅というひとりの<思想家>(中略)として、『明治憲法』と並ぶ、いやむしろそれを凌駕する業績だった」(『天皇と日本の近代・下・「教育勅語」の思想』(二〇〇一年一月・講談社刊)二八一頁)と述べている。それにしても、そもそも教育勅語とは、井上毅という明治期の実務官僚個人の「思想」なのであろうか。
- (4)
- この段落の海後宗臣に関する記述は、長浜功著『増補・教育の戦争責任』(一九八四年七月・明石書店刊)に拠っている。
- (5)
- この段落の3M教授に関する記述は、竹内洋執筆「進歩的教育学者の牙城・東大教育学部」『革新幻想の戦後史』第8回(『諸君!』二〇〇八年七月号・文藝春秋刊)に拠っている。
- (6)
- 一八九〇年十一月五日時事新報掲載。ただし社説全文を掲載している安川寿之輔著『福沢諭吉と丸山真男』(二〇〇三年七月・高文研刊)四四〇~四四一頁を参考にして要約した。安川は同書巻末の「資料・丸山真男の無視した福沢諭吉の重要論説」の一つ(資料番号4)としてこの社説を掲載しているのであるが、それ以外に四十三ある資料は全て現行版福沢全集から採録されているのに、この資料のみ時事新報復刻版から直接採られている。つまり「教育に関する勅語」は、全集編纂者である石河幹明が福沢のものとは認めなかった社説、なのである。安川は丸山がこの社説に気付かなかったことに憤っているが、全集に入っていない以上、丸山が気付かなかったのは当然のことではなかろうか。
- (7)
- この段落以降の井上毅に関する記述は、渡辺俊一著『井上毅と福沢諭吉』(二〇〇四年九月・日本図書センター刊)に拠っている。
- (8)
- 修業立志編は、現在までいかなる福沢全集・選集にも収録されたことのない、福沢の署名入著作である。一八九八年四月刊行。そのことのもつ意味については、拙論「なぜ『修業立志編』は『福澤全集』に収録されていないのか?」石毛忠編『伝統と革新ー日本思想史の探求』(二〇〇四年三月・ぺりかん社刊)を参照のこと。
- (9)
- この段落の修身要領に関する記述は、『慶應義塾百年史・中巻(前)』(一九六〇年十二月・慶應義塾刊)第二編第三章「転換期の義塾と福沢の晩年」第一節「新道徳運動の展開」に拠っている。
- (10)
- この段落の慶應義塾と御真影・教育勅語謄本の関係に関する記述は、『慶應義塾百年史・中巻(後)』(一九六四年十月・慶應義塾刊)第三編第五章「戦時体制と戦後の処置」第二節「戦時臨時措置と戦災」中「戦時中の諸儀式」に拠っている。
- (11)
- 佐藤秀夫編『続・現代史資料(9)教育・御真影と教育勅語2』(一九九六年一月・みすず書房刊)四一一~四一八頁。
- (12)
- 以上二段落中の引用については、煩雑を避けるため福翁百話等の第何話にあるのかだけを示した。
- (13)
- 一八七五年六月十二日東京曙新聞掲載。現行版福沢全集別巻(一九七一年)二〇六頁。
- (14)
- この段落以下の交詢社憲法草案起草の経緯と明治十四年政変の関わりについては、坂野潤治著『明治デモクラシー』(二〇〇五年三月・岩波書店刊)、同著『日本憲政史』(二〇〇八年五月・東京大学出版会刊)、および拙著『福澤諭吉ー文明の政治には六つの要訣あり』(二〇〇八年五月・ミネルヴァ書房刊)の第十一章「一身一家経済の由来」4「大隈重信とともに議院内閣制度を模索する」に拠っている。
- (15)
- 家永三郎・松永昌三・江村栄一編『新編明治前期の憲法構想』(二〇〇五年十月・福村書店刊)二八一~二八六頁掲載の交詢社私擬憲法案を要約。
- (16)
- 慶應義塾学報臨時増刊第三十九号『福澤先生哀悼録』(一九〇一年五月・慶應義塾刊)七七頁。
- (17)
- 一八九四年七月五日時事新報掲載。現行版福沢全集第十四巻四三六頁。